第33話:バレンタインデーなんて……⑥
スーパーの一角に、やたら煌びやかな箱の置かれたスペースが作られている。
そこは、自分にとって一生無縁な場所と思っていた。
でも今は、その過美な空間へと、花にたかるハエやアリみたいに惹かれてしまう自分がいる。
買い物かごを片手に掛けた影山蕪太郎は、憂鬱な目でバレンタインデーの特設コーナーを眺めた。
* * *
日曜の夜は買い出しに行く。
月曜から次の日曜までの食材を買って、冷蔵庫に突っ込んでおく。
蕪太郎は料理が得意ではない。
家庭料理というものを食べたことがないし、よくわからないからだ。
学校の情報室にあるパソコンを使って、いくつかレシピを印刷してみたけど、いまいちピンとこない。人が台所に立って料理をしているという風景は、どことなく現実感が希薄だった。まるでテレビの中の出来事みたいに。
だから大体は、適当な野菜と肉を、適当に炒めて食べていた。たまには煮るし、たまには生で食べる。
それが蕪太郎の食事だった。
父親にはカップラーメンを買っておく。
複数の味を買い貯めしておけば、概ね文句は言わない。ある時はカップうどんを食べているのだろうし、ある時はカップ焼きそばを食べてるのだろう。ゴミ捨て場のカラスの食生活くらい、どうでもいい。
あと必要なのは酒だ。
紙パックの焼酎を1本買っておけば、大抵は大人しくしてくれる。強力な精神安定剤を千円程度で手に入れられるのなら、安いものだ。
重たくなった買い物かごを手に、蕪太郎はセルフレジに向かう。その途中で、バレンタインの特設コーナーに出くわした。
蕪太郎は、少し離れたところから、横目でそれを眺めた。まるで、薄く開けたドアの隙間から、妖精達のパレードを盗み見るみたいに。
小学生くらいの女の子が、母親に何やら話しかけながら、ピンク色の包装紙に包まれた小さな箱を手に取っている。
あの中に、チョコレートが包まれているのだろうか。まるで宝石箱のようなそれは、蕪太郎が知っているお菓子コーナーに並べられたチョコ達とは、なんだか別物ように見えた。
自分には関係ない。
関係ないはずなのに、その女の子の照れた笑顔から目を離せない自分がいる。
あの女の子も、気になる子がいるんだろうな――
途端に、ある同級生の顔が思い浮かび、蕪太郎は大袈裟に首を振った。
そして、人通りの少ないペットフードコーナーに逃げ込んで、乱れた呼吸を整える。
なんで勝手に出てきやがるんだよ、このスケコマシが!!
蕪太郎は、頭の中に思い浮かんだ人物に対し、全力の罵詈雑言を浴びせかけた。普段は声が小さいと言われるが、頭の中では爆音の怒号が響き渡る。
てゆうかてめー、最近は全然、会いにこねーじゃねーか!!
どーせ、別の女でもコマしてんだろ!? てめーはスケコマシだからな!!
まあ、あたしはどーでもいなけどな!!
お前が来なくたって、全然――
全然、気にしてなんてねーからな!
クソが!!
敷布団を丸めて作ったお手製のサンドバッグをぶっ叩くみたいに、蕪太郎は言葉の拳を連打する。
やがて疲れ果て、オーバーヒートした脳みそから立ち上る蒸気で、頭の中はぼんやりと霞む。
この、クソスケコマシ野郎が……
かわいい猫ちゃんが表示されたキャットフードの包装を眺めながら、蕪太郎は北風みたいな長い長い息を吐いた。
本当は気付いてる。
自分がスケコマシに、何かを期待してしまっていた事に――
多分、それは星だった。
夜空に浮かんでいたはずなのに、気が付けば足元に転がり落ちていた、小さな小さな星だった。
でも、安易に手を伸ばしてしまえば、指先はぐっしょりと汚れてしまうだろう。
その星は所詮、濁った泥水に映る、ただの虚像でしかないのだから。
「バレンタインデーなんて……」
囁いた言葉は、思いのほか重苦しく響いてしまった。
蕪太郎は憂鬱な気持ちでお菓子コーナーに向かい、小さなブロック型のチョコを手にとる。
お菓子なんていう嗜好品を買うことは、ほとんどない。
でも、今日ぐらいは、いいだろう?
自分だってたまには、甘い世界に浸りたいんだ。
蕪太郎はカゴの中にそれを放り込んだ。小さな小さなその願いの塊は、カゴの中に重ねられた陰鬱な日常の隙間へと、転がり落ちていった。
* * *
休みが明けた。
バレンタインデーは数日後に迫っている。
阿部康平は、出来るだけ誰とも話さずに、机に突っ伏して寝たふりをしながら、決戦の時を待った。
影山蕪太郎は、来ないと半ば諦めながらも、放課後の教室で阿部康平を待っていた。
そして、バレンタインデー当日――
季節外れのバレンタインデー、始まります(`・ω・´)




