第35話:バレンタインデーなんて……⑧
現実に拒絶された少年は、空想の世界で生きる事にした。
マンガ、アニメ、小説。そこに存在する少女達を眺めているだけで、少年の心は満たされた。
そこ閉じこもってしまえば、少年は忘れる事が出来た。濁った沼の底で、酸素を求めて喘ぐ淡水魚の様な、この無様で非力な欲望を――
少年は愛されたかった。
自分の存在を認めて欲しかった。
でも同時に、自身が持つ加害性に怯えていた。
キモくて、こわくて、虫唾が走る醜悪。
自分がそういう存在であると、少年は汚物を啜るように受け入れるしかなかった。
極限の飢餓に苛まれた人間を、最も苦しめる行為とはどのようなものか? それはきっと、目の前に差し出された温かな食事を、手が届く寸前で踏みにじる事だ――
「これ、受け取って下さい……」
その日は、バレンタインデーだった。
足早に教室から去ろうとする少年を、一人の少女が呼び止める。手渡されたチョコは、ピンク色の包装でラッピングされ、カラードレスのように煌びやかだった。
その少女は、クラスの中でも目立たない存在だった。そしていつも、数人のカースト上位女子に囲まれ、卑屈な笑いを浮かべていた。
三つ編みと白い肌。授業中のすっと伸びた背筋と、休み時間の怯えるような猫背。
少年は、漫画本を読むふりをしながら、そんな彼女の姿を眺めていた。ただ見ている事しか出来なかったし、見ているだけで十分だった。自分という存在がそれ以上を求める事など、考えたこともなかった。
しかし、少女の口から放たれた言葉は、少年の孤独の壁を容易く打ち砕く。
「わたしと、お付き合いして下さい……」
乾き切った脱脂綿に、水滴が落ちた。生まれて初めて異性からの愛情を向けられた少年は、体に染み入るその潤いに抗うことが出来なかった。
自分を認めてくれる人がいる。
学校からの帰り道、無言で歩く彼女の隣で、少年はその喜びに打ち震ていた。
空白の時間を埋めようと、少年はひたすらに喋り続ける。好きなマンガのこと、オススメのアニメのこと、愛すべきキャラクターのこと――
やがて喋り疲れた少年は、少女の小さな手に、ゆっくりと自分の指を絡ませる。
少女が小さく震えた気がした。
そんな日々が続いた、ある日の放課後。
誰もいない校舎裏。
少女は怯えた声で、少年に口づけを求めた。
その言葉に少年の脳は痺れる。
ついにこの時が来た――
少年の頭は何も考えられなくなっていた。少女の見せた戸惑いも、声の震えも、少年は気付けない。ただ身体だけが、異常なほどに熱く滾っていた。
マンガやアニメの女の子が好きだった。それを遠くで眺めていられれば、それでよかった。
でも、現実の女の子だって、本当は怖くないのかもしれない。こんな自分だって、愛してもらえるのかもしれない。
それは、飢餓で朦朧とする意識の中で、懸命に伸ばした右手だった。
しかし次の瞬間、その手は汚れた靴で蹴り飛ばされる。手の中に収まるはずっだった愛は、砕け散り、すり潰され、泥と砂に塗れる。
少年は唇を重ね――
その直後、少女は嘔吐した。
目を涙で滲ませ、白と茶色が混ざった液体を吐き出しながら、少女は何度もえずいた。
そして汚物に塗れた手で唇を擦る。
まるで、唇に付着した穢れを拭い取ろうとするように。
「なんで、わかってくれないの……」
掠れた声で少女は言う。
「私、ずっと嫌がってたよね……? なんでそれがわかんないの……? なんで、こんなひどいことするの……?」
ひどい事……?
少年には訳がわからなかった。
居場所を見つけられず、泳がせた視界の端。そこに、こちらを見て嗤う数名の女子生徒を捉えた。
ああ、そうか。
この幸せが、単なる茶番だったと、少年は悟った。
誰かが、誰かを傷つけて嘲笑うための、悪趣味な茶番劇だ。
あの日受け取った、愛の形をした包装の中に入っていたのは、単なるカカオと砂糖の塊だった。そこには関心も、愛情も、何一つ含まれてはいなかった。
それに気付けなかった無知な自分は、また女の子を傷つけてしまった。
わかっていたはずなのに。
自分が誰からも愛されない存在だと、わかっていたはずなのに。
少年は自分の愚かさが情けなくて、恥ずかしくて、そして悲しかった。
「ひどい……ひどいよ……」
汚された少女は泣きじゃくる。
それを遠くから眺める数人の少女達は、顔を不気味に歪ませ嗤っている。
ひどいのは誰だ……?
この茶番を仕込んだ、あいつらかもしれない。
でも自分だって、それと同じくらいには、ひどい存在に違いない――
少年は頭の中で、何かが壊れる音を聞いた。
これは少年が命を落とす、数ヶ月前の出来事だ。
* * *
非モテ四天王最後の一人が、僕を睨みつけている。
でもその目は、僕だけに向けられているわけじゃない。焦点の定まらない血走った眼球は、僕を通り抜け、その向こうにある深淵を覗き込んでいるようにも見えた。
『なによ、もう! 話が違うじゃん!?』
アヤさんが両手を駄々っ子みたいにをバタバタさせる。
『コイツらにチョコあげたら、成仏するって話だったじゃん!? なんでこいつだけ成仏しないの? あーもう! リュウジさんと墓場デートのはずなのに、髪がぐしゃぐしゃになっちゃったよ……』
オタ霊の波動で乱れた髪を整えながら、アヤさんは悪態を吐く。他の三人も不満そうな目を僕に向けている。
「そんなの、知らないでござるよ……」
緊迫した状況の中で、オタ霊の呪いによる『ござる口調』は妙に浮いていた。
『拙者達を謀っていたんでござるね……? そのリュウジとかいう奴に貢ぐ為に、拙者達のような弱者から、汚れなき純情を搾取したんでござるね?』
「ち、ちが……」
条件反射的に否定しようとしてたけど、僕はそう断言できなかった。
たしかに、オタ霊の言うとおりかもしれない。
こんな構図をどこかで見たことがある。そうだ、テレビの警察24時でやってた繁華街の闇だ。
ホストさんに上納するため、夜のお店のお姉さんが弱者男性を騙して、お金を搾り取っていた。お金を失った男性は変声期で歪められた声で、何度も呟く。
彼女を信じていたのに――
僕の中に重たい罪悪感が生まれる。
呪いを解いてもらう事だけに囚われて、非モテ四天王の未練に共感したつもりでいたけれど、結局僕は、彼等の気持ちを土足で踏み躙っただけなのかもしれない。
そんな事考えたくないけど、僕は心の奥底で見下していたんだ。
非モテ四天王が、この世に残してきた未練を――
「ご、ごめんなさい! あの、そんなつもりじゃなかったんです……! ただ四天王に喜んでもらって、それで、呪いがとけるんだったら――」
加害者のくせに、涙が滲んできた。
『中身のないプレゼントで、相手が喜ぶと思うんでござるか? その傲慢さが、貴様が呪いを受けた本当の原因でござるよ』
背筋が勝手に、ビクビクと震えている。
なにも言い返せない。
だって、その通りだから――
『もう、呪いなんてまどろっこしい真似は、やめでござる』無表情のオタ霊は、淡々と語る。『拙者は貴様の身体を手に入れる。貴様の心を殺して、貴様自身に成り替わる――』
ダメだ……!
そんなの、嫌だ……!
『貴様のような普通の人間にさえなれれば、きっと拙者は許してもらえる! 誰かを好きになる事も、誰かに優しくされる事も、きっと許してもらえる!』
「いやだ――やめて!」
後ずさろうとして、後ろに下げた足が何かを踏んづけ、滑って尻餅をつく。靴底から解放された蝋燭が、明後日の方向に転がっていく。
『拙者はただ、愛されたいんでござるよ……』
オタ霊は肩を揺らしながら、ゆっくりと近づいてくる。
その悲壮感が漂う表情を、僕は直視できなかった。
この身体を乗っ取られたくなんてない……。
でも、彼をこんなにも傷つけてしまった自分は、罰せられても仕方ないって、そう諦めてしまいそうになるから。
オタ霊の伸ばした手が、僕の頭の上にかざされる。
僕は、迫り来る死から目を逸らそうとして――
そこに巨大な影が割って入った。
「宮本先輩!」
その逞しい背中に、僕は叫ぶ。
「事情はよく知らないし、二人の会話を聞いたところでは、四天王様に同情したい気持ちが勝る」宮本先輩はそう言いながら、しきりに首を傾げている。「ただ、上手く言語化できないのだが、あなたのしようとしてることは間違ってると思いますよ――四天王様」
そう言い放つと、宮本先輩は伸ばした指先をオタ霊に向けた。サッカーで鍛えられた逞しい脹脛が、僕の目の前でピクピクと動いている。
『四天王の力に縋るしか能のない人間風情が、拙者に向かって説教でござるか?』
「我々はたしかに、モテのリア充が妬ましい」そう言って宮本先輩は、チラリと僕の方を見る。「しかし、彼らになりたいかと言われると、それもまた違うと思う」
『嘯くな』
「非モテは非モテなりに、人生を謳歌し得る、そう思わないですか? 私は410団を発足し、仲間と行動を共にする事で、新しい価値観を得ることが出来た」
『価値観?』
オタ霊が興味深そうに繰り返す。
「モテない自分の境遇ですら、仲間と一緒に笑いとばす事が出来る、そんなサイコーの価値観ですよ」
それを聞いて、オタ霊は笑った。今までその身に受けてきた嘲笑を、体内で熟成させたような、臭い立つほどの嘲りの笑い声だった。
『ほざけ! それは、真の闇を知らない者の戯言でござる!』
「ならば私が、光を見せてやる。我が友となれ、非モテ四天王!」
『もう、拙者は死んだ身……。友など、作れるわけがない……。もう、今更すべてが、遅いんでござるよ』
衝撃波が宮本先輩を襲い、190センチ近い巨体が宙を舞った。そしてそのまま、教室の隅に重ねられた机に衝突する。
一瞬の轟音。そして、不自然な静寂。
こんなに派手に暴れているのに、誰もここにやって来ない。もしかしたらこの部屋は、すでにオタ霊の生み出したテリトリーに、飲み込まれているのかもしれない。
『もう、遅いんでござるよ……』
名残惜しそうにオタ霊は呟いた、そして再び僕へと向き直る。
『さあ、消えゆく覚悟は出来たでござるか?』
* * *
鉢山は走っていた。
宮本先輩は自らに注意を引く事で、第二理科室の外へと逃がしてくれた。
このまま逃げ帰ってもいいのかもしれない。あの場所で、自分にできることなんて、きっと何もない。
でも、まだ中には宮本先輩と――
そして、大事な親友がいる。
鉢山は走っていた。
2年8組の教室へ。
この事態を収束させられるのは、きっと彼女しかいない。
康平から聞かされた、にわかには信じ難い悪霊との戦い。その戦いの中で、すべてをその『陰』で解決してきた、最強の女子。
影山、蕪太郎――
もう、彼女に頼るしかない。
今週末はめっちゃ書いた。1万文字くらい書いた。
あとは頑張れかぶちゃん!!




