15.敵の登場 Part 1
こうして優奈とリュバーヴァは苦役する羽目になった。
現在の日本とは違い、ここは洗濯というのは壮大な出来事で懲役に等しいものだった。
優奈はまだ洗濯したことがなかったから、言葉に表せないほどの緊張を覚えていた。
リュバーヴァとべセリーナは大きな汚れ物の積んだ籠を持ち、川が流れている北に向かっていた。優奈にはまな板らしい道具と石鹸水が任された。自分より二回りほど大きい籠を抱えているリュバーヴァを見て、優奈は同情して、魔法で軽量化してあげた。するとリュバーヴァは感謝の気持ちを込めて、にっこりと微笑んだ。
「ねーねー、優奈の家族は家畜を飼ってたの?」
重い雰囲気を醸している母の威圧に縮かまったリュバーヴァ、適当に質問した。
優奈は実家の3LDKに牛などがいるのを想像した。彼女、母と父がいつも通り居間に集まり、父は新聞を読んでいる間に、母と優奈は新しいドラマを見ている。そして二頭の可愛らしい牛と一頭の山羊が犬の代わりに、ソファーの前に敷いてある絨毯でスヤスヤと寝ている。
笑いを堪えなくなってどっと笑い出してしまった。
「飼ってないよ」
「じゃ、優奈の世界では、みんなどこから食糧を補給するの?」
爆笑している友達をジロジロ見ながら、リュバーヴァは首を傾げた。
「えーと。スーパーという場所。建物内にある市場みたいなところ。そこに食べ物から服に至るまで取り揃えてるから、自分で植物を植えたり服を編んだりする必要はない」
優奈は丁寧に教えた。
「楽だね」
「じゃ、料理は?」
まだムスッとしているべセリーナも会話に割り込んだ。
「する人もいれば、できている物を買う人もいます」
「お惣菜まで買えるなら、あなたの世界の女性たちは普段、何をしてるの?」
べセリーナは眉を上げた。どうやらこんな生活様式には納得できなかったそうだ。
「仕事をしたり……」
「男性みたいに?」
一気に盛り上がったリュバーヴァは横合いから口を出した。
「母国では性別が関係ないよ。むしろ最近女性たちこそ独立しようと仕事をしてるよ」
べセリーナは鼻を鳴らした。
「もうわかってると思うけど、ここは女性が仕事しないの。子育てや家事、縫物や編物をしてる。仕事は男性の役目」
リュバーヴァは説明して、それから思い惑っているように一拍置いて問い掛けた。
「優奈も働いてたの?」
「私は大学生だから、バイトしてた」
うっかり答えた優奈は慌てて説明をした。
「大学というのは、いろんな技術を習うところなの。バイトとは短時間の仕事のこと。」
「はー」
小鳥ちゃんは、よくわからないがわかった、と言いたげな形相をした。
そのうち三人が川に辿り着いた。リュバーヴァは洗濯しやすい場所を見分け、そこに重い籠を置き、上着を脱ぎ、スカートの裾を捲って蹲った。
「優奈、持ってるものを持って来て」
べセリーナは声をかけた。
「はい」
「リュバーヴァは服を洗って、優奈は濯ぐ」
べセリーナは指導して、小声で言い足した。
「今日誰もいないのが良かった。話しやすいから」
「ええ、絶好の機会だね」
リュバーヴァも頷く。
「あなたはべらべら喋るんじゃなくて、仕事しなさい」
リュバーヴァは舌打ちして、テキパキと動き始めた。服を石鹼水の盥に浸け、ゴシゴシ洗い、叩き、振り絞ってはゴシゴシ洗う。少女の顔は紅潮し、成熟のサクランボに似てきた。べセリーナがリュバーヴァの傍に立ち、仕事ぶりを監視しながら、しきりに文句を言っていた。
「力が足りないわ。ほら、ここはまだ汚れてる」
「こう?」
と、リュバーヴァ。
「力を入れすぎないで、穴が開いちゃう」
「わ、わかった」
荒く喘ぐリュバーヴァ舌打ちしたが、母の言うことに反対はしなかった。
「サボりだけは上手わね」
べセリーナは鼻を鳴らした。
暇になった優奈は、近くに生えていた柳の下に座り込み、二人を眺めていた。
──べセリーナは厳しい。
優奈の手伝う番がやってくると、べセリーナは落ち着きの払った穏やかな声で説明していく。
「優奈はこの板を持って。いいえ、布団たたきを持つみたいに。それで思いっきり叩くのよ」
石鹼水で洗った服を川端ですすぎ、それから石の上でまとめ、力一杯叩いた。
「もっと強く叩かないと服は綺麗にならないわよ。あなたの世界ではみんな服を洗わないの?」
「はー、日本では皆が洗濯機というものを使うのです。勝手に洗って、叩いて、すすぐ機械です。はー」
優奈は下品にドレスの裾を絡げ、額にできた汗を手の甲で拭いた。息も乱れてしまい、胸がジョギングの後のように、速く広がったり縮まったりしていた。
──洗濯機ないと、こんなにも大変なんだね。
「この汚れ物を濯いだら、一旦休んでいいよ」
べセリーナは鼻を鳴らし、娘に顔を向けた。優奈は渡された服を持って川辺に置いては、一息ついてから濯ごうとした。だが忽然として打ち寄せた波のまにまに漂っていった。
ひたひた。
「服が!」
優奈は洗濯していた場所で速やかにうつ伏せ、手を伸ばして服を掴んでみたが、手が本の一寸だけ届かず、袖が濡れただけ。彼女は、走って追うしかないと決断し、裾を掴んで砂浜に走り出した。
「優奈!」
「どうし……」
母と娘は優奈を呼びかけながら追い付こうとしていたが、優奈は足が速く、どんどん距離を広げた。やがてべセリーナとリュバーヴァの姿は消えかかってきた。その時、優奈はいよいよ息が切れた。体がふらりと揺れ、足がおぼつかなくなってきた。
──ああ、もっと運動すればよかった。こんなんで息切れになるとは……それより服を追いかけなきゃ。
前に目をくれず、川ばかり凝視する優奈は人に気づくのが遅かった。彼女は銀色の輝きをしている白髪と闇から織られたような漆黒のワンピースを見取るが早いか、後姿に突き当たってしまう。
「す、すみません」
その女性が振り向くと優奈はぎょっとし、後ずさった。
目前に五十絡みの女性が立っていた。非常に痩せていて、顔がまるで干し魚のようで艶がなく、しわが多い。一見したところ、何の非凡もない女性だが、彼女の細身を覆うオーラがどこともなく凄絶で危険を醸していた。
その人は大きな黒い猫の首を引き締めながら、不自然に長く黒い爪を猫の白いお腹に当てていた。
どうやら優奈は猫の殺害を邪魔してしまったみたいだ。
女性が不満極まりない表情で優奈を見下した。優奈は女性の目を覗いた。嫌悪、軽蔑、恐怖。ネガティブな情緒しか映っていない鉄の色の瞳だった。
恐ろしさで寒気立った。
もしかしたら、この人は彼の魔女ではないか?
「目が節穴かい?」
彼女は心が凍てつく低い声で優奈の考え事を遮った。
この人の態度は生き物を侮り、嫌っているように見えた。
言うまでもなくとてつもなく危険な人だ。
優奈は血が凍りそうな恐怖を覚えた。足が砂に膠着してしまった。彼女は微動だにせず、大きく見開いた目で女の人を追っていた。
──怖い。
優奈の視線と女性の視線は合った。どちらでも言葉を交わさず長い一分間お互いを見つめ合った。
同時に大きな猫は機会を使い、暴れ出した。彼は身を左右に揺らし、爪を立てた前足で女性を殴った。すると女性は優奈の存在を忘れ、猫を殴りつけて、地面に倒した。猫が砂に落ちるとはっと空気と血を吐き、人間に似た苦痛の籠った声で呻いた。
「貴様!答える気がないなら、殺してやる!」
女性が猫の方に手を向けて呪文を唱えると、横たわっていた猫が突然高く舞い上がった。
「パジェーニエ」
女性が目を細め、冷笑しながら再び唱えると、猫が目は追えない高速で落下した。猫の背中が不自然に曲がり、口が痛みに歪んだ。
「どうしたの?私は一発でぶっ殺すとでも思ったのか?そんなわけないでしょ。少しずつ苦しみを与えながら殺してやるよ!」
それを瞬きもせず眺めていた優奈は焦った。そのままでは、猫が殺される。優奈は猫を助けたかった。だってこの生き物はあまりにも可哀想に見えたもの。
彼女には何ができる?
──魔女を止める方法……一瞬でも止める方法……知ってるかも!
「ストゥ―ポル」
優奈は膠着魔法を唱えると、魔女は途端に固まった。
──急ごう。呪文は長く持たなそう。
優奈は猫に駆け寄って、隣に座り込んだ。
「痛そう。今治してあげるからね」
猫が細い声で鳴いた。
彼女はそっと血まみれの身体に触れて、「イスツェレーニエ」と唱えた。
もちろん、体は血まみれのままだが、出血していた傷で血が止まり、ピンク色の皮に覆われた。禿げてしまった箇所には産毛のような薄くて小さい黒い毛が生えてきた。
「よかった。これ一安心」
優奈はほっと胸をなでおろして、魔女を見つめた。魔女は鋭い目つきで少女を睨んだ。どうやら彼女はかけられた魔法を解き始めたようだ。やはり噂通り強い魔女だ。
優奈は猫を抱っこして、必死に考え始めた。魔女の討伐は今の優奈には無理だ。魔女の怒りの的である猫を抱えている上に、そう遠くない場所に無防備なリュバーヴァとべセリーナがいる。とはいえ、彼女をそのまま町に残すわけにもいかない。もしかしたら魔女は町を滅ぼしに来たかもしれないから。
──そんなこと、させるもんか。
「僕に手伝わせてください」
突然猫が……喋った。
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