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いったい誰の許可を得て、我が妻に触れている?


 それからしばらくの間、ソフィアはそこから動けなかった。

 茂みの影に身を潜め、両腕で自身の身体を抱きしめるようにして震えていた。


 ――大丈夫、平気よ。


 必死にそう言い聞かせるが、冷えた体温はなかなか元に戻ってくれない。

 胸の奥で鼓動が荒く打ち、耳鳴りのように響く。


 それは、とっくに忘れたと思っていた兄への恐怖心、そのものだった。


 すると、そのときだ。

 不意に芝生を踏みしめる音が近づいてきて、ソフィアは身を強張らせた。

 

(まさか、お兄様?)


 あの夜の記憶が蘇り、さあっと血の気が引いた。

 兄は自分に何もしない、今さら恐れる必要はない――そう理解しているのに、身体は思考とは正反対の反応を示す。


(……どうして)


 兄に悪気はなかったのだと、そんな気はなかったのだと知っているのに。

 兄の優しさを一番よく理解しているのは、自分であるはずなのに。


(怖い、だなんて……)

 

 だが次の瞬間、耳に届いた声は――。



「……フィア?」

「――っ」


 ソフィアはハッと顔を上げた。

 そして小さく息を呑んだ。そこに立っていたのが兄ではなく、イシュ・ヴァーレンだったからだ。


「……イシュ?」


 安堵のあまり、ソフィアは今度こそ地面にへたり込む。


「どう、して……?」


(なんで、イシュがここにいるの?)


 この舞踏会に、商人である彼が招かれるはずがない。

 茫然とするソフィアに、イシュは安堵の息を漏らし、柔らかく微笑んだ。


「ヴァーレン商会には貴族の客が多いからね。特別に招待されたんだ」


 そうして、ソフィアの顔を覗き込む。


「それより、見つかって良かった。怖かったね。でももう大丈夫だよ。ハリントン卿はホールに戻っていったから」

「……っ」


 そう言って、イシュは右手を差し出した。

 その仕草は、かつて彼が友人として支えてくれたときと少しも変わらない。


 ――イシュはソフィアにとって恋愛の対象ではない。ただ、フェリクスとの過去を知る数少ない者のひとりであり、ソフィアが気兼ねなく弱さを見せられる相手だった。


「……イシュ、わたし……」


 瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。

 安堵のあまり、言葉にならない嗚咽を漏らしながら、ソフィアはイシュの手を握りしめた。


「もう、忘れたと……思ってたのに……」

「うん」

「ずっと……前のこと、……なのに……。……自分が……嫌になる……」


 立ち上がることもできず、ソフィアはドレスのスカートに涙の染みをつくっていく。


 そんなソフィアに寄り添うように、イシュもまた、地面に膝をついた。

 イシュはソフィアの手を両手で包み込み、優しく囁く。


「思いっきり泣いたらいい。ここには僕らしかいない。誰も君を見ていない。だから、何の心配もいらないよ。――君が泣き止むまで、僕が側にいるから」

「……っ」


 イシュの温もりに触れた瞬間、張り詰めていた心が一気にほどけていく。


 ソフィアは涙を止められず、やがて疲労と緊張の糸が切れ、瞼が重くなっていった。

 ――気がつけば、ソフィアは静かな眠りに落ちていた。





 一方そのころ、レイモンドは大広間にてソフィアを探していた。

 煌びやかなシャンデリアの下、音楽と笑い声が渦巻く中で、人々の間を縫うように歩いていた。



(こんなことは初めてだ)


 

 レイモンドはこの三年間、幾度となくソフィアと舞踏会に参加してきた。当然、別行動をすることも少なくなかった。


 けれどそういったとき、ソフィアは必ず、どの夫人と話をするか、どこのテーブルにいるかなどを、給仕を通すなりして必ずレイモンドに知らせるようにしていた。

 今の様に、言伝なしにいなくなることは一度たりとなかった。


 それなのに、誰に尋ねても知らないという。


(彼女は、いったいどこに)


 胸の奥に小さな不安が芽生え、レイモンドは視線を鋭く巡らせる。

 そのとき、ホールの出入り口から入ってくる男の姿が目に入った。


(フェリクス・ハリントン卿? 姿を見るのは式以来だな。いつ戻ったんだ?)


 ソフィアの長兄・フェリクスとは、ソフィアとの結婚式で顔を合わせたのが最初で最後になる。

 外交官であるフェリクスは、ほとんど国に帰ってくることはないからだ。


 何となく気になったレイモンドは、すぐに歩み寄り、声をかけた。


「フェリクス殿。お久しぶりです」


 すると振り返ったフェリクスは、レイモンドの姿を見るなり、ほんの一瞬目を細める。


「ウィンダム侯。久しぶりだな」

「ええ、お会いするのは式以来でしょうか。お元気そうで何よりです。ところで、ソフィアを見かけませんでしたか? 突然姿が見えなくなりまして」


 本来なら、いつ頃戻ったのだとか、仕事は順調かなどの会話をすべきところだが、レイモンドは一足飛びで用件を伝える。

 その途端、フェリクスは表情を固くした。視線こそ逸らさないが、言葉を探すように口を開く。


「妹なら、先ほどまで一緒だった。少し風に当たると……庭園の方へ」


 曖昧に笑みを浮かべるが、その目は笑っていない。

 その態度に、レイモンドはわずかに違和感を覚えた。


(……何だ?)


 どうにも様子がおかしい。

 だが、今は問い詰めている暇はない。


 レイモンドは短く礼を述べ、庭園へと向かった。





 それから少し後、夜風が吹き抜ける王宮内の庭園――月明かりだけが照らす薄暗い小径こみちを、レイモンドは早足で進んでいた。


(暗いな。本当にここにソフィアがいるのか?)


 フェリクスから、ソフィアは庭園にいると聞いたものの、レイモンドはなかなかソフィアを見つけられずにいた。


 夜目が利くとはいえ、夜の庭園は薄暗い。それに、王宮の庭園は、はっきり言って広い。

 本当にこんなところにソフィアがいるのかと、不信感が募ってくる。


(そもそも、おかしくないか? フェリクスはソフィアをひとりで庭園に行かせたと? そんなことが有り得るのか? とはいえ、彼が嘘をつく理由はない)


 進めば進むほど、疑問が深まっていく。

 

 けれどそのとき、噴水の水音が聞こえ、そちらに目を向けた瞬間――。



「――は」


 視界に飛び込んできた光景に、レイモンドは足を止めた。


 噴水脇のベンチ。

 そこに、一組ひとくみの男女がいた。


 薄暗くて顔までは見えないが、女性はベンチに横たわっており、男の膝に頭を乗せている。

 問題は、その女性の着ているドレスが、ソフィアのドレスとデザインが似ているということだった。


 いや、似ているどころの話ではない。

 あれはソフィアだ。顔は見えずとも、レイモンドには確信があった。


 男に膝枕されているのは、ソフィアに違いない、と。


(これは、どういう状況だ?)


 ソフィアは意識がないのか、身動き一つしない。

 その様子に、ざぁっと頭に血が昇った。軍人として培ってきた冷静さが、一瞬にして吹き飛んだ。


 胸の奥で、理性を焼き尽くすような熱が広がる。嫉妬と焦燥。抑えきれない独占欲が、一気に燃え上がる。


 気付けばレイモンドは、二人の前に立っていた。

 男がゆっくりと顔を上げ、視線が合う。


(この男は――)


 その顔に、レイモンドは確かに見覚えがあった。執事に調べさせた、イシュ・ヴァーレン、その人だ。


「貴様、いったい誰の許可を得て、我が妻に触れている?」


 低く問うと、イシュは恐れを知らぬ目でレイモンドを見据えた。

 しばし睨み合った後、イシュはゆっくりと口を開く。


「無礼を承知で申し上げます。ウィンダム侯……どうか今すぐ、彼女と離縁していただけませんか」

「――何?」

「契約期間が残っていることは存じております。けれど、どうせ残りはひと月。多少早まったところで、何の問題もないでしょう?」


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