4人目の女
4人目の女との恋はすぐに始まった。目がくりくりして小動物みたいなミニマムな彼女は、雰囲気こそ違うがグラドルの中村静香に似ていなくもなかったので、以降はシズカと呼ぶことにする。思い返すと本当にみんな可愛い子ばかりだった。僕は面食いなのだ。シズカは明るくて優しいがどこか深みを感じさせる女の子だった。そしてシズカはアサミの無二の親友だった。彼女もまた女子校出身であり、入学してからすぐに属したのは女子グループだった。そのグループはというと、入学後のオリエンテーションが終わる頃には結成されていて、現役入学組の華やかな女子たちで構成され、同学年で最も勢いのある集団だった。結成してすぐに彼らは謎のフランス語みたいな名前のグループ名を冠して調子に乗り出し、一躍校内で注目の的になった。アサミもシズカもなぜ属したのかまるで意味が分からないくらい、このグループはギスギスしていた。女子特有のマウンティングの対象は始めこそ他のグループに向いていたが、月日が経つにつれ見せかけの友情はメッキが剥がれていき、ついには内部崩壊を来した。完全に崩壊したのは僕が留年してその学年を去ってから数年後のことなので、これらは全て人から聞いた話だ。こいつらのせいで僕は今でも女子グループが苦手だし、偏見に満ち満ちている。
シズカはグループに所属するもののマウンティング合戦に参加することは一度たりともなかった。他人を傷つけることを好まない彼女がなぜあんな攻撃的で排他的なグループにいたのかは今でも謎のままである。童顔で子供っぽい雰囲気ではあるが、どこか大人の女性を彷彿とさせるオーラを纏っており、明るさと落ち着きの絶妙なバランスが魅力的だった。一部の男子から熱狂的な支持を得ていた彼女は、夏頃にラグビー部の同級生と付き合いだした。例によって女子グループからその彼は批判の対象となった。高貴な自分たちの仲間であるシズカとは不釣り合いだと叩かれていた。そんな彼との恋愛は半年も待たずして破局を迎え、僕がアサミと付き合っていた頃には学校とは全然関係ない美容師の彼氏がいた。その彼とは話を聞く限りではうまくいっている印象だった。試験期間中はほぼ毎日アサミと過ごしていて、その親友であるシズカが深夜のファミレスでの勉強について来ることもザラにあった。大抵の場合は僕の男友達も一人参加して4人で楽しく喋りながら教科書を囲んだ。ちなみにその男友達が後のシズカの旦那であり、結婚後僕は一度も彼と会っていない。まあそんな感じでアサミありきでシズカとは仲良くなった。
前述の通り、僕はアサミとの交際中に留年し、当初の契約により別れることになる。春休みは絶望の日々だった。毎晩見る夢は進級発表のもので、現実通り落ちるパターンもあれば受かるパターンもあり起きてから余計に凹むこともしばしばだった。家族からの視線は痛いし、本当に誰からも連絡は来ないし(これは後から考えればみんななりの優しさの裏返しだった)、やることもなければ目標もなかった。ただただ不毛な日々だった。そんな絶望の中、なぜか僕は外に出てもいないのに風邪を引いた。高熱にうなされベッドの上で荒々しく呼吸していたら、熱のせいで身体がイカれたのか、四肢を同時に攣るという奇跡が起きた。起きたまま金縛りにあったのかと思った。これまでの業が全て災いとなって降りかかり、閻魔が四肢を捥ぎに来たのだと本気で考えた。心身ともに限界を迎えた僕は、IWGPのマコトばりにうぁああああああああ!と叫んだが家の中には誰もおらず反応がないのですぐにやめた。四肢の攣りが治るまでの半刻、僕はただシクシクと泣いて過ごした。そんな春休み。
また脱線してしまった。シズカだシズカ。4月になるとまた新しい学期が始まり、僕は新入生に紛れて1年生として登場した。シズカは2年生なので教室は違う。友達もいないし心細かった僕は、特にやることもないので運動部に入ることを決めた。そんな感じで人の目を気にしながら基本的には一人で過ごした春、部活に参加しようと体育館を訪れた僕のもとにシズカは現れた。シズカは精神的に参っていた僕のことを唯一人心配してくれていたのだ。なんの興味もないはずの部活を見学し、筋トレに行くと言えば後をついてきて、僕のそばにいてくれた。はっきり言ってもうこの時点でかなり好きだった。初めから可愛いと思ってたし、辛いときにサポートしてくれるシズカのことを好きにならぬはずもなし。気付けばシズカのことばかり考えていた。いや、留年してるんだから勉強しろよ。しかし、その頃シズカにはまだ彼氏がいたので、これはただ友達として或いは親友の元彼として居た堪れないから故の優しさなのかと割り切ってみたり、もしや美容師から俺に乗り換える気なのでは?と妄想したりで悶々とする日々だった。
留年から1ヶ月が経過した頃だっただろうか。夜に突然、今から飲もうよみたいなメールが送られてきた。僕は状況は良く分からんがとにかく舞い上がって彼女の元へと急いだ。駅前の居酒屋で飲むことになったわけだが、端的に言えば彼氏と別れたとのことだった。僕は更に舞い上がる。というより確信めいたものがあった。この娘、ワシに気があるな?と。どこの世界に、彼氏と別れた直後に好きでもない異性と飲みたがる人間がいるというのか。僕は別れたばかりで傷心の彼女を慰めつつ、さりげなく俺もお前に気があるんだぜアピールを挟み、だがやり過ぎて引かれたり嫌われたりしないように細心の注意を払いながら大いに楽しんだ。居酒屋での軽妙なトークも勢いづいてくると、僕たちは2軒目を探しに店を出たわけだが、ちょっと酔っちゃったかも、なんて彼女の言葉がきっかけで飲み屋ではなく近くの公園に腰を落ち着けることとなった。夜の公園には誰もいなくて、ほろ酔いの彼女の艶感も相まり、無性にエッチな気分に支配された。無人の公園を2人で走ったり走らなかったりしてみた。ついには彼女が後ろから僕の胴に抱きつく。理性が吹っ飛びかけた。すかさず僕は時計を気にする。まもなく終電の時間になってしまう。そろそろここを出ないと終電に乗り遅れてしまう、という小芝居を演じてはいたが内心では、さあ早く行ってしまえ終電よと叫んでいた。そして計画通り、終電の時刻がやってくる。僕の「やべっ終電なくなっちゃったよ」からの彼女の「じゃあうち来る?」までの流れは、練習してきたかのような鮮やかさだった。今夜、僕は大人になる。
彼女は家に帰るや否やシャワーを浴びた。僕は彼女の寝室でフガフガ言いながら過ごした。やがて彼女は寝る支度を終えて部屋に戻ってきた。「どうする?ベッド狭いけど一緒に寝る?」そう言われた時の僕の心境はとても描写できたものではなかったろう。だが溢れ出そうな興奮をなんとか抑えて僕は「床で寝るからいいよ」と紳士を演じてみせた。はっきり言おう。この工程はまるで意味を為さなかった。彼女の寝息に耳を立てながら、自分の中の天使と悪魔が何度も衝突を繰り返し、結果一睡もできないまま朝を迎え、そこまでして耐え抜いたのにも拘らず「やっぱり布団入ってもいいかな?」とこの期に及んでダサい保険をかけながらようやくベッドへの侵入を達成した。そこからは早かった。布団の中で彼女と目が合い、彼女がそっと目配せをしてくれたのを皮切りに、熱い接吻が交わされた。なぜか行為には及ばなかったのだが、それはきっとアサミのことが脳裏をよぎったからだ。僕の腕の中でシズカは「これって付き合うってことで良いのかな?」と聞き、僕は敢えて言葉にせず頷いてみせた。こうしてシズカとの交際が始まった。
翌朝、バスで大学へ向かう途中、シズカから今後の方針についてどうするつもりなのかと訊かれたので、僕としてはアサミに伝わるのは憚られたが、そんなことを気にする小さい男だとシズカに思われたくなかったので渋々公表することに同意した。それを思ってる時点ですでに器の小ささは伺えるというもの。そんなこんなでシズカとの交際はアサミの耳に入り(というかシズカが光の速さで彼女に連絡した)、その日の午後にアサミから祝福のメールが届いた。「シズカのこと、きっと幸せにしてあげてね」的な内容の文面に、僕は苛立ちを覚えた。こいつ俺のことフっといてよくそういうセリフが吐けたもんだなこの野郎と思ったが、留年しといて元カノの親友と付き合うような奴がどのツラ下げてそんなこと言えるというのか。どちらかと言うとブチ切れられてもおかしくない局面なのに、アサミは精一杯の優しさでメールをくれたのだと半年程経ってからようやく気付いた。僕は後ろめたかったのだ。この頃の僕は嫌なことはなんでもかんでも他人のせいにしていたから、結局留年やアサミとの破局のことも自分は被害者だと信じていて、悲劇の渦中にある自分なら何をしても許されると勘違いしていたのだ。元カノの親友と付き合うことだって内心ではいけないことだと分かっていたのに、目先の欲が勝ち、少し先の未来すら考えることを放棄した。だから後ろめたくて、アサミの言葉に苛立った。まるで成長していない。
ここからは僕の人生における悪魔的所業ランキング堂々の1位、キングオブクズの称号を獲得して地獄行きが決定したエピソードをお届けしようと思う。
シズカとの交際開始から3日後。僕たちは横浜に遊びに出かけた。たしか母の日が近いとかで2人ともお互いの母親にワインを探して歩く、みたいな内容だったはずだ。適当な酒屋で適当なワインを購入して、それをぶら下げながら手を繋いでシズカの家へと帰っていた。駅からの帰路でなぜか会話が減っていき、家に着く直前、とうとう彼女の口から「やっぱり友達に戻ろうか?」という言葉が出た。僕はさして間を空けずに「そうしよう」と言ってのけた。これで終わり。じゃあね、と手を振りながら立ち去る彼女を見送って、僕は来た道を戻った。
誰の目から見ても、シズカの言葉は本心から出たものではないと映るに違いない。その通りなのだ。きっと彼女は、付き合うと言いつつもどこか後ろめたくて気不味そうにしている僕を気遣ってくれていたのだろう。アサミとのこともあるし、留年のこともある。シズカにとって僕との交際は、そんな気の迷いから生まれた副産物的なものではなくて、もっと純粋にお互いを想い合っての恋愛なのだと確信を得たかったのだ。それで僕に「友達に戻ろうか?」と尋ねた。彼女の理想的な回答は「否、戻らない」だったはずだが、僕はたいして悩みもせずにそれを受け入れてしまった。その時の僕の心情としては、ああ彼女も気まずかったのかな、だったので、なら別れた方がお互いwin-winじゃね?と結論付けるに至った。何を愚かな。そんなわけなかろうに。僕に「そうしよう」と言われた時の彼女の心の中はもうドロドロに破壊されていたことだろう。僕の気持ちを確認しようと、ウジウジした僕の心を払拭しようと、勇気を出して試した結果がこれ。この件を最後に僕たちは会うことはなくなった。
そして数日後、彼女から電話があった。「もう死にたくて…」と涙ながらに言う彼女は、こんな仕打ちを受けても僕に頼ってきた。僕はすぐに彼女の家へと向かった。道中、罪悪感と緊急度の高さから誰か援軍を呼ぼうと模索して、最悪の展開を呼び込んだ。血迷った僕はアサミに連絡した。シズカの親友であり、僕たちの関係を一番理解していると思ったが故の愚行だが、それは悪手だろ蟻んこ。僕が彼女の家に着くと、彼女は居間でぐったりしていた。幸いまだ何もしていないようで、まずは彼女が生きていることに安堵した。少し遅れてアサミも到着した。泣きながら拒絶するシズカをなんとか2人で説得して、数時間のあれこれの末、ようやく落ち着けることができた。終電などとっくにない時間帯であり、僕はアサミの車で送ってもらうことになった。部屋から出るときにはシズカは眠っていた。おそらくこの時点で僕はシズカに纏わる諸問題は全て解決したのだと思ったのだろう。部屋の鍵をポストに入れて歩き出した時にはすでに達成感すら感じていたのかもしれない。つまり、自分とシズカとの関係が今日で完全に清算されたと解釈したわけだ。僕はアサミの車の助手席に乗り込むと、久しぶりの2人きりの時間に懐かしさを感じて舞い上がったのか、とんでもない切り口で会話を始めた。「ホントはまだお前のことが忘れられないんだよね」たしかそんなセリフだった気がする。アサミはあまりの衝撃に数秒間言葉を失っていたが、やがて落ち着きを取り戻し、「悪いけどそういう場合じゃないし、そんな気分になれないから」と言い捨てた。それがアサミと交わした最後の会話であり、シズカ・アサミと関わった最後の日になった。以降、会釈も含めてただの一度も彼女たちと接したことはない。
この連載は、この時の壮絶なド畜生エピソードを懺悔したくて書きだした。僕は間違いなく地獄行きだし、今この瞬間も彼女たちから、いやもっと多くの人間から呪われてもおかしくないと思っている。いつまで経ってもこの時のことが忘れられないし、時間が戻せるならこの時の自分をぶん殴って改心させてやりたいと心から思う。若さ故の過ちや若気の至りなどでは擁護できない。アサミとシズカ、2人の心をズタズタに切り裂いた一連の物語はこうして幕を閉じた。後日談だが、騒動の翌日に僕はあの例のグループから呼び出された。口々に僕を罵った。そりゃそうだ。たとえ気に喰わない女子グループだったとしても、友達を2人も傷付けるようなクソ野郎を叩くのは当たり前だし正しい。僕はその日を境に同期の友人を全て失った。噂は瞬く間に広まり、総スカンを喰らい、誰も僕に近寄ろうとはしなかった。僕も僕で気まずかったからむしろ好都合と距離を置いた。それから数年後、卒業後すぐにシズカが僕の友人(実際にはずっと疎遠だったから知人程度の付き合い)と結婚したことを風の噂で知った。SNSでたまたま流れてきた結婚式の写真の中で、シズカは幸せそうに笑っていて、そのすぐ近くでアサミも嬉しそうにしていた。僕は今でもあの頃のことを夢に見る。