離縁の準備をし始めないと
イシュが屋敷を後にしたあと、ソフィアはアリスを伴い庭園に向かった。
白い日傘を差し、白い薔薇の咲き誇る花壇の間をゆっくりと進んで行く。
春の終わりの陽射しはやや強く、石畳の上に落ちる木漏れ日が、まだら模様を描いていた。遠くでは噴水の水音が涼やかに響き、小鳥がさえずっている。
しばらく無言で歩いたあと、ソフィアはふと足を緩め、日傘の影からアリスを見やった。
「ねぇ、アリス。さっきのイシュ……何だか様子がおかしかったような気がするの。あなたはどう思った?」
するとアリスは一瞬考えるように視線を落とし、数秒置いて、顔を上げる。
「そうですね、私もそう思いました。もっとこう、穏やかで感動的な再会を予想していたんですけど。……三年ぶりですから、ぎこちなかったのでしょうか」
「……ぎこちない。そうね、それもあるだろうけど……」
ソフィアは、日傘の柄を握る手に力を込めた。
イシュの口調は終始穏やかだった。
けれど、「離縁」という言葉が彼の口から出た瞬間、胸の奥に冷たいものが走った。責められているような、突き放されるような感覚。
アリスの言う通り、三年ぶりの再会だから、たまたまそう感じただけなのか。それとも、イシュは何かしら気分を害していたのか。
「わたしがちゃんと離縁できるのか、って確認したわよね、彼」
「ええ、そうですね」
「なのにその次は、残りたければ残ってもいいって。……意味が分からわないわ」
「……確かに、矛盾しているような?」
しかも、最後に言い残した「近いうちに」という言葉。
それが、妙に耳に残っている。
再び歩きながら、ソフィアの思考は自然と三年前へと遡った。
三年前、帝国移住を言い出したのは自分だったが、実務的な準備を進めたのはイシュだ。
帝国に服飾店を構えたいと告げたときも、彼は笑ってこう言った。
「だったら、今のうちからブランドを立ち上げておいたらどう? ヴァーレン商会が仲介すれば、君の名前は表に出ない。うまくいったらそれでよし。三年後帝国に正式に店を構える。――失敗しても、また一から考えればいい。三年もあるんだし、ゆっくり気長にやればいいよ」
その助言とともに、ブランド立ち上げの事務手続きを一手に引き受けてくれたのも彼だった。
その代わり、ソフィアは三年間、社交界の情報を彼に渡し続けた。
商売の世界で情報は何よりも価値がある。それはイシュにとっても、ソフィアが立ち上げたブランド「サーラ・レーヴ」にとっても同じこと。
だからこそソフィアは社交活動に精を出し、立場を築き上げてきたのだ。
ふと、胸の奥に不穏な考えが浮かぶ。
「……もしかしてイシュは、わたしにこのまま社交界での立場を維持してほしいと考えているのかしら。帝国で店を持つよりも、ここにいるわたしの方が利用価値があるって……」
自分で口にして、ソフィアは言いようのない不安とショックに襲われた。
アリスは慌てて否定する。
「考えすぎですよ! 確かにイシュ様にお渡ししている情報は重要なものばかりですが、だからって、イシュ様が奥様の気持ちを無下にするはずがありません。それに、もし本当にそうなら、帝国で奥様が暮らす家やお店や従業員の手配なんてしないはずでしょう?」
その言葉に、ソフィアはホッと安堵する。
「そうよね。アリスの言うとおりだわ」
「そうですよ。イシュ様はただ、最近の旦那様の行動や新聞の内容を見て、奥様にここに残りたい気持ちがあるのか確認しにいらしただけだと思います。本心では帝国に来てほしいけど、まずは奥様の気持ちを優先したいという葛藤があったのではないでしょうか。昔も、奥様に迷いがあるときは、必ず一度立ち止まってくださいましたよね。ですから、今回もきっと」
ソフィアは頷き、唇にかすかな笑みを浮かべた。
「ということはつまり、イシュにはわたしに迷いがあるように見えているということなのね。まぁ、最近のわたしの行動を見れば、当然かもしれないけれど……」
そう呟いて、日傘を少し傾けると、眩しそうに空を仰ぐ。
「契約満期まであとひと月と少し。そろそろ、本格的に離縁の準備をし始めないと間に合わないわね」
青空の向こうに、まだ見ぬ帝国の街並みが、蜃気楼のように揺らめいて見えた。




