今夜が社交界での、わたしの最後の顔出し
五月半ばの夕暮れ時。
ウィンダム侯爵家の屋敷の一室で、ソフィアは王宮舞踏会へ向けた支度を進めていた。
窓の外は、沈みゆく陽が街並みを黄金色に染めている。
鏡台の前に座るソフィアの背後では、アリスが丁寧に髪を巻き上げ、仕上げの整髪料をそっと馴染ませていた。
「もしかして、緊張されてます?」
不意にアリスが尋ねると、ソフィアは鏡の奥のアリスに向かって、小さく微笑む。
「そうね。情けないけど、少し緊張しているわ」
すると、アリスは心配そうに眉を寄せた。
「王宮舞踏会ですし、仕方がありませんよ。ご実家の家族とも顔を合わせるわけですから。でも、今日が終われば……」
「ええ。今夜が社交界での、わたしの最後の顔出し。そう考えると、多少は気分もマシになるというものね」
今夜の舞踏会は、社交シーズンの締めくくりを示す王家主催の重要行事だ。
招待客は子爵家以上の貴族と政府高官や将校たち、そして他国からの賓客。
さらに、国王や王妃が「相応しい」と認めた者だけが招待状を受け取ることができる。
レイモンドは軍人としてではなく、ウィンダム侯爵家の当主として参加義務があり、当然その妻であるソフィアにも同じ義務があった。
つまり、いつもの気楽な夜会とは訳が違う。とはいえ、ソフィアには幼少期から身に着けた礼儀作法がある。意識せずともマナーは完璧。
にもかかわらず、ソフィアが緊張する理由があった。――実家の母親だ。
(お母様の前では絶対に気を抜けないわ。ただでさえ、わたしたち夫婦に子どもができないことを気に病んでおられるから)
レイモンドと結婚して約三年。
普通なら、一人か二人、子を産んでいるものだ。だが白い結婚である夫婦の間に、子どもが生まれるはずもなく。
母と顔を合わせれば、間違いなくその話をされるだろう。
そう考えると、ソフィアは酷く憂鬱な気持ちになった。
「アリス、やっぱり髪飾りを変えるわ。輿入れの際お母様にいただいた、白銀のものをお願い」
「え? ですが、これまでは旦那様にいただいたものをお付けになっていたのに」
「そのつもりだったけど、色味が鮮やかすぎる気がするの。それに、耳飾りは旦那様からいただいた真珠のものを付けるから、違和感はないと思うわ」
「……はい、わかりました」
アリスはしぶしぶと言った様子で、引き出しから別の髪飾りを取り出した。
白銀の細工に小さな真珠があしらわれたそれは、母が好む控えめな華やかさを備えている。レイモンドから贈られた真珠の耳飾りとも、よく合うだろう。
ソフィアは髪飾りを付け替え、耳に真珠の耳飾りをそっと留めた。
「お綺麗です、奥様」
「ありがとう、アリス」
――耳元に揺れる真珠を見つめながら、ソフィアはここ四日間のことを思い出す。
イシュが突然屋敷に現れた日から、ソフィアは離縁の準備に本格的に着手した。
荷物の整理や財産の移動、離縁に必要な書類の作成。それらの作業は、隠そうとしても隠せるものではない。
使用人たちは騙せても、レイモンドの目は誤魔化せないはずだ。
それでもレイモンドは何も言わず、引き留める素振りひとつ見せなかった。
相変わらず贈り物は届くが、あの日やんわり注意して以降、宝石や馬車一台分の紅茶セットといった過剰な高価品は消え、花束や香水、手袋や扇子といった控えめで趣味の良い品に変わっていた。
(イシュの心配は杞憂だったわね。……なのに、どうしてこんなに胸がざわつくのかしら)
ソフィアは、鏡の中の自身の姿をじっと見つめる。
するとそのとき。不意に、扉を叩く音がした。
僅かに遅れて、低く落ち着いた声が扉の向こうから響く。
「ソフィア、準備はできたか?」
ソフィアはアリスに扉を開けるように伝え、椅子から立ち上がった。ドレスの裾が床を撫で、スズランの香水の香りが、ふわりと広がる。
アリスが扉を開けると、燕尾服に身を包んだレイモンドが立っていた。
深い漆黒の生地に、白いシャツと蝶ネクタイがよく映える。
ソフィアが出迎えると、レイモンドの視線がソフィアの耳元に留まり、ほんの一瞬、時が止まったように動きを止めた。
わずかに目を見開き、そして、ゆっくりと口元が緩んだ。
「……付けてくれたのか、耳飾り」
その笑顔と優しい声に、ソフィアの胸の奥で、何かが小さく波打つ。
廊下には侍従もいるのに、一瞬、演技を忘れそうになった。
「もちろんですわ。旦那様からの贈り物ですもの」
レイモンドは一層笑みを深め、低く囁く。
「その言葉を聞けるだけで、贈った甲斐があったというものだ。……よく似合っている、ソフィア」
レイモンドはソフィアの右手を取り、手袋越しにそっと唇を落とした。
その優雅な所作と、上目遣いの射るような視線に、心臓が小さく跳ねる。
(どうして? 離縁はもうすぐなのに。いくらわたしのことが好きだからって、ここまでする必要はないんじゃないかしら)
離縁の準備には何も触れず、かと思えば、プレゼントは一日も欠かさない。自分に気持ちがないとわかっていながら、平気で甘い言葉を囁く。
その意図が読めず、胸の奥がざわめいた。
するとそんな気持ちを知ってか知らずか、レイモンドはソフィアの腕を自然に引き寄せ、自身の腕に絡ませる。
――エスコートだ。ソフィアはハッとした。
「行くぞ、ソフィア。そろそろ出ないと遅れる。まあ遅れたところで、俺たちに文句を言える者などいやしないがな」
「王家主催ですわよ? 流石に不敬じゃございませんこと?」
やんわりとたしなめると、レイモンドは愉快そうに笑った。
「どうだかな。試してみるか?」
「試すって……まさか、本当に遅れていくつもりですか?」
「そうだ。いっそ欠席でも構わない」
ソフィアはごくりと息をのむ。
(欠席ですって? 王家主催の舞踏会に?)
この男はいったい何を言い出すのか。冗談にしても度が過ぎている。
ソフィアは思わず本気で注意しそうになった。
けれど言いかけた瞬間、レイモンドの人差し指が、ソフィアの唇に触れる。
そうして、信じられないことを口にしたのだ。
「本当に欠席しても構わないんだぞ。ここのところ、ずっと浮かない顔をしていただろう。気が乗らないなら無理して参加する必要はない。それが例え、王家主催の舞踏会だろうとな」




