第24話:帰りたい家が、あるんだろ?⑦
「放せよ……! こいつぶっ殺してやる……!」
猛り狂う蕪太郎を、魔女――三浦ハナが抱き抱えた。
「ダメ! 逃げなきゃ!」
「あのお父さんは、ウチのクソ親父とは違うんだ……! あんな姿になっても、ちゃんと娘の事を覚えてたんだ……! そのやさしさを……こいつは……!」
蕪太郎の目に涙が滲んでいる。
父親――この小さな少女に、その存在がどのような影を落としているのか、ハナには見当もつかない。ただ、愛憎に満ちた複雑な感情が渦巻いている事は、容易に想像できる。
でも今は、その感情を吐露する時ではない。
今この瞬間にも、自分たちはこの『ツキヒ』という存在に、気まぐれで命を摘まれるかも知れないのだから。
両手両足をジタバタさせる蕪太郎を抱いたまま、ハナは振り返る。
そこに、ツキヒがいた。
美しい顔で笑っていた。
「……」
ハナは絶望した。
気まぐれで見逃してくれるかもしれない、そんな淡い期待に縋ってしまった自分を恨む。
この異様な存在は、自分の目的を遂げるため、いずれ接触せねばならないかった。でも、だからと言って、深入りし過ぎて死んだら元も子もない。
死んでしまったら、タカハシを生き返らせられないのだから。
「上等だよ……」
この絶望的な状況を理解していないのか、抱き抱えられた小さな少女が嘯いた。
瞬時に銀髪の鬼が出現し、臨戦態勢をとる。
主君の感情に呼応するように、長い髪を振り乱し、怒りを露わにしている。
ツキヒは、そんな銀髪の鬼の拳を指差し、せせら笑った。
『へなちょこパンチ』
――定義を変えた。
その言動の意味に、ツキヒを知るハナだけが気付いた。しかし、それを知る由もない蕪太郎は、躊躇なく全力の殴打を浴びせる。
「わかってんのか……!? お父さんの気持ちを、てめえはぶち壊したんだぞ!? あんなにやさしいお父さんの気持ちを、てめえが……!」
何発も、何発も、何発も――
しかし、ツキヒは動かない。涼しい顔で、銀髪の鬼の殴打を正面から受けている。
金色の髪がなびいた。
ただ、それだけ。
何百発の殴打で力を消耗し、肩で息をする蕪太郎。その自分の全身全霊を込めた攻撃は、目の前の女には全く通じていなかった。
金色に輝く姿。
手を伸ばして届かない、遥かな月の光にも似た姿。
ツキヒは蕪太郎に顔を近づけた。
大きな目に添えられた、長いまつ毛に頬に触れるほどの距離に、作り物のような顔があった。
初めて蕪太郎の顔に、恐怖の色が滲む。
息を吸うことすら許されない、緊張の時間が過ぎていく。
やがて――
ツキヒは破顔し、2人の矮小な人間に背を向けた。
そして宙へと浮かび上がり、消えた。
全てが一瞬だった。まるで冬の寒さを思い出させてくれる、冬の海風のような。
* * *
十八街道をしばらく歩くと、国道沿いに古いコンビニがある。
最近はどのコンビニも内装が工事されていて、真っ白くて綺麗な壁の店舗がほとんどだ。
でもこのコンビニは未だになんの手入れもされてなくて、黄ばみはじめた壁からは、なんだかすえたような臭いが漂っていた。
駐車場の車止めに腰掛けた僕と松原さんは、一言も口を効かないまま、ぼーっと朝日に照らされていた。
すべき事はきっと色々あると思う。
でも、疲れ果ててしまった僕たちは、すべき事がなんなのかを考えることすら、出来る気がしなかった。
松原さんが立ち上がり、コンビニの中に入っていく。次に出てきた時、その手にはコンビニ袋がぶら下がっていた。
「コーラと、肉まんでいい?」
僕は、電池が切れかけたロボットみたいに「あ、うん」と返し、松原さんの手からそれを受け取る。
指先が肉まんの温かさに触れた時、自分の不甲斐なさを実感し、俯いた。
隣でペットボトルの口から炭酸が抜ける音と、喉を鳴らす音が聞こえる。僕も肉まんの包装紙を剥ぎ取り、一口齧った。
「これから、どうしよう……」
その一言だけが口から溢れる。
「これを食べて、元気をつけたら、もう一回トンネルのところに行ってみようよ。やっぱり、ほっとけないもん」
「そうだね……」
松原さんの言葉に反論する力はなかった。
でも、もしその場所に行って、地面に横たわる2人を見てしまったら、僕は冷静でいられるだろうか。
自信がなかった。
僕もコーラの蓋を開ける。炭酸の抜ける音が耳障りなほどに清々しい。
「あ、これ、ありがとう。あとでお金払うよ」
思い出して、僕は松原さんの方を見る。
「うん、お願い」
松原さんの顔は笑っていた。でもその声は、聞いたことないくらい重く沈んでいる気がした。
その時、背後でかすかな音がした。
靴底が鳴らす軽い音。
振り向くと、そこには三浦さんがいた。
そして、彼女に抱き抱えられた影山さんは、死んだように眠っていた。
* * *
「逃げたというか、逃がしてくれたというか……」
そう語る三浦さんは、その時の絶望を思い出したのか、ビクンと肩を震わせた。
コンビニの窓から漏れる照明で、影山さんの寝顔が照らされている。その顔からはいつもの陰気さは感じられない。あ、影山さんの顔って、こんなに小さかったんだ……。
何はともあれ、無事でよかった。
心の底からそう思う。
「あいつは何者なんですか?」
ずっと胸の中にあった疑問を投げかける。
さっきの三浦さんの説明で、なんとなく理解したつもりになっているけど、要するに、僕たちに危害をなす存在なんだよね?
でもそれ以の事は、何一つわからない。
「たぶん、彼女に明確な敵意があるわけじゃないと思うの。現象っていうか――地震や台風みたいな、人間にとってそういう類の存在、なのかな」
「そんな、大それたものには、見えませんでしたよ……?」
僕が見たそいつは、ただの綺麗な女の人だった。金色の髪をなびかせ、金色のオーラをまとっていたこと以外は、だけど。
「彼女が引き起こす災害は、物理現象じゃないの。なんていうか、『存在そのものを変えちゃう力』って言えば、いいかな……」
全く理解できない。
「かぶちゃんをネコに変身させたり、私をウサギに変えちゃう、みたいなの?」
「うーん、近いかもしれないけど、彼女が変えるのは姿じゃない。それがどう認識されるか、というか」
「見え方が変わるだけ?」
「説明が下手でごめんね。私、『説明が要領を得ない』って、よく上司に怒られるんだよね……。あ、ううん、ごめん、こっちの話。なんだろ、彼女はものに付けられた『名前』を変えるんだ」
「名前?」
更によくわからない。
「名前って、実はすごく重要なものなんだよ。その存在を、そうたらしめるのに、名前の力ってのはすごく大事。康平くんが康平くんであるのも、『康平くん』って存在として、みんなに認識してもらえてるからなんだよ」
僕はなんとなく松原さんを見た。
松原さんは驚いた子犬みたいな顔で、ぼけーっと三浦さんを見ている。あ、違う。三浦さんが膝の上に置いた、ケーキの入ったコンビニ袋を見ているんだ。
「ツキヒは、人の『名前』を書き換える。それは存在そのものを変えてしまう事と同じなんだ。優しかったお父さんの霊も、『十八街道の神隠し』と名付けられた事で、本当に神隠しになってしまったし――そんな異質な力を持つ存在が、十数年前に自然発生的に現れたの。その辺の経緯は、よく知らないんだけど……、私はツキヒが持つその力を研究したくて、行方を追っていたんだ。そして――」
三浦さんが僕たちを見る。
僕たちの頭の上には、きっとはてなマークが大量に浮かんで見えただろう。
「あはは、一方的によくわかんない話しちゃったね。ごめんごめん」
そして、コンビニの壁に寄りかかると、気の抜けた笑顔を作る。
「なにはともあれ、無事でよかった」
たしかに、と僕は頷く。
消えてしまった松原さんを探すつもりが、とんでもない事態に巻き込まれてしまった。
そして、あの『ツキヒ』と呼ばれる存在との関係が、この場限りで終わらないんじゃないかって……そんな不吉な予感が、朝靄みたいに僕の心を漂っている。
国道沿いのコンビニからは、日本海が見渡せる。
白く濁った波と、その奥に存在している深海の仄暗さを想像して、僕は身震いが止まらなかった。
『十八街道の神隠し編』が終了です。
物語の本筋に関わる存在も出てきたわけですが、シリアス展開につかれたので……しばらくは日常回を書いて楽しもうと思います(^◇^;)




