8.冒険の始まり
「※」が付いている言葉を後書きでは説明しました。
その日以来、日々はまるで襲歩する馬のように、目まぐるしく移り変わっていった。いよいよこの島に暖かく、晴天の初秋が訪れた。麦刈りが終わった今では、かつて鮮やかな畑は些か寂しい茶色に変わった。
だが以外にも秋は夏よりも忙しい季節だった。間断なく実る庭の植物の手入れは大変だった。
推移する多忙な日々の中で地球にいた頃の生活は、優奈の脳裏から少しずつ流れ出ていった。ロウシ人たちは「時は癒す」※と言うが、正しくそうだった。時が経てば経つほど家族を思い出すことが楽になってきた。多分、優奈は暫く会えないと、状況を受け入れたかもしれない。
クリムとの約束も、すっかり忘れ去られた。
ある天気のいい日に、日程を終え、優奈は町の南側に生い茂る林に行った。今日はリュバーヴァのお見合いが開催されたため、一家は忙しく、バタバタしていた。だから邪魔にならないよう、優奈はテキパキと仕事を終え、家を出た。
──今頃、リュバーヴァはどうしてるのかな。
昨日、リュバーヴァは両親が勝手にお見合いの予定を立てたと知り、むかっ腹を立てて侮辱を口走ったあげく、家を飛び出してしまった。
優奈とクリムは彼女を捜すのが全くもって苦労した。
暫くリュバーヴァと共に生活を送っていた優奈は彼女の性格も知っていったから、最初から交渉の結果は目に見えていたわけだ。だって小鳥ちゃんは直截簡明で自由好きで怒りっぽいが、心から親切な人である。いわば、プロトルチェ町の大和撫子とは見事に正反対な性格の人だ。
相手は相手で旧弊的な考え方を持つ指物師の息子で、物静かだそうだ。しかし父は尊敬される巧者な職人で、器量のいい若者だったから、べセリーナからして、完璧な女婿だったらしい。
こうして久しぶりにできた余暇をどう使えばいいのかわからないまま、一応布と刺繡セットを持ってきたが、こういった淑女らしい嗜好に興味が湧かなかった。だから二三度指を刺してしまったら、刺繡はそっち退けされる始末だった。
優奈は草に潜り込み、優しい日差しの下で日向ぼっこをしていた。
「今忙しい?」
突然馴染みのある低い声が後ろから話しかけた。優奈は驚いたあまり飛び上がり、頭を誰かの顎にぶつけてしまった。
「そんなに驚くな。俺だよ」
優奈は頭を擦りながら目を上げると、顎を撫でているクリムが見えた。彼は仕事の制服である鎧を着込んでいた。鞘もちゃんと背中からぶら下がっていた。
「痛い?」
頭角を抑えている少女を見て、クリムは心配そうなまなざしを向けた。
優奈は頬を赤らめた。
「いいえ、大丈夫です」
「で、予定ある?」
「ありませんけど……」
「何なら関の図書館に言って見る?今日は上が忙しくしてるから君が来てもバレないはず」
──そうだった。
彼女は図書館に忍び込んで、魔法のことを知りたかったのだ。もちろん、行けるものならいきたいと、優奈は思い、変わらぬ庶民めく服から土を払った。
彼女は継ぎ接ぎで、パフスリーブの裾口や胸部に鮮紅のルーンが施されたブラウスと澄んだ緑色のサラファンを着ていた。足には、紐で留めてある長い白い靴下に、いつもの靭皮の繊維から作られた籠に似た靴を履いていた。お出かけ用の服ではないが、そもそも散策しに行くわけではないから、我が儘を言えない。
「二人で図書館に入って、必要な情報を見つけて、俺がお前をプロトルチェに連れて帰る。簡単な目論見だろう」
優奈はこっくり頷いた。
「林の奥でテレポートを作ろう。誰かに見られちゃまずいから」
ボガーティリは自分の存在を民間から隠していたそうだ。魔法や精霊に関わる人や、家族しか知らなかったという。
二人は森を指して歩き始めた。朝から時々暴れ狂っていた強風が吹き、地面を追っていた落ち葉や埃が宙に舞った。優奈のサラファンの裾がハタハタして、動きをしにくくしていた。だから優奈は時には遅れてしまい、そしてせかせかした小走りで青年の後を付いていた。
「イワンとべセリーナさんは私が分岐点に行くことを知りませんよね」
「ああ」
「じゃ、急いだほうがいいよね」
優奈は誰に言うともなしに呟いた。
クリムは鼻を鳴らした。
「お見合いは長く続かなそうだからな」
「クリムさんはお見合いのことはどう思いますか?」
暫く続いた沈黙を突然の優奈の質問が破った。
「俺が?」
クリムはスピードを落として、自分の歩調を優奈の歩調に合わせ、優奈を見つめた。
「そうだな。お金と地位的にはいい伴侶相手だと思うけど、彼みたいな弱虫はリュバーヴァに合わないだろうな。リュバーヴァには彼女を厳格に制御できるような気丈な人がいると思う」
クリムの素直な答えを聞き、優奈は頷いた。
「お前はどう思う?」
「私は、リュバーヴァ自身が決めるべきだと思います」
考えた末、優奈も素直に答えた。
「まぁな」
二人は林まですたすた歩き、こんもりとした木の枝の陰に隠れた時、クリムは素早く首にひっかけていたネックレスを外した。テレポートは時には虹色の煌きを放つ普通の石にしか見えなかった。
「普通の人を騙すための錯覚」
クリムはそう告げて石を落とすや否や、目の前の空気は波のように小さく震えながら同じく虹色に輝き始めた。
「手を繋ごう。じゃなきゃお前は知らないところに行っちまうから」
「それはどういう意味ですか?」
少女は眼を見張って聞いた。
「テレポートは想像したところに送るから、慣れてない人は想像に集中しねーでぼっと何かを考えるから、変なところに飛ばされかねない」
「それって怖くないんですか?」
クリムは笑った。
「俺等はガキの頃から使ってるから、もう慣れたぜ」
優奈は青年の手を、溺れて助けを求める人のように、力一杯握った。それを感じたクリムはにやりと笑った。
「ちょっと痛いかもしれないけど、我慢して。一瞬だけだから」
少女は頷くと、クリムは揺れる空気の中に足を入れた。
テレポーテーションは青年の言った通り十秒以下だったが、非常に妙なものだった。まず出発した場所と到着する場所の間には、優奈には馴染みのある上下左右のない純白の空間だった。
移動は意外と痛くはないが、身体が分子に分解され、それからパズルのように組み立てられている妙な感覚があった。
突如として白い空間にカラフルな欠片が張り付き始める。そのパズルはどんどん増え、絵を構成していく。いよいよ新しい場所が完成された。
「分岐点に到着」
そうクリムに告げられた。
優奈はきょろきょろ辺りを見回した。
この世界は色鮮やかで、優奈はロシアのおとぎ話を読んでいた時に、想像していた世界に似ていた。目の前に、点綴している二階建ての一軒家を背景に、莫大な高層丸太小屋が際立っていた。その妙な建物の天辺には、金の風見鶏が回っていた。そしてさらに上を見上げると、絵画に描かれるような澄んだ青空に木製の船が浮いていた。船に乗っていた人たちはしばしば何かを叫びながら、櫂を漕いでいた。
建物の前に大きな駐船場があった。ひび割れしていない灰色の舗装には白いペンキでいくつかの大きな長方形が描かれてあった。その長方形の真ん中には船の竜骨のための穴が刳られていた。駐船場には数席の船が駐船していた。
クリムと優奈が移動したのは、おかしな駐船場から少し離れた公園だった。その公園に鬱蒼とした柏と実っていたカマズミがあちこち生えていた。木々の間に多種多様な姿の者たちが歩いていた。身長が低かったり、高かったり、人間と大差のない格好だったり、却って、木の形や、もはや言葉で表せない形の者もいたりしていた。そんなメルヘン的な人だかりの中に、優奈は大きく鉄のように輝く銀色の鱗を持つ竜を見かけた。
「わー、本物だ!」
喜悦が溢れる声を出したのは優奈……ではなく、リュバーヴァだった。
1. 時は癒やすロシアのことわざです。
分岐点とは世界の名前です。そして関とはボガティーリが働いている場所で、高層丸太小屋のことです。