第55話:あの子のこと⑦
彼女は、名前とひとつの想いを持って、生まれた。
『幸せになる』――
生みの親から与えられた激しい想いだけが、彼女をこの世界に繋ぎ止めていた。
でも、『幸せ』って、なに?
どうやったら……『幸せ』になれるの?
朧げな疑問の中で、彼女は根源的な欲求に導かれ、同じように漂う何かに近づいては、その名前を呼んだ。
わんわんおとこ、とんぼとりくん、おはなちゃん、のっぽさん、のんびりぼうや、かくれんぼさん、くびなしおんな、おえかきちゃん――
『なめくじおとこ……』
誰もいない公園のベンチで、彼女は首に巻きついて恍惚の吐息を漏らす、ナメクジ男の粘膜を撫でる。
なんだか、温かくて、心地よい……気がした。
幸せとは何なのか?
今もわからないまま、彼女は木漏れ日の下で芽吹く雑草のように、微かな温もりに手を伸ばす――
* * *
ツキヒが、影山さんにつけられなかった名前から生まれて、その名に込められた『幸せになる』という目的のために彷徨っているのだとしたら……。
それを成仏させるには、ヤツを幸せにしてやるしかないのかもしれない。
でも、それってどうやればいいんだろうか?
僕には皆目見当もつかない。
とりあえず、この件を魔女の三浦さんに報告して、作戦を練るしかないだろう。ある程度の方向性は定まったけど、具体的に何をすべきかは未だに闇の中だ。
「お前ら、これからどうするつもりだ?」
全てを話し終えた百々さんは、少し疲れたような、でも憑き物が落ちたみたいな表情で影山さんに尋ねる。
「ツキヒを倒して……クソオヤジを助け出す……」
「あんなダメ男をかい」
「ダメ男でも、あたしの父親だから……」
影山さんが言うと、百々さんは呆れた表情で渋々と頷いた。
「倒すったって、アテはあんのかい? 娘の生み出した存在とはえ、そのツキヒってのはとんでもないバケモンだぞ?」
「とりあえず持ち帰って考えます。こっち方面に詳しい知り合いがいるので、相談してみようかなって……」
まずやるべきは、魔女の三浦さんと情報共有して、糸口を見つける事だ。
「こっち方面に詳しい? ああ……協会のやつらかい?」
「えーっと、よくわからないですけど、なんか繋がりはありそう……?」
たしか三浦さんも『協会』の人達とやり取りしてるって言ってた。
その時はなんか『カッコいい!』って思っただけで深く考えなかったけど、協会か……きっとこの界隈で大きな力を持つ組織なんだろうな。
知らんけど。
「あたしは、あいつらは好かねえ。すぐに、怪異と利益を結びつけようとしやがる――」
「ははは……」
よくわからないので、とりあえず笑っとく。
「ったく、心許ねえな」そう呟いてから、百々さんは腕を組んで考え込み「……あたしも、そっちに行ってやる」
「!?」
僕と影山さんは驚いて顔を見合わせる。
「元はと言えば、あたしが蒔いた種だからな……。自分の尻ぐらいキレイに拭いとかねえと、ケツがむず痒くて死んでも死にきれねぇ」
「……いいの……?」
影山さんが上目遣いで祖母を見た。
「孫、これは本来、お前が抱え込むべき問題じゃねえんだ。このおいぼれにも、少しくらいばあちゃんらしい事をさせてくれや」
俯いたまま、視線を床に移す影山さん。膝に置いた手が強く握られている。
「……ありがとう……」
影山さんは掠れた声で呟き、百々さんは頷く。
「で――お前は、どうするんだ?」
百々さんの、影山さんに向けられた優しい視線は、僕に向けられた途端に鋭いものに変わった。真剣さが、痛いくらいに突き刺さる。
「たぶんよ、ここがお前の分水嶺だ。こっちの流れに身を任せれば、もう二度と向こうの流れには乗れねえぞ?」
「はい」
「ガキの無鉄砲は結構だが……正直、引き際だと思うぜ? これはあたしら家族の問題であって、利害関係のある大人たちの問題だ。無関係な子供が、首を突っ込むんじゃねえ」
百々さんの言葉は冷たかった。でもそれは、無関係で僕を巻き込まない為の、優しさの裏返しなんだってのはちゃんとわかる。
僕は影山さんを見た。
影山さんは俯いたまま動かない。
目が合ってしまえば、僕が同情と哀れみの気持ちだけで、軽はずみに頷くと思っているんだろう。だから影山さんは、僕の存在を無視するみたいに、ずっと床を見つめている。
そんなわけあるかよ。
上っ面の同情や哀れみで、僕が首を突っ込んでると思ってるの?
僕の気持ちをバカにすんな。
「影山さんの家族の問題――」僕は百々さんを睨み返す「だったら尚更、僕が首を突っ込まないわけにはいかないでしょ」
僕の返しに百々さんは目を丸くする。
「……はっはっはっ! ガキのくせに、言うねぇ」
そして心底愉快そうに笑った。
* * *
「こっちでやる事を済ませたら、本土に向かうとしよう」百々さんは玄関先で腕組みしながら言う。「昨日の件も、事後を確認しとかねえとな。まあ数日程度だろうが……」
僕と影山さんは頷いた。
長いような、短いような、そんな旅だった。
僕にとっては目眩がするほどの非日常。
それが急に現実に引き戻され、両親についた嘘がバレてないかって、そんなどーでもいい不安感が今更ながらに襲ってくる。
「フェリーの時間まで、まだ少しあるな……ちょっと付き合え」
百々さんに連れられて、僕と影山さんは百々さん宅の裏にある小高い丘を上った。日の当たる南側の斜面では、柔らかな雑草と力強いつくしが、太陽を目指し伸びていた。
東の海から吹き上げてくる風は、いつもより潮の匂いが強い。より深く、より多くの命を含んだ匂いだ。
「この場所は、あたしが月子に教えたんだ……」
丘の上からは、パノラマに広がる海と、その先に薄っすら浮かぶ陸地が見える。
あれは、僕達の住む街かもしれない。
「月並みだが……こっからはこのちっぽけな島におさまらねぇ、広い世界が見えんだよ」
白い陸地は視界の左から右へと、遠く延びている。
「そう月子に教えてやったら、あの子はえらく感動してな……『いつか自分の子供にも、この景色を見せてあげたい』って、そう言ってやがった」
まだ気怠げな昼前の太陽に照らされて、波がキラキラと輝いていた。
世界はこんなにも美しいんだって――そう思わせてくれるような景色だ。
この景色を見て、月子さんは何を思ったのだろう。
百々さんが影山さんの肩に手を置く。
シワだらけで傷だらけの手だけど、いろんなものを一生懸命に掴んできた力強い手にも見えた。
「お前は、どう見る?」
「あたしは――」
その先を影山さんは言わなかった。
いや、きっと心の中だけで唱えたんだと思う。
天国にいるお母さんだけに聞こえる声で、親子だけの秘密の会話を――
* * *
フェリーの絨毯席に座り、壁にもたれて眠る影山さんの顔を、コッソリと覗き見る。
この旅で僕は、百々さんから月子さん、そして影山さんに繋がる縺れた因果を知った。
でも、不思議と心は穏やかだった。それはまだ現実感が伴ってないからかもしれないし、あるいは一切の迷いがないからかもしれない。
ただ僕は、影山さんを守りたかった。
僕の知らないところで、影山さんが泣いているのだけは、絶対に嫌だった。
小さな寝息を立てる影山さんの唇に、自分の唇を近づけて、でもそれは卑怯だと引っ込める。
初めては……ちゃんとしないと。
波の揺れに身を任せて、僕も少しだけ眠った。
『S島編』完結です(*´Д`*)
こっからラストバトルになって、さらにその先の展開へと繋がります。その前にちょっと小話を挟むかも……。
思った以上に長くなってしまいましたが、楽しく書いてます(^◇^;)
引き続き、どうぞよろしくお願い致します。




