第23話:帰りたい家が、あるんだろ?⑥
夜空の殻が割れていく。
まるで、ゆで卵の殻が剥けていくみたいに。
夜の殻が剥がれ落ちた下には、新しい夜。星の瞬きが目に眩しい、本物の夜。
そして僕たちは、現実の十八街道に立っていた。
すきま風みたいに吹き込んだ海風が、緊張でヒリついた頬を優しく撫でる。さっきまでの閉塞感は消え去り、流れてくる海の匂いが、なんだか懐かしく感じられた。
影山さんの前には、『十八街道の神隠し』が立っている。
その正体を知るまでは得体の知れない存在だったけど、いま僕たちの前にいるそいつは、やつれた顔の、普通のおじさんの幽霊だった。
「きっと……家に帰る途中、この場所で亡くなった人なんだと思う」僕の隣に立つ三浦さんが呟いた。「過労による心臓発作とか、脳梗塞とか……そういう突発的な病気でね。突然死した人の幽霊は、顔が赤みがかったままな場合が多いから、おそらくだけど……」
無意識の言葉みたいな、それとも自分を納得させようとしてるみたいな。
「でも、一体なにが、このおじさんを縛り付けてたんだろ……?」僕は三浦さんを意識しながら、ひとりごつ。「家に帰りたいなら、帰ればいいだけじゃないの? 死んじゃってからも、後悔し続けるくらいならさ……」
「大人って、大事にしなきゃいけないものがいっぱいあるから、時々何が一番なのか、わからなくなっちゃうんだ」三浦さんはゆっくり、言葉を切りながら話す。「それで、本当に大事なものに気付くのは、いつも失ってからなんだ。失って、後悔して、苦しくなる」
そして三浦さんは、長いため息をひとつ吐いた。
三浦さんの言葉を、ちゃんと理解できている自信はなかったけど、僕はそれ以上に言葉を重ねるのはやめた。
ただ一つわかったのは、大人だって、僕が思っているほど『大人』じゃないのかも知れない、って事だった。
大人も、大事なものを忘れてしまう。
僕が時々、お母さんやお父さんの事を、どうしようもなくウザったく感じてしまうみたいに。
『すまなかった……』
神隠しだったおじさんは言った。
後悔と執着から解き放たれたおじさんの顔は、寂しそうで、でもどこか晴れやかにも見えた。
『どうやら俺は、自分の絶望の中に、たくさんの人を巻き込んでしまったみたいだね……。君たちだけでも、無事に還す事ができたのが、せめてもの救いだけどね……』
そして、影山さんと松原さんの顔を交互に見る。
『まだ小さかった私の娘も、君たちくらいの歳になっているのかも知れないな。その成長を見守れなかったのは、本当に悲しい……』そして小さく首を振る。『ただ、自分だけの感傷に浸るには、俺はいろんな人を不幸にし過ぎてしまったな――』
「あの、十八街道の神隠しさん、ひとつ聞きたいことがあります」
三浦さんが、おじさんに向かって一歩踏み出す。
「えっと、ですね……。あなたの事を『十八街道の神隠し』と『名付けた』存在がいるはずなんです。後悔を持って亡くなってしまった人の霊が、他者に害をなすほどの悪霊になるなんて、本当は、すごく稀な事なんですよ。特に、あなたのような、本来温厚で心優しい人物であれば――」
歩きながら、腰に下げたカボチャ頭の人形を触る。
「あなた自分から『神隠し』になったんじゃない。あなたの事を『神隠し』として定義づけた存在が、別にいるはずなんです。私は――その存在を探しています」
どういこと?
それが、三浦さんがこの場所に、自ら進んで入り込んだ理由なのだろうか。
「こんな時に不躾で申し訳ないのですが、何か覚えている事はありますか? なんでもいいので、その……」
『覚えている事、ですか……』
おじさんは腕を組んで、首を傾げる。半透明の体の向こう側では、枯れ枝が吹き下ろしの風で小刻みに揺れている。
『すみません、わからないです……。胸の痛みと、暗い空間に閉じ込められていたような感覚は、辛うじて覚えているのですが、それ以外はなにも……』
おじさんは申し訳なさそうに首を振る。
「そうですか。変なこと聞いて、こっちこそすみません……」
三浦さんは落胆したように肩をすくめた。
やがて、山の木々が金色に縁取られていく。あたりがうっすらと光をまとって、その中に立つおじさんの身体も、光の水面に溶け始める。
街灯は示し合わせたみたいに眠りについて、目を覚ました小鳥が控えめに歌い出す。
朝が来た。
「はやく行ってあげなよ!」松原さんが言う。「早く、娘さんのところに! あ、でも、その姿でいきなり出てくるとびっくりするだろうから、登場の仕方は工夫してね?」
『ははは、そうだね』
悲壮感に満ちていたおじさんの表情にも、少しだけ光が差したような気がした。
『娘も、君たちのような、心優しい女の子に育っているといいな』
そして、松原さんと、影山さんを見て、小さく一度だけ頷いた。
『それじゃあ、俺は行くよ――』
「あ、あの! 待って!!」
影山さんが叫んだ。
今までにないほど大きな声だった。
『どうしたの?』
「あ、その……」
おじさんに訊ねられて、途端に口ごもる。
肩を大きく上下させる影山さんは、息を吸う事でさえ苦しそうに見えた。
下半身を朝日に溶け込ませたまま、おじさんは無言で影山さんの言葉を待つ。
「あのさ……娘の事をよ、負担に思ったり、しなかったのか……? 娘のために、働いて……、それで苦しめられて……。ウザいとか、邪魔だとか、思わなかったのか……?」
細切れの、欠片みたいな言葉達。
「父親ってのは――親ってのは、そういうもんなのか……?」
それを繋ぎ合わせながら、影山さんは出来るだけ丁寧に、自分の心を形作っているように感じた。
『俺が、世の親すべての言葉を代弁することは、出来ない』
それを受けたおじさんも、影山さんに伝えるべき、最適な言葉を選んでいるように思えた。
『家族の形も、仕事への向き合い方も、人それぞれだからね。でも視野の狭い俺は、本当に身勝手だけど、こう考えてるんだ――』
ふと、白んでいく空を見上げ、再び影山さんへと視線を戻す。
『本心から、自分の子供を憎む親なんて、いるはずない――って』
「あ……」
影山さんは、何かを言おうとして、言葉を切った。その言葉の続きは、どれだけ考えても出てこないみたいだった。
遠くから船の汽笛が聞こえる。
『それじゃあ、行くよ』
おじさんは影山さんに優しく笑いかけ――
その頭を、光の矢が貫いた。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
頭を貫かれたおじさんが、光の粒になって砕け散ってはじめて、これが『ヤバい事態』だって事はわかった。
僕は光の矢が飛んできた方向を見る。
空の上――
そこに一人の女の子が浮いていた。
金色の髪、白いひらひらの服、そして満面の笑顔。
『あはっ』
いろんな疑問が浮かんできては、炭酸の泡みたいに消えていく。
どうすればいいのか思考がまとまらない。
その瞬間、背中に衝撃を感じ、両足が地面から浮いた。
三浦さんだった。
三浦さんが僕を抱えて走り出していた。僕よりも身体は小さいのに、ものすごい力だった。
そのまま、ものすごい早さで松原さんの方へと向かう。
「あれ……? おじさん……」
呆気に取られてる松原さんをもう片方の手で抱えると、三浦さんは叫ぶ。
「かぶちゃん! 逃げて! そいつは敵だよ!」
影山さんは微動だにしない。
砕け散ったおじさんの光の粒を、目で追っている。
「かぶちゃん!」
三浦さんがもう一度叫ぶ。
「ああ……? ふざけんなよ……」
影山さんが顔を上げた。
そこには小さな鬼が立っていた。
僕がそう見紛うほど、影山さんの表情は、怒り――ちがう、それ以上の『殺意』に満ちていた。
「ぶっころす」
その瞬間、銀髪の鬼が出現し、空高く跳び上がる。
そして容赦のない一撃――
に、見えた。
いつも通りの剛拳が、空に浮いている謎の女の顔面を捉えたように見えた。
でも、動かない。
女は微動だにしない。
「てめえ……! クソが……!」
影山さんが右手を抑えてうずくまる。
再び空を見ると、銀髪の鬼の腕は金色の女に握られていた。
まさか、あの鬼の拳を片手で防いだ?
影山さんの最強の拳を――
「だめだよかぶちゃん! そいつには勝てない! 殴りたいのはわかるけど、今は逃げて!」
「うるせえ! あたしはこいつをぶん殴らねえと、気がすまねぇんだよ!」
右腕の痛みに歯を食いしばりながら、影山さんは叫ぶ。
空に浮いていた女は、影山さんの銀髪の鬼をぶら下げながら、ゆっくりと地面に降り立った。
白い肌。
鋭い目つき。
不恰好な笑顔。
その顔は、影山さんが生み出す銀髪と鬼と、似ているような気がした。
そして、影山さんとも――
「あれが『ツキヒ』……禍々しい……」
三浦さんが呟く。
僕は抱きかかえられながら、三浦さんの顔を見上げた。
「あれが、私が探してた『存在』。多分、霊とは違う、もっと高次な存在。だから、かぶちゃんが生み出す鬼はたしかに強力だけど、勝てるわけがないの。早く助けに行かないと……」
僕の視線に応えるみたいに、三浦さんは言った。
声が震えている。
僕たちを抱える手も、震えている。
「君たちをおろすから、自分の足で逃げて……。全力で、トンネルの向こうまで。私はかぶちゃんを止めてから、一緒に逃げる」
「え、でも――」
「私は今、魔法で『身体強化』してるから、自分とかぶちゃんくらいならなんとかできる! でも三人は無理! 早く逃げて! そうしないと――」
――みんな死ぬかもしれない。
その言葉を聞く前に、僕は松原さんの手を取って走り出した。
「阿部くん! かぶちゃんが!!」
「ダメだよ逃げないと!」
僕だって、影山さんを置いていくのは辛い。
でもここで僕が、感情の赴くままに逃げる事を拒んだら、本当にみんな死んでしまうだろう。
恐怖で震える三浦さんの手には、そう決断させるほどの説得力があった。
僕と松原さんはトンネルに入り、走り続ける。
一度だけ振り返った。
影山さんはまだうずくまっている。
小さい背中。
トンネルを抜けると、朝日に照らされた海が目に飛び込んできた。
噛み締めていた唇の痛みに、今になってやっと気がついた。




