地下道と凍てつく獣
―第19説 地下道と凍てつく獣―
「くしゅん! 」
全力疾走する選也の遥か後ろから、くしゃみの音が聞こえた。選也はそれに溜め息をついて立ち止まり、振り向いて、叫ぶ。
「早く来いよ。」
周囲には選也が手にした携帯の画面の他に明かりは無く、辺り一面は黒のインクで塗りつぶされたように、ねっとりと淀み、筒の内側の様な天井は、選也の声を幾度も反射して、道の脇の流水音と混ぜていった。
そして、そんな反響の中に、遅れて加わる間隔の定まらない、不器用な足音と、それに伴って黒いカーテンの向こうから、ぼんやりと現れる秀真の姿。
秀真は弱気な声で、選也に言う。
「寒いし、もう上に戻ろうぜ。」
選也はその提案に呆れたように首を振ると、秀真が追い付いたのを確認してから、
「なに言ってんだ、勝つためだぞ。」
と秀真の背中を押し、先程のように、また走り出した。
それは、肌寒さの原因を、ここが光が入らない上に、冷たい生活用水が常に流れている場所だからだろうと、大して問題視してはいなかったのと、やはり、勝ちたいという欲が理性に勝っていたからに他ならない。
しかし、大抵の人は分かるだろうが、そうやって焦っている時は大抵失敗するもので、選也もその例に漏れず、少し後、この判断を後悔することになる。
「なんだ? 」
突然、足を伝う感覚が、コンクリートのそれから、固く脆い何かに変わり、ガラスが割れるような甲高い音と共に自分の吐く息が白く濁り、言い様の無い威圧感が選也にのしかかった。
更に言えば、選也の進行方向の先には二つのアーモンド型の青白い光が浮かび、それが大きく上下に動きながら、この暗さでも分かるほどの勢いでこちらに向かってきている。
「はは、嫌な予感。」
言葉とは違い、それは予感などという曖昧なものを越えて、最早確信だった。そして、その確信はすぐに実体となり、線状の残像を残しながら飛び出し、選也の後ろにいた秀真を、闇のなかに突き飛ばして、不気味な呻き声を上げ、選也の前に降り立った。
そうして、ようやくはっきりと見えたその姿は、馬ほどの大きさの《獣》である。ただ勿論、犬猫のような、ただの獣ではない。
その体表には柔らかい毛の代わりに、ガラスのように透明な、鋭いトゲが生え、からだ全体も同じように透けている。そして、その丸見えの体内には内臓の類いが一切なく、とても生物とは言いがたい様相をしていた。
「完全にモンスターだよ、ありがとうございます! 」
選也は泣き笑いながら、次に飛んできた前足での攻撃を避け、一度床についた手を次の攻撃に対処するために構えた。
しかし、予期した攻撃が来る前に、獣は選也の後ろから吹き出してきた、太い、円柱状の水流によって、元来た道へ押し戻される。
水柱の原因は、勿論、秀真だ。
秀真は、獣に吹き飛ばされたときに水路に落ちてしまったのか、ずぶ濡れの姿で、悲しそうな声を上げた。
「ああ、今日は厄日だよ………。」
しかし、そんな文句を言いながらも、その腕は、しっかりと闇の先にいる獣に向けられ、視線は不満そうに選也を捉えていて、どうやら取り乱してはいなそうだ。
選也は秀真の視線に気づいて、手近な壁に腕を向け、魔法陣を呼び出す。
「言わなくても分かってるよ、早く終わらせればいいんだろ。」
投げやりな言葉と共に魔法陣から放たれた光は攻撃ではなく、相手の居場所を正確に捉えるための手段。それは瞬く間に、周囲を昼の明るさに変えた。
「行くぞ! 」
そして、選也は床と水路に張った氷の上を滑り、まだ身体についた水を身体を大きく震わせて払っている獣との距離を一気に詰めて、体表の氷に触れる程の距離から、詠唱をする。
秀真はそれを慌てて追いかけたが、階段の時と同じく、一歩目で転倒し、背中を氷に叩きつけ、しかもそれが運悪く水路の上だったため、この零下の中、もう一度水にダイブすることになった。
本当に今日は秀真の厄日らしい。
大きな水音と重なるタイミングで選也の手のひら辺りに呼び出される、それぞれが別の方向・速度に回転する二重の魔法陣。
それは、水路からの雑音をものともしない程の轟音を立てて、重量さえ感じる特大の炎を漏らし、一撃で、獣の半身を奪う。
「おし、効いてる! 」
選也はその威力に、思わずガッツポーズを決めた。やはり、《魔法》と《神術》の合わせ技は、魔法単品よりも威力を稼ぎやすい。
だが、そうやって喜んでいられたのも僅かな間で、選也の笑顔は襲いかかってきた獣の唸りによって直ぐに消え、その体は壁に叩きつけられる。
「は、なんで!? 」
肉体を大きく損傷してもなお、最初と変わらないか、それ以上の身体能力をもって飛び付いてきた獣に、選也は痛みや恐怖の言葉よりも疑問を投げ掛けた。
「選也! 」
やっと水から上がってきた秀真は、選也を前足で押さえつけている獣に、水鉄砲を放ち、打ち出された弾は迷いない軌道を辿って、獣の頭を貫く。
弾が通りすぎた一瞬の間の後、獣は大きな音を立てて、その身の破片を撒き散らした。選也は飛んできた破片の危険を避けるために目を瞑る。
手が自分の体を離れる感覚。
「やった、のか? 」
しかし、期待と安堵で目を開けた選也は驚愕した。
獣は頭を完全に失っても、何一つ変わらず、選也の目の前で、自分の服に魔法陣を浮かばせて、魔法を放ちながら逃げ回る秀真を追いかけていた。
「不死身かよ………。」
選也の口から、歪な笑いが溢れる。
勝てないかもしれない、その思いが始めて頭をよぎったのだ。
「逃げた方がいいよな………。 」
そして、選也は立ち上がって、もう一度、炎を獣に向かって呼び出すと、秀真の手を取り、
「お前の言った通りだ、上に戻ろう。」
と言って元々向かっていた方向に走り出す。秀真は驚いた様子で暫し、瞬きを繰り返していたが、獣が呻き声を上げて、身体を再生させるのを見て、急いで選也と歩調を合わせた。
「あいつ、復活まですんのかよ! 」
後ろから迫る氷の砕ける音と、重なる焦った隣からの声。
選也は走りながら床に一瞬手をつき、それから、一番近いはしごの所に、このゲームで最初に使った、跳躍用の魔法陣を作る。秀真はそれに合わせて、はしごの上のマンホールを水で吹き飛ばした。
獣の動きは、選也が先ほど仕掛けた、足止めの魔法陣を踏んで、ほんの一瞬止まる。
そして、獣が動き出した時には、二人は魔方陣に飛び乗っていた。
―つづく―




