ヴァーレン商会について調べろ
その夜。司令部での事務仕事を終えたレイモンドは、馬車に揺られ屋敷へと向かっていた。
石畳を叩く馬蹄の音が、静まり返った街路に規則正しく響いている。馬車の車内は薄暗く、揺れに合わせてランタンの灯がゆらゆらと揺れていた。
レイモンドは背もたれに深く身を預け、窓の外を無言で眺める。
(マルケス大尉が復帰か。これで、明日からはソフィアと夕食を共にできる)
そう思うと、この一週間の激務の疲れも吹き飛ぶようだった。
けれど、その喜びは長く続かない。
昼間、エミリオの口から出た『ヴァーレン商会』と『サーラ・レーヴ』。その言葉が、レイモンドの横顔に暗い影を落とす。
(ヴァーレン商会は多くの事業に手を広げている。あの商会と取引のない貴族などないに等しいだろう。つまり、彼女がヴァーレン商会と繋がりを持っていたとしても、何ら不自然ではない。……だが)
それでも、どうしても気になってしまう。
商会とソフィアの関係が、単なる店と顧客である可能性が高いと分かっていても、一度抱いた疑いは無くならない。
この感情をソフィアに知られれば、彼女との関係を悪化させると理解しているにも関わらず。
――『互いを詮索しないこと』
それが、契約結婚の条件の内の一つだった。
つまり、レイモンドがこうしてソフィアの交友関係を洗っていることは、明らかに契約に違反している。
かといって、調べないわけにもいかず、レイモンドはこの一週間、この後ろ暗い気持ちに気付かないよう、心に重い蓋をしながら過ごしてきた。
それでも、ソフィアを裏切っているという事実は確かで――。
(まさか俺が、ここまで卑怯な男だったとはな)
それでも、この衝動を抑えられない。
彼女に男がいるというのなら、それは一体どんな相手なのか。彼女に愛される幸運な男の正体を、知らねば気が済まない。
窓外を流れる街灯の光が、彼の横顔を一瞬照らし、また闇に沈めた。
やがて、屋敷の門が見えてくる。
高くそびえる鉄柵の向こう、玄関前のロータリーには既に侍従が待機していた。
馬車が止まり、御者が扉を開ける。
レイモンドは無言で降り立ち、夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。
冷たい空気が肺を満たし、わずかに意識が冴える。
「お帰りなさいませ、旦那様」
レイモンドは屋敷の中に入り、侍従を伴い廊下を進んだ。
「ソフィアはどうしている?」
いつものように尋ねると、侍従は答える。
「奥様は夕食を終えられ、既にお休みになりました」
「日中は? 何か変わったことはなかったか?」
「本日はヴァーレン商会の方が訪ねてこられました。先日のチャリティーの礼を伝えに」
ヴァーレン商会――その名前に、レイモンドは一瞬眉をひそめた。
一週間前、孤児院の子どもたちを招いた広場での公開演劇。
あのとき、ソフィアの名義でヴァーレン商会に大量の子供向けの贈り物を注文した。さらに複数の業者にも同様の手配を頼んだため、この一週間は礼を述べに来る業者が後を絶たなかった。
つまり、ヴァーレン商会が訪ねてくること自体は何ら不自然ではない。
それでも、今はその名前を聞くだけで、どうしようもない不快感に襲われた。
けれどレイモンドはそれ以上表情に出すことなく、冷静に尋ねる。
「来たのはカリーム氏か? それとも、タリクの方か?」
カリームとはこの国のヴァーレン商会の代表だ。四十を超えた恰幅のいい東方人。タリクはその息子で、歳は二十代半ば。どちらも髪は黒に近い色をしている。
が、侍従はすぐに「どちらでもありません」と否定する。
「どちらでもない? なら誰が」
「帝国支部代表の、イシュ・ヴァーレン卿でございます」
その肩書きが告げられた瞬間、レイモンドの眉間に今度こそくっきりとした皺が寄った。
「帝国支部だと?」
(何故、帝国の代表がわざわざソフィアに会いに来る? 本当に、単なる礼状か?)
普通なら、この国の支部代表が来るはずだ。それなのに、やって来たのは帝国支部の代表。
しかも、エミリオの情報によれば『サーラ・レーヴ』は帝国発の服飾ブランドということだった。つまり、『サーラ・レーヴ』と直接やり取りができるのは、帝国支部の人間――イシュこそがその代表であるという訳で。
「……イシュという男以外には、誰がいた」
「誰も。イシュ・ヴァーレン卿お一人でした」
「歳はどれくらいだ?」
「二十台半ばほどであったかと」
「その男とソフィアとの面会には、誰が立ち会った? 滞在時間は」
「立ち合いは侍女のアリスだけでございます。奥様が、アリス以外は持ち場に戻ってよいと仰いましたので。滞在時間は十五分ほどであったかと」
レイモンドは何度か質問を重ねた上、短く「そうか」と返す。
「わかった。俺は部屋に戻る。執事を寄こせ」
「かしこまりました」
レイモンドは胸の奥に違和感を残しつつ、侍従と別れ、ひとり自室へと向かった。
部屋に戻ると、レイモンドは灯りも点けずに、軍服の上着をベッドの上に投げ捨てた。
暗がりの中窓辺に立ち、カーテンの向こう――夜の帳に溶けた街並みを、睨むように見据える。
「……イシュ・ヴァーレン、か」
(もし、その男がソフィアの相手だったなら……。いや、流石に飛躍しすぎだな)
普通に考えれば、帝国支部から仕事でやってきた代表が大口客の挨拶回りに訪れた、と考えるのが妥当。
『サーラ・レーヴ』のブランドについても、ソフィアが最初に広めたから何だと言うのだ。それ自体に、特別な意味があるわけでもないだろうに。
「……ハッ!」
(どうやら俺は、自分で思っている以上に、この状況に焦っているらしい)
そんなことを思いながら、窓ガラスに映る自身の姿を見つめる。
目の前の自分の、自嘲気味に歪む顔があまりにも滑稽で、乾いた笑いが漏れ出てきそうだ。
――そんなとき、ノックの音がして、執事が部屋に入ってくる。
「お呼びでしょうか、旦那様」
恭しく礼を取る執事に、レイモンドは振り返ることなく言った。
「ヴァーレン商会について調べろ。特に帝国支部と、その代表イシュ・ヴァーレンの素性について」
執事の眉がわずかに動く。
しかし質問はせず、「いつまでにお調べいたしましょう」と尋ねる。
「四日後の王宮舞踏会までに頼む。それともう一つ。『サーラ・レーヴ』という帝国の服飾ブランドについて、経営者、出資者、国内での評判……可能な限り全て調べてくれ。こちらは急ぎではない」
本当は、ソフィアとの関係の調査も指示したいところだった。
けれど、そこまでしては流石に後戻りができないと踏みとどまり、レイモンドは言葉を呑み込む。
「以上だ。よろしく頼む」
「承知いたしました」
主人の命を受け、執事は深く一礼し、部屋を後にする。
静寂が戻った。
レイモンドは暗闇に包まれた部屋でひとり、窓の外、夜霧の向こうにぼんやりと浮かぶ月を、ただ黙って見上げていた。




