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あなたなら応援してくれるでしょう?


 ソフィアがアリスを伴って客間に入ると、イシュはゆったりとソファに腰かけ、メイドの入れたお茶を嗜んでいるところだった。


 スラっとした細身の体躯に、今季の流行を押さえた仕立ての良い洋服スーツ。黒に近い濃茶の髪は、首の後ろで緩く束ねられている。

 背筋をまっすぐに伸ばし、カップを持つ指先まで何一つ無駄のない所作は、まるで貴族のそれだ。



(本当にイシュだわ)


 正直、ソフィアは実際にイシュの姿を見るまで、半信半疑だった。

 帝国にいるはずのイシュが何の前触れもなく、馬車で一週間もかかるこの国に姿を現すはずがないと。


 けれど、目の前にいる人物は、間違いなくイシュ・ヴァーレン本人である。


 そう思うのとほぼ同時に、イシュの顔がゆっくりとこちらを向いた。

 刹那、金褐色の瞳が、穏やかに微笑む。


「……っ」


 ソフィアはあまりの懐かしさから「イシュ」と呟きかけて、慌てて口を噤んだ。


(いけない。ここにはアリス以外の使用人もいるわ。初対面の振りをしなくちゃ)


「あなたが、イシュ・ヴァーレン卿?」


 そう問いかけると、イシュはにこりと笑った。出会った頃と、何もかも変わらない笑顔で。

 彼はソファから立ち上がり、こちらの国の礼儀作法に則った所作で礼を取る。


「突然の訪問にも関わらずご対応いただき、心より感謝申し上げます。ヴァーレン商会帝国支部代表、イシュ・ヴァーレンと申します」


 その声音は穏やかで、他の使用人たちには初対面の挨拶にしか聞こえまい。

 けれど、実際の二人の関係はビジネスパートナーであり、気の置けない友人だ。


「そのような堅苦しい挨拶は不要です。こちらこそ、先日は急な注文に対応いただきお礼を言わねばならない立場ですもの。さあ、お座りになって。アリス以外は持ち場に戻っていいわ」


 ソフィアがそう命じると、使用人たちは何の疑いもなく部屋を出ていく。

 扉が静かに閉まり、室内に三人だけが残された。


 ソフィアは一呼吸置き、声を落とす。



「それで、イシュ。一体どういうつもりなの? わたしたち、直接は会わないという約束だったじゃない」


 ――それは二人が三年前に交わした約束だった。


 レイモンドと離縁した後、帝国に渡る予定でいるソフィアと、その計画と実行を手助けするイシュとの関係を、周りに知られるのはリスクが高い。

 そういう理由で、二人は三年間、手紙だけでやり取りをしてきたのだから。



 不満げなソフィアの声に、イシュは再びソファに腰を下ろし、困った様に眉尻を下げる。


「当然、僕もそのつもりでいたさ。けど、どうしても君の顔を見たくなったんだ。君が困っているんじゃないかと思ってね。仕事のついでに寄らせてもらったんだよ」

「……っ、それ、どういう意味? わたしが何に困っているですって?」

「何って、離縁のことに決まってる。ここ三週間ほど、君の夫――ウィンダム侯爵が女性向けの商品を買い占めていると報告を受けてね。仕舞いには、君の名前で大量の子供用玩具が注文されたときた。これを変だと思わない方が不思議だと思わないか? フィア・・・


 イシュはにこりと微笑んで、ティーカップを優雅に口に運んだ。

 その微笑みは、出会った七年前からちっとも変わらない。穏やかな口調も、『フィア』と、彼だけが使う、ソフィアの愛称も。


(何もかもお見通しというわけね)


 ソフィアは小さく溜め息をついて、イシュの対面に腰を下ろす。


「確かにあなたの言うとおりだわ。この国の流通はヴァーレン商会が握っているもの。あなたに情報が渡らない方がおかしいわよね」

「そういうこと」


 ソフィアの言葉に、イシュは軽く頷いた。




 ――イシュとの出会いは七年前。ソフィアが十六のとき、高等女学園に通っていた頃のことだ。


 その日、ソフィアはアリスを連れ、市井の裁縫店に向かうところだった。


 するとその道中、珍しい毛色の青年が往来で立ち止まっているのを見かけた。

 黒に近い濃茶の髪に、金褐色の瞳――明らかに異国人だ。


(何か困り事かしら?)


 身なりは良いが、この国の言葉が不自由なことを警戒してか、誰も声をかけようとしない。


 だが、ソフィアはそのとき既に五ヵ国語をマスターしていたため、臆することなく声をかけ、彼が道に迷っていることを知ったのだ。



「あら、そのお店ならわたしたちの行先のすぐ近くだわ。一緒に行きましょう」


 ソフィアが微笑むと、イシュはほっと頬を緩める。


「ありがとう、助かるよ。先週この国に着いたばかりで、右も左もわからなくて困っていたんだ」

「それにしては、言葉がとても流暢だわ」

「それは、僕の家が商家だからだよ。ヴァーレン商会って聞いたことない? まぁまぁ有名だと思うんだけど」

「! もちろん知ってるわ。五大商会のひとつよね? 東大陸のナシール連邦にある」

「そう。それで近頃、西大陸との交易に力を入れようってことになってさ。拠点を大きくしてこいって父の指示で、叔父と一緒に海を渡ってきたんだ」

 

 イシュの話は、ソフィアにとって興味深いものばかりだった。

 異国の文化、価値観、多様性。

 

 ソフィアはすぐにイシュと仲良くなった。

 学校帰りにこっそり街に立ち寄り、イシュとお茶をするのが日課になるほどだった。


 二人は良き友人だった。

 ソフィアが学園を卒業するのと同じ頃、二十二歳だったイシュは家業が忙しくなり、大陸の各地を転々とする生活を送っていたが、二人の関係が壊れることはなかった。


 そんなわけで、三年前にレイモンドから契約結婚を申し込まれた際、ソフィアが真っ先にイシュに相談を持ち掛けたのは当然のことだった。




「ねぇイシュ。契約結婚ってどう思う?」

「え? 契約……何?」

「契約結婚よ。三年間の期間限定の。しかも、白い結婚でいいんですって」

「はっ? いや、ちょっと待ってフィア。一体何の話? 順を追って説明してくれないか」



 その頃、イシュはここら一帯の国を叔父や従兄弟たちに任せ、自身は帝国に渡る準備をしている真っ最中だった。

 毎日仕事に追われ大変忙しそうだったが、アポなし訪問をしたソフィアを、イシュは快く迎えいれてくれた。


 そんなイシュに、ソフィアは契約結婚と、その後の身の置き所の相談をしたのだ。


「契約結婚で大金を手に入れられそうなの。そのお金で帝国に移住して……できたら、自分のお店を持てたらって……。あなたなら応援してくれるでしょう? イシュ」

「――!」


 それを聞いたイシュは、流石に驚きを隠せない様子だった。

 けれど、すぐにソフィアの意向を汲み、色々と協力してくれた。


 レイモンドと交わす契約書の内容を精査し、もともとは契約満了時に一括支払いだったはずの報酬を月々分割で受け取るよう助言したり、ソフィアがレイモンドから受け取る報酬の財産管理を一手に引き受けた。


 今ではソフィアの財産は、イシュの手によって三倍もの金額に膨れ上がっている。贅沢をしなければ、一生働かなくとも食べていけるほどの金額だ。




(イシュには、感謝してもしきれないわ。きっと、本当にわたしのことを心配して来てくれたのよね)


 そんなイシュを、責めるわけにはいかない。


「心配させてごめんなさい。でも大丈夫よ。困ってるってほどのことではないから」


 ソフィアは微笑む。

 すると、イシュは目を細めた。


「そう? でも君、侯爵に気に入られてるんだろう? 今の調子で、本当に計画通りに離縁できるのかな」

「……!」

「引き留められてるんだよね? 離縁はしたくないって」


 刹那、これまで穏やかだったイシュの声音に、わずかな探りと警戒が混じる。

 ソフィアは心臓をどきっとさせながら、イシュを真っ直ぐに見返した。


「それは確かにそうだけど……でも、旦那様にはちゃんとお伝えしてあるわ。契約期間は延ばさないって」

「それはつまり、計画はそのまま進めればいいってことで、間違いない?」

「ええ、勿論よ」

「本当に?」

「……何よ。どうして、そんなこと」


 イシュは小さく息を吐く。――が、すぐに微笑んだ。


「それならいいんだ。でも、一つだけ伝えておくね。もし計画を白紙に戻したければ、今ならまだ間に合うってこと」

「……え?」

「帝国に用意してある君の家も店舗も従業員も、他の客に斡旋できる。だから、もしここに残りたければ、残ってもいいんだよ、フィア」

「――ッ」


 その言葉に、ソフィアはぐっと言葉を呑んだ。

 どうしてイシュはこんなことを言うのだろうと、混乱した。


 イシュは立ち上がる。


「じゃあ、僕はそろそろ行くよ。大口の商談が控えていてね。君に会えて良かった」


 最後にニコリと微笑んで、イシュはソフィアに背を向ける。


「待って、イシュ! 今の言葉は、どういう――」

「じゃあね、フィア。また近いうちに・・・・・

「――っ、イシュ……!」


 けれどイシュはそれ以上何も答えることなく、ひとり静かに部屋を後にしたのだった。


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