表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/10

幼馴染と俺

律編です。



幼馴染の話をしよう。


俺の、大切な幼馴染の。

俺の、魔法使いの話だ。


相澤千紘は魔法使いだ。

でも、それよりも先に、俺の幼馴染であっただけの話。


これは、そういう話。





今も思い出す。

くすくすと、笑い交じりに、からかいを含んだ声で千紘は聞いた。


「わたしが魔法使いだって言ったら、信じる?」


まだ小さな頃のこと。


俺にとってその質問は今更過ぎて、ただただ驚いた顔を返した。


俺はそんなこと、とっくの昔から知っていたのに。

千紘はその出来事を覚えていなかったらしい。


少し悔しかったけど、得意満面の笑みを見るとどうでもいいかという気分になってくるから不思議だ。


俺が初めて魔法を見たのは、千紘が俺に魔法をかけると言い出すよりずっと前のことだ。


あれは互いの両親に連れられて、夏祭りに出かけた時。

俺たちは初めて浴衣を着て、普段は出歩かせてもらえない時間帯に家を出、立ち並ぶ屋台と人の多さと、それらが作り出す空気、そんな特別感にワクワクしていた。


わたあめ、水風船、りんごあめと金魚すくい。

あまり表情が豊かではない千紘もその時ばかりは笑顔を零していた。


両親と繋ぐ手は、買ってもらったもので一杯。

俺は唯一空いていた手で、両親ではなく千紘の手を掴む。


当たり前のことだった。

俺の隣には千紘がいるものなのだ。


両親から向けられる生温い目は昔も今も変わらない。

もう気にもならなくなっていた。


きょろきょろと物珍し気に、周りに気を取られていた俺と千紘は気付いた時には二人きりになっていた。

俗に言う、迷子だ。


人ごみに紛れて立ち止まってしまった俺たちに、足元に注意を払わず談笑しながら歩く大人たちの足がぶつかっては慌てて避けていく。


でも、足元の障害物の正体に目を止めてくれる人だっている。

俺たちはまだ幼くて、見た目にも保護の必要な子供そのものだったから、手を差し伸べてくれる人はきっと多かっただろう。


その人が一人目だったのは、だからただの偶然。


「――おや? 両親とはぐれたのかい」


声をかけて来た人の顔を俺は覚えていない。

記憶が正しければ、男の人だったのではないだろうか。


「うん」

「そうかい、それは不安だね。おいで、連れて行ってあげよう」


疑いもなく頷いた俺は人の親切心をまだ疑うことを知らなかった。


「ちぃちゃん、いこう」


素直についていこうとした俺を留めたのは柔らかな手。


――くん、と手を引かれる。


伸びた自分の手の先を辿ると、千紘の頭が必死に横に振られていた。

せっかくきれいにまとめた髪がほどけかける程の激しさだ。


「ちぃちゃん?」


どうしたのだろうと、顔を覗き込む。

でも千紘は言葉を失ったかのように口を固く結んで、ぐいぐいと俺を引っ張り続けた。


俺は不思議そうな顔をしているおじさんの顔を見上げ、千紘を見て、すぐに踵を返した。


「あ、おい!」


思いの外大きな声に俺の手を引っ張り、先に走り出していた千紘の肩が跳ねた。

ぎゅっと強く、千紘が俺の手を掴み直す。

絶対に離すものかと、言われてる気がした。


「リツ、はしって!」


後ろを振り向かず、千紘が言う。

だから俺は走った。


千紘より俺の方が足が速い。

いつの間にか先導していたのは俺だった。

その手を離さず、駆けて駆けて、駆けた。


どこをどう走ったのかは覚えていない。


俺たちは人ごみをかき分けて、傍の森に逃げ込んだ。

神社脇の、立ち入り禁止区域だ。

今となってはただの雑木林も、その時の俺には人を飲み込む鬱蒼とした森に見えて、ひどく心細くなった。


疲れた足が強制的に止まって、俺たちはきょろきょろと辺りを見回す。

闇が迫ってきて飲み込まれそうだった。

千紘の存在だけが唯一の頼りであるような気がして、俺は絶対に離すものかと強く握る。


相当な力だったと思うのに、千紘は文句ひとつ言わず、身を隠す場所を探して二人で隠れた。

息すら潜めなければ、なにかに見つけられて襲われるのではないかと、漠然とした不安がやってくる。


「リツ」


ちぃの声は暗闇にことさら大きく響いた様な気がする。

思わず身を竦めて、そっと辺りを伺った。


「ごめんね、リツ。人がおおいばしょで、だれかに助けてってさけべばよかったんだ。わたし、うまくできなくて、にげなきゃって、それしかかんがえられなくて……」

「だいじょうぶだよ。ふたりなら、きっとへいき」


千紘の手は震えていた。

でも、本当に震えていたのは俺の方だったのかもしれない。


「リツ……」


俺を見て、千紘は情けない顔をした。

それからなにかを必死に考える素振りをみせる。


きっと、俺の気を紛らわせる方法を考えていたのだろう。


しばらくうんうんと悩んでいた千紘はそうだ、と顔を輝かせた。


「リツ、みて」


俺の手を離した千紘は両手を合わせてぐっと握ってからそっと離した。

そこに、触れたら壊れる大切なものでもあるかのように。


「――わぁ!」


俺は思わず感嘆の声を漏らす。

小さな千紘の両手にあったのは優しい仄かな、光。


俺が初めて見た魔法だった。


千紘は俺の顔を見て表情を綻ばせる。

柔らかな笑顔。

花が咲くみたいだと、俺はいつも心の中で思っていた。


「もう暗いの、こわくない?」


千紘はそう俺に聞いた。

俺は興奮でそれどころじゃなくて、ただ頷きを返すのみ。

それでも千紘は微笑みを深くこそすれ、絶やすことはなかった。


「そうだ」


いつまでも両手が塞がっているのが億劫だったのか、千紘は近くにあった花を一輪摘んで、そこに光を移す。


光る花。

魔法のランプだ。


光は提灯よりもぼやけたものだったけど、それを頼りに再び俺たちは歩き出した。


けれど、幼い千紘の魔法はそう長くは持たない。


まだ魔法を定める前の、純粋な魔力を体外に放出することは極めて難しいことなのだと知ったのは、それから十数年も後のこと。


「あ、……きえちゃった」


光は段々と弱まって、最後にはぱしりと小さな閃光を残して消えた。

手の中の花はもうただの花だ。

残念そうに呟くと、千紘がしゅんとうなだれる。


「――ごめんね」

「へいきだよ! ちいちゃん、ほらみて」


恐怖を払い、闇に慣れた目には道が見えていた。

月明りだ。

太陽の光と人工の光しか知らなかった俺が見つけた新たな光源はとても心強い。


足を止めた千紘を促す。


「こんどはぼくがちぃちゃんをつれてくよ! ぼくの手をはなしたらダメだよ?」


千紘は少し驚いた顔をして、あの花の笑顔で答えた。


「うん!」


結局俺たちは雑木林を抜けたところで大人たちに保護された。


幼馴染が魔法使いだと発覚した、俺にとっては大きな出来事だったけど、実は少しだけ続きがある。


例のおじさんはちゃんと目撃情報を提供していたらしい。

不用意に声をかけて、驚かせてしまったと両親たちに謝っている姿を見た。


「人を見た目で判断してはダメよ?」


そんな風に窘められたけど、俺は神妙に頷くだけで真実を話さなかった。

俺が信じたのは人の見た目でも自分の勘でもない。

千紘だ。

だから多分、同じことがあったら、同じ判断をするんだろうと思っただけ。


結論から言えば、結局は数年後に同じことが起こった。

その頃には悲しいかな、もう何度か経験していた事ではあったけれども、俺たちの身に誘拐未遂事件がおきたのだ。

しかも、突発的でもなく、ちょっとお話しようと強引に誘ってきたのでもなく、中々に用意周到なガチなやつ。


未遂に終わったのは、一緒にいた千紘の一言のおかげだろう。


「リツ、あの人……」

「あのひと?」


千紘の一言にきょろきょろとしている俺を余所に、千紘が俺の手を握る。

最近は人の目を気にして、あまり繋がなくなった手。

俺はすぐに事態を察した。


「――あの人だ。にげよう、リツ」


『あの人』が俺にはわからなかったけど、千紘は俺と違ってちゃんと顔を覚えていた。

魔法のことは忘れていたくせに、そんなことだけ覚えてるのが彼女らしいと言えば彼女らしい。


そして、あの時そう思ったように、俺はやっぱり千紘を信じて脱兎のごとく逃げ出した。

同じように、千紘の手を引いて。


男が数年かけて用意した罠は結局無駄になって、彼は強引な手段に出ざるを得なくなって、そして彼の欲望はあっけなく潰えた。


顛末が呆気なくとも、感情はそうはいかない。

俺たちに残ったのは恐怖だけ。

いつも通りの、深い焦燥感が疲労のように体を重くした。


警察が出動していつもの対応。

両親が駆けつけて諸々の手続き。

連れていかれた、いつもの病院。


あと何回、繰り返すのだろう。

あとどれくらい、無事でいられるのだろう。

あとどれくらい、生きていられるのだろう。


疲れたように二人で長椅子に座って、俺はそんなことを考えていた。


そんな俺に、千紘が囁くように小さな声で諭す。


「ねえ、リツ。あんな時は、ひとりでにげていいんだよ? わたしのこと、置いていってもいいんだよ? 手を、はなしても、いいんだよ?」


俺の方が、走るのが速い。

だから捕まったのは確かに千紘だ。


俺は何も答えなかった。

ただ繋いだ手を強く握る。


それを答えと取ったのか、千紘は力なく笑う。


「リツがひとりなら、逃げられてたかもしれないでしょう?」


千紘は、最近手をつないでくれなくなった。

でも、彼女が絶対に俺の手を離さない時がある。


事件はたびたび起きた。

俺たちはいつも一緒だから、千紘も否応なく事件に遭遇する。


今回はたまたま千紘だっただけ。

俺の時だってあるのだ。


そして、そんな時はいつだって、千紘は全身全霊をかけて噛り付いてでも俺の傍に居る。


――自分だって離さないくせに。

いまだにこの手が離れたことは、ない。


だから、俺はどんな時も、その手を離さない。


俺はこの頃、よく考えていた。


あと何回、繰り返すのだろう。

あとどれくらい、無事でいられるのだろう。

あとどれくらい、生きていられるのだろう。


……あとどれくらい、千紘は俺の傍にいてくれるのだろう。


繰り返される恐怖に千紘が離れていってしまうことが怖かった。

でも、それよりもっと、手を離さないことで千紘が傷つけられるのが、俺は怖くて仕方がなかった。

いつか、千紘を、失うんじゃないかと。

でも一人になるのも同じくらい怖かった。


優しい千紘とは違う。

俺は手を離さなかったのではなく、手を離せなかったのだ。


不意に失われるかもしれない恐怖。

無事を願う心。

初めて抱えたジレンマは、俺が世界を呪うに十分な理由だった。


「ちぃちゃんだけ、いればいい」


一つになれればよかったのに。

俺と千紘で、一つに。

離れることが出来ないくらいに、傍に居る方法。

馬鹿な俺はそれくらいしか思いつかなかった。


そんな俺に、俺の魔法使いは言った。


「魔法をかけてあげる」


俺は一も二もなく頷いた。

俺と千紘とで、一生離れずにすむ方法があるのかと期待を抱いて。


千紘がかけた魔法は予想外のものだった。


穏やかで、緩やかで、優しい世界を、俺にくれる魔法。

俺の幼馴染のように、柔らかな春のような魔法。


そして俺の世界は徐々に、しかし一変したのだ。






幼い頃のエピソードをもう一つ。


俺は容姿をよく褒められた。


天使のような、なんて聞き飽きた文句だし、言われたってなんの感情も動きやしない。

でも、それでも口に出したくなる気持ちはわかる。


千紘は俺が傍に居るせいで、あまりその容姿に目を止められることがない。

だがまあ、控えめに言って素材としてはかなりのものだ。


千紘の特徴を一言でいうなら、色素の薄さだろうか。

白い肌と、柔らかそうに見える髪の毛。

何もかもが繊細で、薄氷のような危うさがある。


幼い頃の千紘はよく熱を出した。

太陽にあまり強くなかったのだ。


一気に日差しが強くなる春も、太陽の季節も、乾燥とコンボを組んでやってくる秋も、調子に乗って長時間日差しに当たっていると大体翌日寝込む羽目になる。

あれだけ白い肌なのだ、さもありなん。


つまり千紘が倒れるのにあまり季節は関係ない。

急激な変化に弱いだけ。

ちなみに、冬は元々苦手らしい。

理由は寒いから。

見た目は冬っぽいのにと笑った覚えがある。


普段から二人で過ごすことの多かった俺たちだけど、さすがに風邪の時は無理矢理引き離されるのだが、そんな時は傍に居ることを許された。

移ることはない、ただの熱だ。

一日寝ていれば治るのは経験上分かっていた。


活発だった俺に付き合って外に出ることの多かった千紘はこうして凝りもせずにぶっ倒れて、俺は寝ている千紘の傍で暇そうに絵本を読んだりする。


「いつもは手に負えない破壊神なのに、ちぃちゃんが寝てる時だけは静かなんだから。もう、我が子ながら現金ね!」


母の言い分は正しい。

この時ばかりは俺がイイ子になることを知っている両母はさっさと家事作業に入り、俺はいつも通り千紘の隣でごろ寝だ。


たまには心配になってその顔を覗き込んだりもする。

寝ている千紘は反応がなくて面白くない。

でも、こんな風にじっくりと千紘を見る機会はこの時だけ。


まじまじと見る千紘のまつ毛は長く、吐息は熱いけど顔は穏やかだ。

天使みたいだと毎度思う。


白い肌と上気した頬。

滑らかな白に入るグラデーションのような赤が栄えてなんだか奇妙な気分になる。

かき氷のイチゴ味を思い浮かべた。


湿った肌に張り付いた髪。

それを避けようと触った肌は思いのほか熱くて、俺は驚いて手を引っ込める。


冷たそうな肌が、温かいことくらい知っていた。

でもなぜか驚いたのだ。


白くて、冷たそうで。

赤くて、甘そうで。

でも温かい。


単純に、とてもおいしそうだと思ったのだろう。

あろうことか幼かった俺は自制心を知らず、好奇心のまま千紘を舐めた。

その頬をべろりと。


もちろん味が付いてるわけでもないから美味しくはない。

期待と違ったことを残念に思いながら、好奇心を満たされた俺は満足して自分の作業に戻る。


その時の俺にとっては大したことのない出来事。

後の俺にとっては大問題だ。


物事の分別が出来るようになってから「そういえば」と思い出した時の俺の羞恥心と後悔と罪悪感たるや。

如何ほどだったかと言えば――まあ、大人の階段を登る際に見た夢がそれだったとでもいえば、わかってもらえると思う。


ついでに言えば、彼女ができるまでのオカズもずっとそれだった、とだけ。

ロリコンではない。

断じてない。


身近な異性はその感情を別にして(・・・・・・・)、得てしてこういった対象になるのだ、と聞いた時は胸をなでおろしたものだ。


千紘は幼馴染であって、俺たちの関係は男女間の恋愛感情とは程遠い。

――はずだ。


両親が望もうと、互いの距離がいかに近かろうと、俺たちを括るのは『幼馴染』というカテゴリー。

多分、千紘も同じことを思っている事だろう。


「幼馴染は恋人にはなれないのよ」


幼い俺が、おままごとの延長で申し込んだお付き合いは、そう言って断られた。

俺たちがずっと一緒にいられる方法を見つけたと意気込んだ俺はひどく消沈したものだけど、千紘は寂しそうに続けたのだ。


それはダメだと。


「恋は、ダメよ」


幼馴染は家族じゃない。

幼馴染は恋人になれない。


じゃあ、千紘は一体俺にどうしろと言うのか。


千紘がひっそりと呟いた。


「――ぜんぶ、終わってしまうから」


幼馴染ですら居られなくなってしまうから。


「だから、ダメよ? リツ」


俺はひやりとしながら、必死に頷いた。


失いたくないものは、昔から一つだ。

千紘の隣。

その手の、握れる場所。




さて、昔の変態フィーバーは千紘の魔法のおかげで面影すらなく鎮火して、中学に無事進学した俺はサッカー部に、千紘は美術部に入った。


あまり学校内で親しくすることがなくなったのは、千紘の顔を見ると罪悪感が湧くせいでもある。

例の話である。

単純に気まずかった。

俺だけが。


距離を保ってないと、とち狂っておかしな行動をしそうな気がしていた。

具体的に言えば、土下座でもして謝ってしまいそうな、そんな気が。


運動部の厳しい規則に縛られた俺と違って、美術部はわりと自由だ。

活動日は決まってても、出ない人もいる。

活動日じゃなくても、出る人がいる。

放課後の美術室は他に用途がないからこその気風だろう。


その中で千紘は熱心な部員の部類に入っていたのではないだろうか。


グラウンドからは三階の美術室が少しだけ見える。

その中で窓際が指定席の千紘の姿はよく見えた。


部活の休憩時、先輩や同級生の注意が向いてないのを確認して校舎に走り寄る。

窓は開いているから聞こえるだろう。

下から呼びかけた。


「千紘、千紘」

「……あら、リツ。休憩? どうしたの?」


窓から顔を出した千紘は普通に俺の名前を呼んだ。

俺はあからさまにほっとする。


いつだったか、廊下ですれ違った時に話しかけたら「大島くん」と苗字で呼ばれて息が止まったことがあった。


あの時は、学校から帰ってソッコー千紘の部屋に殴り込みにいった。

それだけはやめてくれと泣いて頼む俺に、千紘は、足枷になりたくないのだと言ったけれど、いまだに俺はその意味を測りかねている。


「あなたに自由をあげたはずなのに、わたしが縛ってどうするのよ? 変なことを言うのね、リツは」

「変なのはお前だ!」


俺のツッコミは冴えていた。

多分俺と千紘とで、『枷』の意味が違うのだと無理矢理納得したが、この溝を埋める日はいつかくるのだろうか。


閑話休題。

俺はグラウンドから窓際の千紘を見上げて以前から疑問だったことを聞く。


「もう西日が強い時期だぞ。あんまり太陽に直接当たるなよ、倒れたらどうするんだ」

「心配性ね。これでも大分丈夫になったんだから」

「せめてもうちょっと教室の奥に入れ。少しはマシだろ?」

「い・や」


思いの外強いきっぱりとした否定が返ってきた。

いつも穏やかな受け答えの千紘にしては珍しい。

反射的に返してしまったのだろう自身の反応に千紘がしまったという顔をする。


「どうして」


別に問い詰める様な気はなくて、ただ思ったことを口にしただけ。

千紘は少しばかり目を天井に泳がせて、困ったようにちらと眼下にいる俺を見る。


「なに?」

「……グラウンドが、」

「え?」

グラウンド(リツ)が良く見えるから、って言ったらどうする?」


ちぃ?

ちょっと、千紘さん?


「ってのは冗談だから!」


そう言って、開けっぱなしだった窓をぴしゃりと閉めた千紘の耳が赤かったことを俺は見逃していない。


なにそれ。

ねえ、なにそれ。


死にそうなんだけど。

どう考えても心臓の負担が許容量を超えてる。

責任は……多分とってはくれないだろう。


千紘なら簡単に俺を殺せるんじゃないかと気付いた日の事。

でも、千紘に殺されるなら、本望かなと思った。






俺は千紘の絵が好きだ。


千紘が絵を描くのは今に始まったことじゃない。

昔から。

それを眺めるのは最早俺の趣味の一つですらある。


本人に言ったことはない。

でも、校舎に張り出された時は必ず見に行ったし、美術室に飾られていれば椅子に座って長い事眺めたりもした。


主に柔らかなタッチの水彩画が多い。

なんてことのない風景や、小さな生き物や人の日々の営み。


千紘の目を通して描かれるもの。

千紘から見た世界は、こんな風に見えているのだろうかと思いを馳せるのが好きだった。


その日、俺は美術室の外に張り出されていた千紘の風景画を見ていた。

完成したんだな、なんて暢気に思いながら。


だからそれは本当に偶然だった。

中から喋り声が聞こえてきたのは。


「相澤さんは、好きな人がいるの?」


先生の声だった。

どきりとした。


内容に、だ。

浮いた話の一つもない千紘と俺は、そういう話をした事がない。


「……どうしてそう思ったんですか?」

「この絵を見て、なんとなく、かな」


千紘は具象画が多いが、抽象画も描く。

いま描いている絵がそんな珍しい類のものであることを俺は知っていた。


「これは、……人間という存在を表現したのであって、個人のことではないんですよ?」

「そう? 先生は、この絵が例えは誰かを表しているのだとしたら、その人はとても素敵な人だと思っただけなの。気を悪くしたならごめんなさい」

「いえ――ありがとう、ございます」


千紘の答えには少しだけ間があった。


「でも、そうね。もしこれが感情だとしたら、少しだけ、こんな感情を向けられる相手は大変だなとは思うけど。――それも素敵じゃない? だって、魂ごと、人を想えるなんて」


返す千紘の声はしばらくなかった。


「――わたしじゃありません。わたしには、いませんから。好きな人なんて。……この世には、いません」


この人は、いません。

どこにも。


壁越しでもわかる。

千紘の声が歪んだ。

妙に耳に残って、頭の中でがりがりと爪とぎをされているかのような気分になる。

それは、初めて聞いた声だった。


じんと、指先が痺れる。


「相澤さん? 具合でも悪い?」


聞いていただけの俺にもわかるそれは、多分見ていた先生なら尚更顕著な変化だったのだろう。


保健室に行こうと、先生に誘われて千紘が教室を出てくる前にとっさに身を隠す。

後ろめたいことをしていたわけでもないのに。

見つからずに済んだことにほっと肩を落とす。


二人が出ていった後の美術室は静かだった。

元々今日は二人しかいなかったのだろう。


そっと美術室に足を踏み入れる。

いま正に描いている途中だった絵がぽつんと立っていた。


正面に立つ。


「……」


言葉は一つも出なかった。


描かれたそれを、なんと表現しよう。


哀しみ、憎しみ、嫉妬と愛しさ。

未練と喪失と、執着。

恋慕、憧憬、そして落胆。

後悔と、安堵と、望郷。

全部をごちゃ混ぜにして、絵にしたなら、きっとこんな絵になるのだろう。


これは千紘なんだと、俺はすとんと納得した。

千紘は、こういう女なのだと。


深く、重く、激しく。

命ごと。

魂ごと。

人を愛するような、感情の強い、「女」なのだ。


別に軽蔑なんてしなかった。

昔の経験のせいで、女は今だって怖い。

強い感情はいつも俺を竦ませる。

それでも、それに嫌悪はない。


ぼんやりとした靄が胸にわだかまるだけ。


これは幼馴染ではない彼女で、俺には見せない顔で、俺には絶対に向けない感情だ。


俺は衝動的に叫び出したくなった。

叫ぶわけにはいかないから、がむしゃらに走って帰った。






中一の夏休みになった。

部活も忙しいというのに、たくさんの課題が出る。


密かに俺も選択している美術の課題は施設訪問とその感想だ。

いくつかの美術館や植物園、博物館が指定されていてその中から自分の好きなところに行ってレポートを提出するだけの、比較的簡単なもの。


サッカーの部活帰りに、同じ選択授業を取っている幾人かがその話をしていた。


「一緒に行こうぜ!」

「おお、いいな。ついでだし、遊んで帰ろう」

「なら近場のココとか、あとはこっちなら二路線使えるから行きやすいかも」

「おい、大島はどうする?」

「ん~、俺はパス」

「日程合わないのか」

「そんなとこ」


俺の行く場所は決まっている。

聞いていたカンジ、彼らの選択肢にそこはなさそうだった。


ならば一人で行けばいい。


そうして訪れた場所は、市が運営する施設。

音楽堂になったり、展示場になったり、舞台になったりと模様替えの忙しい建物だ。


今は美術館の装い。

どこぞから借りたそれなりに有名な絵画が見れるとかで、この手の施設にしては比較的人出が多かった。

課題の対象施設に入れられたのも有名絵画のおかげだろう。

が、俺はそれにはまったく興味がなかった。


俺は広いロビーをうろつく。

目当てのものはすぐに見つかった。


学生の絵画展示。


千紘の絵はそこにあった。

優秀賞を貰ったとかで、夏休み中はここに飾られている。


それは油絵で描かれた風景画だった。

深い紺色の空が夜を示し、影になった高い木々と、雪で覆われた地面。

しんと、耳鳴りでも聞こえてきそうな深い自然がそこにはある。

特に広く描かれた空に散りばめられた星々。

(星座)に見覚えはない。


よく見ると、小さく人物が描き込まれていた。

大きな自然に相対して、夜空を見上げる二人の子供。

その手は互いの手を握り、雪についた足跡がずっと二人で歩いてきたのだと教えてくれる。

吐く息は白く、見る者に強く寒さを印象付けた。


ふと、絵画の下につけられたプレートが目に入る。


優秀賞。

学校名と、学年と、名前と。

絵の題名。


題名は、『無題』だった。


題名のない、絵画。

見る人に、指向性を持たせるためのそれ。

それがない意味はなんだろう。


自由だろうか。

見る人に全てを委ねた結果なのだろうか。


俺が解釈してもいいなら、題名は『まだ見ぬ夜明け』とか、単純に『冬空』でもいいかもしれない。


厳しい環境に、それでも生きる人々の逞しさを描いているのだろう、とは思う。

でも、それなら二人の子供は大人でもいいはずだ。

それとも子供を描くことで、希望を表したかったのか。


だが、どれも少し違う気がした。

考えることをやめて、俺は絵の正面にあるソファに腰を下ろし、空っぽの頭で絵画を観賞する。


広大な自然に、人影が二つ、繋がったシルエットが一つ。

――まるで、世界に二人きりだ。


そんなことを思っていると、ふと絵画の全体像が見えない事に気付く。

いや、遮られているのは俺の視界だった。

俺の前に、人が立ったのだ。


俺が座っているのは休憩用のソファだし、俺が絵を見ていることに気付くのは難しいだろう。

そんな俺に配慮しろなんてことは言えるはずもないが、俺が瞬間むっとしたのは仕方がないことだ。


誰だ、と視線を移す。

俺と同じように、画を見ている背中が見えた。

それは絵画鑑賞が趣味とはとても思えない若い後姿。


制服を着た少年だった。

まだ成長期前の俺より背が高い。

ひょろりとした印象はあったものの、しっかりした骨格がこれからの成長を思わせる。

多分、俺よりも少しばかり年上。


俺の視線を感じたからでもないだろうが、彼は不意に振り返った。

合わされた目線にびくっとする。


それくらい想定していなかった。

怜悧な美貌、と言うのはこういうことを言うのだろう。


少年と青年の過渡期特有の危うさと儚い美しさがそこには同居している。

散々天使だ、神からの贈り物だと誉めそやされた俺が思わず恥じ入るような造作。


俺より出来のいい顔を初めて見た。

さぞかし日常生活に苦労しているに違いない。


最近では見慣れてしまった鏡に映る自分の平凡な顔を思い浮かべると、なおの事目を合わせにくい。

昔の俺とも路線が違う、彼は親しみやすさの欠片もない、近寄りがたい類の美形だった。


俺に見えている俺の顔は本物じゃない、とは魔法をかけた本人である千紘の言だ。

本当の俺なら、少しは正面から向き合えたのだろうか。


動揺で挙動不審になりかけた自分を叱咤する。

別に覗き見ていたわけじゃない。

堂々としてろ、と。


俺の葛藤など知る由もない目の前のイケメンは、俺の様子に構わず静かに語り掛けて来た。


「きみ、この絵を描いた子を知ってる?」


不思議と人を惹きつける声。

その声が届いた誰もが彼を振り返っていた。

こういうのを、カリスマと言うのかもしれない。


「その制服、同じ中学校だろう?」


絵画の下のプレートを指して、彼が言う。

だれと、何が一緒だって?

頭の回転速度が戻らずに、そんな馬鹿なことを考えた。


「この絵を描いた子、どんな子か知らない?」


もう一度、彼が聞いてくる。

俺はやっぱり彼を見上げたてぽかんとしたまま。


反応が鈍い俺に少年は少し苦笑して目線を外した。

途端、鋭かった周りの空気が和らぐ。


日常茶飯事なのだろう、見惚れられる事なんて。


仕方がない、とばかりに少年は絵画に向き直る。

その下のプレートに。


「……読み方はあいざわ、ちひろ。でいいのかな?」


ちひろ。

ちぃ。

千紘のことだ。


「し、しらない」


本当に無意識だった。


頭ではまだ情報を整理している途中。

口が勝手に否定の言葉を吐き出した。


俺より千紘と親しい奴なんていない。

でも、知らないと答えた。


「……そう、残念」


イケメンは俺の嘘を暴いたりはしなかった。

あっさりとそう呟いて、未練はないとばかりに踵を返す。


焦ったのは俺の方だ。

何に焦ったのかは自分でもわからない。


向こうで、喧しい女たちが騒いでいる。

それを見て少年はふっと一つ息を吐くと、しゃんと背筋を伸ばし直した。

バリアのような、固い空気が再び彼を覆う。


「いたいた! せんぱ~い!」

「やだー、先輩どこにいたんですかぁ? てっきり展示会場の方に行ってると思って探しちゃったじゃないですか~」


深いため息は切り替えのスイッチだったのかもしれない。


「公共の施設だ。大きな声を出すんじゃない」

「や~ん、先輩に怒られちゃったぁ」


あっという間に女に取り囲まれて、『先輩』とやらの背中は見えなくなる。


「あの!」


思わず席を立って呼び止めた。

思ったより大きな声が出て、しまったと辺りを見回す。

気にしてる人間は居なさそうだとほっとした。

振り返って足を止めていたのは先輩にたかっていた女たちだけだ。


「やだ、この子どこ中?」

「一年生? か~わいい~!」

「ってか、先輩に話しかけてんの? 勝手に喋りかけるとか、マジうけるんですけど」


俺は全然ウケない。

女たちより頭一つばかり高い場所で、あの切れ長の目と視線が合った。

彼女らとは違い、彼は俺の言葉をちゃんと聞く気があるらしいとその目を見ればわかる。


女どもは無視して、俺は聞いた。


「もし絵を描いた子を俺が知ってたとしたら、どうしたんですか?」


彼は少し考えるように首を傾げる。

なにをしても様になる男だ。

羨ましい。


頭の中で千紘が、じゃあ元に戻る(魔法を解く)? と聞いてきたけど、俺は当たり前のようにNOを返した。


「……どうだろう、どうしたかな? わからないな。どうもしなかったかも」


イケメンからは自問自答のような答えが返ってきた。


「じゃあどうして、わざわざ俺に聞いたんです?」


彼は目元を緩ませた。

それだけで周りの女がとろんとした目をする。


「――懐かしい風景を見たから、かな」

「あの、絵?」

「そうだね」

「あの風景の場所をしっているんですか?」


俺は知らない。

幼馴染で、ずっと一緒にいたはずの俺は知らない。

全ての経験を共にして、彼女の見てきた全ての光景を共に見てきたはずなのだ。

知らない事なんて、無いはずだった。


気が付いた時には聞いていた。


「――先輩なら、この絵画になんて題名を付けますか?」


彼は絵画をちらと見た。

その題名がないことは知っているはずだ。


「『追憶』、だね」


考えることなく返ってきた答え。


突っ立ったまま何も言えなくなった俺に、じゃあと言い置いて彼は施設を後にする。

その姿が見えなくなっても、俺はその後姿を目だけで追いかけた。


居なくなっても残る存在感が、俺に身動きを取れなくする。


俺を我に返らせたのは、肩に手を掛けられた感触。

びくりとして振り返ると同級生たちだった。


「大島! いまあんた高柳先輩と話してなかった!?」

「見てたんだから言い逃れはできないわよ! なに話してたの!? もしかして知り合いだったりする?」

「連絡先知ってたら教えてよ。一生のお願い!」


わりと派手目の彼女たちは顔を知っている程度の仲で、喧しさはさっき少年を取り囲んでいた女たちと変わらない。

思わずその勢いにのけ反った。


「高柳って、さっきのイケメンのこと?」

「……あ~なーんだ、知り合いじゃないんだ」


俺の質問に全てを察した彼女たちは声のトーンがあからさまに落ちる。

早々に俺から離れていく気配に慌てて声をかけた。


「あれ、誰?」

「はぁ? あんた知らないの? 超有名人じゃん。高柳晴久、南三中の生徒会長だよ。ホント眼福、遭遇できただけでも今日のメンドクサイ施設訪問もしてよかったと思えるわ」

「噂に違わぬ美形だったね!」

「ね~? 普通噂に尾びれ背びれが付いて、実物は大したことないってのばっかりなのに。噂以上じゃん」

「てかさ、すっごいここまで出かかって、出ないのが気持ち悪いんだけどさぁ。先輩って誰かに似てなかった? 顔とかじゃなくて、雰囲気的に。誰だっけ?」

「えー? あんな美形が他にいたならもう有名になってるって」

「そうじゃなくてー! 見た目の話じゃないんだってば」

「わかるわかる、なんとなく言ってることわかる! あたしも見た瞬間あれ?って思ったもん」

「ホント!?」


話しながら彼女たちはぶらぶらと歩いて行ってしまった。


「高柳、晴久……」


取り残された俺だけが、そこで呆然とその名を繰り返す。

同級生たちの話はもう別の話題に移り変わっていた。

もう先輩の話は終わったらしい。


俺は結局解決しなかった彼女たちの疑問に答える。


氷のような空気。

薄氷のような雰囲気。

冬の気配と、雪深い森のような静かな孤独。


高柳晴久が誰に似てるかなんて。


「千紘だろ」


そんなの明白だった。


理由などない。

ただ、千紘に会わせてはいけない人間だと思った。




思った以上に律の頭の中が千紘さん一色。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ