第29話:バレンタインデーなんて……②
夕日が眩しい。
西向きの窓から差し込む陽が、机の影を長く伸ばしている。
深い森の中にいるような孤独。名前も姿もわからない野鳥の鳴き声ように、どこからか聞こえてくる女子生徒の甲高い笑い声。
頬杖ついた蕪太郎は、長い前髪で大きな目を隠して、自分の心を無遠慮に覗き込もうとする夕日の狼藉に抗った。
カバンの中には、おせっかい焼きの男子と一緒に買った、一冊の恋愛小説が忍ばせてある。
まだ読んでない。
そう嘘をついていたが、本当はすでに読み終えている。それどころか、すでに3巡目に突入している。
そこまで読み返したいほどの傑作なのかと問われれば、首を全力で横に振だろう。何の変哲もない男女が、ありきたりな出会いを経て恋に落ちるだけの、凡庸な小説だと思う。
それでも、何度も読み返したのは、登場人物の感情や言葉を出来るだけ正確に捉えようと思ったからだ。おせっかい焼きの琴線に触れた言葉について、ちゃんと自分の言葉で、感想を返せるように。
ここ最近の放課後は、差し込む夕日の物悲しさすら忘れていた。そんな事に気付き、自分らしくない感情を蕪太郎は自嘲する。
今は空白になっている、右斜め前の席。いつもならその辺りあいつが立っていて、一生懸命に言葉を紡いでいる。
でも、この小説を読み終えてしまったら、この時間はきっと――
蕪太郎は怯えるような目を窓の外に向けた。
今日は、来ないのかな。
誰もいない教室を、夕日は照らし続けている。
* * *
第二理科室は、一目見てそれと分かるほど、怪しげなオーラみたいなのが漂っていた。
引き戸越しに聞こえる、ボソボソとした声。呪文の詠唱なのか? その声は妙に単調で、しかもいくつもの声が重なり合っている。
僕は固唾を飲み込んだ。
「いくぜ……?」
緊張しているのか、ノックのために戸に向けた鉢山の手が、小刻みに震えている。
意を決して、3回叩く。その音は不自然なくらい大きく響いた。
「『410団』のみなさん! 参加希望で参りました2年の鉢山と、阿部です!」
鉢山は声高らかに名乗ってから、引き戸を開ける。
その瞬間、生ゴミの蓋を開けた時みたいな質量を持ったニオイが、僕の全身を押し戻した。そのゾワゾワした感覚は、今まで出会ってきた『悪霊』と呼ばれる奴らと似ている気がする。でも、ちゃんとした霊感を持たない僕には、それが何なのかは断言できなかった。
中には4人の先輩がいた。
まだ冬だってのに揃って白Tシャツを着ていて、胸には謎の『410』の数字。身体からは蒸気が立ち上り、二の腕は汗で光っている……。
部屋の中央には謎の魔法陣を描いた紙が敷かれていた。その周りにいくつものロウソクが立てられているから、この部屋の異様な熱気はこのロウソクの仕業なのだろう。
ロウソクの熱気と、男の熱気――
すごい嫌な空間だ。
「おお、君が入団希望の鉢山少年かね」
「はい! よろしくっす宮本先輩!」
宮本先輩と呼ばれた中学3年生は、その巨体を揺らして豪快に笑った。中学生とは思えない筋肉隆々の巨体と、びっしりと生え揃った体毛。青髭が目立つ顎を擦りながら、品定めするように僕たちを見ている。
この先輩の噂を、僕は聞いた事がある。サッカー部のエースで、将来を有望視されている超絶すごい先輩らしい。
しかし、それに反比例して異常なほどにモテない。その功績を持ってしても、女子に対しての欲望丸出しのノンデリ発言がキモがられて、学校の――いや、それこそ町中の女子から白い目で見られている、らしい。
「鉢山くんの活躍は、かねてより耳にしていたよ。バレンタインをぶっ潰すために、孤軍奮闘していたようだね」
うわぁ、どんな活躍なんだよ。知りたくなかったなぁ、そんな鉢山の一面。
「それと君は――」
そう言って宮本先輩は僕を見る。ブラックホールくらい大きな鼻の穴から吹き出された生暖かい風が、断続的に僕の頬に触れる。
「君は、ふむ、気に入らないな……」
ひとしきり嫌な風を浴びせられたあと、一方的に拒絶される。何だこの仕打ち。
「阿部くん、だったかな? 君みたいな『エセ非モテ』が、俺は心底気に入らないんだ。君はたしかに陰キャ寄りかもしれないけど、顔だってそこそこいいし、清潔感だってある。そんな君がモテないわけないだろう?」
「あ、いや」
褒められてるのか、貶されてるのか……
「君のような奴は、残念ながらこの『410団』に入る資格はない! リア充は帰ってくれないか!!?」
この人、思考回路が影山さんに似ているなぁ……。そういえば、影山さんに今日は教室に行けない事を伝えておけばよかった。待ってなければいいけど……。
いや、待ってるわけないか。僕が勝手に押しかけてるだけなんだから。
「宮本先輩! 康平にチャンスを与えてやってください! こいつはハンパ野郎だけど、いい奴なんです!」
ありがた迷惑な食い下がりを見せる鉢山。正直、もう帰りたい。部屋の中に充満する男の臭いで、頭がクラクラしてきた。
「お願いします、宮本先輩」
「……わかった。鉢山少年がそこまで言うのなら、例外として見学を許そう。今から執り行う我々の『召喚の儀』見た上で、キミがキミ自身の心に問いかけて欲しい。自分がここに居るべき存在か、否か!」
親指くらい太い人差し指で、僕の胸をグイグイと押す。ああ、もう、ほんと、帰りたい……。
「ところで、410」って数字に何の意味があるんですか?」
険悪なムードを打開しようと、僕は無理して純粋な後輩を装い、素朴な質問を投げかけた。
「410とは410」という意味だよ! 我々が、貴様のようなリア充に向ける感情だ!!」
うわぁ、後ろ向きに漢らしい……。
* * *
宮本先輩から『召喚の儀』という怪しいワードについて説明があった。ちなみに他の3人の先輩は、無口でオドオドしてて空気みたいだったので省略。
なんでもこの学校には、長い歴史の中で非モテのままこの世を去ってしまった英霊(そう言っていた)が4人、住み着いているらしい。
非モテ四天王と呼ばれるその英霊たちを呼び覚まし、バレンタインデーを亡き者にする事こそが、この410団の活動だと聞く。
あー、頭痛くなってきた……。
ちなみに儀式は代が変われど毎年のように行われてきたが、今まで一度として英霊が姿を現したことはないらしい。
じゃあ、やめりゃいいのに……。
そんなわけで、漢たちが魔法陣を囲み、ブツブツ言っている。
『非モテ四天王様、お目覚めください……。バレンタインデーに浮かれる女どもに、報いを……。浮き足立つ男どもに、制裁を……。いちゃつくカップルに、地獄を……』
宮本先輩の筋肉と、その他先輩のガリガリの細腕や、タプタプの太腕が、揺れるロウソクの火で怪しく波打つ。
悪夢だ……。
きっと僕は悪夢を見ているに違いない……。
今までいろんな『悪霊』と対峙してきたけど、これほどいやーな気持ちになったのは初めてだ。
喉がイガイガして、胸がムカムカして、胃がゴワゴワしている。
ひとしきり唱え終えると、宮本先輩はタオルで顔と脇の下の汗を拭い、匂い立つそれを僕の方に投げ捨てた。咄嗟に全力で回避する。
「英霊殿はどうやら今日も都合が悪いらしい」そう言ってため息を吐く。「まだバレンタイデーまでは一週間ある。気を抜かずに儀式を続けよう」
宮本先輩がそう言うと、その他先輩たちは「ほふぅ……」とか「くぽぉ……」とか思い思いの言葉? で答えた。
「というわけで、今日は解散だ。鉢山少年よ、どうだったかな?」
「すごかったっす! そんけーっす!」
鉢山は目を輝かせている。
僕はそろそろ、彼と親友でいる事を考えなおすフェーズに来ているのかもしれない。
「それでは、我々は帰るとしよう。受験生だから勉強も精進せにゃならんのだ。そうそう、あそこの本棚に歴代の410団が記した聖典が収められている。後学のために目を通しておくのもよかろう。教室の鍵は山田先生に返しておいてくれ」
なんかそんな事を言って、宮本先輩たちは去っていった。
あとにはすえた男の残り香だけがうっすらと漂っていた。
「すっごかったな康平! キガイを感じた! バレンタインをぶっ潰そうという、ヤバいくらいのキガイを!」
「あ、うん……」
僕はもう鉢山と目を合わす気にすらならない。
「無論、俺は参加するぜ! 先輩たちと一緒にバレンタインデーをぶっ潰してやるんだ!」
「あ、そう」
「康平も当然参加するよな! 同じ非モテとして、成し遂げよう!」
「はぁ」
確かに僕だって非モテだけど、非モテだってグラデーションだと思う。同じ黒でも、薄い夜空の黒もあれば、濃厚なダークマターみたいな黒もあるじゃん。そういう意味じゃ、先輩たちと僕じゃ両極端だよ。
それに――
先輩達がいなくなってからも、いやーな感じが消えない。粘つく納豆の海の中に沈んでいるような、臭いと肌触りがまとわりつく。
まだ、何かがいるのか?
「それじゃ、明日もココに集合で!」
「ごめん、悪いけど俺は――」
『ちょっと待つでござる』
え?
僕と鉢山は顔を見合わせた。
この部屋には、僕ら二人しかいない。
「おいおい康平、なんで『ござる』口調なんだよ?」
「僕じゃない! 鉢山じゃないの?」
「俺なわけねーだろ!」
じゃあ、さっきの声は、誰?
『拙者達でござるよ』
また聞こえた。
さっきよりもはっきりと。
僕たちは部屋の中を見回し、部屋の中央で止まった。さっきまで魔法陣が敷かれていたところに、4つの影が浮いる。それは徐々に形を成して、4人の男の姿になった。
「え? ……え!?」
戸惑う鉢山。
まぁ、はじめてこういう奴らに出くわしたなら、当然の反応だ。でも僕の場合は、驚きこそすれ戸惑いはしない。ダテに何人もの悪霊を相手にしちゃいない。
僕はその異様な存在に向けて、冷静に訊ねる。
「あの、幽霊さんですか?」
『いかにも。拙者達はお主らがら言う「非モテ四天王」でござるよ』
僕の問いに一人が答える。
輪郭が少しずつはっきりしてくる。落武者みたいな乱れたロン毛の男子生徒。その後ろには、3人の幽霊達。
「あの、先輩達が出てきてくれないって言ってましたが、ちゃんと召喚されてたんですか?」
『如何にも』
「なら、なんで先輩達の前に出てきてあげなかったんですか……?」
『それは――』落武者みたいな非モテ幽霊は、人差し指を顔の前で合わせてモジモジする『だってあいつら、拙者達に女子に意地悪しろって言うから――』
あ、うん?
意外と気が弱い?
この人たち、不気味だけど、いい幽霊なのかもしれない。
『浮かれる女子に報いを、とか言っとりますが……拙者達、女子が怖いでござるよ。非モテなら、怖いでござろう? カップルだって怖いし、モテる男子も怖い……』
わかるようなわからないような……。
『そういう人種とは、極力関わりたくないんでござる。彼らの気概は認めるけど、拙者らには荷が重い……』
「そっすか」
なるほど、そう言う事なら、学校に危害をおよぼす存在じゃなさそうだ。場合によっては僕や影山さんが動かなきゃいけないと思ったけど、問題なさそうだ……。
このまま悪い夢みたいに消えていってほし。
『そんな事より――さ』
でも、一瞬で空気が凍る。
ネバネバしていた空気感が、ザラつく。
『拙者らが本当に憎いのは、お主のような人間でござるよ』
4つの青白い指先が、僕を指す。
「え? 僕……?」
『そう。お主のような、モテのクセに非モテを気取って、心の中では拙者達を見下してる……。そんな奴らが、拙者達は心底憎いんござる……!』
「そんな事ないですよ。僕、今は彼女いないし……」
『今は! その何気ない言葉のチョイスが、拙者達の神経を逆撫でするでござる! 何、今は、って? 拙者達は昔も今もこれからも、彼女なんか出来ないでござるよ!』
「おい! 康平ヤバいって! 早く逃げよう!」
隣で鉢山が僕の肩を揺すっている。
でも、動けない。
身体が凍りついたみたいだ。
『その上……拙者が密かに恋慕の念を抱いていた、薄幸で可憐な文学少女の影山殿と、毎日毎日毎日イチャついてるでござろう!!』
えええ! 影山さん!?
「いやいやいやいや、違う! イチャついてないって!」
『そう見えてんのは貴様らだけでござるよ!』非モテ四天王は地団駄を踏む。『てゆーか、なんでござるかその鈍感ムーブ! ラブコメ小説の主人公にでもなったつもりでござるか!?』
「ええ……」
どうしよう。
なんだよこれ、濡れ衣だよ……。
「非モテ四天王様! 康平を許してやってください! こいつ、確かにたまにワザとじゃないかってくらい鈍感で、けっこうイラッとさせますけど、根はいいやつなんです!」
鉢山……! さっきは『親友やめよ……』なんて思ってごめんよ! その言い方は少し傷つくけど、僕を擁護してくれるその気持ちはめちゃくちゃ嬉しい!
『いいや、許さぬ。拙者のアイドル、文学少女殿を汚した罪は重い……』
落武者の言葉に、他の3人も大きく頷く。
「あの、許さないとすると、僕どうんなるんですか?」
非モテ四天王全員が、口の端を上げて笑った。この世の不幸全てを背負って、だからこそ全ての狼藉が許されるって思い込んでる、歪んだ笑みだ。
『これから拙者達は、貴様に呪いをかける。拙者達が生涯悩まされ続け、熟成された「非モテ」の呪いでござる。呪いに苛まれ、本当の非モテの苦しみを味わいうがいい!』
ほんと、悪霊ってやつはどこまで自分勝手なんだよ!!
身体中をネバネバでドロドロでグチャグチャの空気が覆う。それは僕の皮膚から身体の内側へと染み込んでいく。
汚い。
自分が汚らしくてしょうがない。
「こうへええええええ!」
鉢山の叫び声が、遠くで聞こえた。
* * *
本の一章を読み終えた。
今日、スケコマシは来なかった。
影山蕪太郎は読みかけの本を閉じる。冬の太陽は、白と黒の殺風景な世界に飽きたのか、早々に眠りについてしまう。
2年8組の教室を出る。
ツバキと灯油が混じったみたいな、冬の校舎の匂いがした。
お読み頂きありがとうございます。
『しっと団』とか『宮本』は某漫画が元ネタになってます(^◇^;) 中学の頃は、モテない友人と「俺たちもしっと団だよなー」と笑い合っていました。
※その友人は『なんとかくん』じゃないよ! 彼は幕田と違って真っ当です(`・ω・´)
モテって、「モテる」「モテない」の単純な二元論じゃないんですよね。どちらの派閥にも属せない阿部くん。最低の非モテにまで落とされてしまった彼に、どんな試練が待ち受けるのか……。




