第17話:いつだってあいつは、自分の事しか見えていない
表紙:武頼庵(藤谷K介)さん
カマキリ退治の翌日、かぶちゃんside……
でも、無邪気に思春期してる阿部くんとは、ちょっと違うみたいです。
※4月27日17時に、細かいところを改編しました。
陽キャ共の語る生ぬるくて甘ったるい言葉は、あたし――影山蕪太郎にとっちゃ劇物でしかない。
それを体内に取り込んだ瞬間、虚勢のテープでとめたツギハギだらけの『あたし』という存在は、溢れ出た血でポロポロと崩れてしまうだろう。
そしたらきっと、2度と今のあたしには戻れない。
だからあたしは、いい匂いがするそれから目を背けて、固く口を結ぶんだ。
* * *
あのセクハラカマキリをぶっ飛ばした翌日、あたしはいつも通りの時間に目を覚まして、ぼーっと天井の木目を眺めていた。
使い古して綿が固くなった敷布団は、寝返りを打つたびに肩や背中の骨をゴリゴリと押し返してくる。あたしがこんなに痩せっぽちじゃなくて、ニコリみたいな大人ぽい体つきだったら、もう少し寝心地が良かったのかもしれないけど――。
襖で遮られた隣室からは、クソ親父のえずく声と、呪詛じみた独り言が聞こえる。やがて玄関ドアが軽薄な音を立てて閉まり、静かになった。
きっと図書館にでも行ったのだろう。
あたしが休みのに日になると、あいつは決まって何処かへ出かける。大体は図書館に入り浸り、たまに古本屋で立ち読みをしている。あんな汚らしいおっさんに居座られて、図書館の利用者さんにはマジで申し訳ないけど、あたしにとっては願ったりだ。
台所の水で顔を洗って、食パンにジャムをつけて頬張る。手入れなんかしてないから髪はボサボサだけど、どうせ家から出るつもりはないから気にしない。
朝食を終えると、物置きみたいになっている食卓テーブルから椅子を引っ張り出す。座面に三角座りして、モップみたいなボサボサを手櫛で漉きながら、昨日の夜の事を思い返してみる。
誰かに抱っこされるのって、初めてかもしれない。
スケコマシの腕の中の、生温かな感触を思い出しながら、そんな事を思った。
もちろん物心つく前――たとえば産科の看護師さんとか、幼稚園の先生に抱っこされた事は、当然あった思う。でもそんな昔のことなんて覚えていないし、覚えていないんなら、なかった事と同じだ。
少なくとも、私の記憶の中で誰かに抱っこしてもらえたのって、昨晩のあの1回が初めてだ。
なんか胸の奥がムズムズする。
ダメだ……。
こんなキモい感覚に弄ばれてはいけない。
誰かの優しさも、誰かの温かさも、どうせ気まぐれで一時的なものに過ぎないじゃないか。それに寄りかかってしまったら、失った時にきっとあたしは壊れてしまう。
欲しいものは手に入らない。
手に入れたところで、どうせ失ってしまう。
だったら何も欲しがらない方がいくらか楽なんだ。そう、あたしは今までの人生で痛いくらいに学んできたんだ。
でも、もしかしたら、スケコマシなら――
ってなんだよ!
少女漫画のナヨナヨしたヒロインじゃねーんだよ、クソが!
少し頭を冷やそうと、コップに注いだ水を気休めに飲み干ししてみた。
それでもあたしの心は、振り子みたいに右へ左へ大きく揺れている。その糸にそっと指を伸ばして、惰性による往復運動を無理やり止めようとすれば、きっと感情は不規則に暴れ回ってしまうだろう。
あーちくしょう。人が人を求めてしまう感情ってのは、本当に厄介なもんだ……。人間の本能に根ざしているから余計にタチが悪りぃ。
理性だけじゃ、時々抑えが効かなくなる。
あたしは立ち上がって、クソ親父の部屋の襖を開けた。途端に溢れてくるタバコの臭いと酒の臭い、そして不摂生な男の加齢臭。
あのクソは、客観的に見りゃ整った顔立ちの中年男だけど、体の中はヤニと酒とコレステロールでドロドロに違いない。
部屋の奥には大きな本棚がある。
そこにはいくつもの本が並べられている。名著と呼ばれる文学小説や、近代哲学の新書、流行りの大衆小説などなど。本棚の隙間に所狭しと詰め込まれたそれらの本から、あたしは少し前にに映画化された恋愛小説を手にとった。
パラパラとページをめくり、適当な一文を流し読む。なるほど、すっと染み入るような文体であたし好みだ。両手で本を挟み、その厚みを感じながら、あたしは踵を返した。
あの親父は、まごうことなきクソ親父だ。
ただ親父が育てたこの本棚だけは、あたしに向き合い、あたしの悩みを受け止めてくれる。
クソ親父の脳内が凝縮したようなこの本棚が、あたしにとっての父親なのかもしれない。そう考えると、なんだかキモチわりぃけど……。
部屋を出る時、足元に転がった紙屑が足先に引っかかった。文庫本を小脇に挟み、その紙屑を拾い上げると、指先で摘んで広げてみる。
『春子はそう言って笑った。夏の木漏れ日が、彼女の頬の上で揺れていた。爽やかな風が流れる。僕は楽しそうにはしゃぐその光の粒に手を伸ばし――』
そこまで書かれて、その紙はぐしゃぐしゃに丸められたらしい。あたしはそれを再び丸めなおすと、足元に落として、つま先で部屋の中へと蹴り入れた。
同じように丸まったいくつもの紙屑の中に、そいつは溶け込んでいった。
叶わずに散った夢の破片――ってか。
それでもあのクソ親父は、なんども自分の世界へと潜り込んでは、どうしょうもないガラクタを片手に浮上してくる。
穴のほとりは、投げ捨てられたガラクタでいっぱいだ。そのガラクタを積み上げて築いたを大きな山を、親父はさも芸術作品のように眺めて、うっとり溜め息を吐いている。
そう、いつだってあいつは、自分の事しか見えていない。
* * *
親父の部屋から持ってきた小説は、綺麗な文章の割りに内容が薄っぺらかった。もしかしたら、あたしが主人公の感情を理解できていないから、そう感じてしまったのかもしれない。
誰かを愛し、自分の元に繋ぎ止めるため、主人公の女は言葉と行動で相手を縛る。そんな彼女の行為が、どこか絵空事のように見えてしまう。
自分の感情や欲望を、他人に無造作にぶつけるなんてサイテーだろ、とか。
そこまでして誰かを独占したいっていう、彼女の薄汚ねー欲望が気持ち悪りぃ、とか。
そんな反感が常に頭をよぎり、三分の一を読んだところで枕に放り投げてしまった。
蕎麦殻が詰まった枕は、ボサっ……と乾燥した音を立てた。
少なくとも、あたしはそんな気色悪いマネ、絶対に出来ない。他人と関わろうとすればするほど、どうせ無視されたり、怖がられたり、キモがられたりする存在だから
でも、あのスケコマシなら――
再び湧き上がる『IF』のストーリーに、あたしは頭を抱えて小さく唸った。
さっきまで読んでた小説の相手役の顔が、スケコマシの顔にすり替えられる。
好き、会いたい、抱きしめて――ヒロインのほざく、歯の浮くような臭っせえ言葉を、嫌な顔ひとつせず受け止めてくれる相手役の男。
そして耳元で囁く『愛してる』の言葉。
でも、どっかで歯車が狂えば、そんな未来があたしにだって存在したりすんのか?
わかんない。
わかんないから、なんか怖い。
でも、ほんのちょっとだけ、夢見ていたい……気もする。
夢見て――
「うああああああ! クソがあああああああ!」
枕を顔面に押し付けて叫ぶ。両足をバタバタさせて、身体を左右にブンブンと振って、中心から湧き上がってくるどうしようもない感情を、ヤカンの注ぎ口から噴き出る蒸気みたいに発散させ……そして力尽きる。
うああ……酸欠だ。
頭がクラクラする。
あたしは布団から身体を起こして、本や勉強道具の散らばった座卓に視線を移した。
期間が過ぎてしまった古い卓上カレンダーの端っこには、プリクラっとかいう写真シールが貼られている。
そこに写っているのは、若い頃のお母さん――らしい。お母さんの記憶がないあたしには、何一つ実感が湧かないけれど。
写真の中のお母さんは、普通の女の子みたいに笑っていた。
この数年後に、クソ親父と結婚し、あたしを生み、そして死んでしまうのに――そんな不幸な未来など知らない写真の中のお母さんは、全身で青春を謳歌している。
お母さんが今あたしの隣にいたら、このこんがらがった感情の答えを、優しく教えてくれるんだろうか。
お母さんの言葉に、あたしは照れ笑いを浮かべて……そんなあたしの髪を、お母さんは撫でてくれるんだろうか。
こんなクソみたいなあたしだって……『幸せになれるっよ』って、勇気づけてくれるんだろうか。
悲しくもないのに、思い出すだけで瞼の裏が熱くなってくる。
お母さんって、そういうものなのだろうか――
玄関のドアが乱暴に開く音。
あたしは身を強張らせる。感傷で歪んだ顔なんて見せたくない。あのクソ親父に、虚勢の裏側の柔らかな自分の感情を晒したくはない。
でもそんな時に限って、クソ親父はズカズカとあたしの部屋まで迫り、ノックもなくドアを開けた。
服の袖で目を擦る。
あたしの視線が、クソ親父の視線と交差した。
ヤツは一瞬だけ眉根を寄せるけど、すぐにそれを打ち消した。まるで顔に張り付いた邪魔な前髪を払うみたいに。
そして、何度目かわからない夢物語を矢継ぎ早に捲し立てる。
「いいアイディアが浮かんだ! 今度こそ、絶対に傑作になる! 俺をバカにしてきた奴らも、才能もないのに運だけで持て囃されてる奴らも、全員叩き伏せるほどの大傑作だ! 喜べ、かぶ! 明日からお前は天才作家の娘だ! 今から執筆に入るから、邪魔だけはするなよ、わかったな!」
唾が飛んで、ドア前の床を汚した。
あたしの感情は一瞬でに死に絶えた。
空虚な心のままで、フローリングに張り付いた唾液の小さな泡を見つめていた。
クソ親父は乱暴にドアを閉めて、自室に消えた。
どうせ明日になれば唸り声を上げて喚き散らし、自分の限られた才能から目を背けるために、タバコと酒に溺れるのだろう。
あたしは布団に横になった。
全てが萎んでいく。
よくわからない感情の昂りも、亡きお母さんへの思慕の気持ちも、みんな薄っぺらなはりぼてのように感じてくる。
そう、これが現実のあたしだ。
もっとも身近であるらしい、唯一の肉親にすら関心を示してもらえない、幽霊みたいな存在があたしなんだ。
気が付けば、レースカーテンの隙間から夕日が差し込んでいた。
あたしはその温かな色が、たまらなく虚しく感じた。
かぶちゃんの心の闇とか、色々深掘りしていきたいです。それがこのお話に求められているのかわからないですが……。自分が書きたいっていうのと、そこを書かなきゃ作品テーマにつながっていかないって気がするので。
かぶちゃんの親父は、執筆ダークサイドに落ちた自分をイメージして書いてますಠ_ಠ




