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巡る幾数に想いを馳せる

作者: 四季灯

 蝶が飛んだのは、たった瞬刻前の出来事である。自分の前を通り過ぎたそれは、吸った蜜の薫りを鱗粉と共に撒いたので、脳に焦げ付いていた。

しかし今はどうであろうか。

 目の前に聳え立つ海豚の鼻先が、これっぽっちも花を連想させない。離れなかったはずの記憶であるというのにどうしたことかといくら思えど、あろうことか水の中であるここには、唯一の海豚しか見当たらないのである。

 ふわりと走る感覚に驚き見やれば、海豚が喉を鳴らして、自分のことを突き飛ばす。水面に向かって墜落していく自分が、真っ黒な海豚の双眸の中に見えなかった。



 バシャン、と水を飛び散らせながら身体を起こすと、そこは泉の中であるようだった。風が吹けば、水に濡れた身体がぶわりと鳥肌を立てる。風邪を引かぬうちに泉から出なければと、若い男はのそりと身体を動かした。

 身体が冷えているからであろうか。随分と不安定な足取りで地に立っている。一歩一歩が身体に重くのしかかるようで、そういえば身体が弱かったのだと思い出した。いくら水浴びをしたくなったと言っても、泉に浸かるなど、突発的に思い立ったことは全くもって男の身を案じてはいないようである。

 傍らで男を眺めていたらしい白蛇は、男が泉から上がったのを確認すると草木の中へと身を隠していった。今日も見守っていてくれてありがとう、と男が笑って見送れば、かさりと白蛇が潜っていった草木が音を立てる。飼っているわけでもない野生の蛇は、存外男のことを気に入っているらしいと思い出す。白蛇の行方が分からなくなると、男は再び歩くことに気力を向けた。

 ここは家屋らしかった。どこか他人事のような思考に、男が首を傾げる。男の家屋であるというのに、どうにも己のものである自認が甘い。ゆらりと泉越しに見える男は、境界線の曖昧になった像を眺めていた。


 熱に浮かされるようにしてふらりと倒れ込んだ白の蒲団に温もりを感じて薄く目を開くと、男は女と寄り添っているようだった。女の方をよく見てやれば、思わず息を呑んでしまうほどに愛おしく思う。

 江戸の世では武家が好む白にすっかり身を包んだ花嫁は、血色の良い頬を白粉に埋めている。男を恋い慕い続けてくれていた女に贅沢をさせてやりたいと、我儘にも尽力した白無垢は、安堵すべきことに女を美しく飾り立てていた。

 迎える日はないと思っていたその日が来たのは、どうしてだっただろうか。そう考えれば、思いのほかそれはすぐに思い出すことができた。いつだったか男が「こんないつ死ぬかもわからぬような男ではなく、もっと好い人を見つけなさい」と呆れて物を言えば、「いやですわ。私は貴方様だけに恋しておりますのに」と真っ直ぐな黒が男を映して語ったのである。いつもは小柄で気弱そうな女が、真剣そうに根気強く見えたので、男はとうとう愚直にも愛を赦したのだった。

 しかし、その白無垢も今やすっかり廃れてしまっている。いつの間にか男は白の蒲団に身を包んでいたようで、女が古びた着物を着て手を握っていた。男の手はすっかり肉を忘れ、表面に浮かび上がる管は赤を忘れている。もう女の手を握り返すことしかできないようだと、微かに震えた身体で女を見やった。


「喘息持ちだというのに、あれだけ大成して長生きしたあの男が心底羨ましいんだ」


 以前、女が外で聞いたのだという噂を、男はよく覚えている。曰く、その人は喘息持ちであったようで、しかし旅に出ることを厭わなかったのだと。その人は、つい数年前に七十と少しという齢で、その生涯を終えたのだと。病に伏せて一日を終えていくような若い男には、その人がどうしようもないほどに手の届かない存在に思えた。

 夏が垂らした汗に、泉の水面が揺れるのが見える。


「私が死んだら、どうか私のことを忘れなさい。それで、君を愛してくれる好い人を見つけるんだよ」

「どうしてそのようなことをおっしゃるのです」


 男は死ぬだろうと、女もそれを知っているような顔をする。それでも顔をくしゃりと歪めるものだから、男は困ったように女の名を呼ぶ。するり、と女の頬に持っていかれた手で、女に触れていた。


「君が幸せでいてくれることを願っているのだよ。そうすれば、私はずっと幸せだからね」

「そんなの、貴方様を想っているだけで十分ですのに」


 だって、貴方様はこうして隣にいてくださるのでしょう、と女が言った。そんなわけないだろうとは言えず、ならば常に赤の椿を拵えた簪を身に着けていなさいと、男は答えた。血よりも鮮やかな椿を挿すのならば、男は女の傍に幽霊となって居よう、と。女は少し迷ってから、しかし躊躇うことはなく首を縦に振る。

 女が拒否することを一縷の希望として口に出された約束は、想定していた形で男を見つめていた。終ぞ、この女を自由にしてやることはできなかったのだと、男は静かに頭を振る。漏れ出た笑いは酷く渇いていた。

 それじゃあ、ずっと君と共に居ようかと、男は肩で息をした。


「愛しているよ」

「ええ、私もずっと、ずぅっと、貴方様だけをお慕いしております」


 コケ、と鶏が時刻を告げる声が、朦朧とした男の耳には新鮮に届いていた。



 鶏が鳴く声に弾かれたように目を覚まして、幼子は途端に部屋のドアを開けて駆け出した。目的地はただ一つで、幼子はそれを見て頬を綻ばせる。みんなおはよう、と声をかけると、一斉に口を開いた鶏たちによる大合唱が始まった。

 気分を良くして、朝から愛する彼らの世話を甲斐甲斐しく焼く。誰よりも早起きな家族は、幼子を起こすことで手に入る世話の時間が大好きだったらしいと、ぼんやりと思い出す。もう少し幼い身体に気を使ってくれてもいいはずだろうと思うのに、しかし嫌な気持ちにはならず、文句として何かが飛び出すことはない。

 なんだか今日は随分と他人事だなあと、幼い声が不思議そうに欠伸を溢す。幼子を映している鶏たちは、どれだけ覗き込んでみても両目いっぱいに幼子のすべてを映しきることはできないようだった。

 住居のある南西フランスのとある丘ではなく、パリまで下りればロココ様式特有の優美で繊細な建築装飾が見られるだろう世の中。生憎と、幼子が住まう場所はかつてのバロック様式すら感じさせないが、それでも家族との愛が詰まった住居は、幼子にとってはこの上ないほどに華麗な場所だ。


 鶏の世話を終えて、そんな愛おしい住居のドアを開く。ガチャリ、という音の先に広がったのは、ぼおっと燃える焔だった。いつもは元気な母が、ぼんやりと焔を眺めているのが見える。急いで駆け寄って、母の横にピタリとくっつけば、流れるままにそんな母の横顔を見なかったふりをした。父が戦に出て、そして先立ったことを知らされた日。奇しくも同日であったこの日には、毎年こうやって母と二人で暖炉を囲むのだ。

 「あなたはあの人にそっくりね」と、愛おしそうに母が幼子を撫でる。その反面、どこか寂しそうだったことなど幼子は理解していないように「お父さんのこと大好きだもん」と、無邪気に返すだけだった。


 夏ではないものが揺らす陽炎に、幼子はぱちりと瞬く。目をこすって、じいっと陽炎を見つめていると、その奥に鶏の姿を見た。思わず手を伸ばして、鶏を抱きしめる。身体に伝わった体温は、雪に震わせた身体にはあまりにも熱かった。


「やめてっ、やめてよ‼︎この子達は僕の家族なのっ‼︎」

「邪魔だ餓鬼‼︎」


 殺されたいのか、と叫ぶ声には鶏ともども鳥肌を立てたけれど、幼子は退こうとはしなかった。銃を握りしめた大人たちに、幼子は必死に食らいつくのだ。怯んでいるはずだろうに、その幼い足でたしかに地に踏ん張って声を張り上げるのだ。あろうことか鶏を殺そうとする、残虐な大人たちを前にして、である。

 バン、と空気が揺れた。じんわりと広がっていく心臓の熱に、小さな頭は痛みを感じることさえしなかった。どさり、と前傾姿勢になり地に伏す。鶏が、大人たちに連れ去られていく様子が、赤く染まった視界の端に見えていた。

 いつの間に来ていたのだろうか。チリチリと飛び散った赤に、幼子にすり寄ってきた蛇の白が隠れてしまっている。昔は蛇の姿に怯え、追い払ってしまうこともあったはずだ。だというのに、こうも慈しむように幼子に寄り添われてしまうと、幼子の中での前提が変わってしまう。森の子は、いつだって己を見ていてくれたんだなと、幼子は白蛇を抱きしめた。


「───!」


 必死そうな母の声は、もはや幼子の耳に届くことはない。名前を呼ばれてでもいるのだろうかと、薄っすらと見えた口の動きに口角を上げた。


「おやすみなさい、おかあさん」


 だって、もう夜だから。幼子の視界はすでに真っ黒で、明けない夜をじっと見つめていた。もう何も聞こえないの、とは口にすることはなかった。幼子の声は、もはや息にしかならなかったからである。それでも伝わったらしい言葉に、朧げな感覚が頬に伝った。

 暗闇がさいごに映してくれたのは、たった一人の生きた母ではなく、かつて父が愛した森の木々だけだった。



 木々が揺れる音に、若い女が空を見上げた。女の身長よりも遙かに高く、空をも覆い隠さんとする森は、どこまでも澄んだ空気を纏わらせている。川のせせらぎも歌うほどの清らかな流れである。女を誘うような森に返事をしようと、傍にあった大樹の幹をこつん、と叩く。風に揺れた葉に、女は気をよくして大樹を上った。

 目の前に広がる森一帯は、そのすべてが女の家族である。なんだかむず痒くなった胸に、女が微笑む。女に、森以外の家族はいない。今座り込んでいる大樹が女にとっての母である。そんなの、今更確認するまでもないことだったなと思い出して、女は妙な心地になるのだ。そんな女の姿を映し出す存在は、今は傍にはいなかった。

 大樹から立ち上がり、また別の木に飛び移る。女を見守っていた青空は、いつの間にか月夜に女を照らしていた。丸を成す月は、しかしどこか物足りなさそうな顔をしている。「満ち足りる頃は外に出てはならないな」と、女は明日を憂いて溜息を吐いた。


 それにしても、耳に入った己の言葉は随分と違和感がある。耳馴染みがあるのはそれのみであるというのに、一体どうしたのだろうか。頭を軽く振ってから、難しいことを考えることは放棄した。何せ、どれだけ考えたところでほかに誰も女の思考を理解してくれる存在はいなければ、まして女自身ですら考えを深めてくれる存在足り得ていないのである。ぐるぐると目を回すよりも、諦める方がよほど女にとっては賢い選択だ。

 早めに寝床のある洞窟に戻ろうと、木々を飛び越えていく。すでに空は闇を見ていたが、これ以上遅くなることはそれ相応に危険を伴う。遠くの背後で吠える声がこだまして、女を脅かそうとしているようだった。焦らぬままに急ぐ。道中、ずるり、と足元からぐらついて、そのまま地面へと落下した。衝撃に怯えて目を瞑ってしまえば、しかし想像していた衝撃が響くことはなかった。


 ぱちくり。目を瞬かせてみれば、辺りは霧に包まれていた。頭上を見やれば、満月がすでに薄らと落ち始めている。鼻を掠めた獣の香りに、倒れたまま動くことのない身体。察するに容易い状況に、女は渇いた喉を鳴らした。この世に生を受けて、こうも生命力に満ちた世界で過ごしてきたというのに、終末などというものはどうしてこうもあっけない。


「…母。ワタシはもう終わりなのだろうか」


 じくじくとした痛みに、ひたすらに赤がとめどない。呼応した大樹は、しかしそれでいてただ揺れるだけだ。ずっとわかっていたはずの言葉は、すでに女と家族を繋げるつもりがないようだった。これは随分と酷いものだと、反抗することもできない息を吸う。


「でも、母の傍ならば本望だな」


 大樹の下で眠ることは、実は女はあまりしてこなかった。何せ、この森は決して安全ではない。帰ろうとしていた洞窟こそが、女を守る場所であった。だからこそ、母と呼ぶ大樹に寄り添えているこの状況は、女としては言葉が繋がらなくなった以上に重要なことだったのである。

 そういえばと、とある日のことが脳裏に駆け巡る。死した獣が地に伏せている光景だ。少しずつ形を崩していく時の流れを、女はじっと眺めていた。森は寂しそうに葉を揺らして、それに反してどこかありがたそうに鮮やかな緑を生やすのだ。


 「ワタシがここで眠れば、ワタシもそうなれるのだろか」と、女は己が獣と同義であるように思い出す。そうしたら、母や家族のためになれるだろうか、と。

 ゆらりと、大樹が揺れるのが目に入る。グルル、と低く喉を唸らせる目の前の獣から、女を守るようにも思えた。


「……大丈夫だ、母。ワタシは母と共に在る」


 だからどうか、安心して森に溶かしてくれ。女の懇願に、森はピタリと泣き止んだ。代わりに、辺りを獣の恫喝が脅かす。

 ぐしゃり、とどこからか肉塊の潰される音がした。抉られたのは、果たして何だったのだろうか。満たされた心地が、満月に熱された木漏れ日と共に女を包んでいる。穏やかなものだと、相反する状況が囁いた。

 必死に伸ばした腕に、シュルシュルと音を立てて白の蛇が伝うのが、厭に鮮明に見えていた。



 シュルリ、と頬を撫でられる感覚に、赤子は目を大きく見開いてじっと相手を見つめていた。赤子の身体よりも大きな、光に反射する白が眩い蛇である。大蛇は赤子を慈しむようで、赤子は声を上げて笑う。それから、くるりと大蛇が赤子を囲むようにすれば、赤子は安心したように暖かな場所で眠りについた。

 大蛇のことは知らない。まして、赤子は己のことすらまともに理解していない。小さな鼓動が時を刻んでは、頼りのないあどけない表情を浮かべているだけである。それでもいいのだろうかと、赤子の思考の底が目をこすっては頭を振る。知らない意識が、どうしてかこれほどまでにはっきりと息をしていた。それをじっと、大蛇が肯定するように眺めていたことなど、赤子には知る由もないことだろう。

 次に目を覚ましたら、どうやら赤子は迷子になってしまっていたようだった。まだまともに動けない赤子は、なんたる悪戯か。あれよこれよと、山に住まう生き物たちによって連れられてしまったらしい。大蛇の姿を探してみても、赤子の目には見つけることが困難であった。

 大声を上げて泣くことは、果たして得策と言えるだろうか。達観した赤子の底深くが、そんな風に赤子の行動を抑え込もうとする。ここで大声を上げてしまえば、きっと大蛇は赤子を見つけるだろう。しかし同時に、山に潜む獣を目覚めさせることになってしまう。冷静な声が警鐘となり、赤子はどうにも上手く助けを求めることができなかった。

 浅く息を吸えば、かひゅりと嫌な音を立てて、限界を迎えたように赤子が横たわる。じんわりと視界をぼやけさせれば、赤子の鼓動はずっと速く耳に届いた。怖いなあと、小さく唸るような声が、懸命に身体を丸めては声を殺して泣いているようだった。


 ふと、赤子は思い出す。いつかの日に、こうしてひとりでいた日のことを、赤子は何となくだが知っていた。

 あの日も、今日のように雪が降っていたんだったっけ。涙が頬に張り付いて、雪が赤子の身体を冷やす。たったひとりでいては、どうしたって心をも凍らせる。必死に手を伸ばしてみても、ひとりぼっちを助けてくれる人なんていなかった。

 かつては、赤子は気が付けば大蛇の作った輪の中で眠っていた。暖かくて、ふたりぼっちは心地が良かったことを鮮明に覚えている。


 ───こうして、助けてくれたんだろうか。


 赤子は、小さくそんなことを呟こうとして空気を振動させる。まだ言葉を発するに至っていないものだから、当然そんなものはただの呻き声にしか聞こえなかったけれど。気が付いたら赤子を守るようにして囲んでいた大蛇の目を見る。じっと見つめ返される様子は、まるで赤子の言わんとすることをわかっているようだった。

 それでも、そんな大蛇でも助けに来れる限界はあるんだなと、黒く塗りつぶされた空を見る。山で遊んでいたら、突然大きな男の人たちに連れ去られたというのが現在だ。かつてと違い、大蛇との意思の疎通を可能にしていた赤子は、わんわんと泣き叫ぶ。

 すると突然現れた大蛇が、大丈夫かと赤子を慰めた。


「ねえ、かみさま」


 きっと、あなたはそういうそんざいだったんだよね。


 赤子よりも大きな身体に、他の蛇には見なかった類い稀なく美しい白の鱗。山の獣たちは、一様に首を垂れる。赤子はもうずっと、それこそ初めて助けてもらった時から、大蛇が何であるかを知っていたのだと思い出した。


「かみさまのそばでねむりたいの」


 〝くちなわのこ〟は、ずっとかみさまのおそばにいたいのです。赤子の細やかでありながらも確固たる我儘は、目の前にいる大蛇にしか届くことのないものだった。突然泣き止んだ赤子を気味悪がったのか、赤子の頭上からは刀が振り下ろされつつある。命乞いではなかった。大蛇に捧げようとするものは、死にたくないという言葉ではなくて、大蛇と共に在ることを望むものだった。


「わたくしに殺されることを望むのですね」

「うん、かみさまといられるならそれでいいよ」


 ここで助かることはできたのではなかろうかと、赤子が蓋をした思考の底からの声が届くことはない。

 ごくりという音とともに、刀が触れるよりも前に赤子が姿を消した。それはおそらく騒動になったのであろうが、一枚の鱗が落ちていたことでその場はうまく収まったらしかったと、大蛇は赤子に語り掛ける。


「蛇の子。わたくしの愛し子。ずっと守っていますからね」


 うん、ずっといっしょだよと、赤子が答えるように、大蛇のお腹がどくりと動いた。

 それから大蛇の山が燃えるまで、ずっとずっと、大蛇の周りにはひとつの魂魄が彷徨っていたと、今はもうどこにも残ってはいない山伏の日記には描かれていたのだとか、いなかったのだとか。


 ───わたくしが、ずっとあなたのお傍にいますから。


 魂魄を乗っけた大蛇が、煙と共に空へと昇る。不意に視界に入った鷹を見て、あれだけ自由に生きてほしいと、確かな願いを抱きながら。



 老人は空を眺めることが好きであった。空の機嫌を眺めていたり、今のように空を駆ける鷹を眺めていたり。していることは時によって異なっていたが、何にせよ老人はそうしてぼんやりとすることが好ましかった。

 かつては、あの空に夢を見て、飛翔できるほどになろうと地を駆け巡ったものである。今となってみれば、随分と阿保らしい話であるが、当時の己は馬鹿正直に信じて疑わなかった。今でも、あの空に手を伸ばしたくなる衝動は変わっていない。しかしながら、もうすっかり体の機能を休め始めている老人には、追い求めるほどの気力もなかったのである。

 空に執着していた当時よりも、よほど天に近い位置まで来てしまったらしいとは、どうしたって途轍もない皮肉だ。力なく笑った老人は、やはりぼんやりと鷹が飛ぶ空を眺めているだけだった。


「先生!」


 廊下を駆ける軽やかな足音は、しかし複数あればほどほどに重みを成す。ドタバタとして、廊下を軋ませた声の持ち主たちに、老人は空から目を落として笑って見せた。


 「先生、また空を見ていたんですか?」「師範はそれ、楽しいですか?」「じいさん、そんなことより今日は何教えてくれるんすか?」「今日は寒いから風邪ひかないでね、せんせえ」と、各々が自由に老人のことを呼んで話しかけてくるので、さながらかつての聖徳太子のようだと思う。たとえ身体は老いていても、老人はそれらを聞き取って答えてやれるぐらいには耳までは病んでいなかった。


「嗚呼、今日は風花だからね。とても楽しいさ。…そうさね、お前さんには礼儀とやらを教えてやっても良いな。なあに、心配せんでも風邪は引かないさ。お前さんたちこそ薄着なんだ。ほれ、もう少し集まってみろ」


 ぎゅうっと老人を中心にして、子供たちが密着する。全員でこうして団子を成せば、たとえ薄着だろうとも温かいだろうと、朗らかな老人の言葉に子供たちがこくりと頷いた。一部不満が飛び交ってから、ならばじいさんと呼ぶのをやめい、と老人が呆れて笑う。どうせただの憎まれ口である様子に、他の子供たちは興味がなさそうに雪を眺めていた。


「風花ってなんですか?」

「今日みたいなよく晴れた日に、こうして雪が降っていることさ。まるで風に舞うように見えるからと言われておる」


 ふうんと、聞いてきたわりに興味がなさそうな返事だ。しかし、子供の目がすっかり雪を見ては輝いていたので、老人は特に咎めることもしなかった。

 こうして老人の元に子供たちが来るようになったのは、それこそ老人がまだ老いていなかった時代からである。最近廃止されてしまった寺子屋が、それこそ子供にとっての唯一の学び舎であった時代だ。今ではたとえ学制が整えられ始めているとはいえ、どうやら子供たちはここを学び舎として認識していることに変わりがないようだった。

 子供たちを抱えたまま、その温もりに目を閉じる。ふわりと倒れ込むようにして感じた浮遊感に、次いで目を開いたときには床に伏せていた。傍らの子供たちが、ぼやけた視界に映る。


「師範、今日は鷹が飛んでいましたよ」


 それは素晴らしいことだなと、声にならない笑いが答えていた。

 そうやって一日の出来事を語る子供たちに、老人は己の現状を思い出す。もはや、残る唯一の趣味であったはずの空を見ることさえ、老人はままならないほどだった。

 ある時から老人の傍を離れなくなった白蛇が、舌を出して老人を見つめている。その光景が随分とまあ、老いた人間の目には神々しく見えたので、老人は安らかに目を閉ざす。


「……先生。先生は楽しかった?」

「嗚呼、楽しかったさ。お前さんたちと出会えたんだから」

「…じいさんも、オレのこと置いてくの」

「なあに、置いていくのはお前さんの方さ」

「せんせえ、ぼくらのこと、ちゃんと見ててね。目を離したら何かしでかしてしまうんだから」

「全く……お前さんたちが憶えている限り、見守ることを約束してやろう」

 子供たちの言葉に、老人は変わらぬ調子で問答をするだけだった。

「さあ、だから空を見ているんだぞ」


 天道様を見上げられるということは、下を見て生きる必要のないということであると、老人はかつて語った。黒い視界の中で、子供たちが頷く声が子守唄のように響く。

 白蛇が老人の首元に寄り添って、小さく喉を鳴らした。


「……迎えは、お主であったか」


 久しぶりに見上げた空は、老人の門出を祝っているように思われる。澄み渡った青空に飛ぶ鷹に、老人は目を細めてから呟いた。ある日から見えていた白蛇は、天の近い老人に見えるようになっただけであったのだろう。老人の首に、穏やかな顔をして巻き付いている。

 喉を唸らせた犬の声は、果たしてどこから聴こえたのだろうかと、老人はゆっくりと音を目指して歩き出した。



 子犬は、己をそうであるとは知らないのである。


 くるくると逃げ回る尻尾を追いかけ回しても、到底追いつけないのはどうしてだろうか。どれだけ名前を呼んでも話しかけても、首を傾げられてしまうのはどうしてだろうか。口が動くのを見るのに、なんて言っているのかなんて、わかる日がないのはどうして。

 名前を呼ばれている気がして顔を上げる。確証はなかった。それでも、名前でなくとも何かを言っているんだろうと、その柔和な表情に飛びついた。

 頭をくしゃりと撫でられて、安心感のある居心地の良さに瞼を閉じる。小さく喉を鳴らして、老婆に身体を委ねるのである。

 老婆の優しい手つきは、子犬にかつてを思い出させる。お腹がすいて、力が出なくなる。雪の中、どうにか温もりを求めてゴミ捨て場にあった段ボールの下に潜り込んで眠っていた。そんな子犬をどうしてか拾い上げ、ご飯を与えてくれたのは、他でもないこの老婆であった。あの日からずっと、子犬は老婆のことが大好きだ。


 普段、老婆はあまり動かなかった。じっと椅子に座って、子犬を見て笑う。ぽん、と投げられたボールを追いかけては、褒められようと老婆を見上げた。子犬は拾われてから外に出たことはなかったけれど、それでも十分に幸せだった。

 老婆は動けなかったのだろうと、子犬は歳をとって理解する。たまに来る複数人の男女は、老婆が子犬を世話してくれるように慌ただしく老婆を相手するからだ。たまに苦しそうに胸を押さえている姿は、子犬がかつて失った母親にそっくりだった。


「しんじゃうの?」


 くうん、と喉を鳴らして老婆に縋りつけば、なんてことないように頭を撫でられる。温かくて嬉しかったけれど、やっぱり言葉は通じていないのだ。返ってこなかったこたえに、子犬は必死になって老婆の傍を離れようとしなかった。その姿はどこまでも母親の最期とそっくりであったことなど、俯瞰してみることができない子犬自身には到底想像もできないだろう。くるりと冷たくなった母親に包まれて、じっと眠っていたかつての子犬にそっくりだ、ということなど。


 翌年の冬。老婆が本格的に動かなくなった。ずっと、家には誰かがいる。もう遊ぶこともできないんだと、子犬は理解したようにおとなしく座っていた。老婆が動けなくなってから現れた白蛇が、かつて母親が子犬にしたようにくるりと子犬に巻き付いてくる。ずっとふたりで、そうやって座っていた。


「───ひとりにしてごめんなさいね」


 突然、子犬の視界はクリアになったようだった。ぱん、と何かが弾けるような音が聞こえたと思ったら、子犬を眺めていた老婆の声が聞こえる。何を言っているのかは今までわからなくても、きっとずっと子犬を呼んでいた愛おしい音色。声に合わせるように微かに動いた口元に、子犬の脳に届いた言葉がリンクした。

 初めて、老婆の言葉を知ったのだろうか。実は理解していた部分もあったんじゃないのかと、子犬の奥で何かが吠える。「だいじょうぶだよ、おばあちゃん」と、安心させるように吠えて見せれば、やっぱり言葉が通じているように老婆は笑うだけだった。


「───」


 最後に響いた言葉が誰の名前であったのかはわからなかったけれど、老婆は小さく呟いて、子犬を撫でてから目を閉じていた。

 大好きよ。そう、たしかに耳にして。ぼくも大好きだよと、子犬は小さく鳴いてみることにした。

 ひとりぼっちはなれっこだから、きっとだいじょうぶだよ。そう言って、子犬は老婆の頬を舐める。ぽたりと頬を濡らした水滴に、応える声はもういない。老婆のことを汚す滴を、とにかく必死にどかしたかった。

 それから子犬は、老婆のもとを訪れるようにしていた男性の一人に拾われた。傍にいたからと、子犬から離れない白蛇も一緒に。白蛇はずっと何も言わなかったけれど、子犬がないていたらずっと巻き付いてくれる。それは、子犬が老婆を見つけるまでずっと変わらなかった。


「へびさんをおいていっちゃうね」


 もう、子犬は子犬ではない。白蛇は子犬の周りをくるりと包むのではなく、子犬の首に優しく巻き付くことしかできない。それほどまでに、かつての子犬は大きくなった。隣に佇む老婆を見やってから、白蛇は舌を出す。


「構わないのですよ」


 はじめてこえがきけたね。くすりと笑えば、白蛇はもう何も言わない。ただ黙って見送ってくれるらしかった。安心して、くうん、と喉を鳴らして見せる。

 金魚鉢のガラスに、己の姿が反射する。実体は大きくなったというのに、映る姿はどこまでも子犬のままだ。老婆も、ガラスの奥で待っている。さあ、先に進もうか。そうやって身体を震わせて、子犬は老婆を目掛けて軽やかに駆け出した。



 がぼり。息が詰まるような感覚がして、次いで気泡が目に入る。あの珍奇な旅々の直前に見た水中らしいとは、同じ浮遊感であったがために察するに容易かった。

 しかし不思議に思わざるを得なかったのは、目の前に在るのが小魚の大群であったからに他ならない。己を押してきたはずの唯一の海豚は、どうやら群れが成していた虚像であるようだった。そう思えば、途端に目の前の光景が酷く脆いものであるように映る。苦し紛れに伸ばしたはずの手は、しかし魚に届くことはなかった。

 自分は果たして何であるのだろうか。不安からきた焦燥に駆られて、哲学にすらならない存在意義を問う。気泡に写り込んだ自分という存在は、どうにも一定でなくて、実体を忘れたような感覚に襲われた。

 しばらくそうして気泡を眺めていれば、群れがぐるりと回って形を変える。

 白く反射する美しい銀の鱗が、長く繋がっていく。眺めていれば、いずれ魚の姿はなくなって、とある形を成した。その姿を認識してすぐに、「………蛇?」と、呟くようにして気泡を吐き出される。無意識のうちに溢れたものだった。

 疑いようもないほどに、目の前に伸びるそれは蛇だった。決して見間違えることはない、大きな大きな蛇。直前までのいくつもの旅の中で、必ずと言っていいほどに傍にいてくれた、白い蛇。

 ついてこいと言わんばかりの蛇に、自分の制御できない意思が歩みを進める。その先にある光は眩しかったけれど、ただの一度も目を閉ざすことはなかった。



 ぐしゃり、という音がして、のそりと身体を起こす。潰れた音の主は、どうやら蝶であるらしかった。


「……ああ、死んでしまったのか」


 寝ている間に無意識のうちに掌で潰してしまっていたらしい。ソファで寝転んでいるうちにやってきてしまった微睡は、やはりいいものではない。机の上に置いてあったティッシュを数枚取って死骸を掬い取る。手を洗うために蛇口を捻って、水が流れる様を聞いていた。

 どうやら排水溝が詰まってしまっていたようで、未だ流れを止められない水道が、いつの間にか薄らに膜を張っている。窓から差し込む強い光が揺らぐからか、水面を覗き込んでも自分の顔は曖昧だ。

 ゴム手袋をつけて、詰まりを解消しようと手を突っ込む。詰まりの原因は何らかの毛であるようだった。掃除ならつい一昨日ばかり前にやったはずであったというのに、ここまで詰まるのは妙であるだろう。加えて、そもそも犬だって飼っていないわけであるし、ただのホラーとしか思えない。しかしそれに首を傾げようとする前に、ぐるりと水が勢いよく流れ出した。

 ごぼり、とくぐもって響く音に、どうにも夢見がちな焦燥が思い出される。


「………なんの夢を見ていたんだったかな」


 心がぽかりと、寂しそうに空いているようだった。


「なあ、おまえは知っている?」


 籠の中でするりと動いた白い蛇を見て、そんなことを聞いてみる。知っているはずもない。まして、答えてくれるはずもない。ただ、舌を出して喉を鳴らした白蛇が、じっと自分のことを見つめていた。


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