ヒト
1人称を書いていると3人称が書けなくなる不思議。
ヒリヒリとした肌の痛みとズキズキとした筋肉の痛みが全身に襲いかかり、冷たいタイルの床に寝そべる状態のまま、痛みで眉間にしわを寄せたままゆっくりと目を開く。
「ぅ………」
ぼんやりとした視界が徐々に晴れて行くと、鉄格子の扉が見える。全身傷だらけで横たわっていた女は痛みを堪えながらゆっくりと立ち上がろうと動く。しかし、全身に力が入らずにうつ伏せから状態を起こしたままで静止する。
「はぁ…、ぅ………」
少しだけ感じる吐き気を飲み込んでぼやけていた視界が晴れてきた。瞳を動かしてあたりを観察する。女は自分が今いる場所が牢屋の中だということを徐々に理解し始めた。しかし、なぜ牢屋の中にいるのかを理解できない。そして、なぜ理解できないのか思案していると、記憶を思い出せないことに気づいた。
「記憶が…、ない?」
女にはここに来る、もしくは連れてこられた経緯を全く知らない状態であった。そして徐々に自分のエピソード記憶がまったく存在しないことを理解していく。
「っ、………ま、………マリー?」
思い出のない脳をフル回転させて唯一思い出せたのはマリーという名前だった。それが自分の名前なのかもわからない。
痛みに少しずつ慣れたが、体の動きが鈍い。骨折をしている箇所はないかと確かめたが、骨折はしておらず、全身を軽く打撲しているような状態である。動きは鈍いものの体を動かすことはできる。鉄格子から先の暗い廊下の様子を見ようと、女は鉄格子に指をかけ、外を覗こうとした。
「なに…、これ?」
鉄格子が歪んでいたのだった。何かがぶつかった痕のようなものはある。だが、この跡はとても大きなものではないと残せない痕である。女は見るからに歪な格好の鉄格子から手を離し眺める。なぜこんな痕があるのかを女は考えていた。しかし、何がぶつかればこのような痕になるのかがわからない。
わからないまま、再び外を眺めるが、他の牢の中はもぬけの殻、もしかしたら遠くの牢に人がいるかもしれないが、それを確かめるには音を発生させるほかないが、女は今は大きい音を出すべきではないだろうと判断した。
何かないかと、体の痛みに耐えながら、今度は鉄格子のある方とは逆の壁側に何かないか調べることにした。特に何もなく、仕切りのない小さな個室にはトイレがあった。水を流せば音が出るが、物音が全然しない静寂の空間の中で試しに水を流そうとするのは躊躇われた。
「………?」
女はようやく気がついた。牢の中にいたから自分は捕まっているものだと判断していたが、鉄格子の扉に鍵がかけられてはいなかった。女はゆっくりと扉を開ける。外の様子を覗き見るように眺めるが、何もない。隣の牢を恐る恐る見るが、誰もいない。
「…傷ついてない」
隣の牢の鉄格子もそして暗くてわからなかったが、向かいの牢の鉄格子も一切の痕がなかった。女がいた牢の鉄格子だけが大きく凹んでいた。
ゆっくりとした歩みで他の牢を見て回るが、誰もおらず、すべての牢の鉄格子が無傷であった。しかし、牢の入り口の扉は完膚なきまでに破壊されていた。女のいた牢の鉄格子と同様の破壊された痕は、やはりとても人間にできるような痕ではなく、重機でも使ったような痕でもない。巨大な何かがぶつかった痕としかわからない惨状である。
女は牢を抜け、建物の中央広場のような場所に出て、血だまりを目撃する。
「………う!!?」
血の鉄臭い匂いに、吐き気と同時に頭痛がし、視界がぼやけ、立っていられない状態になる。壁に手をついて頭痛に耐えている女は幻覚を見ていた。記憶を掘り起こすように頭痛が起きている状態で、視界が早送りになるような感覚と、思考が素早く研ぎ澄まされていくような感覚に酔ったような状態になる。
幻覚はどこかの家の中で、ソファに座る金髪のツインテールの白人の少女が女を心配そうに眺めている。
『お母さん!どうしたの?大丈夫?』
幻覚が見せる少女は女のことを母と呼ぶ。女は少女のことを思い出すことはできない。
「ぅう…」
『大丈夫?』
「大丈夫よ…」
無意識に出た返答が、自分自身を現実に戻すように視界をはっきりさせる。
「はあ、はあ…、うぅ…」
視界が戻り幻覚は見えなくなったが、女は全身の痛みによる気だるさと気持ち悪さが相まって吐いてしまう。
「う…、ぅ………。…はあ、はあ、はあ………。…、ふぅー。…ここはどこかしらね…、刑務所だろうけど、それに私は一体…」
一度吐いて落ち着いたのか、血だまりの中央広場に入りがながら冷静さを取り戻す。
「止まれ」
ふいに背後から低い声が響く。静止の命令に女はすぐさま足を止め動かない。それは恐怖を感じて足を止めたのではなく、そうするべきだと認識して足を止めていた。
「こっちを向け」
ゆっくりと体を回すと猟銃を構えた大男が女を睨んでいた。
「なんだあんたか」
「私を知っているのね…」
「あ?どういう意味だ?」
「…私は私を知らないし、あなたも知らないわ」
「………本当か?………記憶を持っていようが持ってなかろうがあまり関係はないか。………今は猫の手も借りたいからな。こっちへこい!」
男が猟銃の構えを解いてついてこいと指示をする。そしてカードキーを必要とする重厚な壁を超え、小さな部屋に案内される。中には2人の男女が座り込んでいた。
「生存者だ」
「まだいたのか…、ってこいつ女看守じゃねえのか?生きていたのか!?」
「あー、この人ね。知ってるわ、私の方の担当だったし。信頼はできるわよ。あんたらよりも」
「そら手厳しいな」
女看守と呼ばれた。女はこの牢獄の取り締まる側の人間であり、目の前の3人は取り締まれている側、犯罪者ということになる。
「記憶喪失らしい」
「あ、そう。………それで?」
「記憶喪失ねえ。むしろ羨ましいぜ」
3人には女看守に記憶がないことはさほど重要ではない。犯罪者でおそらく今は緊急事態でこうして自由に動いているのであろうが、服役中であれば逃げるチャンスなのにもかかわらず気にもしない。それはつまり、それだけ今の状況が切羽詰まっているということになる。その理由づけに猫の手ほども借りたいと言っていた男は引き出しを漁り、ハンドガンを女看守に投げ渡す。
「ほれ持っとけ」
「………」
「あー…、説明しなきゃならんか」
「緊急事態ということはわかるわ」
「まあ、そうだ。緊急事態だ。正直俺は生きてここを脱出できる希望が見いだせていねえ。今なら他の監獄にぶち込まれてえ気分だしな」
牢屋を半壊させるほどの何かを男は知っている。
「夢でもいいわよ」
「現実逃避するな。ってかこの女看守すげえ傷だらけだぞ。あいつにやられたのか?」
「あいつ?」
「………本当にこいつ大丈夫か?」
「大丈夫だろう。銃は撃てるか?」
「なんとなくわかるわ」
「なんつったか。記憶にもいくつかパターンがあるんだろ?思い出部分が消し飛んでるっぽいな。普通にしゃべれているし」
「体が思い出したくないだけかもね。恐怖で記憶が封印されてそう」
「こいつに恐怖心があるようには見えんが?」
好き放題言う3人を他所に女看守は渡されたハンドガンの感触を確かめるために壁に向かって銃を構える。
「撃つなよ?銃声でここがバレる」
「わかっているわよ。それで、あいつってのは誰なのよ?」
女看守は机に置かれていたホルスターを腰につけ銃をしまう。
「わからねえ。とにかく獰猛で危険な謎の生物だ。そして人間を食う」
「人間を?熊とかではなくて」
「熊なら可愛いもんだな。銃が効くんだからよ」
ホルスターにしまい込んだ銃に目を向ける。
「ないよりはあった方が安心するだろ?」
「これで心もとない装備ということね」
「ああ、話が早くて助かる」
「それで、そのあいつってのはどこら辺にいるかわかるの?」
「いやまったく。…俺たちはここであいつの気配が消えて1日が経ったから、俺が外をぶらついていただけだ。気配はまったくなかったな」
「そう」
他の2人は会話に参加せずに天井を見ていたり銃の感触を確かめたりしているだけだった。そして座り込んで銃を手で遊ばせていた男がつぶやく。
「もう一つこいつに意味があるぜ。自殺用にな。生きたまま食われる前に自分の脳天貫いて昇天するためのもんだ」
ブラックジョークかと他2人の反応を待っていたが黙ってしまった。女看守は3人を観察するが、いまいち身のある情報をもたらしてはくれそうにないと、監視カメラが起動している画面を眺める。場が静かになって数秒、画面内で何か大きなものが動いていた。
「ねえ、あいつがいるわよ!」
静寂を破ったのは女だった。起動している監視カメラを指差していた。
「ヒト?」
「手は2本、足も2本。二足歩行で動いている人型。だが、体を纏う不気味な瘴気のようなもので顔の細部はわからない。そしてそいつは背丈で言えば俺の倍以上ある。そして人間を食う」
人間を食う。
この謎の生命体は人間を食い物にする化物だという。女看守は自分が起きたあの牢屋を思い出していた。あれだけひしゃげた鉄格子はこの化物の仕業だった。
「ねえ、匂いとかで付けられていたりしないわよね?」
「さあな」
この正体不明の生き物をは知っている。体の震えが女看守にそう伝えていた。
やる気が出たら更新します