第40話:バレンタインデーなんて……(13)
僕の中にある、ヒリヒリするほど弱い部分。
薄皮が張った傷口みたいなその場所は、自分ですら触れるのが怖い。
「僕にも、好きな人がいるんだ」
その恥ずかしい告白は、丸裸な僕自身だ。
夜に沈んだ遊具達は、眠りについた動物達みたいに、微かな寝息を立てている。
この告白が、それこそ動物園の片隅で呟いた言葉なのだとしたら、きっと違和感なく空気に溶け込んでくれただろう。
「君と同じだよ。その人の事を考えると、時々すごく怖い。いつも不機嫌そうな顔で、クソがって、言ってるから、本当は嫌われてるんじゃないかって……。時々、怖くなる」
背中に影山さんの視線を感じる。
どんな顔をしているのか、今だってすごく怖い。
「でも、嬉しい事だってあったんだ。この前、その子が僕の話で、ちょっとだけ笑ってくれたんだ。それだけの事かも知れないけど、僕はめちゃくちゃ嬉しかった」
放課後の教室。
読みかけの本から視線を外して、僕の顔を見てくれる影山さん。
他の人から見たら、なんの変哲もない日常の風景かも知れない。アニメの一枚絵だったら、ピンボケした背景の一つかも知れない。
僕だけにしか気付けない、悲しみと、喜び。
そして、オタ霊にしか気付けない悲しみや喜びだって、あるんだろ?
「君も教えてくれよ。悲しいことも、嬉しかったことも……」
傷付け合うんじゃなく、わかり合うために。
その孤独を、少しでも分かち合うために。
オタ霊は頭を押さえて小さく呻いた。青白く光っていた目に、人間らしい色が宿る。その変化を受け入れるのを嫌がるみたいに、首を横に振って僕を睨みつけた。
『もう、今更遅いんでござる……』
奥歯を噛み締めながら、震える声を絞り出す。
『拙者はもはや、悪霊と成り果てた。拙者に残っているのは、他人への嫉妬と怒り、それだけでござるよ……。冷たい氷は、人を温めることなど出来はしない。無理に人と触れ合えば、自分自身が消えてしまう身……』
「そんな事――」
『恨みか、消滅か……どちらかでござるよ』
僕は『ツキヒ』に消滅させられた、あのお父さんの霊を思い出した。
未練を断ち切って成仏していった他の悪霊と、それを果たせずに消えてしまったあのお父さんの霊。どちらも『自然の摂理』には違いなのかも知れないけど、出来るだけ優しい死を望むのは、人として当然の願いじゃないか。
ああ、僕はなんでここまでオタ霊に肩入れしているんだろう。僕を勝手に恨んで、殺そうとしてきた相手なのに……。
その時――
「ならば、その恨みを抱えながら、軽快に笑い飛ばせばいい」
やけに力強く響く、野太い男の声。
寂れた公園に厚く張った氷を、丸太を振り下ろして砕いてくような、無遠慮で力強い声。
その声がする方を見て、僕は驚きと、落胆と、それとほんの少しの安心感を覚えた。
「やはり、我々の410団に入れ! 非モテ四天王の一人、オタ霊!!」
「宮本先輩……」
そこには鉢山と4人の幽霊女子、そして宮本先輩が立っていた。
「康平!!」
鼻水を垂らした鉢山が僕に駆け寄る。強がりでガチガチに硬直していた脚から力が抜け、鉢山の肩に倒れ込んでしまった。
「ごめんよ、康平……」
鼻を啜りながら、僕の背中をポンポンと叩く。
「僕は大丈夫だから、影山さんを――」
「いや、大丈夫じゃないじゃん!」
「影山さんの方が、きっと疲れてる……」
「じゃあ影山さんも、こんなふうに抱っこして、背中をポンポン叩けばいい?」
「それは絶対にダメ……」
そんなどうしようもないく不毛なやり取りが、すごく懐かしく感じる。
僕達が、よくわからないテンションでわちゃわちゃしている間に、宮本先輩がオタ霊の前に立ってた。
宮本先輩は僕と同じ普通の人間だ。しかも、さっき幽霊の存在を知ったばかりの。そんな人がオタ霊を前に何をしようというのか?
無謀だ、止めなきゃ!
『ゴリちゃん! あのキモい落武者頭をやっつけて!』
『あいつ、あたしの唇を奪ったんだよ! 土下座するか、1000万献上しないと、絶対許さないもん!』
少し離れたところで、幽霊女子達が大声で騒ぎ立てている。しかし、そんな声なんて聞こえていないそぶりで、宮本先輩はオタ霊を見据える。
一触即発の状態――なのか?
『貴様……何をするつもりだ……?』
片手で頭を押さえながら、宮本先輩を睨みつけるオタ霊。
宮本先輩は右手でポケットを弄り――
「ふんっ!」
高速で突き出した。
その手に握られていたのは、小さな箱。
『――なんでござるか?』
「見ればわかるだろう? グリコのポッキーだ」
え……どうゆう事?
『いや、それはわかるでござるが』
「友チョコというやつだ! 知らんのか?」
宮本先輩はポッキーをオタ霊の胸に押し付ける。赤い箱は実体を持たないオタ霊の体に入り込み、赤い心臓みたいに見えた。
「オタ霊よ! 貴様はその恨みつらみを胸にしたまま、我が友となれ!!」
ポカンと口を開けるオタ霊。
白い歯を剥き出しにして笑う宮本先輩。
「私、宮本哲治は所謂『非モテ』のレッテルを貼られている! 廊下を歩くだけで女子にキモいと陰口されるのはいつもの事だし、発言の全てがセクハラ紛いだ女子に泣かれることもしょっちゅうだ! 人並みに――いや人の100倍は恋をしたし、その全てに玉砕し、今に至る!」
『お、おう……』
「枕で涙を濡らす日も数えきれない。でも私は、貴様のように捻くれてなどいない。真っ直ぐ非モテを貫いている。何故かわかるか!?」
心のドアをバールのようなものでぶち破るみたいに、宮本先輩は野太い声でフルスイングする。
「それは、私に仲間がいたからだ!!!」
突風が吹いて、裸の桜の枝が揺れた。
ボロボロに朽ちた落ち葉が、砂の上をカサカサと転がった。
寂しさに満ちた冬の世界の中で、宮本先輩の言葉だけが熱く、力強い。
『仲間……?』
「そうだ、互いに見栄を張り合うような、偽りの仲間じゃない。自分の弱さをも曝け出せる、本当の仲間だ」
そう言って、宮本先輩は下瞼を指先で擦る。
「数日前も、私は手痛い失恋をした! 顔が造形がセクハラだと罵られた! 今思い出しても涙が込み上げてくるさ……。しかしあいつらは……410団の連中は、そんな私の失恋話を笑い飛ばしてくれた! 宮本の顔がセクハラなら、俺の顔は性犯罪だろ? ってな!」
そして、左手で胸を叩く。ドラミングみたいに。
「お前に足りないのは、そんな連中だ! お前の捻くれた悲しみでさえも笑いに変えてくれる、そんな仲間なんだよ!」
オタ霊は痛みに抗うように頭を押さえている。
でもその視線は、宮本先輩が胸に突きつけたポッキーの箱から逸らさない。
「リア充どもに恨みを抱いたままで構わない。奴らへの恨みなど、私たち410団の心の中では、お前以上に燃え盛っている。だから――お前の悲しみ、苦しみ、怒り、全てをこの炎に焚べ、分かち合おうではないか!」
オタ霊は自分の胸にあてがわれた、赤いポッキーの箱に手を伸ばす。それはなんだか、決して消えない心の火みたいに見えた。
嫉妬の炎かも知れないし、恨みや怒りのそれかも知れない。もしかしたら、燃え始めた友情の炎かもしれない。
「改めて言おう、オタ霊よ410団へ入れ!!」
『だけど、拙者は――』
「うるさい! おまえはもう団員だ!!!」
背景に『ドン!!』て文字が飛びそうな、熱い言葉。少年漫画の友情シーンみたいで、不覚にも涙が滲んでしまった自分が情けない。
『仲間か……あんがい悪くない響きでござるな……』オタ霊は言う。『非モテ四天王は、仲間とはいえどモテに対する憎しみを増長させる仲でござった。憎しみを笑いにかえる仲間――そんなものも、ありなのかもしれないでござるな』
そう言って、オタ霊は笑った。
悪霊化してから初めて見せた、屈託のない笑顔だった。
そんなオタ霊の顔が、少しずつ光の粒になり、天へと昇っていく。
成仏、していく――
『こんな安らかな気持ちで消える事が出来るとは……。人生、何が起こるかわからないでござるね』
「待て! 逝くなオタ霊! 入団を決めたからには、108つある入団の儀式を執り行わねば!」
『すまないでござるな……拙者を友と呼んでくれた者よ』
オタ霊の足が消え、手が消え、胸から下が少しずつ薄れていく。
「オタ霊!」
僕はたまらなくなって叫ぶ。
命を狙われていたとはいえ、一度共感を覚えた相手だ。不思議な感情が心の底から湧き上がる。
「君を騙して、傷付けて……ごめんなさい!」
『残念ながら、拙者は恨みの塊だ。貴様のようなリア充への憎しみが消えることはない』そう言いながらも、オタ霊は唇の端を上げる。『だから、そんな拙者を、その憎しみごと笑ってやってくれ』
そう言われたから……僕はあからさまな笑顔をオタ霊に向ける。
最後まで分かり合えなかった。
でも、それでも――
さようなら。
オタ霊が消えた冬の空を眺めて、僕は口の動きだけでそう呟いた。
オタ霊を成仏させるためには、心の中にある『モテへの恨み』を打ち消すか、それを塗り替える女子との幸せを与えるしかないって思ってた。
でも、オタ霊が本当に欲していたのは、自分の汚い感情をそのまま受け入れ、喜びに昇華させてくれる、そんな仲間だったのかもしれない。
本当に欲しいものって、実は意外とわかりづらいのかもしれない。誰かの欲しいものも、それこそ自分自身の欲しいものだって。
影山さんが欲しているのは、なんなんだろうか。僕は振り向いて、さっきから無言で座り込んでいる影山さんを見る。
影山さんの顔は真っ赤だった。
焦点の定まらない目をキョロキョロを動かして、僕と目が合うとあからさまに目を逸らす。
その反応で、僕はさっき口にして強いまったしまったあの『告白』を思い出した。
バレンタインデー編はほぼ終わりで、次のエピローグ的な話で完結です。
オタ霊の未練を和らげる解決策は、幕田自身の思い出が根底にあります。高校生の頃の幕田はそりゃーもうモテない陰キャ野郎でしたが、この程度の性格の捻じ曲がりで済んだのは、馬鹿話で笑わせてくれる人がいたからです。
悲しい出来事も、やってらんねー逆境も、理解者の存在一つで色を変えるのかもしれません。




