第52話:あの子のこと④
花は、季節のものであれば何でもいい。
その時節で最も強いエネルギーを蓄えているから。
菜の花を刈り取って、海水を蒸留した水で3時間ほど煮込む。それを墨汁に加え、カットした和紙に文字を書く。
『辛』
薄い墨で、しっかりと。
辛はツラいの意だが、カラとも発音できる。存在が持つ辛の記憶や感情を吸い取り、無気力な空へと転ずる事ができる。
こじつけのようなこの文字自体には、何の歴史も言い伝えもない。ただ、そう思い込んで強く念じる事ができる文字を、彼女が選んだだけた。
100枚ほど書いて、百々道子は額の汗を拭った。筆を握っていた指がプルプルと震える。
もう歳だ。
やはりこんな事、いつまでも続けられない。
今夜で最後にしよう。
旦那が死んでからも、溜め込んでいた仕事を何とか消化してきたが、今回を最後に引退しよう。
島で唯一の拝み屋として、この歳まで何度も死の淵に立ち、何度もそれを回避してきた。
この仕事の先にある死を、若い頃は受け入れてきたつもりだったが、衰えは人を臆病にさせる。
最後は、思い出のあるこの家の寝床で死にたい。
百々道子は、墨が乾いた和紙を丁寧に折り曲げると、年期の入った皮の鞄に収めた。
約束の時間は深夜0時。
何もない事を祈る――
* * *
3時間後――
百々道子は奥歯を噛み締めていた。
簡単な依頼のはずだったし、抜かりもないはずだった。
仕事場は、若い夫婦が経営する民宿の一室。自殺した男が地縛霊となり居座っているため、それを排除するだけ。今まで何十回とやってきた類の仕事だ。
赤子を人質に取られなければ――
「赤子は、離れた部屋に置いておけと言ったはずだが……?」
狼狽える夫婦を見ずに、百々道子はぼやく。
しかし、今更責めても後の祭りだ。
赤子の魂は、肉体から引き出され、地縛霊の男の手に握られている。
「2階の部屋で寝かせてたのに――」
「馬鹿野郎。この部屋の真上じゃないか。部屋から手を伸ばせる範囲なら、壁も天井も関係なく干渉できると言っただろうが……」
若い父親はハッとして、唇をキツく噛み締めた。娘を傷付けようとする悪霊と、不甲斐ない自分への向けどころのない怒り。
『この、プニプニした紐――』地縛霊の男はニタリ笑う『身体と魂を繋ぐこの紐を引き千切れば、この子はこっちの世界にやってくる……』
言葉を解すか――
多少の悪知恵も働く。思っていた以上に、強力な悪霊らしい。
『あと10年もすれば、食べごろになるんだけどなぁ……もったいないもったいない……』
悪霊は指先で赤子の腹から伸びた霊糸線を、へその緒を弄ぶように指先で摘み、その弾力を楽しんでいる。
「話し合いは、出来ないか?」
『その前に、お前のカバンに入ってる、そのうざったい紙を捨てろよ。それに触ると力が抜けんだよ』
「ほう、交渉ってものが出来るか。なかなか賢い……」
『バカにすんじゃねえよ、おいぼれ』
悪霊に好き勝手言わせながらも、百々道子は現状の打開策を考える。
若夫婦から聞いた話によると、この男の死因は急性アルコール中毒らしい。ぶいちゅうばあとかいうアイドルが結婚したとかで、傷心旅行でこの民宿に立ち寄り、酒を浴びるほど飲んで暴れ回った挙句、この部屋で息を引き取った。
なんとも迷惑なクソ野郎だ。
こいつの望みはなんだ?
どうしたらこの場を収められる?
『お前は俺を消そうとしてんだろ? 俺はよぉ、まだ消されたくねぇんだ』
悪霊は赤子の首根っこを掴んでぶら下げる。その苦しさから、赤子の口から、か細い呻き声が漏れた。
早く何とかしなければ――
焦燥感が膨らんでいく。
『俺は愛する人に裏切られたあげく、死にたくもねえのに死んじまったんだぞ? 存在したいって願うのの、何が悪い!』
* * *
僕と影山さんは声のする方へと駆けた。
何度も対峙してきた僕達には何となくわかる。これは悪霊が発する気配……。だとしたら、僕たちにも何か出来る事があるはずだ。
石畳を抜けて、母屋のドアを開けた。
廊下の端で立ち竦む女将さんと旦那さん。その奥の部屋では、何やら白い服を着た人物が動いている。
そして、朧げな姿をした異形の存在。
悪霊だ。
しかも、自我が強い見せたがりの奴――
「君たち! 来ちゃだめだ!」
駆け寄る僕たちに気付いた旦那さんは、狭い廊下を大きな体で塞ぐ。
「大丈夫です!」
「ダメだ! なんで来たんだ!」
「あたしなら……なんとか出来るからだよ……」
通せんぼされた影山さんの背中から、小柄な銀髪の鬼が出現し、旦那さんの身体をすり抜ける。
「え!?」
その光景に言葉を失う二人。
本当は、影山さんに『陰の力』を使って欲しくない。使う事で、影山さんが傷つく事になるかもしれないからだ。
でも――
目の前の悪霊の手には、小さな魂が握られている。あれはきっと……かなちゃんの魂だ。だったら、影山さんがこの状況を見過ごすわけがないって事くらい、僕にはわかる。
きっと、止めたって無駄だ。
硬直している旦那さんの横を通って、僕と影山さんは部屋の入り口に立った。
「お前ら――」
白い服を着た人物がこちらを見ている。
その顔には、見覚えがあった。
「百々さん……?」
僕は呟く。
昼間にあった時とは違う、白い着物姿だ。百々さんの言ってた『命がかかった仕事』って、これのことなのか?
驚いた顔の僕に、百々さんも同じ顔で返す。
そんな中でも、影山さんだけは冷静だった。百々さんの姿を一瞥すると、すぐ悪霊に向き直った。
「あの鬼は……?」
百々さんが銀髪の鬼を睨んで一人呟いた。そして納得したように小さく頷く。
「あのガキ、やはり月子の力を――」
何かを語ろうとした百々さんの声は、悪霊の興奮した叫びによって掻き消された。
『ほほぉ、目にいい格好してんじゃねぇか!』
悪霊は浴衣の影山さんと、布を纏っただけの銀髪の鬼を交互に眺め、粘ついた吐息を吐き出す。
「子供に欲情するとは……。幼女趣味めが――」
『うるせぇ! ロリコンは穢れを嫌う高貴な性癖なんだよ! 腐りかけの干し柿は黙ってろ!』
百々さんは鼻を鳴らす。
「さっさと、かなちゃんの魂を離せ……この変態悪霊ロリコン野郎……!」
その言葉と同時に、銀髪の鬼が一瞬で悪霊の懐に入りこんだ。
そして、いつものように必殺の一撃を――
しかし、銀髪の鬼のパンチは、悪霊に片手で容易く防がれてしまった。
『こらっ、おじさんを叩くなんて悪い手だ――』悪霊は掴んだ銀髪の鬼の手を持ち上げた。鬼の足が地面から浮き上がる。『お仕置きをしなくちゃいけないね』
影山さんの顔が嫌悪感で歪んだ。
やっぱり、影山さんの鬼は弱体化している。影山さんの心の『陰』は、こんなどうしようもないおっさんの悪霊にすら苦戦するほど、小さくなっている。
『よーし、お仕置きはお尻ペンペンに決めた!』
悪霊は嬉々として宣言すると、銀髪の鬼のお尻に片手を添えた。感触が連動している影山さんは、ビクッと背筋を硬直させて、恐る恐る自分のお尻を抑える。
ふざけんなよオッサン。
マジで、僕の彼女に何してくれてんだよ。
『あれれ? 嫌なの? それじゃあて……お胸モミモミの刑にしてあげようか?』
もうダメだ。
ぶん殴れなくてもいい、あいつの前で暴れてやる。
一歩踏み出したところで、百々さんに腕を掴まれた。
「止めないでください。あのオッサン、殺します」
「止めはしないが、一つ頼まれてくれんか」
そう言って、百々さんは目だけで悪霊の横のカナちゃんを示す。
あ――
悪霊は銀髪の鬼にセクハラする事に夢中で、カナちゃんの魂からうっかり手を離していた。
「こいつであの赤子の魂を包んで、こっちに連れて来るんだ。おいぼれに、肉体労働はちとしんどくてな……」カバンから大きな布を取り出す。「やれるか? 若人」
「もちです」
僕は布を受け取り、浴衣の胸元に隠した。
『鬼っ子ロリ少女……かわいいねぇ、かわいいねぇ……』
悪霊は銀髪の鬼を背中から抱きしめ、その髪に頬擦りしている。
影山さんは嫌悪感で慄いている。
明らかに隙だらけ。
その隙をついて、僕は悪霊に走り寄り、隣でプカプカ浮いていたかなちゃんの魂を奪取する。
ツキヒと対峙した時の、あの死を約束されたような恐怖に比べれば、こんなのウンコみたいなもんだ。
『おいお前ら、ちょっと席を外せ! 俺はこれから、この鬼っ子ロリ少女と楽しい遊びをしようと思う!』
上機嫌の悪霊は口笛を吹く。
「――ダメだと言ったら?」
百々さんは鼻で笑って、カバンの中からなにやら文字が書かれた紙を取り出した。
『おい! 怪しい動きすんなよ! このガキが死んでもいいのか!?』
悪霊はさっきまでかなちゃんがいた空間を見る。当然、そこにはもう誰もいない。
『あれ? ガキは?』
ポカンとする悪霊。
「てめえはよ……」百々さんはやれやれと額に手を当てる。「なにやら、理不尽な死を憂いていたが、てめえの頭が弱かったからだろ? バカは死んでも治らねえとは言うが……簡単に人質から目を逸らしてんじゃねえよ、バカが」
僕の腕の中で、布地に包まれたかなちゃんの魂がきゃっきゃと笑っている。
もう、大丈夫だ……!
百々さんはゆっくりと悪霊に近づき、銀髪の鬼に抱きついてる両手に、紙を押し当てた。
途端に、糸が切れたみたいに悪霊の腕から力が抜ける。
『何だよこれ、力が入らねえ!』
ふんっと鼻を鳴らして、百々さんは背を向けた。
「あとはお前に任せるぞ。ぶん殴らねえと、気が済まねえって顔してるからな」
百々さんと入れ替わるようにして、2人の鬼――いや、影山さんと銀髪の鬼が、悪霊の前に立った。
「てめえ……よくも好き放題やってくれたな……悪い子には、お仕置きが必要なんだよな……?」
『ちょ! 待ってくれ! ちょっと調子に乗りすぎただけなんだ! ごめん! ごめんって!』
両手をぶらぶらさせながら、悪霊は必死に頭を下げる。
『俺は不幸だったんだよ! 推しのVには裏切られるし、会社では役立たず扱いされるし、その上、こんな寂れたボロ宿の不味い晩飯が、最後の晩餐になっちまったんだぜ? 同情ぐらいしてくれてもいいだろ?』
「ボロ宿の……不味い飯だと……?」
影山さんの眉尻がピクピク動く。
『そうだよ! 離島なんだから、カニとかウニとかアワビとか、そういうのが――』
「あたしはよ……この宿のご飯が、今まで食べたご飯の中で……一番美味かったんだが……!?」
『は?』
「不幸だと? てめえのそれは、ただの欲張りだろうが……」
銀髪の鬼の放った前蹴りが、悪霊の股間にクリーンヒットした!
うわぁ……これは地獄だ……。
普通なら腰をトントンしたくなるシチュエーションだけど、あいにく悪霊の両手は動かない。内股でモジモジしながら、身体が少しずつ崩れていく。
「あんなに美味しいご飯を食っといて、それ以上を望んで、女将さん達をこき下ろす……」影山さんは髪をかき上げる。「そんなてめえに……同情の余地なんて、ねえんだよ……」
『……あああ……消える前に……鬼っ子ロリと……楽しい遊びが……』
そんな恨み節も、遂に言い終える事はなかった。
苦悶の表情を浮かべながら、悪霊の顔は空間に溶けて――消えた。
終わった。
僕はそっと、布に包まれていたかなちゃんの魂を解き放つ。魂は繋がれた肉体に導かれて浮き上がり、天井をすり抜け――
2階から、爆音の泣き声が響いた。
「終わったぞ、赤子のところに行ってやれ……」
百々さんは、廊下で腰砕けになっている女将さんと旦那さんに顎で示す。二人はコクコクと頷き、四つん這いでドタバタと階段を上っていった。
「やれやれ、老体には堪える――」
片手で腰を叩きながら、今度は影山さんを見た。危機が去った後だというのに、その目は鋭いままだ。
「おい、孫――質問がある。お前のその力についてだ……」
百々さんの目は、影山さんから隣に立つ銀髪の鬼へと移り、再び影山さんへと戻る。
「奇遇だな……」影山さんはニヤリと笑った。「あたしも……あんたに聞きたい事が、山ほどあんだよ……」
お読み頂いたみなさま、明けましておめでとうございますm(_ _)m
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