第51話:あの子のこと③
夕暮れの公園。
誰もいない公園。
朧げな少女は、自らの首に巻き付いたナメクジを撫でる。
『なめくじおとこ――』
その囁きは、音のひとつひとつに、じんわりとした熱がこもっていた。
まるで、愛する人の名前を呼ぶように。
* * *
1階の奥に小さな食堂があった。
古いけど味がある木製の食卓テーブルが2つと、それぞれに椅子が4脚置かれている。
テーブルの上には味の染みた煮魚と、プリッとした白身のお刺身。別皿にはウインナーとハンバーグが、シンプルなナポリタンの上に添えられていた。
ご飯は大盛り。ツヤツヤで美しい。
「予約なかったから、あるものになっちゃったけど、まあ食ってくれや!」
若い茶髪の女将さんは、わかめのたっぷり入った味噌汁を食卓に並べ、瓶のオレンジジュースの栓を抜く。
なんだかこそばゆい。
両親とこんな感じの旅館に泊まったことは何回かあるけど、子供だけでってのはもちろん初めてだ。大人になったような、背伸びしちゃってるような――
踵が地面から浮いちゃってる感覚。
向かいの席に座った影山さんは、箸で慎重にお刺身を摘んで、お醤油につけて、小さな口に滑り込ませる。
いつもの鋭い目が、まんまるになった。
「!!!!!!!」
箸を握ったまま、小刻みに震えている。
わさびでもつけすぎた?
「めちゃくちゃ、うまい……! なにこれ……!」
――と思ったら、あまりの美味しさに感動してるだけだった。
僕も一切れ口に入れる。
淡白だけど、濃厚な旨みが口いっぱいにひろがったて、死ぬほどうまい。魚臭さを全然感じないのは、新鮮だからだろうか。
「ウスメバルって魚だよ。うまいっしょ?」
僕と影山さんは同時に頷く。
「この煮魚も、おいしい……」
「ハンバーグも手作りだ。めっちゃうまいよ!?」
「魚苦手かなー、って思って肉も用意したけど……こりゃ完食してもらえそうだ」
隣の食卓テーブルに頬杖をついた女将さんは、もぐもぐ夕食をかっこむ僕たちを嬉しそうに眺めている。
「給食よりも、おいしい……」
「給食って――」
どこかピントのズレた影山さんの感想に、僕は思わず笑ってしまった。影山さんは怪訝な顔で僕を見る。
「給食……めちゃくちゃ、おいしいじゃん……?」
「美味しいけど、普通じゃない?」
「あたし、今までの人生で……給食が一番……おいしい食べ物だったんだけど……」
「あ、あー……」
そうか、意味はわかった。
わかったけど……いやわかったからこそ、なんともリアクションに困るよ影山さん。
僕が大人になったら、給食より美味しいものをいっぱい食べさせてあげるからね!
「うちの子も、あと10年もすりゃ、君たちみたいになるのかねー」
女将さんはしみじみ呟くと、席を立ち、隣の部屋から赤ちゃんを抱いて戻ってくる。
「ほら、かなちゃん、お兄ちゃんとお姉ちゃんに挨拶しな」
「ちやー」
こんにちは、って言ってるのだろうか?
影山さんはオドオドしてる。
ふふふ、戸惑ってるな。でも僕は歳の離れた妹がいるから、小さい子の扱いはまぁまぁ慣れていのだ。
さあ、僕の溢れ出る父性にキュンキュンしてくれ。
「かなちゃん、なんさいですかー?」
ゆーっくり尋ねると、赤ちゃんは指を一本……出そうとしてるんだろうけど、中指と薬指もついてきちゃってるから、何歳だかわからない。
「一歳だもんなー?」
「いちゃい」
か、かわいい……
かなちゃんにキュンキュンさせられちゃったのは、僕の方だった。
「ぴーきゅあ!」
僕がとろけていると、かなちゃんは影山さんを見て、謎の呪文を叫ぶ。
「????」
驚いて、目を白黒させる影山さん。
「ぴーきゅあ! ぴーきゅあ!」
「ああ、ピリキュアね」女将さんはかなちゃんの頭を撫でる。「ピリキュアに、長い黒髪のかわいい子がいるから、その子だと思ってるんじゃないか?」
「ぴーきゅあ!」
女将さんの腕から逃れて、影山さんに抱っこをせがむかなちゃん。
「影山さん、抱っこしてあげたら?」
「ううん……怖い……」
そっか。確かに影山さんの気持ちはわかる。赤ちゃんはやわらかくてぐにゃぐにゃしてるから、変に力を入れると壊れちゃいそうな気がするんだよね。
「ぴーきゅあ!」
「はいはい、おねえちゃん、って言ってごらん?」
「ぴーきゅあー!」
ピリキュアを連呼するかなちゃんと、それを宥めすかす女将さん。影山さんは真っ赤になって、ハンバーグをちょびちょび摘んでいる。
僕は、まだ見た事がない影山さんの表情を見れた事が、ほんのりと嬉しかった。
* * *
僕たちの客室は、母屋の裏手の『離れ』にあった。裏口を出て石畳を少し歩くと見える、小さな平屋だ。
母屋と比べて少し新しいところを見ると、規模を拡大するために増築したのかもしれない。
「宿泊客用のお風呂は母屋の1階にあります。一つしかないので、男性が入る場合は黒、女性の場合は赤の札をかけて下さいね。ただ……すみませんが、24時から朝6時まで、母屋への移動は禁止となってます。トイレや水道は離れにもありますので、絶対に守って下さいね」
部屋に案内された時、旦那さんは垂れ目を鋭く細めて、厳しい口調で言っていた。
まあ、母屋は家族のプライベート空間も兼用してるわけだから、そのくらいの配慮は必要なんだろう。
夕食を食べ終え、時刻はまだ19時前。
風呂でも……入ってくるか……。
風呂でも……。
畳の床にあぐらをかいた僕は、部屋の隅で荷物を整理している影山さんをチラチラ見る。
影山さんも当然お風呂入るんだよな?
という事は、風呂上がりの影山さんとエンカウントせざるをえないわけで……。
あああああ! 僕の脳みそはなんでこんな事ばっかり考えてしまうんだ!!
「僕、先にお風呂行ってくるね……」
シャワーで冷水でも浴びて、頭を冷やそう。押し入れに置かれた浴衣を手に取ると、ふらふらと部屋を出た。
お風呂でいつものルーティーン。
この後に影山さんが入るわけで、変なものが浮いてたら恥ずかしいから、身体中が赤くなるくらいタオルでゴシゴシ擦った。
湯船は家のお風呂よりも少しぬるいけど、その優しさが、疲れた体には心地よい。
タイル張りの壁が纏っている水滴を指先でいじりながら、僕は今日一日の出来事を思い出した。
百々さん――あの曲者のおばあちゃんは、ちゃんと僕たちと向き合ってくれのだろうか。明日出直して、それでも追い返されてしまったら、それこそもう打つ手がない。
寝そべって、頭の後ろ半分を湯船に浸した。
波打つ水の音が、胎動みたいに響く。
* * *
押し入れにしまってあった布団を敷いてから、あぐらをかいてスマホを眺めていると、影山さんが風呂から戻ってきた。
浴衣の影山さん。
長い黒髪は、ゴムとタオルで器用に丸めてある。そんなところに女の子らしさを感じてしまって、僕は影山さんから目を逸らした。
無言――
圧倒的な無言である――
影山さんがこの状況を、どれだけ意識してるのかはわからない。でも僕は、今まで生きてきた中で一番くらい、影山さんの『女の子』を意識していた。
「あ、あのさ……」
「ん……?」
「疲れたし……もう、寝よっか?」
変な意味に聞こえてないだろうか。
「そうだな……」
影山さんは髪の毛を解いた。
同じシャンプーを使ったはずなのに、そうとは思えないくらい、甘い匂いがフワッと広がった。
電気を消す。
掛け布団を捲る。
その中に体を滑り込ませ、布団をかける。
一つ一つの動作が、異様なくらい今のシチュエーションを誇張してくる。
電気を消した部屋は、障子窓から入り込む月明かりで、ほんのりと明るかった。
眠れない。
眠いのに、眠れない。
鎮静と興奮が身体の中心でせめぎ合っている。
時計がチクチク言う。
少し離れた、窓際に敷かれた布団の方から、まだ影山さんの寝息は聞こえない。
そっちを、見てもいいのだろうか?
頭を倒してもいいのだろうか?
なんだか意識してしまって、身動き一つ取れない。
お互いの感情がかわからない、宙ぶらりんによって生まれるこの行き場のない興奮は、いつまで続くんだろう。
何か一つ――
それこそ、衣擦れの一つでもあれば、途端に崩れてしまうような均衡状態。
影山さん……もう寝た?
その一言が――
「阿部くん、もう寝た……?」
均衡を崩したのは、影山さんだった。
いや、今の状態を『均衡』と感じていたのは、僕だけだったのかもしれない。
「起きてるよ」
そう言って顔を向けると、影山さんは障子窓にぼんやりと映る月明かりを見ていた。
「風呂の中で……色々考えてたんだ……」
「うん」
寝ぼけたような、どこかあどけない影山さんの声に、僕は耳を傾ける。
「……子供って、最初に話す言葉は、『名前』なんだなよな……パパ、ママだったり……わんわんだったり……ぴーきゅあだったり……」
「僕の妹も、最初の言葉は『かーたん』だったって、聞いたことある」
「そうなんだ……」
影山さんは布団から上半身を起こした。
薄闇をさらに黒く染める、少し乱れた浴衣姿のシルエット。
「あたし……思ったんだ……」
衣擦れの音。
影山さんが、乱れた浴衣の襟を整えている。
「名前を呼ぶってのは、いちばん最初の……愛情表現なのかもしれない、って……」
そして、指先でそっと障子を開けた。
窓の中央に、絵画みたいな月が浮かんでいる。
その光が、影山さんの全身を包み込んでいく――そんな幻想に駆られる。
「好きなものを、好きなものとして……自分の中に留めさせる、いちばん最初の手段……」
僕は言葉が出なかった。
月明かりが影山さんを縁取る。
黒い髪の一本一本が、金色の光を纏う。
「ツキヒが名前をつけるのって……案外そんな、単純な理由なのかもしれない……そう思ったんだ……」
影山さんが僕を見た。
その姿まるで、月陽のようで――
* * *
深夜0時を回る。
結局僕は眠れないまま、天井の暗がりを眺めていた。
隣からは、影山さんの小さな寝息が聞こえる。
今日は色々ありすぎた。
いつもの固い地面から離れ、ふにゃふにゃで心許ない砂地の上を、ひたすら歩き続けたみたいな感覚だ。
それは身近な大人の庇護から離れて、自分自身の責任のみで歩く道だ。そこではいろんな出会いがあって、誰かに貶されたり、助けられたり。
今は14歳の僕だけど……。
あと数年もすれば成人になり、親元を離れて、大学に行ったりして――本当の意味で、1人で歩き始めなきゃならない。
そんな未来が、不安で、でも少しだけ楽しみだった。
ねえ、影山さんは、どう思う……?
少しずつ、まどろんでく――
幕が下りるみたいに――
泣き声――
小さな子供の、泣き叫ぶ声――
かなちゃん?
僕は目を開けた。
スマホを見ると、深夜0時30分。
汗が染みた枕から頭を起こして、耳を澄ませる。その泣き声は、現実のものとして確かに聞こえていた。
夜泣き?
でも、それにしては、嫌な予感がした。
寝ている影山さんをそっと乗り越えて、窓を開ける。泣き声は大きくなり、女性の叫び声と、呪文みたいな単調な音が加わる。
――かな! かなっ!
――なるみ、ダメだ!
女将さんと旦那さんの声。
僕はこれが夢なのか現実なのかわからなくなる。
「なにか……あったみてえだな……」
いつの間にか、影山さんは目を覚ましていた。
「影山さん? これって、夢?」
「ねぼけんな……現実だよ……」
なるほど。
僕は再び窓の外を見た。
母屋の部屋の一つで、光が不自然に揺れている。
夢じゃないなら、今起きているのはきっとアレだ。
この嫌な予感――何度も経験した僕たちには、もはや馴染みの感覚だ。
「いこう……!」
影山さんは駆け出す。
僕もその後に続いた。
お読み頂きありがとうございます(*´Д`*)
ひとは、誰かへの愛情を言葉で言い表せない時、ただそのひとの名前を呼ぶように思います。
それは本能に根付いた愛情表現なのか?
そんな事を考えながら『名前をつける』というツキヒの性質を考えています。
続きも、どうぞよろしくお願いたします。




