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わたしはまだ、旦那様のことを何も知らないのかも


 ――「そんなの、君の喜ぶ顔が見たいからに決まっているだろう」



(本当にそれだけ? わたしの喜ぶ顔が見たいからって、ここまでするの?)


 

 ――広場での催しから、一週間が経った今日。

 ソフィアは自室のテーブルにつきながら、あの日のことを思い返していた。


 手元には、先ほどアリスに持ってこさせた今朝の朝刊がある。

 一面には、先週の催しを大きく取り上げた記事。

「公爵夫人の慈愛と行動力」と見出しが躍り、ソフィアの孤児たちへの慈しみや企画力、当日の盛況ぶりが称賛されていた。



 あの日の催しは、大成功だった。

 広場は子供たちの笑顔と歓声で満ち、演劇の後、一人ひとりにプレゼントを手渡したときの嬉しそうな顔は、今でも昨日のことのように思い出せる。


 何より印象的だったのは、レイモンドの子どもたちへの接し方だった。


 子どもが苦手だと思っていたのに、彼は終始にこやかで、望まれるまま高い高いをしてやり、腕に四人も五人もぶら下げて人間ブランコのように揺らしてやっていた。

 その光景に、ソフィアの胸はくすぐられるような、不思議な温かさで満たされた。



(あのときの旦那様、嫌な顔をするどころか、子どもたちひとりひとりにちゃんと向き合っていて……わたし、旦那様のことを誤解していたかもしれないわ)



 ソフィアはこれまで、レイモンドが子どもと遊んでいるところを見たことがなかった。

 甥や姪に対しても威厳を崩さず、まともに笑顔を見せることすらない。


 家族連れの社交の場でも、立場ゆえか子どもに対してもどこか威圧的で、子どもたちの方も彼を恐れているようだった。


 けれど、広場でのレイモンドはまるで別人のように、自然と子どもたちの輪の中へ溶け込んでいた。

 それが、ソフィアには不思議でたまらなかった。



(三年も一緒にいたのに、わたしはまだ、旦那様のことを何も知らないのかも。――それに……)


 脳裏に、プレゼントを運んできた荷馬車の紋章が蘇る。

 “三日月と帆船が描かれた盾”――ヴァーレン商会の紋章が。

 



 そのときだ。不意に、アリスの弾んだ声がした。


「今日も絶賛されてますね! 一週間も経ったのにまだ紙面を飾るなんて凄いことですよ!」


 ソフィアはハッと顔を上げる。アリスが新聞を覗き込み、誇らしげに微笑んでいた。


「ええ、そうね。本当に」


 が、そう答えつつも、ソフィアの表情は晴れない。

 浮かない様子のソフィアの表情に、アリスは小さく息をはく。


「もしかして、まだ気にされているのですか? 旦那様がプレゼントを注文した先が、ヴァーレン商会だったこと」


 ソフィアはますます難しい顔になる。



 ヴァーレン商会とは、はるか東大陸に本拠を置く五大商会のひとつ。

 東西を結ぶ独自の海陸一貫の流通経路を握り、直轄の従業員は一万を超える。

 この商会なしでは、東西大陸間の交易は一日たりとも回らない――そう言われるほどの影響力を誇っていた。


 もちろん、この国にも支部があり、広場の催しでレイモンドが不足分のプレゼントを注文した先は、そのヴァーレン商会だった。


 問題は、そのヴァーレン商会の跡取りであるイシュ・ヴァーレンが、ソフィアのビジネス・パートナーだということだ。


 帝国支部の責任者であるイシュとは、最後に会ったのは三年前。

 しかし、ソフィアが三年前に密かに立ち上げ、社交界でその名を広めている服飾ブランド『サーラ・レーヴ』は、表に出られないソフィアの代わりに、イシュが代理で代表を務めてくれている。


 そのイシュの商会に、自分の名前で大量のプレゼントを注文した――この事態を、イシュはどう受け取るだろうか。そう考えると、ソフィアは胸の奥に小さな不安を覚えた。



「当然よ。イシュには、離縁に向けて社交は縮小すると伝えてあったのよ? それなのに、わたしの名前であんなに大量の商品を注文して……しかも新聞でこれだけ騒ぎ立てられたら、帝国にいる彼の耳にも届いてしまうわ。きっと変に思うはずよ」


 そんな心配をするソフィアに、アリスはあっけらかんと笑った。 


「でも、子どもたちは喜んでくれたじゃないですか。嬉しかったんですよね?」

「そりゃあ、嬉しかったわよ」

「だったらいいじゃありませんか。それに、イシュ様はそんなことじゃ怒りませんよ。むしろ喜ばれるんじゃないですか? 売り上げに貢献したのですから」

「それは、そうかもしれないけど」


 確かに、イシュはちょっとやそっとのことでは機嫌を損ねない。

 温厚で穏やかで、大抵のことは「何とかなるよ」で済ませてしまう。

 それでも、どうしてこんなにも胸がざわつくのか、自分でもわからなかった。


「だったら、どうしてそんなに浮かない顔をしているのですか? この一週間、溜め息ばかりですよ」

「……自分でも、わからないわ」

「もしかして、旦那様の帰りが毎日遅いからだったりして」

「! そんなはずないでしょう!」


 思わずむきになって否定する。

 確かにレイモンドはここのところ帰宅が遅い。別の隊の大尉が急病で、復帰までの間、その隊の管理を任されているからだ。


 そんなやり取りをしていると、扉を叩く音がした。

 男性使用人の声がして、入室を許可すると、恭しく頭を下げて告げる。


「奥様、お休みのところ申し訳ございません。お客様がお見えです。先日の広場での催しについて、お礼を申し上げたいという方が」

「変ね。約束はないはずだけど。今度はどこの業者の方?」


 広場での催しに関わった業者の手配は、すべてソフィアの名前で行われた。

 そのため、この一週間、ひっきりなしに業者がお礼に訪ねてくる。


「ヴァーレン商会です。イシュ・ヴァーレンと名乗りましたが……」


 その名に、ソフィアは瞼を見開いた。


(イシュが? 彼は帝国にいるはずじゃ……。それに、屋敷に直接やってくるなんて……)


 イシュとはこれまで毎月のように手紙でやり取りをしてきたが、それすらアリスを介し、関係性が外に漏れぬ様に細心の注意を払ってきた。

 それがまさか、直接屋敷に現れるなど――。


(一体どういうつもりで……。でもイシュのことだから、きっと並々ならぬ事情があるはずよ)


 そう思ったのはソフィアだけではなかったようで、アリスも驚きを隠せず、ぱちぱちと瞬きをした。

 男性使用人は、そんな二人の様子を訝しげに見やり、気遣うように問いかける。


「お断りしますか?」


 けれど、ソフィアはゆっくりと首を振った。

 予想外の訪問とはいえ、会わない選択肢はない。


「会うわ。客間にお通ししてちょうだい」


 そう答え、ニコリと微笑んだ。


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