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わたしと彼と幼馴染(2)




震える手が靴箱に伸びる。

恐いもの見たさと強い予感を感じて、震える手で掴んだ封筒を裏返した。


差出人の名は、ちゃんと記されていた。


高柳晴久、と。

脳裏にあったのと違わぬ名が。


無意識に力が入った手の中で、くしゃりと封筒が音を立てた。

衝動的に駆けだす。

一人になれる場所がわたしには必要だった。


保健室に飛び込んだわたしを一目見て、在室していた先生はわたしが何かを言う前にベッドのカーテンを引いてくれた。

よほどひどい顔をしていたのだろう。


朝一番だからか、先客はいなかった。


「少し休みなさい。ああ、いいのよ、無理に喋らなくて」


吐き気はないか、眩暈はないか、朝食は食べたか、睡眠はきちんととったか。

先生の質問に首を振ることでゆるゆると答える。


「たぶん、貧血ね。担任の先生に伝えておくから、寝てていいわよ」


ベッドの中で小さく頷いた。

カーテンを閉めて、先生の足音が保健室から消えていく。

心配をかけて申し訳ないのと、一人になれた安堵で短い息を吐いた。


先生の足音が消えたのを慎重に確認してからのそのそとベッドの中で起き上がり、手の中の封筒を広げる。


何度確認しても同じ名が書かれた封筒。

宛名は「白雪(しらゆき)」。

差出人は、高柳晴久。


「…どういうこと? まさか、…まさか記憶があるっていうの?」


まさかどころか、それ以外に考えられない。

わたしを『白雪』と呼ぶことを偶然と片づけられるほど、わたしの頭はおめでたくない。


混乱する頭で封筒を開いて手紙を取り出す。

読みやすい、きれいな文字が場所と日時を指定していた。

(あの人はこんなにきれいな文字ではなかった)


深く息を吸って吐く。

明らかな呼び出しだ。


「…あなた、なの?」


声は手と同じように震えていた。

一瞬の目眩がしてどさりとベッドに背中から倒れ込む。

本気で貧血かもしれない。


目を瞑って波をやり過ごしてから、そろそろと目を開く。

風景はもう回っていなかった。


手紙を胸に、天井に手を伸ばす。


細く白い腕が目に入る。

彼と、繋いでいた手だ。

離れて久しい手。

(違う、この手(・・・)をつないでいたのは彼じゃない)


私の人生から彼の姿が消え、死によって空すら別れ。

生まれなおして世界すら別れたはずだった。


もう二度と出会うことはないと。

出会ってからも、彼が覚えている可能性なんて欠片とも考えなかった。


わたしが覚えていたのに。

なら、彼にだってその可能性はあったのに。


そうしてそんなことに思い至って、一番初めに浮かんだ感情はわたしの頭の中の花畑具合をよく示していた。


――うれしい。


一瞬にして心が浮ついた。

だって、わたしを見つけてくれた。

わたしが彼を一目見ただけでわかったように、彼にもわたしがわかったのだろうか。


ゆっくりと下ろした自分の腕で顔を覆う。


――この手でもう一度彼の手を。


今度は間違えずに、掴めるのだろうか。

掴んでも、いいのだろうか。

再会を喜び、思い出を語り、新しい関係を築く。


それは予想だにしない未来だった。


「まて、待って、落ち着け、自分。バカ、何考えてんの」


思考がおかしいことに辛うじて気付く。

声に出して言い聞かせないと押し流されそうだ。


「新しい関係なんて…」


作れるわけがない。

だって、彼に関わるだけでこんなに心も頭の中も、おかしくなるのに。

また執着を深くして、同じことを繰り返さないという自信はまったくない。


なにより、


「知ってるはずなのに…」


記憶があるなら、私がなにをしたのかを覚えているはずなのだ。


ふと、もたげた違和感に目を開ける。


私は自分が彼に疎まれていた自覚があった。

付きまとい、他の女の影を踏むことにすら不快感をあらわにする幼馴染の存在は、まったくの他人でない分余計に重荷であっただろう。


でも、

それなら、わたしに会って。

今さら、わたしに会って。


「彼は一体何をしたいの?」


わたしを避ける理由ならいくらでも思いつくけれども、近づく利点なんて彼にはないはずなのだ。


生まれ変わったから?

かつての仲間だから?

懐かしいから?


それだけで、あれだけのことをしたわたしに自分から接触してくる?

最期には彼に裁かれる立場であったはずの私に?

全てはリセットされ、幼い頃の仲が良いだけの幼馴染に戻っているとでも思っているのか。


わたしが恋に狂ったまま変わっていなかったらどうするというのだ。

厄介な女が一人増えるだけだとでも言うの?

そんなもの何てことないと、広い度量を見せるつもり?


「そんなバカな」


そんな訳がない。


「記憶が中途半端だとか?」


わからない。

目的がわからない。

こわい。


でも、


――会いたい。

会いたい、会いたい、会いたい。


頭の中を埋めそうになる、たった一つの願い。


けれど、きっと会ったらダメだ。

それだけはわかる。


行きたい、行けない、会いたい、会えない。

名前を呼ばれたらきっと飲まれてしまう。

それでも、呼んで欲しい。


だって、好きだったのだ。

たった一つだったのだ。

彼を追って村を出て、彼の役に立つ為に魔法使いになって。

彼の足りないものを補うための魔法を選んで、背中を預け合って冒険した日々のなんと幸せだった事か。

薄氷の上の幸福を今もはっきりと思い出せる。


矛盾した感情が沸騰寸前のように感じる熱い血液と一緒に体の中をぐるぐると駆け巡っていた。

わたしはすでに、まともじゃないんだろうか。


ちゃんと覚えているのだ、幸せのあとのことも。

仲間が出来た日の事。

二人だけだった頃から、何もかも変わっていく日々。

それを受け入れられず、歩みを止め、愚かな選択をしたことも。


失望の色を宿した彼の目に、崩れ落ちた日。

置いていかれた私は抜け殻になった。

人目を避け、屍のように生きて、聞こえてくる噂に恨みを深くして、澱んだ目で自分の行動の結果を知った時が最後。


変わっていない。

私はあの時からちっとも変っていない。

だって、裁きの瞬間にすら、私は彼の事を思ったのだから。


嫉妬でも、恨みでも、憎しみでもなく、ただ、会いたいと。


縋るように携帯に手を伸ばす。

わたしを現実に引き戻すものなんて、わたしには一つしか思いつかない。


「リツ、」


たすけて。


縋る様な思いで、携帯を取り落としそうになりながら必死に電話をかけようとして。

はっと呼び出しコールを始めた携帯を慌てて切る。


自分の事で頭がいっぱいになっていて、今が何時(いつ)かを忘れていた。

相手の事を、考えることも。


ここは学校だ、なら律だって学校だ。

電話をかけたとして出るわけがないし、迷惑はかけたくなかった。


―なのに。

手の中で携帯が震えている。

着信を知らせる振動と、そこに映る名前にぐっと一度唇を引き結んだ。


泣きそうになりながら電話を取る。


「千紘?」


律の声がした。

今朝も会ったばかりなのに、もう、懐かしく感じる声。


「どうした? 着信があったみたいだけど」

「……いつも、メールすら返さないくせに、なんでこんな時だけ」

「なんだよ、一言目が文句か? 電話なんてかけてきたことないから何かあったのかと心配したのに」

「ん、…ありがとう」

「…千紘?」


至極素直に礼を言ったというのに、律は訝し気に問い返してくる。

そんな気はしていた、完全に誤魔化すにはわたしの受け答えには弱音が滲んでいる。


少しの足掻きで、努めて明るく返事をした。


「なに?」

「なんかあったのか?」

「どうして?」

「声が、」


おかしいだろうか。

声は普通なはずだ。


「なにか変?」

「もしかして泣いてる?」

「泣いてないから、大丈夫」


本当だ。

涙はついぞ零れなかった。


「…本当に?」

「うん」


律のおかげだ。

彼の声がわたしを掻き乱すなら、律の声はわたしの精神安定剤。

早鐘のような鼓動とわけのわからない結論を弾き出そうとしていた思考が、ゆっくりと落ち着いていくのを感じる。


強張っていた体から力が抜けて、枕に頭が沈む。


手が白くなるほど握りしめていた携帯をゆるく握り直した。


「リツ、」

「やっぱり様子がおかしいぞ、千紘。具合が悪いのか? 今から迎えに行くか?」

「幼馴染が学校に迎えに来るの? 随分と変わった状況ね」


くすくすと冗談すら言えるようになった。


「余裕ないくせに、こんな時にまで茶化すなよ」


律は怒らなかった。

呆れたような声で、ただわたしが無理をしていると断言する。

長い年月を過ごしてきただけあって、隠し事は出来ないらしい。


でも、本当なの。

ちゃんと笑えてるの。

嘘じゃないの。


「うん、ありがとう。でも、いい。平気。本当に大丈夫。―あ、だけど、一つお願いがある、かも?」

「なんで疑問形なんだよ! ………まあ、とりあえず言ってみろ」


少しだけ不満そうな間があった。

わたしが「大丈夫だ」と言ったことに対してだろう。

けれど律は結局それを言葉にすることなく、わたしのお願いを聞いてくれることにしたらしい。


名前を。


「名前を、呼んでくれないかなぁ」


できればたくさん。


大事にしたいものはいつでも律が思い出させてくれる。


「千紘?」


律は怪訝にわたしを呼んだ。

彼としては、疑問のつもりだったのだろうけど。


「うん、そう。もう一回」

「…千紘」


ねだって、応える声を目を瞑って聞く。

染み入る様に体に馴染んで、わたしの呪いを宥めてくれる。


「すてきね、もっと」

「千紘」

「もっと」


甘えるような声になった。

あの人にも、よくしなだれかかる様に甘えたものだけど、邪険にされた記憶ばかりがよみがえる。


――でもまあ、律なら許してくれるだろう。

そんな、根拠のない自信。


「千紘」


不思議と、返す律の声も随分と甘く聞こえた。

電話の向こうで、きっとあの甘ったるい顔をしているに違いない。


声を聞いていたら、顔が見たくなった。

でもそれは言わない。


「昔からリツはわたしを甘やかすのがうまいよね」

「…千紘だからな、特別だ。昔から、ずっとお前だけは特別だ」

「ふふ、なんだか告白されてるみたいで良い気分」

「千紘、千紘、千紘」


歌うような名前の連呼にまた心に明かりが灯る。

呼ばれたい名前を忘れないように、間違えないように、律の声を伝えるスピーカーに耳を寄せた。

脳内に焼き付けて、わたしを狂わせるあの毒を払う血清にするのだ。


「俺は昔からお前の頼みだけはなるべく聞いてきたつもりだけど、いまだにお前はあんまり俺を頼らないからなぁ」


聞かされる愚痴は少し予想外。

不貞腐れたような、苦笑するような、困ったような、呆れたような、なんとも言い難い感情が小さなため息とともにちらりと覗く。


「だって、…大切な人(リツ)の負担には、なりたくないもの」


言い訳のように、でも確かな本音が漏れる。

律は今度こそ大きめのため息をあからさまに吐いた。

胡乱気眼差しが見えるかのようだ、ベッドの中で居心地悪く身じろぎをしてしまった。


「やっぱ千紘はもっとわがままになるべきだと思うぞ? …ま、でも、これは俺が悪いのかもな。いつも頼りない俺が」


怒られるかと思ったら、自己嫌悪混じりの自嘲気味な声が聞こえて少し狼狽える。


だって、それはきっと律が感じる必要のないものだ。

そもそも、前提が間違っている。


困惑しつつ、おずおずと、けれど黙ってはいられなくてちゃんと主張をした。


「あのね、リツ、わたし、十分わがままなつもりなんだけど…?」

「はは、面白い冗談だな、いつもいつも遠慮ばっかしやがって、コノヤロウ」


小さな舌打ちと、少しの苛立ち。

本気で怒っているわけじゃないから怖くはないけれど。


たぶん、どちらが正しいとか、間違っているとかではないのだろう。

わたしたちは認識の食い違いが激しいってことだ。


擦り合わせをしているような暇はないけど、律は代替案を提示してきた。


「頼みはないのか、何か、俺に頼むことは」


困った。


「なまえ、もう呼んでもらったから…」

「そんなの頼みのうちに入らない」


断言されて口ごもった。

この様子ではなにか言わないと律は引かない。


「ん~、えっと…あ~? なら、…今日、帰ったら。もし、いやでなければ、また名前を、」


無理矢理ひねり出した願い事は当然歯切れが悪い。

名前は大事だ。

律に呼んでもらえれば、いつだってわたしはわたしを取り戻す。

でも、きっと頼まなくたって律はわたしを呼ぶだろう。

だから、


「ううん、ただ頑張ったって、よくやったって褒めて、くれたら」


それでいい、と頼もうとして不意に言葉を最後に千切る。


「千紘?」


もう少し、高望みをしてもバチは当たらないのではないか。

そう思って。


「どした?」


だって、これから頑張るから。

勇気はもらったから。

今度は帰ってくる力を貰いたい。


無事に、わたしがわたしとして帰れるように。

もし、帰ったなら。


「名前を呼んで、頑張ったって褒めて? それで――」


律が、「なんだそんなこと」と笑った。


「お安い御用だな、今日は早く帰ってこいよ」


わかったと答えるわたしの声は、いやに明るい。

わたしの胸は穏やかに温かかくなった。








高柳晴久からの指定の時刻は、ありきたりに放課後だった。

律に力を貰ったけど、どうやらまったくの平時通りとはいかなかったらしく、授業に戻っても夕陽たちの心配を解くことはできなかった。

面目ない。

わたしは残念ながらそんな出来た人間ではないのだ。


このお詫びはまたの機会にするとして、わたしは戦場に挑む気持ちで放課後を迎えた。


逃げ回っていても解決はしない。

どうせ逃げ切れはしないのだ。

指定時間が近づくにつれて、コントロールを忘れたかのように暴れ出す心臓とヒートアップした頭がそれを示している。


いつかわたしは抗いきれず、その声に自ら振り向き、応えてしまう自信があった。

なら不意打ちで無防備を晒すよりは、身構えて対峙した方が何倍もマシというもの。


それに彼の目的も気になる。

わたしの愛する何事もない日常を取り戻すためには、越えなければならないものだった。


呼び出し場所の定番と言えばやはり校舎裏か教室か、屋上だろう。

けれど残念ながらわが学校の屋上は一般開放されていない。

校舎裏や教室は万が一の人目があるので勘弁してもらいたいし、かといって使用者が限られている生徒会室(彼のホームグラウンド)に入る所だって見られたくない。

あとは鍵がかかる特別教室くらいだが、彼の信頼度と権力なら生徒指導室だって使えるかもしれない。


ならば、とはならず、彼の指定場所は使用禁止の屋上だった。

特別教室の鍵を預かれるだろうと予想できるなら、締め切られている屋上だって同じことだ。

驚きはない。


「…ちょっと、千紘。ホントに大丈夫?」


帰り支度を済ませて、鞄を持ってから教室を出ていこうとしたわたしに声をかけた夕陽は、ついて行こうか?という問いを飲み込んだように見えた。

放課後の用事を伝えてはいないけど、隠し事に関してだけは異様に察しがいい彼女。

わたしにはもったいない、よくできた友達なのだ。


大丈夫だと答えるわたしに、夕陽は考えるように少し天井を見た後、肩を竦めて忠告した。

どんな仕草でも様になるから美人は得だ。


「顔色が変だから、体調にはマジで気を付けてよ?」

「青くなってるとか、赤くなってるとかってこと?」


自分の顔を触りながら聞き返したわたしに夕陽は悪戯っ子のように笑った。


「混ざってまだらになってるってこと!」


あははと笑う夕陽の様子から冗談だとわかってはいるけれど、変な顔では会いたくはない人を思い描いて乙女心がざわついた。


ぱちんと軽い音がして驚いて意識を戻すと、思いの外整った顔が目の前にあって思わず足を引く。

が、両の手の平で挟まれていた頬が邪魔をして動けない。

目を白黒させているうちに夕陽がぐにぐにと人の頬を押してくる。


はにしてんほ(なにしてんの)

「ん? まあ、これでよし、かな?」


人の質問に答える気はないのか、夕陽はしばらくそうしてからやっと離してくれた。


「ま、ちょっとはマシな顔になったんじゃない?」


わたしの顔を覗き込んで、自分の仕事に満足した職人みたいに晴れ晴れと笑う。


「そもそも普段から千紘は白すぎなんだよ。もっと日に当たって焼けた方が健康的に見えると思うんだけどな」

「残念、日に当たっても赤くなるだけで焼けない体質なんだな~」

「…陽菜乃が聞いたら怒り狂いそう」

「うん、だから言ってない」


日に当たったら当たった分だけ焼ける陽菜乃は、現役高校生にして夏は完全防備である。

外で会うと日傘とサングラスとアームカバーを装備しているので人相がまったくわからない。

ちなみに装備破壊は発狂を誘発するのでやってはいけない行為である。


「笑えてるね、千紘? よし、行動を許可する」


偉そうにびしっと教室の扉を指す夕陽に、突っ込むべきかお礼を言うべきか迷った末、わたしは「行ってくる」とだけ、答えた。


「じゃ、また明日!」

「うん、またあした」


ひらひらと手を振る夕陽のおかげで、さっきまで熱に浮かされたようだった足はスムーズに動いた。

わたしの日常を彩るのは、いつの間にか律だけではなくなっていたらしい。


すれ違いざま、じゃあなと声をかけてくるクラスメイトや、ざわめきの大きな校舎の中の空気。

ふと立ち止まって窓を見る。


切り取られた空が見えた。

土茶けたグラウンドと、そこに走り出て来る部活動の生徒たち。

家路を急ぐ学生と、浮かれた生徒に注意を促す教師。


――ああ、愛しいな。


目まぐるしく移り変わるような日々じゃない。

国々を跨ぎ、美しいものや汚いものに触れ、命を燃やして、生きているわけではない。

家族がいて、全霊で愛してくれる人がいて。

幼馴染がいて、全力で信頼してくれる人がいて。

親友がいて、黙って寄り添ってくれる人がいて。

友達がいて、励ましてくる人がいて。

すれ違う人がいて、挨拶してくれる人がいて、言葉を交わす人がいて、笑顔を交わす人がいる。


それを当たり前と思える自分と、それを当たり前とする世界、それがこんなにも愛しい。


胸が痛くなるほど溢れる感情。

その強さは、彼への思いに決して引けを取らないと思えた。

そして、この感情はわたしを懊悩させたりはしない。


ここがわたしの生きる場所なのだと強く思う。


思い出の中の風景も美しい。

思い出の中の人も忘れ難い。

思い出の中の感情は今も生々しい。


「…終わらせよう」


ぽつりと漏れた。

ああ、そうかと後から自分の言葉に納得する。


彼との邂逅の意味は、きっとそれだ。

やり直すためではなく、懐かしむためでもなく、思い出に浸るのでもなく。


彼の目的など、関係ない。

わたしはわたしの目的を彼に押し付けに行く。


――過去を過去とするために、きっとわたしは対峙することを選んだのだ。







屋上の重い扉はすでに鍵が開けられていた。

もう来ているのかもしれない。


少しの緊張が体を強張らせたけど、その扉を開けない理由は今のわたしにはない。

手だけではびくともしなかった扉を体を使って押し開けると、途端に強い風に髪がさらわれる。

思わず手で髪とスカートを押さえると、押し開ける力を失った扉が幾分か勢いをつけて閉まる重い音がした。


音に驚いて後ろを振り返っていたわたしの耳に届いた、声。

律より少し低くて、抑揚のない、聞き取りやすい声。


「来てくれたんだ」


反射的に振り返ると、意外そうな顔をした人がいた。

親しい友人(夕陽)と同じく、どんな顔をしても絵になる彼は、

――高柳晴久、その人だ。


魂が無条件で歓喜して、どくんと一つ、心臓が大きく鳴った。


「ごめんね、ありがとう」


小さく首を傾げて、苦笑のような笑みで礼を言う。

(あの人より随分柔らかく笑うのね)

そこに深緑の瞳を幻視して、わたしは思わずコンクリートの床に視線を落とした。


「わたしが来たのがそんなに意外ですか?」


あの全校生徒憧れの高柳晴久からの呼び出しだというのに?

そんな意味を込めた疑問の声が、みっともなく震えていないことを願う。


それに、

――おかしいと言われた顔色は、今は大丈夫だろうか。

そう考えて、足元を映す視界で二度、目蓋を瞬いた。


顔色がまだらだと言われたことを思い出して、そんな訳がないと心の中でツッコんでしまった事に思わず頭を抱えたくなる。

夕陽のせいだ。

どんな状況で何を考えているのかと自分に呆れたら、精神の隙間に余裕を見つけてなんだか落ち着いてきた。


―うん、大丈夫。


ゆっくりと顔をあげると、高柳晴久はわたしと違って真っすぐにわたしを見ていた。


「そうだね、どちらかと言えば、君は来てくれないものだと思ってたよ。…君が、僕の事を避けているように見えたから」


紛れもなく正しい。

私のことを、よく知っているのだろう。

でも、あなたが知っているのは、多分わたし(・・・)じゃない。


「避けてるなんて、そんなことはありませんよ? でも、わたしにとっては憧れの先輩ですから、もしかしたらそう見えたかもしれませんね」


にっこりと笑う。

笑ってみせる。

無理にでも笑えと自分に命じたせいで、奥歯に力が入ったけれど、わたし(・・・)を知らない彼に気付かれる余地はない。


一方の高柳晴久は怪訝そうに眉を寄せた。

憧れの先輩、なんて表現が気に入らなかったのかもしれない。


でも、これでいい。

これが正しい。

わたしは、それでいい。


クールと称される外見に反して、表情は豊かなのだと言われているのは知っていたけど、想像以上に彼の表情は感情を物語る。


「手紙を読んでここに来てくれたのなら、…僕が誰か、わかっているってことだろう?」


僕が誰か。

それを問われたことに少し動揺する。

でも、これで彼のスタンスがはっきりとした。


「もちろんわかってます」


わたしが今の関係(先輩と後輩)に固執しているのに対して、彼はかつて(幼馴染)の関係をここに持ち込もうと呼びかけている。


笑え、ともう一度自分に命じた。


「高柳先輩を知らない生徒はこの学校にはいないですよ?」


わたしたちはあくまで他人。

ここを譲る気はない。

だれが何と言おうと、わたしは彼にこの主張を押し付けるのだ。


――わたしは、ここで、わたしとして生きていきたい。


先輩は驚いた顔で口を開いて、真剣な顔をして、そして何も言うことなく閉じた。


わたしが何の躊躇いもなく、イエスと答えると思っていたのだろうか。

これほどの後悔を無視して?

それを上回る恋心や、絆があると、信じていたとでも?

それなら随分とチョロい女だと思われたものだ。


そもそもわたしがあの人生に後悔の一つもなく肯定していると思われていたとしたら、随分な齟齬がわたしたちの間にあることになる。


だから、わたしはどうしたのだろうと、何も知らない顔で首を傾げた。


「足りないですか? え~と、三年生で、生徒会長で、学力テストはほとんど学年1位、弓道部所属だけど、スポーツ万能で、やむを得ない事情がある際に限って他の部活の試合にも出ることがある。他には、ファンクラブが出来そうになったことがあるけど、一喝して解散になったとか、告白してきた女子は数知れず、でも一度も浮いた噂がないせいであらぬ噂がたってるとか…」

「ちょ、待て待て待て!」

「はい?」


指折り数えていたら、口を引き結んで聞いていた先輩から慌てて待ったが入った。

…ひとつ言わせて頂ければ、わたしは至極真面目だったとだけ。


「他はいい! いや良くないけど、まあいい、今はいい! だが!! 最後のは一体何なんだ! あらぬ噂ってなんだ!? いや、いい! 言うな、聞きたくない!!」


聞きたいのか、聞きたくないのか、どっちなんだ~い。

思わず裏手のツッコミを入れたくなった。


混乱を誘うつもりはなかった。

ただ事実を論っていただけだ。

彼的には重大な話なのだろうが、わたしには急にシリアスな空気が霧散してしまったように思えて気が抜ける。


「誰だそんな根も葉もないことを広めるやつは!」

「先輩が誰か素敵な女性と付き合えば消える程度の噂ですよ、気にするほどのことでは…」

「そういう問題じゃないんだよ! 男の沽券の話なんだよ!」


あまりの焦りっぷりに、わたしが逆に落ち着いてくる。

先輩、落ち着いて? どうどう。


「そもそも! 俺がどれだけ女に苦労してきと!? そんな簡単に人生のパートナーが選べるか!! 前回(・・)だって!」


…私のことかな?


思わず目が泳いでしまったわたしに気付いたわけではないだろうけど、先輩ははっと我に返った。


「す、すまん、取り乱した。あと、念のために言っておくが、今のは別にお前の事じゃないからな」


うん、明らかに私の事ですね。

反射的に謝り返しそうになったのは自覚アリだからだ。

けれどそうするわけにはいかないから、ぐっと踏みとどまる。


かつてのことを忘れていられたら、もしかしたら彼はとっくにこの世界で幸せになっていたのかもしれない。

随分と困らせたのだな、と前の人生のわたしと彼をどこか他人事のように思う。


わたしのことだけど、わたしじゃない。

彼のことだけど、もう変えようのない過去の話。


だから、言わなければ。

わたしたちは今を生きているのだ。


彼が彼のスタンスを示したように、わたしはわたしの主張をする。


「確かに先輩の顔は好きですけど、自分が女性全員に好かれてると思うようなナルシストの自惚れ屋はちょっと…。なにか勘違いさせたのなら申し訳ありません」


『わたしは白雪じゃない』とは言えないから、他人としての線引きを。

あなたのことは噂以上には知らないのだと言外に告げる。


先輩はわたしの言葉に、また眉を寄せた。

途端雰囲気が険しく見えてしまうのは、如何せん顔が整い過ぎているからだろう。

探る様に、わたしの中に何か自分の見知ったものを見つけ出そうとするかのように、先輩は慎重に口を開く。


「先輩、か? 俺は、君にとって、ただの先輩でしかない?」


言っていることはわかる。

他ならぬわたしにはちゃんと意味が伝わっている。


でも、わたしはわざとらしいため息を吐いて肩を竦めるのだ。


「……先輩、告白もされてないのに好かれてると決めつけるのは、いくらモテる人でもNG行為だと思います」


わざとらしく引き気味に笑いながら彼の問いを拒否する。


先輩の探る様な視線は薄れて、困惑が強くなった。

動揺を収めるように息を吐きながら髪をかき上げる仕草に、つい目を奪われたけどそっと目を伏せる。


「…手紙を、読んだんだろう? だから来てくれたのだろう?」

「ええ、まあ、…はい」


曖昧に誤魔化そうとした答えは、先輩の咎めるような目に一瞬にして肯定に変わった。


「なら、それに応えてくれた君は、『彼女(・・)』だろう?」

「なんのことです?」


ああ、本当に彼なのだな。

感慨深く思うのに、口からは否定の言葉があっさりと出る。


「…本当に、『白雪』じゃ、ない?」


先輩からは困惑も過ぎて、諦めが見えた。


呼ばれた名前はやっぱりわたしの心を乱したけど、わたしはそれを宥めながら噛み殺す。

律と夕陽が張ってくれたバリアがまだ効力を発揮しているのかもしれない。

会ったら、ありがとうと伝えなければ。


「あ、それです。わたしそれを先輩に伝えに来たんです」


ことさら明るい声で、今思い出したかのように胸の前で手を叩く。

先輩の顔が一瞬喜色に染まり、わたしの心が痛みを訴えた。


それでもわたしは人生で一番の、渾身の笑みを浮かべて否定を突き付ける。


「『人違い』ですって」


――そう、伝えに来たのだ。



わたしたちを隔てる距離を強い風が駆け抜けていった。

青かった空に薄くかかっている雲はそのうちまとまった雨雲になりそうだ。


肌で感じる風にも、やり過ごそうとした罪悪感は澱のように溜まって浚われてはくれない。


わたしは笑顔を崩すタイミングを見つけられず、先輩は何かを整理するかのように黙ってわたしを見つめる。

そんな時間が過ぎた。


今、彼に片づけられているものはなんだろう。


過去の思い出?

前世の記憶?

それとも『白雪』そのもの?


寂しいと思うのは自分勝手だ。

でも、きっと思うのだって自由だ。

それを自分に許すくらいには、わたしはわがままなのだ。


――やっぱりわたしは、わがままなんだよ、律。


どれくらい経っただろう、先輩はゆっくりと体の力を抜いた。

長い、長い息を吐いて、空を見る。


そしてわたしに視線を戻した時には、わたしの知っている、学校の先輩(高柳晴久)になっていた。


「人違いか、そうか。それは悪いことをしたな。君が彼女ではないなら、確かに俺の言動はただのナルシストだ」


ははと先輩が頭を掻きながら笑う。

ごめんな、と謝られた。

ごめんなさいと、心の中で謝った。


忘れていいんだと、忘れて幸せになってくれたら、それが一番嬉しいと、言ってあげられないわたしにできる、繋がりを断つ唯一の選択。


私は最初から居なくて。

わたしと彼は他人で。

わたしたちは同じ世界で何の関わりもなく生きていく。


それはわたしを守るための手段で、彼に迷惑をかけないための方法。


それでいい。

それがいい。


「できたら君の胸のうちにしまっておいてくれると助かるよ。俺が勘違いの自惚れ野郎ってことは」


悪戯に巻き込む共犯のように、先輩は人好きのする顔で笑った。


わたしは一つ、穏やかに笑って答える。


「―――大丈夫です、先輩のちょっとした悪戯だってことくらいわかってます」


これで終わりだ。

さよならだ。


「でも、気を付けてくださいね? 本当に先輩の事が好きな人だったら手紙で呼び出された時点で勘違いしちゃいますから」

「そうだね、気を付けるよ」


よそよそしい空気が間に流れて、わたしたちの過去はあっさりと断ち切られた。


彼がわたし(白雪)に何を望もうとしていたのか、今となっては知れないけれど、きっとわたしを追い詰めるような話ではなかったと今は思う。


ただの先輩と後輩であることをわたしが望み、彼は自分の望みを押し付けることなく応えてくれたのだから。


「で、本当に悪戯だけだったんですか?」

「ん?」

「呼び出しの目的です。何の関わりもない後輩を揶揄うためだけに、こんな手間をかける人はなかなかいないと思います。もしかして先輩はその奇特な方でした?」


だからせめて、今の自分に、白雪としてではないわたしに、出来ることがあるのならとわたしは彼に問い掛ける。

なにか、力になれることはないかと。


ほんの数時間前には同じことをわたしが聞かれたのに、おかしなこともあるものだ。

律も、こんな気分だったのだろうか。


「…あー、察しがいいね。まあ、確かに、少し聞きたいことがあったのは本当かな」


彼は頭のいい人だ。

わたしが本当に白雪ではなかった場合の事を考えていないということはないだろう。

その場合は、呼び出しに足る理由が必要だ。

もちろん『告白』と『決闘』以外で。


彼が用意した理由はなんだろう?

お詫びだけではなく、単純な好奇心もあったかもしれない。


ちらりとわたしを見た顔は少し迷っているそぶりだ。


「でも、うん、…今回はいいかな。本来なら他人に頼る話でもナシ」


歯切れが悪い上に、勝手に自己完結しようとしている。


「なんです? とりあえず言ってみるだけでもいいのでは? タダですよ?」


促してみてもふらふらと目線が泳ぐ。

よほど言いにくい事なのだろうか。


「先輩がなにを言おうと、誰にも言ったりしませんので安心してください」


ここまで言っても居心地が悪そうに身じろぎをする先輩に少し強めに目線を投げると、諦めたかのように肩を落とし、渋々言葉を紡ぎ出す。

そのやりとりに既視感を覚えて、誤魔化すように目を眇めた。


「…入江陽菜乃って子、君の友達だって聞いたんだけど」

「え?ええ。そうですね、親友と言っても過言ではないかと。それがどうしました?」


けれど、彼の話の内容に感傷はあっさりと白旗を掲げた。

よく知った名は現実に立ち戻るのに十分な威力を持っている。


続いた台詞は想像を凌駕していたけれども。


「や、彼女って、どんなタイプの人が好きなのかな、って…ね。少し気になって」


ぴしゃりと思わず額に手を当て、天を仰ぐ。

一番初めの感情を素直に示したらこうなった。


つまり、それは嫉妬でも憎しみでもない。

そのことに安堵している自分もいるが、それ以上の重大事項が目の前にある。


「え、なに? その反応は予想外だよ」


戸惑う先輩を余所にわたしは、天を仰いでいた目線を床に落とす。

言葉にするなら「よりにもよって、そこか!」だ。


これに関しては先輩以外の何者にもチャンスはあるだろうが、事、先輩だと限りなく厳しい相手となるだろう。

事実は小説より奇なり、とはこのことか。


「いや、そんな心底呆れたみたいなジェスチャーはさすがに傷付くんだけど? 言い訳をさせてもらえれば、ちゃんと自力でどうにかするつもりだったって事で。これ以上、君にどうこうしてもらおうとまでは思ってないからね?」

「呆れてませんので、ご安心ください」

「あ、そう」

「ただちょっと考える時間をいただけます?」

「どうぞ?」


穏やかに勧められて、遠慮なく思考の海に沈む。

ここに来てまさかの急展開だ。


「…先輩は、寄ってきた(好意を寄せてくれる)女性の中から恋人を選ぶものだと思ってました」


その点、陽菜乃が自ら彼に近寄っていくなんて珍事は早々起きない。

律との一件は彼女にトラウマを植え付けている。

それはわたしが一番よくわかっていた。


つまり陽菜乃発信ではなく、これは単純なる先輩からの好意という解釈になる。


「え、どうして!?」


()が、そうだったから。

かつても出来上がったハーレムの中から、一人を選んだから。

今も昔も、選び放題の選り取り見取り。

自分から誰かを探す必要なんてない。

そんなことは口に出せずにわたしは黙り込む。


「そんな流されやすい人間だと思われていたなんて、ものすごく心外だ。他の誰かなんて関係ない。僕が誰かを選ぶんじゃなくて、僕はただ自分の好きになった人に好きになってもらいたいだけだ。――今度こそ、僕はそうする」


息を飲む。


――別人だ。

そう思った。


先輩はきっとお姫様の手を取ったりしない。

女騎士の色香に惑ったりもしないし、聖女の涙に心揺れたりもしない。


先輩は、彼じゃない。

ゆっくりと沈む様に体に浸透していく認識。


降り積もる雪のように記憶が積み重ねられて、覆い隠されてしまった彼も、彼女と同じようにもういないのだ。


そっと細く息を吐いた。

込められた感情は圧倒的な寂寥と、幾らかの安堵と、羞恥。

自分は彼女とは違うと言いながら、先輩と彼を同一視していた自分に対するものだ。


「とても、素敵な考え方ですね」


心の底からそう思った。


「…ありがとう。君にそう言ってもらえるのは、思いの外嬉しいものだね」


違う声、違う姿、違う思い出。

知らない笑顔、知らない反応、知らない記憶。

断層のように重なった経験が魂すら変質させて、わたしはわたしを捕らえる人がもういない事を知る。


先輩と出会った時から感じていた強烈な感情は、風化する岩のようにさらさらと砂粒になって、穏やかに記憶の層の一部となった。


残ったのは、奇妙な仲間意識と寂しさを覚える白色の原風景。


風が、強く吹く。

髪がさらわれて、わたしの体の中までも駆け抜けていった。


「先輩なら、彼女を変えてくれるかもしれませんね」

「え?」


それにしても、厄介な人に惹かれる悪癖は変わっていないらしい。


「入江陽菜乃の話です。彼女はわたしの大切な友達なので、生半可な気持ちで近付かないでもらいたかったんですけど」

「つまり?」

「傲慢にも友達フィルターをかけさせてもらえるなら、先輩が初めての合格者ですね」


陽菜乃のトラウマは律とわたしが作り出した。

わたしたちではヒビの一つもいれられない。

出来ることなんて限られているから、それを壊す手伝いとして、人を厳選させてもらうくらいは許されるだろう。


「合格特典として一つだけ質問にお答えします。彼女の好きなタイプは知らないので、かわりに嫌いなタイプでいいですか?」


先輩がごくりと喉を鳴らして頷いた。

わたしはこの先の先輩の受難を想像して、意地悪ではないただ素直な笑いを漏らす。


「イケメンですね」

「は?」

「だから、嫌いなタイプですよ。イケてる男子、美形、美男、ハンサム、カッコいい、眉目秀麗、男前、端正…」


一生懸命類義語を探したが、さすがにもう出てこない。


「いや、言葉の意味が解らないんじゃなくて!」


知ってる。

もちろんわかってやってるのだ。

残念なことにどう言い直しても、陽菜乃の嫌いなタイプは、つまり先輩そのものの事だ。


先輩は頭を抱えていた。

どうやら自分がイケメンである自覚はあるらしい。

ここ辺りは律とは違う。


「ふぁいと!」

「心がこもってない! 応援してくれるんじゃないのか!」

「まさしく今、応援しましたけど? ま、でも、応援はしてもこれ以上の協力はしないのであしからず」


先輩じゃなければ、応援どころか邪魔してますよ?

これでも譲歩しているのだとひらひらと手を振った。


陽菜乃の性格では他人の介入なんて、イケメンでなくともNGになる事案である。

協力は邪魔と同異義語。

ここからは彼の頑張り次第だ。


先輩が世界の摂理に悪態を吐いている。

ここは顔がいいだけで人生イージーモードになる世界であるはずなのに、彼の場合はそれが障害となるのだから人生とはわからない。

(律にとってもハードモードだったけども)

その悪態はわたしに向けていいものだと、彼が知るのはいつになることやら。


「では諦める?」

「拒否する!」


即答だ。

先ほどの吐露から推測するに、彼も彼なりの恋愛トラウマがあるのだろう。

これもまた陽菜乃と同じようにわたしが植え付けた物なのだろうけど、きっと彼が心惹かれる人はとても少ないに違いない。

そんな希少な人物(陽菜乃)をそう簡単に諦めるわけがない。


「そう言ってくれると思ってました」

障害(ハードル)上等!」


下品にも中指をたてられた。

仲良くなると親しみやすいとは聞いていたけど、この方面でいいのだろうか?


少なくとも、その反骨精神には拍手を送りたい。


「期待してます」


わたしが腕を突き出して親指を立てて笑えば、先輩も少しきょとんとした後に笑った。


「探し人ではなかったけど、君と話せて良かった」

「…わたしもです」


ことさら強い風が吹いた。

遠くないうちに雨が降りそうだ。


先輩も雲行きの怪しい空を見て言った。


「長く引き留めてしまったね。そろそろ、帰ろうか」

「はい」


高柳晴久は彼で、彼じゃない。


私が焦がれたあの人は、この人であって、この人じゃない。

あの人は、ここにはいない。

わたしが、彼女ではないのと同じこと。


でも、きっと別人でもない。

重ね、覆われ、積み上げられたものの上にわたしたちがいて、わたしたちを形作る不可欠なものとして彼らは居る。


「それじゃあ」


彼の声に蘇ったのは人生の最期の光景。

終わりの感情。


その瞬間にすらわたし(・・・)は彼の事を思った。

会いたいと、願った。

死ぬのなら、あなたの手で死にたいと。


やっと、言えるのだ。


「――さよなら」


その一言を。


「おお」


雑に答える声に、満足だと、わたしの中の私が浮かべた笑みが心象風景に溶けていく。


先輩の背を見送りながら、髪を押さえる。

風が強い。


故郷の風を思い出した。


冬の終わりを告げる風。

春の訪れを知らせる風。


いつか習った歌を思い出す。

むべ、山風を――


あの時、思った。

彼を、想った。


あの時だけは、律の事すら思い出さず、ただ彼の事だけを考えた。


小さく音にする。

一度だけ。

一度だけ。


「――嵐」


彼を呼ぶなら、それ以外にないと。


先輩は一瞬だけ驚いたように肩を揺らし、そして決して振り返らなかった。


「じゃあな」


と後ろ手に彼が手をあげて、


「陽菜乃をよろしく」


とわたしは伝えた。


願わくば、二人が共に幸せにならんことを。

叶わずとも、その出会いと別れが良きものにならんことを。


わたしは過去に別れ、今を願った。








――強い風が雲を呼んで、やがて暗雲が雨を降らせる。

ぽつりぽつりとアスファルトに出来る黒い水玉模様。


随分と長い時間佇んでいたのだと気付いて、わたしは顔を濡らす雨を拭う。


「とまらないなぁ」


困ったものだ。

落ち着いたら帰ろうと思っていたのに。


そう上手く事は運ばない。


仕方ない。

仕方ないから、悲しくもないのに、止まらない涙を止めてくれる人に会いに行く。





な・が・い。

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