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わたしと彼と幼馴染(1)




それは確かに恋だった。


身を焦がすような恋だった。

呆れるほどに一人しか目に入らなかった。

今となっては、愚かで、醜く、憐れに思う。


けれど、

だから、


――わたしにとって、それこそがまさに恋だった。







寒さの厳しい土地。

遮るものすら少ないその場所に先祖が根を下ろした理由を、私が理解するには長い時間を必要とするほどに苛酷な環境だ。


だだっ広い荒野で目印になるのは、子供の足では遠く眺めるだけの、大人の命すら時に飲み込むことのある厳しい山一つ。

乾いた風は凹凸の少ない土地を駆け、山から吹き下ろす風とぶつかって複雑に踊る。


冬は長く、幼い頃の記憶の多くは白銀に染まっていた。


けれど険しい顔の大人たちとは違って、冬は私たちの季節だった。

私と、彼の。


白い息を吐き出しながら、体重の軽い子どもの特権で雪の上を恐れも知らず駆け回る。

肩を窄め、身を寄せ合うように細々と生活を繋ぐ皆を余所目に、私たちはそれを苦痛とも思わなかったのだ。


――私たちは、女王の寵児と呼ばれた。


春の姫君、夏の王、秋の王子、冬の女王、季節を表現する尊称から推測される通り、わたしたちは冬の子どもだった。


一年のほとんどを雪で閉ざされた場所、不自由なく呼吸を出来た私が手を取れたのはたった一人。

だから私の世界のほとんどは、白色と彼で構成されていた。


それは彼にとっても同じだったと、今も信じている。


白く重い空気に押し込められた村に明るく響くのは二人のはしゃぐ声だけ。

だから大人たちは目を細めて私たちを好きなように遊ばせてくれていたのだろう。


いつものように誰もいない白い世界を二人で遊んでいたある日、私はふと足を止めて暗雲を背負った灰色の山を振り仰ぐ。

冬の間、消えることなくゆっくりと蠢くだけの厚い雲が、いつもと違って目に見えて渦を巻いている。

この土地にいる者はいつの間にか『それ』の訪れの気配を知るようになるものなのだ。

私たちも例外ではない。

経験から前兆を察知する。


私たち以外の、寒さに耐える人々がただひたすら待ち望む『それ』。

大人も子どもも、それがたった一つの希望の様に、縋るように山からやってくるものに耳を澄ましていることを私は知っていた。


私は彼を振り返り、彼は頷きを返す。

顔を合わせた二人の間に浮かぶのは満面の笑みだ。

女王の寵児と呼ばれた私たちだって、村の人々の笑顔がみたい。

彼らの望むものは、違わず私たちの望み。


私は声を上げる。

村に響けと、朗報を叫ぶ。


「みんなー! 来たよ、来るよ! もうすぐ吹くよ!」


毎年、冬の最中(さなか)に吹き降ろす大風。


子どもの体すら吹き飛ばし、屋根をさらうこともある、砂のように細かい雪を巻き込み吹き降ろしてくる豪風。

肌を切り裂き、壁を削り、屋根を飛ばすその風に被害の出ない年はない。


わたしたちはそれを恐れ、敬い、祈り、

――けれど、心の底から待ち望んだ。


私の声に村人たちは冷気から身を守るために固く閉じた家の扉の向こうで喝采を叫び、慌ただしく冬の最後の試練に打ち勝つ対策を取り始める。


にわかに活気付くこの雰囲気が好きだ。

家から母が私を呼ぶ声がした。

急かすような声の中にも明るい色が混じる。


ふふと笑い合う私たちの手は、いつも通り繋がれていた。

明日も明後日も、季節がめぐり、年が変わっても、この手だけは変わらないのだろう。


私は一度だけ山を見つめて、軽やかに家路に着く。

離した手は、明日にはまた変わらず繋がるのだろうと信じて。


春を告げる、白い嵐。

もうすぐ冬が終わる。







陽の光に導かれて目を覚まし、夢を見ていたのだと気付いた。


最近はこんな風に目覚める日が続いていた。

遠い、昔の夢を見て、現実との境目に戸惑いを覚える日々。


天井を仰ぐ顔を手で覆う。


「あー…精神不安定だ~」


自分でもわかっている。

随分と心が荒れていた。


「それにしても、これはなぁ…」


ため息が漏れる。

終わったはずの命の、鮮やかな思い出を強制的に見せつけられるのは精神的にキツイ。


「思い出したいわけじゃない」


愚痴のように呟いた。

『あの日』から地震のようにぐらぐらと頭を揺さぶられている感覚が抜けない。


思い出は思い出で、それはわたしを憂鬱にさせても悲しくはさせないというのに。

だって、大人になってからの事ならともかく、幼い頃の思い出ならばなおさら悪感情からは遠い。

むしろ、宝石のように輝く愛しい思い出の一欠片。


―そう思う。

思って、しまう。


その事が一番私を不安にさせた。


かつての私。

彼女と同じ。


そう、思い出が、


「あんまりにも綺麗だから、捨てられなくて」


かつての私は恋の道を踏み外したのだ。

幼い頃の、二人だけの幸せな時間はやがて終わり、私たち二人の間には多くの隔たりが出来る。

寂しいけれど当たり前のことだと、いまなら思えるのに。


彼女は過去を過去に出来ず、二人を別つ全てに牙を剥き、取り戻そうと足掻いて、余計に彼は遠ざかった。


「繰り返したくないのよ」


だからそれを「大切な思い出」なんて、思いたくない。

思ってしまうから、思い出したくない。


だって、「わたし」は「わたし」なのだ。

わたしの人生を、区切りのついたはずの命に侵食なんてされたくない。

彼女の思い出に、振り回されたくない。


だからわたしは思い出を眩しく見るのではなく、教訓にするべきだ。


少し腫れぼったい目を休ませながら、寄せては返す感情の波をやり過ごす。


「本当に大切なものは、こんなものじゃない」


懐古よりは現実を。

生まれてからの日々を。

優しい世界の話を。

わたしの、穏やかな人生を。


昨日の会話、友人の顔、今日の予定。


そんな愛しいものたちを、流れる思考のままに思い返す。


器に入れられる大切なものの量が限られていると言うなら、思い出したくなんてない。

いっそ忘れていたいのだ。


自分の大切なものは、自分で決めたい。

そしてそれは「わたし」の人生を構築するモノたちで占められるべきだ。


曖昧な「自分」という型に大事にしたいものを必死に寄せ集めて「わたし」を正しく形作る。


そうして現実を探し寄り分けている中で、ふと目に入った時計が普段より早い時間を指していることに気付く。

その意味を少し考えて、声を上げる。


「あ!」


懸命に立ち戻ろうとしていた「今」が一瞬で追いつき、あろうことか追い越していった。

がばりと布団を剥がして急いで立ち上がる。


そうだった。

大島家の母の休息日である今日は、律の分のお弁当も用意しないといけない。


「やばい!」


懐古の霧は吹き飛ばされたかのように去っていた。

わたしは妙に現実感のある頭で部屋を出る。


「んん?」


階段を駆け下りながら少しだけ考える。

一体いま、何を悩んでいたのだろうと。


「うん? …うん」


答えの明白な問題になぜ躓いていたのか、たった数分前の自分が理解できない。

大切なものは目の前にあって、視界はちゃんと定まって、わたしの意識が向かう方向はたった一つで。


心も、体も、魂も、なんのズレもない。

あっという間に安定した自分があまりにも現金でつい頬が笑みを作った。


「ふふ」


――悪くない。

わたしはこんな自分が嫌いじゃない。


「ってか、笑ってる場合じゃないんだって! いそがないと間に合わない!」


運動部に所属している律は朝練に参加している。

家を出る時間も、もちろん比例して早い。


顔を洗ってすっきりしたら、着替える前に家族の朝食と一緒にお弁当用の卵焼きを作る。

残念ながら、化粧をしてきっちり着替えてから台所に立つような女子力は持ち合わせていない。


ある程度の手抜きももちろんありだ。

手早く昨日作り置いておいたおかずも含めて弁当に詰め、なんとなく彩りの確認だけはしておく。


そうこうしているうちに両親が起きてきた。

朝に強い母はいつも通りにっこりと挨拶をくれ、父はあくびをしながら寝巻のまま自分の席に着く。

父を目覚めさせるための魔法の一杯(コーヒー)を入れるのは、わたしが朝食を作るようになってからも、変わらず母の仕事だ。


そんな両親を横目に、完成したお弁当の蓋だけを取った状態で放置してばたばたと着替えに走る。

身支度を整えているうちにお弁当の熱も取れるだろう。


自分の朝食をとる前に包み終わったお弁当を持って玄関を出る。


「おはよう!」

「はよ」


ジャストタイミングだ。

ちょうど隣から出てきた律に出くわした。


眠そうな顔の律はわたしの手の中のお弁当を見ると、ちょっとだけ苦笑する。


「わざわざ出てこなくても取りに行くのに」


作ってもらってる身なんだからそれくらいさせろと、我が幼馴染殿は甘ったるい顔をした。


イケメン力に磨きがかかっていることを知っているのは今となってはわたしくらいで、少し勿体なくも思う。

だけど陽菜乃の件で顔面偏差値の影響力をいやというほど思い知らされたわたしは、その考えを厳重に封じた。


律に覚悟がない限り、手を出すべきではないのだ。

どうしたって、それは平穏を遠ざけるものなのだから。


「サンキュ、これで今日も一日乗り切れるわ」


甘い顔で甘い言葉を告げるわりには、絶対にお弁当を作らなくてもいいとは言わない律は嬉々として出来立てのお弁当を受け取った。


近付いた際にそっと周りを窺って、耳元に寄せた口が囁く。


「毎日千紘の弁当ならいいのに」

「………」


わたしは動揺を見せないように少しだけ空を見上げる。


うん。

うん、大丈夫。

わかってる。

彼は律なのだ。

他意はない。


つまりこれが素である。

末怖ろしい。


(――あの人より、ずっとわたしに甘い)


もちろん彼なりの反省もあってか、他の女子に不用意にそんなことはしない。

必要以上に距離を保って接している、とは進学先を同じくした中学時代からの彼の友人の弁である。


わたしは逆に周りから見たらフツメンなはずの律がそんなに女子に警戒心を抱いていたら、自意識過剰だと馬鹿にされないかと心配していた。


「こら、お母さんに失礼でしょうが」


わたしが律にお弁当を作るのは平日だとこの曜日だけで、他は土日に試合がある時に限られている。

つまり普段作っているのは律のお母さんだ。


「だから聞こえないように言っただろう?」


悪びれもなく律が笑う。

それを見て、「もう」と文句を言いながら許してしまうわたしもまた、律には甘い自覚がある。


凍えた手足に急速に血液が巡る様な、じんと広がる温かさにゆるりと唇が弧を描いた。

生憎とあまり表情が豊かとはいえないわたしの小さな変化など、付き合いの長い友人でもなければ気付かない。

目の前には、その貴重な付き合いの長い友人がいるけれども。


「千紘?」


唐突に律が首を傾げながら問いかけの言葉を吐いた。

わたしも同じく首を傾げて質問の意図を逆に聞く。


「ん? なに?」


律が真面目腐った顔で私を指差す。

目の前に差し出された指に思わず目が寄った。


「顔面が溶けてる」

「は? …って! なんて表現をするのよ!?」


言われた意味を測りかねて一瞬面食らってしまったけど、笑った顔をからかわれたのだとすぐに思い至る。

わたしが手を振り上げ怒った顔を向けると、律がお弁当を庇いながらからからと笑う。


それを見て、

――今日もきっと大丈夫。

そんな根拠のない自信が湧いてきた。


「…やっぱり、リツはわたしのお守りだ」


言葉は自然と零れ落ちる。


「ねえ、リツ」


日常の象徴。

わたしの愛すべき世界。

それは律という形をとって目の前にあった。


――だいすきよ。


音にしてはいけない言葉もあるから、唇だけで囁く。


「は、?」


聞き取れなかったらしい律が怪訝な声を出した。

わたしはそれ以上の質問を拒む様にもう一度口の端を上げる。


「なんでもない」


触れられる現実はとてつもない安心感をもたらす。

目を伏せて、わたしは律の腕に触れた。

律の体温がじんわりと手の平に伝わり、わたしはほうとため息を吐く。


「まだ、そばに居てね」


迷惑はかけないから。

いつかは、ちゃんと離れるから。

あの人のように困らせたりしないから。


だから、今はわたしがわたしでいられるようにここに居て。

(だって一人では立っていられない)


「千紘?」


律は困惑を表情に乗せて首を傾げる。


「ふふ」


わたしは精神の安定を取り戻して、穏やかに微笑んだ。







わたしの平静を乱す元凶は学校にいる。

かといって登校拒否するわけにもいかないので、わたしにとっては毎日が試練。


彼は、とても目立つ人だった。


名を、高柳晴久(はるひさ)と言うらしい。

はじめて聞いた時は案外普通の名前なのだな、とバカみたいなことを思ったものだ。

物語の主人公のような、特別な響きを持っているのだろうと勝手に思っていたわたしは肩透かしを食らったような気分だった。


でも同じだけ、これが現実なのだと思い知らされた気がする。

あの人のいる、現実。

思い出の中だけにいるはずの非現実が目の前にある違和がいつまでたっても拭えない。


最高学年の、学生最高権力者。

スポーツ万能で、成績優秀。

背が高くて、容姿端麗。


出来過ぎた人間の様に見えるのは、同じようなスペックを持ちながらお調子者の律を間近で見ているからだろう。

だけどもちろん高柳晴久にも、高スペック故のマイナス点はある。


侵し難い孤高の壁がそれだ。


律にはない、近寄りがたい雰囲気はきっと角度の高い整った眉のせい。

黙って自分の思考に意識を向けている時の彼は、まるで精巧な作りの人形のような静謐な空気を纏っていた。

まるで他者を拒絶するような分厚い壁が立ちふさがっているように人々に錯覚させる。


けれどそれだって、決定的な欠点には成り得ない。

元より親近感がない、という無理矢理こじつけたような欠点とも言えない欠点。

それすらも、むしろ補って余りある魅力に転換してしまうのが、彼という人間。


孤高の壁は、誰かと接することで途端に霧散する。


他者の声に、張り詰めた空気が柔らかに緩む瞬間。

人形に命が吹き込まれたかの様に、乗せられた感情が彼を人間なのだと親近感を持たせる。


その表情を向けられた時の陶酔感も、優越感も、快感も、わたしは嫌というほど知っていた。

かつてはそれに囚われ、結局抜け出すことも出来ず、ずぶずぶと沈み続けたわたしだから。


誰だって一度体験すれば思うはずだ。

もう一度見たいと。

あわよくば、それを為すのが自分であれば、と。


硬質な空気と、人好きのする笑みと、外面からは想像できない鷹揚な性格。

振り幅が大きい分だけ、人々は彼に好意を抱く。


―ああ、変わってないな。


外見なんて少しも似てない。

ただ、人を魅了する様だけに類似点を見つける。


朝の一時の回復を余所に、それだけで心が簡単に騒めいた。


けれど溶けるように甘く流れ出す理性が放つかすかな警告音を聞き取って、はっと目を覚ます。


違う、そうじゃない。

似てるとか似てないとか、そんな話ではない。

彼と『あの人』が、どこか似ていないかと、いつの間にか勝手にわたしが必死に探しているだけだ。


蜘蛛の巣を振り払うように頭を振る。


―なぜ、わたしは彼を見つけてしまうのだろう。


視界の端に捉えるだけで、わたしは彼を振り返る。

抗いがたい衝動だ。

唇を噛みしめて、引き千切るように顔を背けた。

律に分けてもらった熱に頼るように手を握り込む。


「あ、見て、晴久先輩だ」

「うわあ、いつ見てもカッコいい~!」


不自然に動いたわたしの目線を追って彼の姿を窓の外に見つけたらしい、共に歩いていたクラスメイト達が少し高い声ではしゃいだ。

わたしたち後輩が名前で呼ぶくらいには気さくな存在と認識されている彼。


「ホント、受験頑張ってよかったー!」

「うんうん! これだけでこの学校に通えてよかったって思えるよね」

「目の保養ってこういうことなんだねえ」


その空気から浮かないように、曖昧に同意しながら小さく笑みを作る。

うまく、笑えているといい。


「おーい、晴久せんぱーい!」

「こ~んにーちはー!」


窓の向こうに呼びかける友人に少し焦って再び彼を見た。

整った横顔が声に反応して振り返る。


豪胆な一年女子の行動を見守っていた周りの生徒たちも、彼の視線がこちらに向くとわかるとわずかに空気が喜悦に揺れた。


わたしだけが視線から逃れるように慌てて窓から離れる。


背中で歓声を聞く。


「わ! 手振ってくれた! 見た!?」

「わーい! 先輩、好きですー!」

「どさくさに紛れて告白!? って、先輩笑ってんじゃん! あー!私も好きですー、先輩!」


遠くの憧れには害がない。

彼女たちの好意が軽いものと知ると他学年の者も軽口を叩き出す。


「あっはっははは、今年の一年面白すぎる!」

「あんまりアイツに迷惑かけんなよ~、後輩ども」

「「「は~い!」」」


微笑ましいやり取りとは裏腹に、わたしは彼の視線を逃れて、それでも勝手に走りだす鼓動に言い聞かせた。


わたしは違う。

わたしは変わった。

あの、盲目の恋に溺れた少女ではない。


一等星の様に輝く思い出は「わたし」のものではなく、彼女のもの。

誰かの幼い頃の思い出に縋るほど、いまのわたしは何も持っていないわけではない。

彼女と違って、わたしには大切なものがたくさんある。


あの人はわたしを、知らない。

あの人も、彼に似てはいない。


鍛え抜かれた肉体も、傷を重ねた体も、剣を握り続けて固くなった手のひらも、そこにはないはずだ。

大好きだった、神樹に生い茂る葉を思わせる深緑の瞳。

見つめられるたびにのめり込んだ、世界で一番美しいと思っていた宝石()だって、彼は持っていない。


彼女と違い、寒さに弱く、魔力に乏しく、非力なわたしのように、別人だ。


なのに、

それでも。


わたしは恐れを抱く。


入学式の日、一度だけ交わった視線で、絡まった糸がいまだに解けていない事を思い知らされた。


あの目は、いけない。

思考が停止して、動けなくなる。

呪いみたいだ。


落ち着けと、自分に言い聞かせながら声に出す。


「…大丈夫」


あの人は違う。

(強くなるための努力も、何度負けても諦めなかった心も、ずっと隣で見てきたけど)


「あの人は、」


彼じゃない。

(だって、彼のことなら誰よりも、よく知っているから)


そうして今の、彼の名を、呟こうとしてわたしは口を閉ざす。

声に出せなくて、唇を強く引き結んだ。


否定の感情なのに。

違うと言いたいだけなのに。


名前を言おうと―。


ただそれだけで、抑えきれない何かが体中を巡った。

頭の中をかき回して、思考(わたし)を溶かそうと津波のように襲う熱に耐える。


理性ではなく、感情に身をゆだねてしまえとわたしの中の私が囁いた。


引き裂かれるような息苦しさをやり過ごそうと目を閉じる。


泣きそうだ。

なによりも、きっとその名を口にすれば、馬鹿みたいに甘い音になるとわかる自分に、泣きそうだ。


目を逸らす方法は一つしか知らない。


「…リツ」


攻撃魔法に耐える防御魔法のように、呪文みたいに音にする。

お守りを握りしめるみたいに必死に。


律、律、律。


顔を見に行こう。

今日も。


きっとそれでわたしは日常を取り戻せる。


そんな内面世界に深く潜り込んでいたわたしに予想しない軽い衝撃。

肩に、淡い熱。

律に似た、わたしを呼ぶ声。


「千紘」


自分のことに必死だったわたしに、やっと外界からの柔らかな声が届く。

そうして、じっとわたしを見つめる目に気付いた。


「…夕陽」


高校で新たに出来た友人は、わたしににっこりと笑いかけた。


熱と、声と、同じだけ優しく気遣いを湛えた目線。

鼓動の落ち着きを感じて、わたしはゆるゆると顔を上げる。


「落ち着いたなら行こうか。もうすぐ授業が始まるし? 窓に張り付いてるあのミーハー連中(クラスメイト)を引き摺って行くのは骨が折れそうだけどね!」


様子がおかしかったのは明らかなのに。

なにも聞いてこない彼女に、何も気付いていないと態度で示してくれる彼女に、少し肩の力が抜けて、ふっと小さな笑顔が漏れた。


「…そう、だね。いざとなったら二人だけで先に行ってしまおうか?」

「あっはっは、いいね! 好きだよ、千紘のそういうトコロ!」


逢坂夕陽(おうさかゆうひ)

彼女と出会えたのは、この高校に進学してよかったと思えることの一つだ。

陽菜乃とはクラスが別れてしまったが、代わりに得たのがこの友人。


彼女の特徴を一つ挙げるとするならば、控えめに言ってもド美人な外見だろう。

今年の新入生の中では、陽菜乃と夕陽の太陽コンビが在校生の話題を独占したらしい。


とは言っても陽菜乃は例の一件以来、浮いた話の一つもなく、男子を見る目は果てしなく厳しい。

特にイケメンと呼ばれる類には強大な警戒心を持って接している。

きっと彼ら(イケメン)には彼女との間になぜかそそり立つ壁が幻視できたことだろう。

なむ。


入学してすぐにお近づきになろうとしてきた異性をざっくりばっさりと連続殺傷していることから、実はあっという間に容姿を鼻にかけた高飛車女と噂になった。


かわりと言ってはなんだが、陽菜乃は女性陣には物腰が柔らかい。

これもまたギャップと言えるのかもしれないが、男子に靡かない態度と女子だけに向けられる優しさのおかげで同性には大変評判がいい。


一方、陽菜乃とは違って、夕陽は誰とでも気さくに接する。

容姿でいうなら我らが生徒会長(高柳晴久)に並んでも見劣りはしない程だが、残念なことに神は彼のようには彼女に多くのものを与えなかったらしい。


まず一つ目は、正直、この学校に合格したことが奇跡と思える学力の持ち主であること。

二つ目、この容姿に見合う清楚かつ上品で繊細で優しい性格を期待すると落差で痛い目を見る羽目になること。


夕陽との友人歴が短いわたしでも彼女の性格を端的に評することができた。

すなわち、大雑把かつ楽観的。

対抗意識を持つのが馬鹿らしくなるような残念美人、それが夕陽だ。


美人は普通同性に嫌われるものだけど、そうは問屋が卸さないと言わんばかりにセオリーを蹴散らしているこの学校に燦然と輝く二つの太陽は、なんだかんだとわたしを介して比較的仲が良い。


交友関係の広い夕陽のおかげでわたしにもあっという間に友人ができたし、クラスに馴染むことも出来た。


何かに気付いても、何かが起きても、何もなかったかのように笑える彼女の存在は今のわたしにとっては一種の清涼剤足り得る。


「あーあ、次の授業は古文だっけ、ホントあれ苦手だわ~」

「…待って、そもそも夕陽に得意な科目ってあるの?」

「ちょっと! 千紘の中のわたしってどうなってるのよ!?」

「ごめん、口が滑った」

「なら仕方ないか~…って言うわけないでしょ! それ全然謝ってないから!」

「ふ、あははははは」


思わず口を開けて笑ってしまう。

それを見た夕陽もまた、笑った。


「夕陽、ありがとう」


きょとんとした夕陽が、ふっと息を吐いて肩を竦めた。


「なんのことかわからないけど、まあ、千紘が笑えるならそれでいいよ」


夕陽が無造作にわたしの顔に手を伸ばしてむにっと頬を掴んだ。


「笑って」


夕陽が言うから、わたしはぎくしゃくともう一度笑ってみせた。

満足気ににんまりとした夕陽を見るに、ちゃんと笑えているらしい。


こんな日常を愛している。

だから視界にも映らないくせに引力のようにこっちを向けと訴えかける存在を無視して目を閉じた。


わたしがしっかりしていれば、きっとこの穏やかな日々を失わずに済むはずだ。

これはわたしの。

わたしだけの、問題なのだから。







わたしの席は教室の窓側にある。

中学までのわたしなら密かに喜ぶところだけれど、この状況では厄介な事この上ない。

だって、外が見えるのだ。

見たくないものも、見えてしまう。


空は晴天。

窓は開けられ、心地よい風が緩く吹いていた。


手元の古典の教科書を開いてぱらぱらと捲る。

授業の開始時間は過ぎていたが、教師が来ない。

あのそれなりに年がいった担当教師はチャイムが鳴ってから職員室を出る準備をする。

五分、十分の遅刻はいつもの事だ。


ふと紙をめくる手を止めた。

百人一首の解説の欄が目に飛び込んできたからだ。


『吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ』

22番に数えられる、文屋康秀の詠んだ有名な歌だ。


中学校の時分に百首を覚えさせられたからには、もちろんわたしも諳んじられるくらいには知っている。

けど。

なんとなく、目に飛び込んできた文字に手を止めてしまった。


「…むべ山風を、」


今朝の夢を思い出した。

冬の到来を告げる風を詠んだ歌だと解説が記している。

ひどい違和感を覚えるのは、自分の感覚では理解できないから。


―私たちにとって山風は、春を告げるものだった。


冬の終わりと、春の始まりを象徴するもの。

だからそれは希望を指す言葉。


字面だけだと正反対の意味を持つ歌が記された教科書の文字をゆるりと撫でる。


外では体育の授業が始まったらしい。

サッカーでもやるのか、喧騒が窓から飛び込んでくる。


来た。

試練の時だ。


ぐっと頬に力を入れた。

声がする。


彼の、声。


見るなと理性が言うのに、いうことを聞かない頭が横を向く。

そこに彼の姿を見つけて、葛藤するといういつものルーチーン。


今日もそうなると思っていたのに――。


がばりと顔を伏せる。


「どうした、相澤。気分でも悪いのか?」


気付いた近くの男子が声をかけてくれたが、わたしは無言で首を振って机に張り付き続けた。


だって。

いま、確かに。


「…目が、あった」


こっちを見ていた。


なんで?

どうして?


あれは偶然なんて表情じゃなかった。

あれは、そう、

なにかを、探すような。


誰かを、探すような。

忘れたなにかを、思い出そうとするような。


そんな、目。


「おい」


ぱかんと頭に振ってきた衝撃に顔をあげると、教科書を丸めた教師が机の前に立っていた。


「チャイムが鳴ったら授業開始だ。教師がいなくても寝てはいかんぞ」


さすがに意識が目の前に集中して、可視化したような視線は千切れるように霧散した。


教師の随分な物言いに呆れて痛くもない頭をさする。

そもそもわたしは寝ていないと反射的に心の中で反論が浮かんだおかげで、おかしな思考は強制的に途切れた。

教師も自分の言い分がどんなものかは自覚があるのだろう、出来の悪い冗談を笑うように教壇に去っていったから、わざわざ言葉にするのは無粋というものだと肩を落として教科書を開き直す。


クラスメイトたちがくすくすと笑っている。


「さあ、授業をはじめるぞ」


現実が目の前にあった。

それは夢ではない証拠。


だから、


「きっと、気のせい」


これは自分の問題で、自分の記憶との葛藤で、自分の感情の話で。

つまるところ、自己完結する類のものだ。


自分からリアクションを起こさない限り、決して他の誰かがそこに関わってくることはない。

そして、わたしはそうしないために必死に自分に抑止を働かせてきたはずなのだ。

Q.E.D。

大丈夫、矛盾はない。


頭の中で証明材料を整然と並べ立てて、「あり得ない」という結論を得る。


「うん、大丈夫」


ない。

彼がわたしを見ていた理由など、何一つ。

偶然か、幻だ。

偶然には理由はなく、幻なら自分の問題。


ふっと息を吐いた。

それが落胆なのか、安堵なのかはわたしにもわからない。







急転直下。

平穏は破られる。


ある日の朝の始まり。


いつも通りに履き替えるはずだった外履きのローファーが手から零れ落ちて床で間抜けな音を立てた。


靴箱の手紙。

一瞬で認識できたのは、宛名。

それだけ。


差出人の名は見えない。

筆跡に見覚えはない


でも、息が止まった。


『白雪様』




白く閉ざされた世界が頭の中に蘇る。


冬に積もり、固められ、氷のように変化していく雪。

世界を閉ざすのはいつも雪だった。


だけど冬の嵐を希望とするなら、白雪にも重苦しいだけではない意味がある。


春を告げる嵐が冷たい雪を溶かし、荒野には幾本もの川が流れだす。

足元の色は白から茶色、あっという間に緑に染まる。

やがて色とりどりの花が咲き、草原はいっそう華やかに、賑やかに春を謳う。


美しい光景だ。


それをもたらすもの。

厳しい冬の先。

短い春を豊かに咲かせ、夏の緑を萌やすもの。


白雪、と言われれば思い浮かぶその意味。



もしも、この世界にはない音の意味を、無理矢理日本語に置き換えるとしたら、きっとそれが相応しい。


――自分を示す名前なら、これ以外にはないと思った。




千紘、と。

どこか遠くで律がわたしを呼んだような気がしたけど、ごうごうと耳を閉ざす吹雪のような幻音と、私の名が書かれた白い封筒に飲まれて消えた。




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