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俺と幼馴染と彼女




中学二年、彼女が出来た。

降って湧いた様な話で、まさしく青天の霹靂。

なにせ入江陽菜乃は学校一の美少女だ。

その彼女からサッカーしか取り柄のない俺が告白されるなんて誰が想像したことだろう。


もちろん俺だって驚いた。

むしろ俺が一番驚いたのではないか。


クラスメイトや友人知人、どころか他学年の知らないヤツ、果ては教師にまで逆シンデレラストーリーと揶揄されたけれど、俺はへらへらと笑うばかりで反論の一つもしなかった。


だってそうだろう?

俺だって彼らと同じことを思ってたんだから。


千紘だけが祝福の言葉をくれた。


「おめでとう!」


開口一番、そんな言葉が出てくる千紘の方がおかしい。

もごもごと煮え切らない俺に、けろっとした顔で、驚く事でも何でもないのにね、なんて彼女は言った。


「だって、リツは誰よりもカッコいいもの。当然よ。わたしを誰だと? リツの幼馴染よ? つまり、リツのことを一番よく知ってるの! そのわたしが言うんだから間違いないわ。それともわたしが信じられない?」


もちろんそれには首を横に振る。

千紘の言葉を疑ったことはない。

結果、間違っていたことだってあったけど、俺はそれでも自分の意志で信じることを決めていた。


「自信を持って! 不釣り合いなんかじゃ全然ないから」


学校のアイドルと俺では不相応ではないかと縮こまる心はその一言であっさりと晴れて、俺は誇らしい気分になれた。


「ほら、しっかり! これから彼女を守っていかないといけないんだから」


ばしりと悪戯な笑みで背中を叩かれる。

痛くとも何ともないけど、蹈鞴を踏んだふりをした。


腰に手を当てて、偉そうに説教を垂れる千紘につられて幸福感がいや増すから、照れ隠しだ。


――でも、と千紘が寂しそうに微笑むまで。


「リツ、もうあまりわたしと親しくしてはダメよ?」

「え、なんで」


俺は意味がわからず、訝し気に千紘を覗き込む。


「恋人ができたなら、その人を一番大事にしなきゃ」

「そりゃ当然そうするさ。でも、それと千紘と何の関係があるんだ」


千紘はゆるゆると首を振った。

わからないの?

そういう仕草。


わからないよ。

恋人と千紘に何の関係があるって言うんだ。


「恋人ができた人とは一緒にいられないわ」


どうして?

千紘は一体なにを言っているんだ。


俺は混乱する頭で、たった一つの事実と真実を口にした。


だって、


「――だって、俺たちは幼馴染だろう?」


血の繋がらない家族のようなものじゃないか。

その関係は、変わらないはずではなかったのか。


「幼馴染でも、よ」


困ったように千紘が繰り返した。


「幼馴染だから、よ」


昔千紘が言った。

幼馴染は家族じゃない。

幼馴染は恋人になれない。

でも、一生幼馴染なんだと。


だから俺はそれでいいかと納得したのに。

そこに切れない絆があるなら、それでいいと。

千紘が傍にいるなら、なんでもいいや、と。


「リツの幸せを邪魔したくはないわ」


『幼馴染』と『恋人』の存在の両立は成り立ちにくい。

バランスを取るのがとても難しいから、だからなかったことにしようと千紘が言うのだ。


「少し寂しいけど、きっとすぐに慣れるわ。お互いに友達が出来て、毎日一緒には居なくなった小学校の頃みたいにね?」


穏やかな千紘の表情に嘘は見えない。


「なんで……」


その疑問に意味はなかった。

理不尽さが口から零れただけの言葉。


でも千紘は答えをくれた。

少しだけ後ろめたそうな表情が見え隠れする。

責められていると、きっと彼女は思っているのだろう。


「――だって、幼馴染は他人だもの」


他人なのよ、リツ。

囁きのような声に、ひどく裏切られたような気分になる。


他人(彼女)から見たわたしは、ただの『異性』よ」


幼馴染は恋人にはなれない。

恋人ができたら一緒にはいられない。


「じゃあ、俺に一体どうしろっていうんだ!」


俺はかっとして声を荒げる。


「なにも。――ただ幸せになって。本当のリツを見てくれた人と。本当のリツを好きになってくれた人と。手をつないで、離さないで。邪魔なものは捨てるの。一瞬でもその手が離れないように、今のうちに全部、全部」


一か、百か。

それしか選択できなかったのは、俺じゃなくて、本当のところ、千紘の方だったんだろう。

俺はきっと、他に道を示すことが出来た。

そうするべきだった。


でも、

俺は感情に飲まれた。


「わたしはいや。好きな人の傍にいる女は嫌い。……大嫌い」


泣きそうな顔で千紘が言う。

俯き気味の額に軽く乗せられた手。

それに遮られ、千紘の表情が隠れる。

千紘がする、顔を見られたくない時の、いつもの仕草。


きっと、千紘からも俺の顔は見えないだろう。

――ああ、視線を外してくれてよかった。


そんなことをぼんやりと思った。


渦巻く不快感が、口の端を持ち上げる。

笑ってるようにも見えるかもしれない表情の奥で、全力で歯を食いしばった。

いま口を開いたら何を言うか自分でもわからない。


「わたしは、自分の嫌なことを、あなたの大切な人にしたくはない」


千紘が苦悩を言葉にする。

でもそんな話はどうでもよかった。


もっと大事なことがある。


ねえ、千紘。

誰の話?

いつの話?

その感情をなぜ知っているの。

その感情を君に教えたのは、だれ?

――だれだ?


美術室の絵を思い出した。

魂ごと、人を愛する女の絵。

誰かを、愛していた女の絵。

ちかちかとフラッシュバックする光景の中に、どこかで邂逅した顔のいい男が一瞬だけ閃いて消える。


吐き気がした。

嫌悪に似た感情を言葉にしてしまわないように、固く口を閉ざす。

口を開いたら、出て来るのは罵倒なのだろうか、それとも拒絶の言葉なのだろうか。

自分でもわからない。


熱い、と単純な感想を抱いて気付く。

体中の血が沸騰したような感覚。

今なら触れたもの全て、コンクリートすら溶かせるのではないかと、馬鹿なことを考えた。


頭がひどく痛む。

眼球を刺す様な頭痛が理性を削っていく。


思わず千紘の細い肩に目がいった。

肩に続く、白いうなじに。

その片手で絞められそうな首に。


触れることなんて出来るわけがないから、壊れ物を扱うかのように慎重に、そっと千紘の手を取る。

ずっと、幼い頃から握ってきた手だ。


少しひんやりとする、いつもの温度。

体中に渦巻いていた熱量が、それだけで少し静まるから不思議だ。


自分とは別の生き物なんじゃないかと見紛う繊細な作りの手を、なおさら柔らかく握りなおした。


でも、千紘は俺の手を握り返してはくれない。


「あなたはわたしの大切な人。だから――」


この手を離して。

彼女(恋人)の手を掴んで。


千紘が頼むから。

千紘が泣きそうだから。


俺は断る術を持たない、ただの情けない男に成り下がった。


「他人じゃないよ、俺たちは」

「……うん、そうね」


そうして、俺は千紘の手を離した。




俺は幼馴染と距離を置く代わりに、恋人を得た。

結局、千紘の判断は正解だったのだろう。

古今東西、恋人を持つ者が選ぶべき正しい回答。


彼女になった入江陽菜乃は、本当にいい女だった。

いま思い返してもそう思う。


可愛くて、優しくて、とても強い。

千紘にはないものをたくさん持っていた彼女は、異性を千紘しか知らない俺にとって驚きの連続だった。


当然のこと、彼女もまた俺と同じように多くの人間に揶揄された人間だ。


「なんで大島なの? 陽菜乃ならもっといい人いたでしょう?」

「いないわ。律が私にとって一番『いい人』だもの。どうしてそれを他人にとやかく言われなきゃならないの?」


誰にからかわれても物怖じしない姿勢は見惚れずにいられない。

俺は浮ついた心を正すことにした。


ぎくしゃくと緊張しながら歩いた放課後のデート。

ファミレスで彼女が頼んだスイーツはモンブラン。


きっと俺は意外そうな顔をしたのだろう。

入江がくすくすと笑う。


「ねえ、今だれの事考えてた?」


そうするときつめの目尻が下がって、途端に少し幼く無邪気に見える。

発見だった。


「だ、だれって……」

「ふふ、世間一般のオンナノコが好きなものじゃなくて、私の(・・)好みを知ってほしいな?」


咎められた気がしてついどもった俺に、入江は大きな目をぱしりと閉じてウィンクで茶目っ気を演出した。

一瞬不意をつかれて、俺は少し赤くなる。

その台詞は、告白以外のなんでもない。


「それで、私もオトコノコがみんな好きなものじゃなくて、大島くんの好みが知りたいかも?」


真っすぐな好意に、こくこくと頷く以外に男ができることなんてない。


「お、俺、わりと甘党なんだ。頼んだケーキ、一口貰えたら嬉しいんだけど、……もちろんイヤなら、」

「うれしいわ」

「え」

「とても、うれしい」


力強く、区切るように伝えられた言葉。

少しの緊張が彼女の頬を紅色に染めている。


薔薇のように、陽菜乃は笑った。

感嘆。

単純な称賛。

陽菜乃は、美しい。

噂に違わず、いやむしろ実物の方がよほど美しかった。


「よし、覚えた。俺の彼女(・・・・)の好物はモンブラン」

「私の彼氏は甘党」


眩しさに陽菜乃の顔を直視できなくなった俺が視線を外すための苦肉の策で、新しく知った事実を声に出すと陽菜乃が間を置かずに続いて、そのタイミングに二人して笑った。


こうして少しずつ互いを知り、近付いていこう。

好きになるってのは、きっとそういうことだ。

なんてことのない日常の風景。

でも、彼女を好きになれると確信した出来事だった。


この時、陽菜乃に言わなかったことが一つある。

『世間一般の女の子』ではなく、俺が思い浮かべていたのは『千紘』だったということ。


待ち合わせの度に、お決まりのショートケーキを俺が先に注文しておくことはもうないのだろう。


俺が男子にしては甘党だと知った陽菜乃は、時々お菓子を作ってきてくれた。

クッキーだったり、ケーキだったり、冷菓子だったり。


もちろん俺は喜んで食べる。


「サンキュー、陽菜乃! 部活のあとで食べるわ」


糖分と炭水化物は部活終わりの疲れた体には最高のエネルギー補給だ。


「大島、おれにもくれ! 恵まれない男子に愛の手を!! 入江、いいだろ? 少しくらい貰っても」

「律がいいって言ったらね」

「やらねーよ。全部俺が食う。欲しけりゃお菓子を作ってくれるかわいい彼女を早く作るんだな」

「くそー! このリア充め!」


クラスメイトや部活仲間がそれを掠め取ろうとするのを死守したり、からかわれたり。

そんな様子を陽菜乃は嬉しそうに見ていた。

俺たちを不釣り合いだと噂する声はもうほとんど聞こえない。


それは陽菜乃の揺るぎない愛情と、努力のおかげだ。


千紘の言った通り、大事なものを間違えてはいけない。

よくそれを心に刻むようになった。


ある日のことだ。

部活で疲れた体を引き摺って帰った家で。


「あ、律おかえり」


母の声はくぐもっていた。

つまみ食いでもしているのだろうか。


覗いたダイニングテーブルには見覚えのあるケーキ。

母は最後の一口だったらしい自分のケーキを飲み込みながら俺の目線を追った。


「今日ちぃちゃんの所にお邪魔して一緒に作ってきたの。あんた好きだったでしょ? 食べたいだろうと思って残しておいた。どうする、いま食べる? あとにする?」

「……いらない」

「え?」

「彼女が、ケーキ作るの好きなんだ」


母の戸惑う顔が見れなくて、持っていた荷物を床に置く行動で誤魔化す。


「あ~……それは母さんの配慮が足りなかったかも」


ごめんね、と母が謝った。

別に誰も悪くないのにな、なんて不満にも満たないかすかな澱を心に溜める。


「これは母さんが食べるから、あんたは気にしなくていいわ」


俺を揶揄うこともなく真面目に答えた母の、いつになく素直な様子に、なんとなく俺は口を開く気になった。

意味のない、結論もない、だから本当は声にする必要もない、そこにあっただけの、ただの事実を。


「なあ、俺、自分が甘党だと思ってたんだ」

「甘党でしょ? 昔からケーキ好きだし」

「そのケーキ、かなり甘さ控えめだったって、知ってた?」


母は答えなかった。

多分、知っていたんだろう。

俺好みの、俺のために作られたものだったこと。


「俺は、知らなかった」


千紘以外のケーキを食べたことがなかったから、知らなったのだ。


「ぜんぜん、知らなかった」


自分の事ですらこのざまだ。


ありがたいことに、母は「だから?」とは聞いて来なかった。

俺も、何も言わなかった。




俺と陽菜乃は時を重ねる。

少し冷たい手は暖かな手に取って代わって、それに戸惑うこともなくなり、隣にいるのが陽菜乃であることに違和感もなくなった。


「え、律のどこを好きになったのかって? 今さらそれを聞くぅ?」


文句を言いながらも、陽菜乃は答えてくれた。


「私ね、それなりにかわいいでしょ? いつもちやほやされるの。たくさんの人に好かれやすいのはとてもうれしいわ。でもね、私の周りには私のことを好きじゃない人たちもたくさんいる。どうしてかわかる? 嫉妬してるんじゃない、意地悪してるんじゃない、ってアピールしてるだけ。可愛いものを可愛がってる自分を見せたいだけ。それで、陰で言うの。『あの子、変わってるよね』って。『自分の事かわいいってわかってるからたちが悪い』って。悪質になると『男みんなに色目使ってる』なんてのもあったかな? 女の子だけじゃないのよ? 男の子たちもみんなそう。勝手にこんな子なんじゃないかって想像して、そうじゃないとがっかりする。その癖、いつも『あわよくば』って探る様な言葉ばっかり投げかけてくる」


陽菜乃はくるりと俺を振り返って大輪の花のように笑った。


「律は違った。他の皆を見るのとおんなじ目で私を見てた。謙るのでもない、卑屈にもならない。対等に、私と目を合わせてくれた」


小首を傾げる仕草は躊躇の証。

不安と緊張が混ざっている証拠。


ね、と陽菜乃が俺に声をかけた。


「律は? 私の事、少しは好きになってくれた?」


初めの、浮かれるばかりで好悪以前だった感情はバレてたらしい。

告白に有頂天になって、陽菜乃のことが二の次だった頃のことだ。


俺は穏やかに笑って、なんてことのない会話の続きのように答えた。


「好きだよ」


好きにならないわけがない。

するりと抵抗なく出てきた言葉は真実。

ほんの小さな仕草で感情を読み取れるくらいに、隣で見ていた。

笑い、怒り、悲しみ、喜ぶ顔を。


「ど、どんなところが?」

「そんなところが」

「わかんない!」


でも、うれしいから許す。

陽菜乃はくるくると回った。


俺ははしゃぐ陽菜乃を見て、声を上げて笑う。


手を差し伸べる。

陽菜乃は躊躇いなくその手を掴んだ。


これでいい。

俺はこの子と、生きていこう。






中学三年、彼女と別れた。


それだけの話。

よくある青春の話。


俺には後悔と、罪悪感と、痛みが残った。

彼女には、陽菜乃には、トラウマと、魔法耐性と、友人が。


千紘には、

千紘は、


――ただ、失っただけだ。


「ごめんね、リツ。わたしの魔法は、あなたを幸せにできなかった」


千紘は俺の人生の重大な選択肢を間違えてしまったと、謝った。


――それはきっと思い上がりだよ。

声には出さない声で言う。


人生には無数の選択肢があって、人生の岐路のように思えた分岐ですら、振り返ってみれば他の小さな選択となんら変わりのない結果になったりする。

踏み外したと思った足は、隣のレールを踏んだだけだし、なんなら隣のレールは元のレールと合流したりもする。

だから、この事件だって俺の人生に置いてはやがて紛れていく選択の一つ。

そして、なるべくしてなった結果でしかない。


だから、千紘が責任を感じる必要なんてどこにもない。


責を負うべきは、だれか。

そんなのは明白だった。


後悔と自責の念が俺を苛む。


「いってぇなあ」


心臓を握るように右手を胸にあてた。

その仕草はこの頃から俺の癖になった。


痛い。

心が、死ぬほど痛い。


でもそんな顔を見せれば千紘が悲しむから。


俺はなにも知らないフリで。

なにも気付いてないフリで。

全部が解決したような顔で。

何もかもが元通りみたいに。


「笑え」


笑え。

自分に命じる。

そうでもしないと泣いて縋って謝って、足元に跪いて許しを請いそうになる。


千紘はそんなこと望まないから、俺は無理にでも千紘の前では笑う。


千紘はもう、美術室にはいない。

見上げる窓に、その姿を見ることはもうない。


千紘は、絵を描くことをやめた。


「もう受験だからね。部活は卒業」


そう言って千紘は屈託なく笑う。

後悔なんて微塵もない顔で、笑ってくれる。


俺が気が付かないわけがないのにな。

馬鹿な千紘。

どれだけ俺がお前を見てると思ってるんだ。


千紘は少しだけおっちょこちょいになった。

時々、うっかり物を落とす。

しっかり者の千紘だけに、前にはそうそうなかったことだ。


持っていた教科書やペンケースを、力が抜けたみたいにするりと手から滑り落とす。

一瞬遅れて不思議そうに、「あれ?」なんて顔で落とし物を見る。


ハサミや包丁のような危険なものは決して左手では取らず、持たず、運ばなくなった。


だから、――もう、パレットも握らない。


どうしても続けたかったわけじゃない。

続けられないわけでもない。

ただやめる切欠になっただけ。

千紘はきっとそう言う。

そしてそれは多分事実だ。


俺が傷付くのはお門違いだとわかっている。


でも思うんだ。

こんなことがなければ千紘はきっと、

たまに。

でも一生、絵を描くことをライフワークみたいに続けていたんじゃないかと。


放課後、俺は相変わらず転がったボールを追いかける。

千紘だって変わらないはずだった。

あんなことさえなければ、そこにまだ、彼女の姿はあったはずなのに。


美術室を見上げる習慣がいまも抜けない。

そこに千紘の姿がない事に違和感を抱き、俺は情けない顔をする。

未練がそうさせる。


「くそ」


不甲斐なさが心を苛む。

泣く権利もないから苛立ちを手の中のボールにぶつけた。

跳ね返った拳は、手ごたえを伝えてこない。

まるで俺の空っぽな中身みたいだった。


俺は俺を苛む痛みと毒を消化できず、確かに腐ろうとしていた。


俺も部活をやめればいいのだろうか。

だけど、突然部活をやめた俺を、千紘はどう思う?

気が晴れるのは俺だけだ。

一生守ると、騎士のように宣言でもすればいい?

戸惑わせるだけだろう。

千紘は喜ばない。


右にも左にも道がない。

もういっそ、自暴自棄に流されて責めてしまいたくなる。

千紘を。


俺は、そんなこと望んでなかったのに、とでも。

自分勝手な言葉だ。

だから言わない。

絶対に言わない。


でも、もしも口にしたなら、千紘は泣くだろうか。

泣いてくれるだろうか。

傷付いてくれるだろうか。


俺は、……俺は、きっと絶望するんだろう。

時を戻せたら、と。

取り返しのつかない言葉を取り戻そうと足掻いて、取り戻せない事を知る。


千紘を失った俺に、なにが残るのか。

なにもない。

何も残らない。

なら、もう、そうなる前に、

そうだ、


「――笑いなさい」


時々、罪悪感でとち狂った行動に出そうになる俺を止めるのは、俺の理性ではない。

俺には、抑止力があった。

それがタイミングよく発動したのだろう。


「笑いなさい、大島」


ぐずぐずと溶ける思考を一喝したのは、俺の声じゃなかった。


「無理にでも、笑うの。それが最低限の、私たちの義務よ」


いつも自分に言い聞かせている、心の中と同じ内容が耳に突き刺さる。

聞きなれた声。

渡り廊下から、睨み殺しそうな視線。


けれど俺が振り返って目が合う前に、入江陽菜乃は身を翻していた。


彼女なりの、叱咤激励だ。


入江のおかげで我に返った俺は、その背中に感謝の言葉を心の中(・・・)だけで返した。

きっと言葉を交わすことを入江陽菜乃はまだ望んではいないだろう。


柔和な笑みを向けてくれていたかつての恋人は、もうその目を和ませてくれたりはしない。

その瞳の奥にはまだ時々、俺が敬遠した狂気のような熱量が混じるけど、俺はいつも振り切るように目を閉じる。

応えたりはしない。

彼女だって、応えて欲しくはないだろう。


それは彼女の戦いで、これは俺の戦い。


入江陽菜乃はもう恋人ではない。

でも他人でもない。

元恋人、なんて陳腐なものでもない。

世間で言われているように、俺が入江に向けるのは無関心ではなく、入江が俺に向けているのは憎しみではない。


多分、俺たちは『同士』なんだろう。

同じ罪を背負い、同じ後悔を抱き、贖罪を願う、同士だ。


俺と入江は似ている。

最近気づいたことだった。


入江の目に既視感を覚える。

あの感情に親近感を覚える。

俺はあの感情をよく知ってる。


前から、知っていた。


吐き気を伴う頭痛と、体中を燃やす様な熱に炙られてマトモな思考が溶けだす感覚。

身を任せたら、きっとかつての入江のようになるのだろう。


視界に映る窓や鏡の中に、同じものを見たことがある。

ぎらぎらとした光と、混沌とした色をない混ぜた、強い感情を物語る瞳。

千紘の絵に似た、なにか。


「……認めたくないなぁ」


目を背け続けていた事実も、さすがにもう目を瞑らせてはくれない。


ソレを感じる時。

いつもそこには千紘がいる。


片目だけ、薄眼を開いて確認して、すぐにまた閉じた。


とても、認めたくない。


自分の手を見る。

握って、開いて、誰の手ともつながっていない手を。


「もう、掴んではくれないだろう……」


手は離してしまった。

俺は手を離すことを選んでしまったのだ。

そして千紘を傷付けてしまった今、差し出す勇気は、もうない。


今更だ。

本当に、今さらだった。




中学時代は穏やかに終わった。

振り返ってみれば、変化目まぐるしかった日々だった。


「あっと言う間に背、追い越されちゃったね」


千紘は俺と話すときに少し上を見なければならなくなったし、その間に俺は千紘以外の居場所を知り、失った。


千紘とも元に戻ったようでいて、かつてのような近しい距離を取り戻せてはいない。


変わらず幼馴染というヒビだらけのカテゴリーで括られていることがせめてもの救いだ。

このままこの檻が壊れない事を心から願っている。


最後の一番大きな変化は、言葉を交わさなくなった元恋人とも再び話すようになったことだろうか。

時間が癒すものの大きさに感謝する。


今も目だけは合わさないけど。

かつての名残はそれだけになった。

向かい合って会話できる日も、いつかはくるだろう。


「ちょっと、人の友達をなんて目で見てるのよ。通報するわよ」


卒業の間際。

教室の窓枠から帰途につく生徒たちの後姿を見ていたらそんな声が後ろからした。


「そりゃ勘弁。……参考までに聞かせてもらいたいんだけど、どんな目だった?」

「飢えたケモノ。よだれが幻視できたわ」


ははと苦笑いを返す。

入江はちらと俺を見て、少しの距離を開けて隣に並ぶ。

正面には立たない。

それが俺たちの暗黙の了解。


「空腹に乗っ取られて襲わないでよ?」

「やるかよ!」

「どうだか。少なくとも、私は許さないからね。そんなチンケな感情に流される小物に大事な友達は任せられない」

「いつからボディーガードに転職したんだ、お前は」


茶化して終わらせるはずだった俺の言葉に、入江は至極真面目に答えを返してきた。


「なんでもするわ。千紘が幸せになるなら、なんでもする。贖罪はきっと千紘が望まない。でも、幸せの手伝いくらいなら、してもいいでしょう?」


千紘は絶対に、幸せになるの。

ダメなら私が幸せにするの。

固い意志が見て取れた。


ちなみに、と入江は低い声で続けた。


「今のあんたは絶対に願い下げよ。覚悟が決まってから出直してきて」


睨まれたのが気配でわかる。

片眉を器用に上げて答えとした俺を見て、ふんと鼻を鳴らし入江は踵を返す。


その背に、小さな独り言のような声をかける。

聞こえなくても全然構わなかった。


「それを聞いて安心したよ」


お前みたいなやつが傍に居るなら、きっと千紘は安全だ。

相手が誰だろうと。

とち狂った行動に出た時は殴ってでも止めてくれるだろう。


「っだから!!」


かつかつと足早に近づく足音がしたと思ったら、後頭部を思い切り叩かれた。

手加減なしの一発はなかなかに痛い。


「あんたは煮え切らない情けない男のままだって言ってんのよ!!」


まったくもって道理だ。

俺は肩を竦めた。


入江の真っすぐな視線を久々に受け止めて、やはり彼女は美しいと思う。

思うだけだ。

俺が幸せにできなかった彼女の幸せを、心から願う。


同じように、千紘にも幸せだけを望めればよかったのに。

俺が入江に思うように。

入江が千紘に願うように。


千紘が、俺にするように。


彼女は文字通り身を削り、俺の幸せを願う。

血だらけの体で、幸せかと問う。


ああ、幸せだったとも!

残念ながら、俺は幸せだったのだ。


二人でいられた内は、千紘の献身は単純に俺を幸せにした。

代わりに俺が千紘にしたことは、甘え、寄りかかり、全幅の信頼を寄せること。


そんな俺に、もうやめてくれと叫ぶ権利があろうはずもなく。

ならば、俺はどうすれば贖罪に足るのだろうと、今はそればかり。


捻じれて、歪んで、俺たちは複雑になり過ぎた。

今さら素直に手を差し伸べられないし、その手を取ってくれることもないだろう。


一番近くて、でも届かない。

そういう場所に千紘はいた。


俺は深いため息とともに完全に目を閉じる。

自分の感情と向き合うことすら、今は億劫だった。


逃げられるうちは、逃げていよう。


どうせ、いつかは捕まる。

否応なく、向き合う日がやってくる。


――きっと、遠くはないだろう。






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