ふたりで、どこか出掛けよう
その日の午後、レイモンドはソフィアとふたり、馬車に揺られていた。
チャリティー会場の、ブルックリン伯爵の屋敷に向かうためだ。
今日の催しは、地方のアマチュア劇団を招いての、芝居の慈善公演である。
堅苦しい夜会や舞踏会とは違い、庭園を開放して行うガーデンパーティー形式の気軽な集まりで、招待状がなくとも立ち寄ることができる。
軽食や紅茶を片手に芝居を楽しみ、その場で寄付を募るのが趣旨だ。
石畳を踏みしめる車輪の音が、午後の日差しとともにゆったりと響く。
レイモンドは、窓の向こうに流れる街並みを眺めながら、エミリオの言葉を思い出していた。
「夫人には、好きな男がいるんじゃないのか?」
ソフィアが『白い結婚』を承諾した理由。
エミリオはそれを、『結婚を約束した男』がいるからなのではと、そう言った。
「もし相手が平民だとしたら、生活費を稼ぐために、お前と契約結婚したっておかしくない」
「受け取った報酬を、別の男との生活に使うつもりかもしれないぞ」
――だから、大量の宝石を贈るような馬鹿なマネはやめろ、と。
その言葉を聞いたとき、レイモンドは胸が締め付けられる思いがした。
そのもしもを考えると、ショックのあまり心臓が止まるかと思った。
けれど、それから数時間が経った今は、驚くほど冷静だ。
(好きな男……か。ならば、尚更諦めるわけにはいかないな)
そもそもレイモンドは、この一週間の間、ソフィアは男に興味がないのだと思っていた。
どころか、男嫌いなのではとすら考えた。
そうでなければ、破格の報酬を受け取れる契約結婚の延長を、あれほど簡単に断るはずがない。
金銭が目的ならば、たとえひと月だろうと延ばした方がいいに決まっている。
けれど、ソフィアは迷いなく断った。
『今後のことはちゃんと考えている』と、言いきって。
あの言葉の意味が、『真に愛する男と一緒になるため』だとすれば、納得だ。
となれば、話は早い。
(男嫌いを治すのは難しいが、そうではないというのなら、まだ俺にも望みはある。それに、もし本当に彼女に恋人がいたとして、生活費のために彼女に偽装結婚を命じるような男だったら、彼女を任せるわけにはいかないからな)
――まずは、本当にソフィアにそんな相手が居るのかどうか、探ってみなければ。
そんなことを考えていると、不意に、ソフィアから話しかけられる。
「旦那様」
ソフィアの声は、いつも通り落ち着いていた。
けれど、二人きりでいるせいか、微かに気まずさが感じられる。
(しまった。彼女を楽しませなければならないのに、考え事に集中していた)
反省しつつも、レイモンドはにこやかな笑みを返す。
ソフィアの方から声をかけてくれるなんて、久しぶりだ――と、喜びを抱きながら。
「ああ、ソフィア。どうした?」
すると、ソフィアは平然と言った。
「これまでに旦那様からいただいた、宝石のことなのですけれど」
「宝石?」
「はい。それを、すべてお返ししたくて。旦那様のお部屋に運ばせればいいでしょうか? それとも、わたくしの部屋に置いたままでも?」
「――ッ」
瞬間、レイモンドは絶句した。
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
(……返す、だと?)
一度贈った宝石を? 全て?
冗談かと思ったが、ソフィアは大真面目だ。
レイモンドは、必死に平静を取り繕う。
「……理由を、聞いてもいいか?」
「理由ですか? それは勿論、受け取る理由がないからです」
「理由がない? だが、君は高額な報酬を必要としていただろう? あれだけの宝石だ。売れば金貨の山になるというのに」
正直、エミリオの言ったように、売却されることを考えると胸が痛む。
けれど、プレゼントを突き返されるよりは、何十倍もマシだった。
そんな気持ちでつい口にした言葉だったが、それを聞いたソフィアは一層真面目な顔をする。
「ですが、旦那様はあの宝石を気持ちだと仰いました。事前に取り決めた報酬ではなく、気持ちだと」
「!」
「それを受け取ることは、旦那様のお気持ちをもてあそんでいることになりますもの。わたくし、不誠実なことはしたくありませんの」
「……っ」
その言葉に、レイモンドは言葉を失った。まさか、ソフィアがそんなことを考えているとは夢にも思わなかったからだ。
と同時に理解した。これは拒絶だ。ソフィアは、レイモンドの気持ちを受け取る気はない、と示しているのだ。
(まさか、相手の男に義理立てしているのか? 金銭は受け取れても、気持ちは受け取れないと……?)
――なるほど。
既に理解していたつもりだが、これは、一筋縄ではいかなそうだ。
とはいえ、一度贈ったものを返されるのは困る。
それこそ、レイモンドのプライドが許さなかった。
レイモンドは、ゆるりと笑みを浮かべる。
「あれは既に君のものだ。返されても困る」
「……ですが」
「そもそも、一度贈ったものを突き返す方が不誠実だと思わないか? それこそ、俺の君への好意を踏みにじる行為だ。君が不要だというなら、売るなり、人にやるなり好きにしたらいい」
「――っ」
そう言って神妙な顔をしてみせると、ソフィアは、「あ」と大きく目を見張った。
けれどそこは流石というべきか。簡単に引く彼女ではない。
「申し訳ありません。旦那様のお気持ちも考えず。ですがやはり、受け取るわけには参りません」
「俺が、売っても構わないと言ってもか?」
「はい」
「君が返還した宝石は、すべて海の藻屑となるだろう。それでもか?」
「……藻屑……ですか……?」
「ああ。でなければ、俺にあの宝石をどうしろと言うんだ? 仮にも妻だった女性に贈ったプレゼントを、俺の手で換金しろというのか? それとも、主のいなくなった宝石を毎夜眺め、未練がましく君の姿を思い出せとでも?」
――言いすぎだという自覚はあった。
けれど、宝石を返されたとして、売ることができないのは事実だ。一度でもソフィアの手に渡った宝石を、お金に換えることなどできるはずがない。
となれば、未練と一緒に海に投げ捨ててしまうしか、方法はないだろう。
とはいえ、ここでソフィアを困らせたいわけではない、というのもまた事実で。
レイモンドは必死に頭を巡らせ、話をすり替える。
「――が、君の言い分も理解できる。そもそも、俺が勝手に贈ったものだ。君が望んだものでもないものを、受け取れと言われても困るのは当然だろう。だから、こうしないか?」
「……?」
「二日後、俺に一日、君の時間を与えてほしい。ふたりで、どこか出掛けよう」
瞬間、ソフィアの両目が瞬く。
「お出かけですか? それは、社交ではなく?」
「社交ではない。私的な外出だ」
「……それと宝石に、どのような関係が?」
「君の宝石を、外出の費用に充てるんだ。レストランや劇場を貸し切るもよし。遊覧船の上で演奏会を開いたり、大型気球を手配してもいい。どうだ? それなら、無駄にはならない」
「……!」
ソフィアの瞳が、呆れと困惑に揺れた。
「まるで新聞の紙面を飾りそうな内容ですわね」
「いいじゃないか。君はまだ俺の妻であり、侯爵夫人なのだから。もちろん、行き先は君の希望を全面的に受け入れる。――だから、な? 考えておいてくれ」
レイモンドの強い押しに、ソフィアは溜め息をつく。
「わかりましたわ。けれど、行先はわたくしが決めさせていただきます。それでいいですか?」
「ああ、勿論だ。二日後が楽しみだな」
こうしてレイモンドは機転を利かせ、どうにかデートの約束を取り付けた。
それからほどなくして、馬車は午後の陽光をまといながら、ブルックリン伯爵家の門を静かにくぐっていった。




