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旦那様、そろそろ離縁のご準備を


 ウィンダム侯爵家の庭園は、春の陽射しに包まれていた。

 白い薔薇は美しく、風は爽やかで、噴水は静かな音を奏でる。


 その中心にある白亜のガゼボにはティーテーブルがしつらえられ、一組の紳士淑女が優雅に紅茶を嗜んでいた。

 ウィンダム侯爵家の若き当主・レイモンドと、その夫人・ソフィアである。



 ウィンダム家は代々、王国の海域を守る軍人家系として知られていた。


 祖父は王国海軍の元提督ていとく。父は現役大佐。レイモンド自身も大尉というポストに就いている。


 一年の大半を任地で過ごすレイモンドは、侯爵としての責務と軍人としての任務を両立する大変多忙な毎日を送っていた。


 それでもレイモンドの任務が休みの日には、ふたりは必ず揃って紅茶を嗜む――これはふたりが結婚してから三年間続けている『決まり事』であった。


 たわいない日常会話、交わされる微笑み。愛の言葉。


 ふたりはどこまでも”完璧”だった。まるで絵に描いたような"幸せな夫婦"だった。

 実際二人は、社交界で『理想の夫婦』に例えられるほどだ。


 けれど、それはふたりの仮の姿だった。

 少なくとも、ソフィアはそう思っていた。



 ティーフットマンが席を外したところで、ソフィアはふと、夕食のメニューを尋ねでもする気軽さで声を掛ける。


「そう言えば旦那様、そろそろ離縁の準備をいたしませんと」


 ――離縁。

 

 ソフィアがその言葉を口にした瞬間、向かいの席のレイモンドが咳き込んだ。


「――ッゴホッ、ゴホッ! ゲホッ!」

 

 ソフィアは心配そうに目を瞬く。


「まあ、大丈夫ですか、旦那様! 紅茶がお口に合わなかったのでしょうか?」


 今日の紅茶には春摘みのアールグレイを選んだ。少々香りが強かったのかもしれない。


「明日はダージリンに戻しますわね」


 ソフィアは申し訳なさげに眉尻を下げる。

 するとレイモンドはハンカチで口元を拭きながら、掠れた声で問い返した。


「……いや、大丈夫だ、問題ない。それより……今、何と言った?」

「? 紅茶をダージリンに戻しますわね、と」

「違う。その前だ」

「前?」


 ソフィアは首を傾げる。

 そして、ああ、と小さく声を上げると、朗らかに答えた。


「そろそろ離縁のご準備を、と申しましたの。契約の満了まで、残り二ヵ月ですもの」


「――!」


 刹那――レイモンドは押し黙った。





 ソフィア・ウィンダム、二十三歳。


 名門ハリントン伯爵家の長女として生を受けた彼女は、優しい両親と兄たちに可愛がられ、美しく聡明な女性に成長した。

 その後、ウィンダム家の跡取りと結婚。


 今では、誰からも敬愛される侯爵夫人として周りから高い評価を受けている。


 しかし、三年前までは全く違っていた。



 三年前――ソフィアの社交界における評判は、決して芳しいものではなかった。


 名門女学園を首席で卒業したソフィアは、知性と品位、教養を兼ね備えた才女として知られていたが、反面、彼女は申し込まれる縁談を全て断っていたからである。


 そのため二十歳を迎えたころには、「我が儘」「生意気」「売れ残り」などと陰口を叩かれるようになっていた。


 とは言え本人は、恋愛にも結婚にも興味がなかったため、全く気にしていなかった。


 けれど両親はそういうわけにもいかなかったようで、ソフィアは毎日のように夜会に連れ出された。

 彼女はそんな日々に辟易していた。


 だがある日、レイモンドと運命の出会いを果たしたのである。




 その日もソフィアは両親に連れ出され、夜会で何人もの男性を紹介された。


 中身のない会話と、適当なお世辞。あるいは、歯の浮くような甘ったるい賛辞を浴びせられ、彼女はすっかり疲れきっていた。


 早く帰りたい――そんな思いで、グラス片手にテラスに向かう。


 すると、そこには先客がいた。

 軍服姿の見目麗しい紳士が、テラスの柱にもたれかかり、深い溜め息をついていた。



(あら、この方……)


 ソフィアはその紳士に見覚えがあった。


 先ほど会場で、大勢の女性たちに囲まれていた紳士だ。女性たちに向ける張り付けたような笑みが、酷く印象的だった。名前は、そう――。


(ウィンダム侯爵家の、レイモンド様。縁談をことごとく断っているって、お母様がご友人と噂話をしていたわね)


 もしや、この男も結婚というものに煩わしさを感じているのだろうか。だとしたら、自分と同じだ。


 ソフィアは親近感と、若干酔いが回っていたこともあり、レイモンドに話しかけた。


「あなた、結婚には興味がない口ですの?」


 レイモンドは訝し気に目を細めた。 無礼な女だとでも思っているのだろう。

 けれどしばしの沈黙の後、冷静な声が返ってくる。


「……まあ、そうだ。その口ぶりだと、君もか?」

「ええ。毎晩のように男性と引き会わされて、正直辟易しておりますの。結婚なんて少しも興味ありませんのに」


 酔いの勢いもあり、つい本音を漏らしてしまう。


 レイモンドは眉を動かした。それは、何かを思いついたとでもいう様に。


「……君、名前は?」

「ソフィア・ハリントンと申します」

「ハリントンか。……名門だな」


 再び、短い沈黙。

 その後、レイモンドは意を決した様に口を開く。


「無礼を承知で申し上げる。君は、契約結婚に興味はないか?」

「契約、結婚?」


 初めて聞く言葉だ。

 ソフィアは目を見開く。


「ああ。俺は今、結婚相手を探している。家督を継ぐのにどうしても相手が必要でな。だが、端的に言って俺は女性が苦手で、結婚生活を長く続ける気はないんだ。後継ぎを作る気もない」


 ソフィアは驚いた。


 急に何を言い出すのだろう、という気持ち以上に、まさかそんな手があったなんて――という気持ちが勝っていた。


「つまり、白い結婚ということですか? 家督を継いだら、離縁したいと?」

「まぁ、そういうことだ。後継者は分家から養子を取れば十分だからな。報酬は言い値でいい。とは言え、離縁となると流石に女性側に不利だろう。お互い干渉せず暮らしていければ、こちらとしては御の字――「素敵!」


 ソフィアは目を輝かせた。


『白い結婚』『形だけの妻』――しかも報酬付きで、レイモンドは、できれば離縁を望んでいる。

 それはソフィアにとって極めて理想的な提案だった。


 なぜなら、彼女には叶えたい夢があったからだ。そのためには、個人的な、まとまったお金が必要だった。



 ソフィアはその場で快諾し、後日正式に契約書を取り交わした。


1,婚姻期間は三年間

2,お互いへの干渉、詮索をしない

3,対外的には仲の良い夫婦を演じる

4,報酬は月々三百万ギールとする


 大まかにこれらの条件で契約内容をまとめ、一週間後には婚約を発表。

 本来一年以上かけるはずの婚約期間を三ヵ月に短縮し、結婚したのである。




 ――それから二年と十カ月。

 ソフィアは妻としての役目を全うした。


 レイモンドを慕っていた女性たちからの嫉妬ややっかみ、嫌がらせに耐え、舅や姑、親戚一同に対して良い嫁キャンペーンを続けてきた。

 レイモンドの上司や部下もきちんともてなし、夫を立てる妻を演じ続けた。それもこれも、全ては高額報酬のために。


 つまり、ソフィアにとってこの離縁の申し出は至極当然のこと――だったのだが……。




「旦那様? どうかなさいましたか?」


 レイモンドは、カップの縁に視線を落としたまま沈黙した。

 その様子に、ソフィアは首を傾げる。


(どうしたのかしら? 急に黙ってしまって)


 しばらくして、レイモンドはゆるゆると顔を上げ、低い声で言った。


「……いや、何でもない。……そのことは、考えておく」


 ソフィアは若干の違和感を覚えたものの、その返答に安堵し、やわらかな笑みを浮かべる。


「はい、よろしくお願いしますね、旦那様」




 ――だが、このときのソフィアは知る由もなかった。

 レイモンドが、婚姻継続を望んでいる・・・・・・・・・・ということを。



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