彼女の驚く顔が、今から楽しみだ
その夜。 ウィンダム侯爵邸にて、屋敷全体が寝静まる時間帯。
レイモンドは、執務室の窓から夜の街を眺めながら、昼間の慈善公演のことを思い出していた。
ブルックリン伯爵邸の美しい庭園。賑わう人々。舞台を興味深げに見つめる、観客席の子供たちの純真無垢な眼差し。
その横顔を見つめていたソフィアが、観劇の最中、告げた言葉を――。
『旦那様、二日後の外出先のことなのですが……孤児院に慰問に行ってはいただけないでしょうか?』
あの瞬間、レイモンドが抱いたのは、ほんの少しの驚きと、『なるほどそうきたか』というある種の感心だった。
そもそもレイモンドは、 ソフィアを私的な外出に誘ったとき、断られる覚悟をしていた。
宝石を人質にしたとしても、ソフィアは断ってくるのではと。
つまり、駄目で元々の誘いだったわけだが、それが了承された時点で、ソフィアが外出先に、レイモンドの希望とは大きくかけ離れた場所を指定してくることを、ある程度予想していた。
とはいえ、まさか孤児院を上げてくるとは思わなかった。
だから驚きを完全に隠すことはできなかったが、それでも間髪入れず、「行先を自由に決めていいと言ったのは俺だ。すべて君の望む通りに」と答えることができた自身の反応は、上出来だったと言えるだろう。
(彼女が派手な遊びを好まないことは知っていたが、まさか、孤児院の慰問とはな)
これまでレイモンドは、一度として、ソフィアから何かをねだられたことがない。
ソフィアは、「これがしたい」「あれが欲しい」と望みを口にしたこともなく、契約結婚の報酬とは別に毎月渡している維持交際費にも、ほとんど手を付けていない。
だからこそ、行先にどこを指定してくるのか——と、半ば探るような気持ちでいたのだが。
(まぁいい。彼女が俺に頼みごとをしてくるなんて、初めてだからな)
デートというより限りなく社交の一環に近いが、それでも、レイモンドは構わなかった。
(そもそも、外出自体を拒絶されなかっただけで、十分だ)
レイモンドは小さく鼻を鳴らす。
まったく、自分でも呆れるな、と。
するとそんなとき、部屋の扉がノックされる音がした。
「入れ」と短く返事を返すと、 老齢な執事が部屋に入ってくる。
「お呼びでしょうか」
「ああ。急で悪いが、明日までにこれを手配してほしい」
レイモンドは机の上から一枚の書類を取り上げ、執事に手渡した。
そこには、ソフィアから頼まれた孤児院慰問に関する日程と、そのために必要な手配リストが細かく記されている。
「二日後、ソフィアと外出することになった。その為のリストだ」
短く命じると、執事は書類の内容に視線を落とし、目を見張った。
「……これを全て、明日までに、でございますか?」
「ああ」
「なるほど。一つお尋ねしたいのですが、これは奥様のご希望で? それとも……」
「彼女の希望を元に、俺が考えた。何か変か?」
「いえ、まさかそのようなことは」
レイモンドは口端をわずかに上げる。
「どうせやるなら盛大にやらなければな。彼女に恥はかかせられないだろう?」
執事は、その一言に小さく息を吐いた。
「旦那様は本当に、先々代に似ていらっしゃる。やることなすこと全てが大胆不敵。この老体をどこまでこき使えば気が済むのやら」
「何だ、できないのか?」
「いえ、この程度のこと造作もありませんが」
「なら頼む」
レイモンドは一拍置き、付け加える。
「ああそれから、手配はすべてソフィアの名で行うように。今回の企画の立案者は、彼女だからな」
そうしてにこりと微笑むと、執事はもう一度溜め息をついた。
「承知いたしました。滞りなく手配いたしましょう」
恭しく目礼し、静かに部屋を後にする。
レイモンドはその背中を見送って、視線を再び窓の外に戻した。
夜空には雲間から淡い月がのぞき、星々が美しく煌いている。
――昼間のソフィアとのやり取りが、再び蘇る。
ソフィアは孤児院での慰問に加えて、「子供たちにプレゼントを贈りたい」、そしてまた、「孤児院の子供たちに、楽しい芝居を見せてあげたい」と話した。
「贈り物はわたくしが手配いたします。ですから、旦那様はお芝居の手配をしていただけませんか?」
もちろん、レイモンドは快諾した。「それくらいお安い御用だ」と。
するとソフィアはほんの一瞬意外そうに目を瞬いたが、すぐに、「ありがとうございます」と、屈託なく微笑んでくれた。
そのときの笑顔が、今もしっかりと脳裏に刻まれている。胸の奥に、じんわりと熱を残したまま。
(きっとソフィアは、孤児院に小さな芝居一座を呼ぶ程度のことだと思っているのだろうが――)
——見くびってもらっては困る。
レイモンドの頭の中では、もっと壮大な計画が練られていた。
首都全体がざわめくような――大通りを揺らす歓声と、遠くまで響く楽の音が、すでに耳に聞こえるようだ。
(彼女の驚く顔が、今から楽しみだ)
レイモンドは二日後のソフィアの驚く様子を想像し、一層笑みを深くするのだった。




