この先も、彼女の隣に立つために
ティータイムを終えたソフィアが私室に戻ると、壁際の四角いテーブルで、侍女のアリスがレース編みに集中していた。
栗毛を後頭部でしっかりと纏め、背筋を真っ直ぐに伸ばして針を運ぶ姿は、普段のお調子者の彼女とはまるで別人である。
「アリス、進みはどう?」
ソフィアがそっと声を掛けると、アリスはハッと顔を上げ、勢いよく振り返った。
「お帰りなさいませ、奥様! ほら、見てください、大分進みましたよ!」
無邪気な笑顔で立ち上がりながら、手元のレース布を広げてみせる。
確かに、見事な出来だ。
「流石アリスね。わたしの図案通りだわ」
「刺繍と編み物ならお任せください!」
誇らしげに胸を張るアリスに、ソフィアはふふっと笑みを零した。
アリスはソフィアが輿入れの際、実家から連れてきた侍女だ。歳はソフィアの三つ下。
出会ったのはソフィアが九つのとき。
アリスは通りで雨に打たれながら、必死に花を売っていた。
擦り切れた服に、穴の空いた靴。ぼさぼさの髪。親がいないのは一目瞭然だった。
あまりに不憫で見ていられず、ソフィアが全ての花を買ってやると、アリスは「これで弟の薬が買えます。感謝します、お嬢様」と泣きながら微笑んだ。
ソフィアはそんなアリスの健気さに心を打たれ、弟共々屋敷に迎え入れたのである。
以来、アリスはソフィアを姉のように慕い、また、ソフィアもアリスを実の妹のように可愛がった。
ふたりはあくまで主人と侍女という関係だったが、その絆は実の親兄妹よりも深かった。
三年前、ソフィアがレイモンドと契約結婚を結ぶことになったときも、親兄弟には隠しても、アリスにだけは包み隠さず全てを話した。
契約結婚の満了を迎えたら、貴族という身分を捨てて帝国に渡り、服飾店を開きたいということも。――それくらい、ソフィアはアリスを信頼している。
ソフィアがアリスのレース布の出来を見ていると、ふと、アリスが声を潜めた。
「ところで、ティータイムはどうでしたか? 離縁のこと、申し上げたんですよね? 旦那様は何と?」
その問いに顔を上げると、アリスは興味津々といった様子でこちらを見ていた。
ソフィアはあっけらかんと答える。
「“考えておく”と仰っていたわよ」
すると、アリスは目をぱちくりと瞬かせた。
「えっ、本当に? 本当に旦那様は、"考えておく"と仰ったんですか?」
「ええ」
「……そんな。絶対反対なさると思ったのに!」
アリスは不満げな声を上げる。
「もう、アリスったら。そんなはずないでしょう? 旦那様は女性がお嫌いなのよ。無事に家督も継ぎ、ようやく契約満了で、ほっとしているに決まっているわ」
「そうでしょうか? 私には、とてもそうは見えませんけど」
「見えない? そうね、それはそうよ。だってわたしも旦那様も、仲の良い夫婦を演じているんですもの。お互いを愛しているように見えなきゃダメなのよ」
「……本当に、演技なんですかねぇ」
アリスはぼそりと呟くと、ソフィアの着替えを手伝い始める。
けれどその間も、ソフィアの視線の先、鏡に映るアリスは、どこか納得のいかない顔をしていた。
一方その頃、レイモンドは私室のソファに腰をうずめ、うなだれていた。
窓から差し込む夕暮れの光が、焦燥に揺れる彼の背中に暗い陰を落としている。
ソフィアは本気で離縁を望んでいる――そう悟った瞬間から、レイモンドの心臓は、冷たく凍りついたようだった。
(彼女も、俺と同じ気持ちだと思っていたのに……)
思い返せば、三年前。
「社交は最低限で構わない。任地への同行も不要だ。ウィンダム家の親族とも、関わる必要はない」
そう告げたのはレイモンドの方だった。
どうせ期限付きの結婚だ。夫婦仲が悪いと噂が立つのは困るが、かといって、露出を増やせばぼろが出る――それを防ぐには、周りとの関わり合いを徹底的に減らすべきだというのが、レイモンドの考えだったからだ。
だがそれに反して、ソフィアは全面的にレイモンドをサポートした。
レイモンドが社交の場に出る時は必ず伴ってくれたし、細やかな振る舞いで周囲の好感を得て、レイモンドの評価を自然に引き上げた。
軍人のレイモンドは一年の半分以上を任地で過ごしたが、その長い不在期間も、文句ひとつ漏らさず屋敷を守り、レイモンドの家族や親戚たちへの気遣いも怠らなかった。
レイモンドの同僚たちが、堅物男の嫁はいったいどんな女なのかと無礼な視線を向けたときでさえ、彼女は笑みを絶やさなかった。
他国の軍事関係者とその家族を招いた晩餐会では、五ヵ国語を巧みに使いこなし、夫人やその子供たちを楽しませた。
(あれはどう考えても、契約の域を超えていた。だから、俺は――)
最初の一年は、そんな彼女の行動に困惑するばかりだった。
自分に気に入られて、婚姻を継続するつもりなのではと邪推すらした。その手には乗らないと、人目のないところでは、彼女を冷たく突き放したこともあった。
それなのに、気付いたときには、彼女の姿を自然と目で追う様になっていた。
任地からこの屋敷に戻るのが、楽しみになっていた。
彼女とのティータイムを、待ちわびるようになった。
それが、恋や愛と呼ばれる感情であると気付くまでに、そう時間はかからなかった。
そしてまた、レイモンドは、ソフィアも同じように思ってくれていると信じていた。そう思い込んでいた。
これほどまでに尽くしてくれるのは、彼女が自分に情を抱いているからではないかと。
少なからず、自分を思ってくれているのではと。
自分に向ける微笑みや愛の言葉は、彼女の心からの声なのではと。
だが、それは全て自分の思い込みだった。都合のいい妄想だった。――愚かにも。
(もう、時間がない)
契約満了まで、残り二ヵ月。
その間に、どうにかして、彼女を振り向かせなければ。
難しいことは承知している。けれど、このまま黙ってソフィアを見送るという選択肢は、ない。
(伝えなければ。……この先も、彼女の隣に立つために)
レイモンドはゆっくりと顔を上げ、決意を宿した瞳で、窓の外の夕空を見据えた。




