第54話:あの子のこと⑥
「この島で生まれ育ったあたしは、本土からやって来た男と結婚し、娘を産んだ。それが月子だ――」
百々さんは、そう語り出す。
* * *
百々道子は生まれながらに不思議な力を持っていた。
それは遠い昔に島に流れ着いた先祖から受け継がれた力だったが、島民と交わる事で薄れていき、少しずつ風化していく定めでもあった。
しかし時に、潮の満ち引きのように、強い力を持つ子が生まれることがある。
道子は『満潮の子』だった。少なくとも祖母や母は、道子にそう語っていた。だから道子は、自分の持つ力を誇り、人のために生かそうとした。力を持つものとして、当然の責任だと捉えていた。
道子は、言葉に力を持たせることが出来た。
それはたった一文字だけ。しかもその効果は、生命力を宿した筆で、紙に書き記した言葉のみに限られてはいたが――その紙を対象に貼り付ける事で、変化を強制する事が出来た。長年育て上げた、対象の負の感情を『カラ』にする力だ。
道子は親から受け継いだ畑を守りながら、拝み屋として、島で起きた『人ならざる者』とのいざこざを仲裁していく。
やがて、漁師として本土から移り住んだ夫と出会い、結ばれ、一人の子を産んだ。
それが百々月子だった。
月子は美しい赤子だった。
青白く輝く、妖艶な月のような子だった。
そんな月子の成長を見守りながら、やがて道子は、娘に秘められた力のあまりの強大さに気付く。
道子が『満潮の子』だとすれば、月子はこの島もろとも飲み込んでしまう『津波の子』だった。
自分の想像を超える圧倒的な力の片鱗を、道子は幼い娘に見出してしまった。
道子は身震いした。
恐れではない、喜びだ。
おこがましい話ではあるが――道子は自身を『神を産んだ聖母』なのだと感じていた。
娘が授かった力を育て上げて、世の中を救う。
まだ若く、自分は特別な存在だと思っていた道子は、それこそ自分がこの世に生まれた意味なのだと、強く信じた。
幼い月子が、母から向けられる過度な期待に、何を感じとっていたのかはわからない。
ただ、真っ直ぐに見つめてくれる母親の視線は、あ頃の自分にとって唯一の誇りだったと、月子は後にこぼしていた。
月子は、神にも悪魔にもなれた。
しかし結局は、そのどちらにもなれなかった。
母が自身の過ちを悟ったのは、娘が5歳になる頃。
その年頃の子供といえば、施設や公園で『はじめての友達』を見つけ、世界が広がる喜びを見出す時期でもある。
しかし道子はそれをさせなかった。
他者が月子に与える影響と、月子が他者に与える影響――特別な子である月子にとっては、そのどちらも良い影響を及ぼすとは限らない。
責任感と使命感に縛られた道子は、月子と他者が触れ合うのを避けた。
結果として月子は、部屋の中で一人、気に入りの絵本を眺めて過ごす子供になった。
しかし、寂しさは、音もなく降り積もっていたのかもしれない。
ある日、仕事の準備をしていた道子と夫は、隣の子供部屋から聞こえてくる月子の声に首を傾げる。
誰かとの会話を楽しむような、ささやかな笑い声。
不思議に思い、月子の部屋の襖を開けた。
暗い部屋の中にいたのは、月子ともう一人――
月子に似た少女がいた。
絵本に出てくるお姫様のような、美しい金色の髪の少女。
驚愕し、固まる道子。
しかし夫は苦笑いを浮かべると「おい月子? 一人でおしゃべりかー?」能天気な言葉を放つ。
夫は特別な力を持っていない。
道子はこの少女が、自分にしか見えていない存在だと気付く。
「あのねー、寂しかったからねー、おともだちを呼んだの。そしたら、この子が来てくれたの」
舌足らずな口調で、一生懸命に説明する月子。
「お友達? 誰もいないぞ?」なにも見えていない夫は首を傾げる。「お友達ごっこ、ってやつか――」
「月子、その子に『名前』はつけたか?」
間の抜けた夫の言葉を遮るように、道子は問う。
なぜそんな事が気になったのか、その時の道子は自分でも理解できずにいた。しかし、長年このような存在と関わっていた道子の勘が、けたたましい警鐘を鳴らしていた。
「え? わかんない。ねえ、あなたのお名前は――」
「やめろ!!」
道子の叫び声に、月子はビクッと肩を震わせる。
「おい、いきなりなに叫んでんだよ? 月子がびっくりしてるじゃねーか」
今にも泣き出しそうな月子を抱き上げ、困り顔の夫は娘その髪を撫でる。
「あ、ああ……そうだな……」
道子は頷き、娘と目を合わせようとした。娘は頬を膨らませてそっぽを向く。
「月子、怒鳴ってしまってごめんな。もうすぐご飯にするから、その子には帰ってもらいなさい……」
道子が言うと、不貞腐れながらも月子は頷く。
金色の髪の少女は、明け方に漂う霧のように、気付けばその姿を消していた――
月子の力を見誤っていた。
書庫で埃まみれの本を漁りながら、道子は頭を抱える。
月子に秘められた力は、あくまでも自分の力の延長線上にあるものと思っていた。自分が積み上げてきた修練や経験を伝え、指導する事で、月子の力は育っていくものだと甘く見積もっていた。
そうじゃない。
月子の力はそれだけじゃない――
今まで目を通していなかった書物の中に、似た事象を示す記述を見つける。
霊的な存在を生み出す力?
思業式神?
あの少女の存在は、まだ朧げだった。
しかし月子が、自分に似たあの存在に『友達』としての名前をつけてしまえば……あれは『そういうもの』として自我を持ち、この世に固定されてしまうだろう。
共存させてはダメだ。
自身のルーツに刻まれた『言葉の力』と、月子に発現してしまった『霊的存在を生み出す力』は。
そうしなければ――
この子は、存在してはいけない存在を、生み出してしまう。
まだ、寝た子は目覚めていない。
今ならまだやり直せるかもしれない。
――その日から道子は、聖母である事をやめた。
娘が持つ『特異の力』はタブーとなる。
母はその事に触れず、娘もまたその空気を理解し、口を噤んだ。
そして月子は無理矢理に『普通の少女』としての生を辿る事となった。
自分が持つ力を褒め、称え、励ましてくれた母。
それが、ある日を境にその力を恐れ、拒否し、無視するようになる――
幼い少女にとって、それは本当の自分を否定されたのと、同じくらいの恐怖だったのかもしれない。
表面上、月子はいつも笑顔だった。
学校では友達も多く、誰からも慕われ、充実した日々を過ごしていた。
しかし、その心は――
* * *
「あたしは、間違ってたのかもしれない……」窓の外を眺めながら、百々さんは言った。「あたしがすべきだったのは、月子の力を否定して目を逸らす事じゃなかった。ありのままを受け入れ、寄り添って、力との折り合いをつけてやる事だったのかもしれん……」
あくまでも仮定の話だ。今となっては何が正解かわからんがね、そう言って再び僕達に視線を戻す。
「それから、月子さんはどうなったんですか?」
慎重に言葉を選ぼうとしたけれど、結局はざっくりとした質問だけが口から漏れた。
「どうもこうも、普通にこの島の高校を卒業し、本土の大学に行ったよ。教育者になりたいってな。まあ、ごく普通の夢だ」
「そして……あのクソ親父に出会った……」
影山さんの言葉に、百々さんは口の端を上げて笑った。
「一度、結婚の挨拶だって言って、その男をうちに連れてきた事がある。まあ、娘のあんたが言う通り、どうしようもない男に見えたね。誰かに依存しなきゃ生きられない、弱い男だ――」口の中に転がり込んだ痰を吐き捨てるように、百々さんは言う。「だがね、だからこそなんだろうな、とも思う。月子は誰かから必要とされたかったのかもしれん」
あたしが、ありのままの月子を『いらないもの』だと振り払ったから――
百々さんの言葉には、消し去ることのできない後悔が染み付いているような気がした。
「あの……それじゃあ『ツキヒ』について、百々さんはどう思いますか?」
そう、僕達が知りたいのはそこだ。
影山さんのお母さんと、あの『ツキヒ』との関係。
百々さんは俯いてしばらく考え込んだあと、「あくまであたしの予想だがね」と前置きしてから、ゆっくりと語り出す。
「さっきも言ったが、月子は2つの力を持っていた。『霊的な存在を生み出す力』と、あたしの力の延長線上にある『言葉に力を持たせる』力」
右手で一本、左手で一本、指を立てる。
「そしてこの2つが組み合わさる事で、この世に存在してはいけない者を生み出すかもしれない――」
両手の指を交差させる。バッテンの形だ。
僕は頷く。
「月子は、お腹の中の娘のために、『月陽』という名前――言葉を作った。考えに考え抜いた、大事な言葉だ。そして、その言葉に強く念じたはずだ。大切な娘の幸せを、な」
誰からも愛され、幸せな人生を送ってほしい。
そんな影山さんのお母さんの気持ちは、僕だって理解できる。
言葉に力を持たせるとか、そんな特殊な力があろうがなかろうが、僕だってきっと、自分の子供の幸せを願って名前をつけると思う。
「あたしは月子に、力の使い方を教えてない。だから月子にとって、その願いに他意はなかったはずだ。普通の親と同じように、娘に名前をつけ、純粋にその幸せを願ったのだろう」
そうであってほしいと、僕は思う。
でも――
「しかし――その名前は、つけられなかった」
百々さんは深く溜め息をついて、影山さんを見る。
そう……。
影山さんは、蕪太郎と名付けられた。
お父さんが勝手に名付けた、何の思いも願いもない、白紙のような名前だ。
「お前に付けられるべきだった『月陽』という名前は、行き場を失った。月子が無意識のうちに注ぎ込んでいた強大な願いもまた、宛てもなく宙を漂う事になった」
それじゃあ、ツキヒって――
「そしてその『名前』は、月子が持っていた『霊的なものを生み出す力』と結びつき――存在してはいけない存在として、この世に生まれ出てしまった」
本来、影山さんが授かるはずだった、お母さんの『願い』の分身――
「その『ツキヒ』とかいう存在の目的が何なのか、確信めいた事は言えない。ただ、あたしが思うに、その行動原理は、月子の『願い』に根付いていると考えるのが妥当だろう」
つまり、ツキヒは――
百々さんを声をひそめた。
次に口にする自分の言葉が、白々しく響かないように。
「そいつは……『幸せになる』ためだけに、存在している」
その言葉は僕が想像した通りのものだった。
だからこそ――どこか現実感がなく、まるで絵空事みたいにぼんやりと滲んでいった。




