第22話:帰りたい家が、あるんだろ?⑤
帰りたい……。
早く、帰りたいよ……。
頭が割れそうに痛かった。
胃は今にも捩じ切れそうだ。
ふらふらの身体を無理矢理引きずるようにして、男は海沿いの古い道を急ぐ。
十八街道。
家まで続く、薄暗い道。
この道を通るのは、いったい何日振りだろうか。
男には娘がいた。
一緒に住んでいながらも、もう何週間も会えていない、大事な大事な娘が――
男が家に帰れるのはいつも、娘も妻も眠りについた深夜だった。そこから忙しなくシャワーを浴び、洗濯されていた着替えをポリエチレンのスポーツバッグに突っ込み、コップ半分のウイスキーを胃に落とし込んだ後、数時間だけ死んだように眠る。
そして娘が目覚める前に、再び仕事へと向かう。
そんな、腐敗したような日々だった。
今日は娘の誕生日。
年に一度の大切な日だ。
だから男は、どうしても娘に会いたかった。
『明日は私の誕生日だよ^_^』
食卓テーブルに娘からの書き置きがあった。そのまるみを帯びた文字を一つ一つ見つめ、男は娘の成長を感じる。
『お父さんに会いたいです』
お仕事がんばってね! の文字のあと、紙の隅っこに控えめに書かれたその一言は、男の胸に突き刺さった。
帰らなければ。
帰らなければ。
しかし――
ポケットに押し込んでいた携帯電話がけたたましく鳴る。無視しても、無視しても、いつまでもなり続ける。
頭が痛い。
胃が溶け出しそうに熱い。
心臓が――
目の前が真っ赤に染まる。
* * *
森が軋んでいる。
枯れた木の枝がロープみたいにうねって、空の色は赤と黒の間を行ったり来たりしている。
台風の夜に響く風のような音。
それが、空いっぱいに響く男のうめき声だって事に気付いて、僕は耳を塞ぎたくなった。
「ニコリ、もう一回だ……!」響き渡るうめき声にかき消されないように、影山さんは声を荒げる。「やつを、ここに呼び出すんだ……! そしたらあたしが、このクソみたいな空間ごと……そいつを、ボコボコにしてやるよ……!」
松原さんは不安そうな顔で、でもしっかりと頷く。
「お、お父さん! 会いたいよ! 出てきてよ!」
空に向かって叫んだ。
赤い空が、黒に転じる直前で止まる。
まるで熟して崩れ落ちる直前のヤマブドウみたいな、ぐずぐずの赤黒さだった。
木々は動きを止め、うめき声も消え、『十八街道』は一瞬で静寂に還る。
「と、とまった……?」
松原さんが呟く。
その掠れた囁き声がはっきりと通るほど、全くの無音。静かすぎて、頭の奥を流れる血液の音ですら、聞こえてきそうな気がした。
「みんな、見て……」三浦さんが指を差す。「向こうのトンネルの前――」
そこには一人の男が立っていた。
男は紙粘土みたいな白い肌をしていた。
乱れた黒髪。目は落ち窪んでいて、深い穴が空いているように見える。薄汚れたスーツと、くたびれた革靴を身につけていて、一見すると仕事に疲れたサラリーマンみたいだ。
しかし、異様なのは、男に巻き付く錆びた鎖だ。
両手両足、首に胴体。全身の至る所に、地面から伸びた鎖が巻き付いている。
それは、ほんのちょっとの弛みもなかった。金属同士の軋みが聞こえそうなくらい、ヒリヒリした緊張感をもって、男をこの場所に縛り付けている。
男は微動だにしない。
縛られて動けないからかもしれないし、もう動くことを諦めてしまったからなのかもしれない。
でもどっちにしろ、その佇まいは異様なだった。
生き物であることを捨て、活動の一切をやめてしまった人間の姿って、こんなにも不気味に映るものなんだ……。
「てめーが、元凶か……?」
影山さんが呟く。
その隣には、いつの間にか鬼が立っていた。長い銀髪を靡かせる、美しい女の姿をした鬼だ。
鬼は影山さんの感情に呼応するみたいに、握った拳を顔の前に掲げ、臨戦態勢をとる。
「そっちが来ねーなら、こっちから行くぜ……? あたしらはもう、限界がちけーんだよ……」
「まって――」
今にも殴りかかろうとする影山さんを、三浦さんが止める。
「なんだか、声が聞こえない?」
「声……?」
「そう……誰かを、呼んでるみたいな」
三浦さんの一言で、僕達は同時に耳を澄ました。
衣擦れの音も邪魔になるような静寂の中で、その声は枯れ草が擦れ合う音よりも小さく鳴っていた。
『シズカ……?』
消え入りそうな、悲しい声だった。
戸惑い、懇願するような声にも聞こえた。
『シズカ……そこにいるのか……?』
「お父さん……。私は――ここにいるよ」
その声に応じるみたいに、松原さんが囁いた。
その表情に戸惑いは無かった。ただ、目の前に立つ、鎖に縛られた男への、純粋な優しさだけが感じられた。
松原さんは、ゆっくりと男に近づく。
ひび割れたアスファルトをスニーカーの靴底で擦る音が、やけに大きく響く。
「なにやってんだよ……やめろよ、ニコリ」
「大丈夫だよ、かぶちゃん」振り返って、微笑む。「この人からは、怖い感じがしないもん。すごく、やさしい感じだよ」
そんな、大丈夫かなんて、わからないだろ?
誰かを呪い殺すための、小芝居かもしれないだろ……?
ヤキモキして、答えを求めるみたいに三浦さんの方を見た。三浦さんもまた複雑な表情で、男に近づいていく松原さんの背中を見つめていた。
僕の視線に気付いた三浦さんが、歯痒そうな表情で言う。
「ごめん、今この場で何をすればいいのか、私にもわからない。悪霊を暴力で成敗したところで、ここから出られるかはわからないし……。『悪霊の気持ちに寄り添う事』が、解決に繋がるなら……」
僕は奥歯を噛み締めて頷く。
納得は出来ていないけど、松原さんを止める事も促す事も、軽はずみには出来ない気がした。
もう、信じるしかない。
「大丈夫、何かあった時は――私が彼女を救い出すから」
そう言って三浦さんは何かを唱え出した。それは聞きなれない言葉遣いで、魔法の詠唱のようにも聞こえた。
「お父さん」
『シズカ……』
松原さんと悪霊が肉薄する。
「ずっと、会いたかったんだよ……?」
『シズカ……』
「もう、大丈夫だから……」
『シズカ……』
松原さんは苦笑いを浮かべた。
悪霊が何を求めてるのかなんて、僕にはわからない。それはきっと、松原さんだってわからないはず。
でも松原さんは、悪霊が発する声のトーンと、能面のような表情のわずかな機微を感じ取りながら、男の気持ちを感じ取ろうとしている。
さすが陽キャの姫――
僕とは、今まで触れ合ってきた人間の数が違う。
実戦を経てバージョンアップされてきた、人のキモチを感じ取るセンサーが、最大感度で働いている。
「うん……。あのね、お父さんがね、ちゃんと私の事を愛してくれてたの、知ってるよ」
『シズカ――』
「私のために、頑張ってくれてたのも、知ってるよ」
『シズカ……ごめんよ……』
「お父さん、わかってるよ……」
『シズカ――』
――誕生日、帰れなくて、ごめんな。
* * *
帰りたいのに、帰れない。
帰らなくちゃいけないのに、足が動いてくれない。
部長から依頼された書類が、マツシタ電工から依頼された見積書が、岸田商事から催促されている仕様書が、遅れている工事を終わらせるための人員確保が、後輩から頼まれた設計書の手直しが、鬱で辞めていった前本の引き継ぎが――
今日やらなければいけなかった仕事が、男の足をこの場所に留めさせていた。
携帯電話は鳴り続ける。
自分を仕事に縛り付ける硬く重たい鎖みたいに。
どうすればいいのか、よくわからない。
進むべきなのか、戻るべきなのか、それすらも霧がかかったように、曖昧になっていく――
頭が痛い。
心臓の鼓動が大きい。
胸が痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
いたい――
やがて、景色はどんどん薄暗くなり、空気はどんどん粘ついていく。
いつの間にか男は、ただそこにいるだけの存在に成り果て、真っ黒な絶望に身を任せていた。
『十八街道』
最期の場所で、人を縛り付ける概念と化した男は、やがて生者に向けてもその影響を与え始める。
もはや男に意思はない。
ただ、あの日の絶望があるだけだ。
でも――
声が聞こえた気がした。
懐かしく、ずっと待ち侘びていた声だった。
男は耳をすませる。
『――お父さん!』
今度は、はっきりと聞こえた。
* * *
松原さんが悪霊に抱きついていた。
「お父さん、ありがとう。お父さんのおかげで、私はちゃんと大きくなれたんだよ……」
『シズカ……寂しい思いをさせて……ごめん……』
「ううん、いいの。私は、いいの――」
そう言って悪霊から手を離し、振り向いた松原さんの目には涙が浮かんでいた。
「かぶちゃん、この鎖を切ってあげて」そして鼻をすする。「ただ、家に帰りたいだけのお父さんを、縛り付けてるこの鎖を――」
「ああ……」
影山さんは頷く。
「お父さんを、本物の静香さんのところへ、帰してあげて……」
声に嗚咽が混じる。
悪霊に触れて、その心にも触れてしまったのかもしれない。男の中に渦巻いている悲しみを、松原さんは感じているのかもしれない。
影山さんと銀髪の鬼は、座り込んで泣きじゃくる松原さんを横を通り抜けて、男の前に立った。
『シズカ……』
呆然と、繰り返す。
「お前を縛り付けてる……このクソッタレな鎖を、あたしが引きちぎってやる」
銀髪の鬼が鎖を両手で掴んだ。
「だからよ……さっさと帰ってやれよ……」
その細い腕に力がこもると、緊張した筋肉が皮膚を突き破りそうなくらいに膨れ上がる。
「あたしには……帰りたい家なんて、ない……」
やがて太い鎖が軋みを上げ――
「でも、お前には……帰りたい家が、あるんだろ……?」
鋭い音を立てて、引きちぎられた。
その瞬間――
「!!??」
金属同士が擦れる音。
分厚いガラスが割れるような音。
僕は空を見上げた。
赤黒い空にひび割が入り、崩れ落ちていく――
サブタイトルを回収する回は、自然と熱がこもりますね(`・ω・´)
次回、話が大きく動きます。