第36話:バレンタインデーなんて……⑨
放課後、2年8組の教室にその少女はいる。
顔を覆い隠す長い前髪、その隙間から覗く鋭い目、そして全身を覆う漆黒のオーラ。
2年8組の怪異。
幽霊。
黒い女。
様々な異名を学校中に轟かせている、恐怖の対象――
それが『影山蕪太郎』。
鉢山は蕪太郎の事を噂でしか知らない。その噂から連想される彼女の人となりは、根暗、無口、そして人間嫌い。それに添えられるのは、大勢から向けられる『恐怖』の感情。
しかし、その認識は少しずつ変わってきていると思う。『影山さんはあの松原ニコリさんと仲がいい』『影山さんには男友達がいる』『影山さんは意外とかわいい』。その情報の発信源がどこなのかはわからないが、ここ最近、学内での彼女の印象が変化しているのは確かだった。
そして、親友の阿部康平は、真剣な顔で言った。
『影山さん、本当は優しいんだ』
――この進退窮まる状況の中で、鉢山の頭に浮かんだのは、先生でも、親でも、ましては警察でもなく、影山蕪太郎の名だった。
親友が見せたあの真っ直ぐな目は、『2年8組への怪異』への感情をを、恐れから優しさ、そして信頼へと塗り替えていた。
影山さんなら、きっとなんとかしてくれる。
勢いに任せて2年8組のドアを開けた。
窓際の一番後ろの席――
そこに黒い影が座っている。
「か、影山さん!」
自分の名を叫ぶ鉢山に、蕪太郎は怪訝な目をむける。しかし――
「康平が……阿部康平が危ないんです!」
それ以上の言葉は要らなかった。
蕪太郎は立ち上がると、鉢山に鋭い目を向ける。
「スケコマシが、どこにいるか……教えろ……」
* * *
『さあ、消えゆく覚悟は出来たでござるか?』
オタ霊の言葉に、僕は何も答えられなかった。
そりゃ、自分という存在が消されるのは、怖い。言葉も出ないし、頭がクラクラする。
でも、僕が彼を深く傷つけてしまったのは、紛れもない事実だ。だから怖いけれど、仕方ないのかもしれない。受け入れたくなんてないけど、納得できてしまう自分もいる。
今まで出会ってきた怪異たちは、それぞれ悲しい過去を持ち、それが足枷となってこの世に留まっていた。
彼らの未練は、他人とっては些細なものに見えるかもしれない。でも本人にとっては、自然の摂理を歪めてしまうくらい、大切なものだった。
そんな場面を、僕は何度も見てきた。
見てきた、はずなのに――
僕は、オタ霊の抱える過去を、些細なものと決めつけた。彼の大事な未練を、踏み躙ってしまった。
ごめんなさいって気持ちと、死にたくないって気持ちが、ごちゃごちゃになっている。
『声も出ないんでござるか……?』オタ霊は僕の頭の先から爪先まで、舐めるように見る。『傷付けられる恐怖を知らないから、人を傷つける事にも無自覚でいられるんでござるよ』
「ごめんなさい……」
この後に及んで、やっと絞り出した言葉は、自分の行いに対する謝罪だ。そして僕は、言葉だけの謝罪が何の力もない事くらい、わかってる。
『案ずるな。お前の身体は、拙者が大事に大事に、使ってやるでござるよ――』
いろんな人の顔が浮かぶ。
走馬灯ってやつだろうか。
お父さん、お母さん、愛菜……
鉢山、松原さん、三浦さん……
そして、影山さん……
もっと影山さんと、仲良くなりたかった――
――その瞬間
ドアが吹っ飛んだ。
カミナリが落ちた時みたいな、物凄い音を立てて、木製のドアが教室の端まで吹っ飛ぶ。そして黒板に衝突し、地面を滑って、止まる。
「最近、顔出さねえと思ったら……、楽しそうにやってんな、スケコマシ……」
スカートの黒がはためいていた。
まるで暗い死の海へに向けて張られた、船の帆みたいに。
「か、影山殿……」
影山さんが、来てくれた――
「女だけじゃなく、男もコマし始めるなんて……てめーは、マジで節操ねーな……」
何か言いたかったけど、うまく言葉にできなかった。恐怖の荒波が少しずつ凪いでいく。
影山さんは、ゆっくりと僕とオタ霊の間に立つ。なびく黒髪が、無気力で垂らした僕の指先に触れた。
『可憐なる文学少女殿――』
オタ霊の口から、驚きを拭くんだ言葉が溢れる。
「あたしは、可憐じゃねーし、文学少女でもねーんだよ……。てめえの中で、勝手にレッテル貼りすんじゃねーよ……」
影山さんの切り返しに明かな敵意を感じて、オタ霊は眉を顰める。
『そこを、どいて欲しいんでござるが』
「あいにく……あたしは、このスケコマシに、言ってやりてぇ文句があんだよ……てめぇの番は、その後だ……」
そう言いながらも、影山さんは片手を広げ、僕を自分の小さな背中に隠そうとする。
『そんな男を、なぜ守ろうとするんでござるか?』オタ霊は僕を指差す。その指は、怒りでワナワナと震えている。『他人を傷つけ、見下して……自分が不利となれば、儚い少女にすら救いを求める、情けない男を――』
「ああ、本当に、クソみてーな男だよ……。だからあたしは……こいつに説教してやらなきゃならねーんだ……」
影山さんの背後に、銀髪の鬼が出現する。
長くしなやかな足を踏み出すと、地面が小さく震えた。オタ霊の元へと歩み寄る鬼の背後で、影山さんは小声で僕に囁いた。
「おい……この場を……離れるぞ……」
「え?」
僕は首を傾げる。いつもの影山さんなら、このまま相手をボコボコにぶん殴って終わりのはずだろ? 反射的にそう考えてしまって、そんなどこまでも人任せな自分の思考回路に失望する。
「あいつの、情報が足りねぇ……。ぶん殴りてーけど……こっちは準備がいるんだよ……」
「あ、そうか……」
僕は思い出す。
影山さんの持つ最強の『陰』の力は、相手の陰を飲み込んで上回るからこそ発揮される。その為には、相手の陰――つまり未練を知る必要がある。
たしかに影山さんは、いつもダークウェブ『8ちゃんねる』で情報を収集してから、戦いに挑んでいた。
相手を知らない影山さんは、目隠しされた剛腕バッターだ。空気を歪ませるほどの物凄いスイングも、ボールに当たらなければ意味がない。
逃げ切れるか?
僕も影山さんも、運動はそれほど得意じゃない。
影山さんを見る。
影山さんは苦虫を噛み潰した顔で、僕を見返した。
オタ霊と対峙している影山さんだからこそ、わかるのかもしれない。オタ霊は――彼の持つ陰は、今までの怪異とは比べ物にならないほど、強い。
どうする……?
『ちょっと待ったー!!』
突然、背後から黄色い声が響き――
出現した4人の幽霊女子が、オタ霊を取り囲んだ。
「あ、アヤさん!?」
『阿部くん早く逃げて!』
チセさん! サヤカさん! ユーコさんも!
4人は手を繋ぎ合って輪を作り、その中にオタ霊を囲っている。
「助けてくれるんでござるか!?」
『あったりまえじゃん!』
力強いアヤさんの声に、自然と涙腺が緩む。さっきから傷つく事ばかり言われてたから、予期せぬ優しさが胸に沁みる。
『だって阿部くんが消されちゃったら、リュウジさんにエロ本渡せないじゃん!? エロ本もらえなかったら、リュウジさん悲しむじゃん!? そしたらデートできないじゃん!? そんなのダメ!!』
うん、そうだね……。
たしかにその通りだよ。
「あ、ありがとうでござる!」
お礼の言葉を叫んで、僕は影山さんの手を引く。
「ああ? エロ本……?」
「影山さん、それはあとで説明でござる! 早く逃げるでござるよ!」
「……ござる?」
「いいから!」
僕と影山さんは走り出した。
一瞬だけ後ろを振り返ると、オタ霊は女子との接触に躊躇してか、彼女達を振り解けずにいる。
そのまま教室を出て、階段を駆け降りる。
脇腹が痛い……息が苦しい……
でも、できるだけ遠くへ――
僕と影山さんは走った。
* * *
オタ霊は第二理科室の中央に立ち、足元を見る。
そこには4人の幽霊女子が倒れていた。窓から吹き込む風に揺れ、その手足は煙みたいに霞んでいる。
こんなものなのか?
オタ霊は思う。
あれほど怖く恐ろしかった、女性という存在は、こんなにも容易に蹴散らせるものだったのか?
拙者はこんなに脆弱な存在に、癒える事のない心の傷を負わされたというのか?
自分の手を見る。
4人の女をちぎり捨てた、自分の右手を見る。
その手を伸ばして女の身体を抱き起こすと、小さく震える唇に自分の唇を押し当てた。
なんの感触もない。
感情も湧かない。
こんなものに、拙者は――
オタ霊は理解する。
そして、ここにまた一人、哀れな悪霊が誕生した。




