わたしと幼馴染と彼女(2)
一緒について行くと主張する律の説得は難しくなかった。
律への執着をあれだけ強く見せている入江さんだ、律が傍に居てまともに話せるとは思えない。
ましてわたしと律が一緒にいたのでは、彼女を逆撫でするだけ。
そもそも認識阻害の対象である本人が目の前にいたのでは掛かるものも掛からない。
律にだってそれくらいの事はわかっている。
仕方がない事くらい。
それでも納得できるかは別問題。
わたしに諭され、律は悔しそうに唇を引き結んだ。
「ほら、よく言うじゃない。朗報は寝て待てってね?」
学校を休むのを推奨するのはなんだが、入江さんの精神状態を鑑みるに、律には事が終わるまで彼女に会うのはおろか、近付いて心乱すのもやめて頂きたい。
すなわち、家に引きこもっているのが一番だ。
「…それ言うなら果報は寝て待てだろ」
律儀に訂正を入れる律は、やっと固い顔を崩して呆れを含んだ深いため息を吐いた。
少しは肩の力が抜けたかと思ったけれど、すぐに気を取り直したようにわたしを真剣な目で見据える。
「本当に気を付けて。駄目そうだと思ったら無理は禁物だ、諦めることを念頭に置いておいて欲しい」
失敗の可能性は高い。
だからその時のことを律は考えざるを得ない。
律は少し間を置いて話を続けた。
話し辛い事を口にする際、律はよくこんな反応をするのだ。
わたしは心の中で身構える。
「…俺は、陽菜乃に元に戻って欲しいと思ってる。彼女が変わってしまったのは俺が原因だってものもよく分かってる。―だから俺には陽菜乃を救う義務があるし、救いたいと思ってるのも事実だ」
改めて自分の心を一つ一つ数えていくうちに律の表情は暗くなっていった。
「…それで、今は自分じゃどうにもできなくて千紘の力を借りようとしてる」
状況を論った律は、最後にぼそりと「最低なヤツだな」と呟いた。
とっさに否定を口にしようとしたわたしを遮るように律が手を上げる。
「千紘、俺は今からひどいことを言うよ。…全部、わかってて、それでも言うよ」
律はわたしの反応を待たず、吐き出すように言った。
「俺は、多分千紘の方が大切なんだ」
―今は。
そう、口の形だけが続ける。
比較対象の名を、律は言わなかった。
多分、言えなかった。
場が場ならときめくような台詞に込められた意味は、ひどくわたしの胸を刺す。
わたしは浮かれることも出来ず、鉛を飲み込んだような気分で律を見ていた。
どうかその目が、痛々しいものを見るようなものになっていないようにと願う。
それは律にとって、許されざる感情だろうから。
「俺が陽菜乃を好きだった頃なら、言えたのかもしれない。人の価値に優劣なんてないって。千紘も陽菜乃も同じように大切なんだって。…きっと、変わってしまった恋人を愛せなかった俺は薄情なんだろう」
天秤は傾く。
迫られた選択に、答えはある。
あってはいけないはずの答え。
出てはいけない解答。
わかっていたことだけど、律は明確に口にした。
最早、愛がそこにないと。
「本当に、思ってたんだ。これはきっと一生モノの恋なんだって。…こんな簡単に、覆るものだったなんて知らなかった」
簡単ではなかったはずだとわたしだけは知っている。
けれど、確かにそこにあった愛は消えた。
そのことに一番傷ついているのは律だ。
だからそんな自分を貶めるようなことを言う。
弱い声で自分の心変わりを告白した律は、けれどはっきりとそれが本音だと声にした。
揺れていた視線をひたと合わせた律に、強い意志を見る。
少しだけ跳ねた心臓の音に今は気を取られている場合ではない。
「魔法が失敗したら、大人を頼るつもりだ」
両親や、学校や、教師たち。
そして彼らの判断次第では警察を。
わたしは目を伏せた。
もう、この人の前で泣いてはいけない。
だから気付かれないように歯を食いしばる。
解決法は他にもあるのだと、律が言う。
入江陽菜乃にとって社会的死に等しいその選択肢を、選ぶ覚悟が、あること。
「だから、無理はしないでくれ」
そこまで追い詰められてしまった律にかける言葉はみつからない。
「…ごめんな、千紘。俺のせいで苦労ばっかりさせて」
ごめんね、律。
そんなことを言わせるための魔法ではなかったのに。
いつもより少し早く登校して、折りたたんだ紙を彼女の靴箱に忍ばせる。
走り書きしたメモはとても簡潔だ。
『再会を待っています』
これならば万が一誰かにメモを見られても、場所も時間も特定できない。
急な闖入者に邪魔されることもないだろう。
受け取る側的には、メモの主が誰なのか予想が付けば、場所も時間も、言わなくてもわかる。
再会ならば、邂逅があるということだ。
あの日と同じ時間、同じ場所。
違うのは、今回は律がいない事。
わたしはあの時と同じように、先に待っているつもりでかなり早めに約束の場所に足を運んだ。
西日が差す前の、まだ青い空は強い日差しで学校を包んでいる。
校内もじんわりと熱せられる、暑い日だ。
律に彼女を紹介してもらった時は、この時間でもう夕日に移り変わる頃だったのに。
目的の教室の扉を開く前、ふと再三注意を促す律の顔を思い浮かべて、ポケットの中で切り札に触れる。
指先に触れる固さにほっと息を吐き出した。
魔法は多分、効かない。
あれだけ強い執着を見せている彼女の目を、認識阻害魔法程度で眩ませられるとは思えない。
だけど成功しなければ律に辛い選択をさせるだけ。
どうしたって、やらなければならない。
だから、最後の手段として持ってきた。
どうせ、この切り札も元々律のために作ったものだ。
こんな所で使うはずではなかったものだけど、背に腹は代えられない。
よし、と腹を括って扉を開ける。
とたん窓から差し込み教室内を照らしていた日差しに一瞬目が眩む。
「…あら? 早かったのね」
季節とは正反対の、しんしんと降り積もる雪のような印象の声が出迎えた。
辺りの熱が一気に減少した気がする。
「入江さん…」
約束の時間には随分と早い、誰かがいるとは思わなかったわたしは驚いて教室の奥に目を向けた。
明るさに慣れてきた目にやっと状況が捉えられる。
「なにをそんなに驚いているの? あなたが呼び出したのでしょう? おかしな人ね」
ふふと笑みを浮かべながら、入江陽菜乃が立っていた。
きれいな立ち姿。
彼女の背筋はいつも伸びていて、それが背丈より入江さんを大きく見せる。
「どうぞ入って」
入江さんの声も態度も、この前の様子からは想像もできない穏やかさだ。
が、激昂の兆しはなくとも、その瞳は昔とは違い深く暗い。
一応の用心をしながら後ろ手に扉を閉める。
わたしが扉を離れたのを確認してから、彼女は再び口を開いた。
「それで、一体私に何の用が?」
こてりと首を傾げて入江さんが早速本題に切り込んでくる。
わたしはあまりにも遊びのない会話に、何と答えたものかと一瞬言葉を失くした。
入江さんはそんなわたしの躊躇を何と解釈したのか、口の端をきれいに上げた。
笑みの形に弧を描いた唇からは相変わらずたった一人の名前が零れる。
「律のことね?」
正解だ。
頷く必要はなかった。
すぐに入江さんが言葉を繋げたから。
―あのね。
まるで友達に話しかけるような気さくな口調がわたしの心をざわつかせた。
「体調が悪いわけではないみたいなのに、学校に来ないから心配。―でもおかしいのよ、彼。電話に出てくれないの。メールもくれないし。今までこんなことはなかった。…ねえ、あなた、何か知ってる?」
疑問符で終わった問いかけは、わたしには、「知っているだろう」という断言に聞こえた。
水底に溜まった圧力が吹き出し口を探して、カタカタと音を立てているような気がする。
嵐の前の静けさとでも言えばいいのだろうか。
目の前の入江さんはこの前と違って至極落ち着いて見えるけど、本当に表面上の話だったのだと、今か今かと牙を剥く瞬間を待っているような彼女から視線を逸らせた。
かわいくて、優しくて、朗らかな入江さんに、かつてわたしは好意を抱いた。
その彼女はもういない。
わたしがそうさせた。
時間が戻せるなら。
何度も思ったことを埒もなくまた願う。
でもそんな魔法は使えないから、わたしはわたしのできることをする。
重い口を開いた。
「…話を、しましょう」
冷静に。
と、言いたくても言えないわたしの一言は少し会話の流れを遮った。
ぴくりと入江さんの眉が動いて、不愉快そうに発せられた言葉はわたしの唐突な話題変換への抗議ではない。
「私は冷静よ?」
わたしが言葉にしなかった言外の思いを、正確に読み取っていることを示した彼女に昔の面影を見る。
そう、入江さんは人の感情の機微にとても聡い人だった。
だからもう、わたしはこのままの流れで会話を続けることにする。
強引でもいい。
なにか魔法をかけるきっかけが必要だ。
それを探る。
「…本当にそう思う?」
「一体どういう意味?」
「本当に、入江さんは冷静? あなたの家族や友達は? 今のあなたを見てなんて言ってる?」
痛い所を突かれたと思ったのか、入江さんは苦々しい顔をした。
入江さんにだって親しい友人がいる。
悪い方向に変わっていく友達に、忠告してくれる親しい友人が。
「別に、なにも? 確かに以前は少しうるさかったけど、今は特になにも言わなくなったし」
入江さんを否定をする人間はいなくなった。
だから自分はこれでいいのだと彼女が言う。
けれど、それが示すのはきっと、入江さんが本当に心配してくれる大切な友人を失ったという事。
彼女は気付いているのだろうか。
「いいの、律さえいれば。私はそれでいい。それだけで、いい」
自分の『唯一』を定めた人間は強い。
たった一つを得るために、全てを捨てる覚悟は素晴らしい。
けれどそうまでして『唯一』を得られなかったら?
どこかの誰かを思い出す。
記憶と共に存在する傷がじくじくと痛んだ。
そしてその誰かと同じく、入江さんの『唯一』はもう、その手の中にはないのだ。
「ただ、律といられれば…。なのに、それすら邪魔しようとする人がいる。わかってるわ、律は素敵だもの。きっといつかそんな人が現れるってわかってた」
大好きな人がいて、その人はとても素敵な人で。
自分だけが気付いている魅力のはずだった。
だけど魔法は解かれ。
その目に映るのは、誰もが見惚れる容姿を持った恋人。
自分だけが知っている魅力は、今は誰の目にも明らかに。
暴かれてしまった。
少なくとも、彼女にとってはそう見えたはずだ。
やがて不安が心に巣食う。
いつか誰かが、この人を好きになるかもしれない。
彼を、奪いに来るかもしれない。
だって、この人はこんなにも魅力的なのだから。
そうして二人の歯車は狂い出したのだろう。
「私たちを引き裂こうというのでしょう?」
わたしを見ていた入江さんの目がぐんと濃さを増した。
申し訳程度に繕っていた笑顔も消えて、そこには冷たい怒りを湛えた敵意が宿る。
どうやらわたしは彼女に、二人を引き裂く障害と認識されたらしい。
「幼馴染だなんて、とんだ言い訳ね。はっきりと私が邪魔だって言ったらいいのよ。そんな肩書を隠れ蓑に良い人面して、律を騙してるのでしょう? 今のあなた、とても見苦しいわ」
少しだけ動揺した。
別に、二人を引き裂きたいと思ったことはないけれど。
わたしはいつかはと覚悟しながら、心の中ではいつまでもこのままでいたいと願っていた。
だから入江さんが現れた時、もう少し時間が欲しかったと残念に思ったのも確かなのだ。
「…やっぱりね」
平静を保ったつもりだったけど、入江さんはわたしの中の動揺をちゃんと見て取った。
心の中の肯定を。
「あんなに優しい律が、私を遠ざけるなんてあり得ないのよ。誰かがそう仕向けない限り」
入江さんに友人の話をしたときはもしかしたらと思った。
このまま意識を律以外に持っていって、自分の変化を認識させれば、あるいは魔法がかかるのではないかと。
だが、この会話の流れでは不可能に近い。
律、律、律。
入江さんの頭の中には律の事ばかり。
全てが律を中心に回っている。
こんな状況で、律を忘れるほどの感情を他の誰かに向けさせるなんて無理な話。
「律とわたしを引き裂こうとしてる黒幕は、あなたでしょう?」
確信をもって突き付けられた問い。
それを聞いて、わたしは覚悟を決めた。
こうなったら、とことんわたしに意識を向けさせてみるしかない。
それこそ、憎しみと敵意で律の事を忘れるという本末転倒な事態を引き起こすくらいに。
さて、まずは何と言えばいいのだろう。
どんな筋書きならば、彼女はわたしの事しか考えられなくなる?
律を入江さんから奪うフリは単純でやり易いが、律の存在を改めて彼女に突き付けてしまうという意味で得策ではない。
わたしは少し考えてから、彼女の言葉を肯定してみることにした。
すなわち―。
「…あら、バレちゃった?」
彼女の推測通り、黒幕のフリだ。
にっこりと笑顔付きでのたまってみる。
入江さんはわたしがあっさりと認めたことで一瞬虚を突かれた顔をした。
ただし、黒幕は黒幕でも律に恋する故の犯行ではインパクトが薄すぎる。
「別に、誰でもよかったんだけどね。あなたがそうやって苦しんでるのを見られれば」
律という存在はただ、あなたを傷つけるためだけの手段だと遠回しに伝える。
深く、深く、闇を振り撒きながら、表情だけは飛び切りの笑顔を。
かつて、幼馴染を奪われたくなくて足掻いたわたしはこんな笑い方が得意だった。
「…は?」
久しぶりに見た、入江さんからの敵意以外の視線。
自分が振り撒くのではない、誰かの悪意に晒されて、入江さんは戸惑いの声を上げた。
指向性をもって入江さんに向ける悪意があることを告白したわたしの突然の言葉に、情報を処理しきれなかったらしい入江さんの素が透けて見えた。
「わたし、はじめて見た時からあなたの事が嫌いだったの。あなたを見るたびに本当にイライラしたわ。だって、かわいくて、なのに気さくで付き合いやすくて、いつもちやほやされて、人に囲まれて。友達も多くて、大人の評判すら良くて、みんなに好かれてる。でも、わたしは大っ嫌い。気付かなかった? 自分は誰からも好かれてるとでも思ってた?」
「え?」
並べ立てたのは、わたしが彼女に対して持っている感情以外、すべて本当の事だ。
かつての入江さんが、持っていたもの。
今は、失くしてしまったもの。
そういうものたち。
「愛されてる人はこれだから困るわ。持っている、それだけで人に恨まれることがあることを知らないのだから。そういうの、なんて言うか知ってる? 傲慢って言うのよ」
「…あなた、一体なにを」
「わたし、今とても気分がいいわ。だって、大成功じゃない?」
入江さんの言葉をわざと遮って、首を傾げながら問いかける。
いっそ無邪気にすら見えるように。
得体の知れないものを見るような目で、入江さんがわたしを見た。
そこに混じった怯えを見逃さない。
ふふと笑って、距離を詰める。
思わず下がろうとした入江さんは窓に背をぶつけて、それ以上の逃げ場がない事に気付いた。
「今のあなた、わたしが羨んだもの、なにも持ってないもの」
顔を近づけて覗き込む。
暗かった瞳が驚愕に見開かれていた。
「もう、羨ましくなんてない」
目を細めて、間近でにやりと笑う。
持ち上げた手で入江さんを明確に指差した。
「もう、あなたには、何もない」
殊更ゆっくり、はっきりと、その言葉を触れそうな程近くで彼女の耳に吹き込む。
魔法をかける隙を探していたわたしには、一瞬の間に入江さんの中を駆け抜けた感情が見えた。
きっと、失ったものの事を考えたのだろう。
かつての自分を、思い出したのだろう。
強い意志をもって行われた選択に後悔は抱きにくいものだけど、それが奪われたと思った時には、なぜか素直に失われたものがあることを認めるものだ。
それがどんなに大切なものだったかも同時に思い出す。
ざっと青くなった顔色に少しほっとした。
思惑通りに運んでくれたらしい。
このままわたしにだけ感情を向けてくれれば―。
思いながら、間近にいる入江さんにこれ幸いとどれだけ魔法が通じるかを試した。
浸透率を見て、タイミングを計りたかったのだ。
――わたしはきっと彼女の後悔を甘く見ていた。
心の底に沈めていたのだろう、深く強い、想い。
律への執着で封印されていた、捨ててきたものたちへの後ろめたさや悲嘆。
多分、彼女は本来とても情の深い人なのだ。
淀み、蟠り、自責の念で燻っていたそれらが、向かう先を見つけて牙を剥いた。
多くの感情が通り過ぎた最後に、宿った感情の色は赤。
それが入江さんの目を染め上げたのを見逃した。
気付いた時。
描かれた不吉な線を避ける暇はなかった。
わたしはただ咄嗟に体を引いて、反射的に体を庇って手をあげる。
彼女は振り切られた凶器が起こす結果を見る前に、大きな目に驚愕を張り付けた。
ああ、そんなつもりではなかったのだなと、スローモーションのように舞い上がった赤い飛沫の行方を追う。
きっと、わたしと入江さんは同じ顔をしていた。
思わぬ行動、思わぬ結果。
両者ともが望んでいない結末がそこにはあった。
かしゃんと、強張った入江さんの手から落ちたカッターが床を滑る。
一瞬それに意識を奪われたわたしと違って、入江さんは視線を動かしたりはしていなかった。
じわりと滲みだし、瞬く間に腕を染め上げ、床に滴っていく血を見ていた。
口だけがわなわなと震え、何か言葉を紡ごうとする行動を阻む。
ブリキのおもちゃのようにぎこちない動きで両手が上がり、口元を覆って、空気を吸い込む音がした。
それはダメだと、魔法を使う。
認識阻害の魔法も、これだけ動揺してくれていれば掛かりやすい。
眩暈を起こすくらいはお手の物だ。
ぐらりと傾いた入江さんの体を受け止めたかったけど、今の私に触れると血だらけになってしまう。
どうしようか迷った一瞬で入江さんは床に倒れて意識を失った。
「…ええと、結果オーライ、かな?」
打ち所が悪かったというよりは精神的ショックによる意識喪失だろう。
万が一を考えて、あとでちゃんと保健室に連れて行かなければならないが、緊急局面は乗り切ったかもしれない。
「ってこともないか」
だらだらと流れる血の勢いが冗談ではないことになっている。
大惨事の左腕の傷を右手で圧迫するように抑えると幾分かマシになった。
これはマズいとかつて荒事に身を置いていた記憶が伝えてくるのは、戦闘中であれば致命的な隙になるからだ。
落ち着けと、自分に言い聞かせる。
ここは戦場ではない。
ならば死ぬようなものではない、もちろん失血量から言って放置していていいものでもないが、すぐに治療すれば問題はないはず。
そう、それくらいの判断ができるくらいには、わたしは普通の人よりずっと咄嗟の危険に強い。
経験上、特に刃物等の凶器には。
だから律を説得して、何かが起きるかもしれない二人きりの舞台も用意したし、どうにかできると思ったから彼女だって挑発した。
「馬鹿。…また、思い上がった」
こんな素人の闇雲な一振りが当たる様な鍛え方はしていなかった。
事実、この目には見えていたのに。
熱に似た痛みと共に苦々しい思いがこみ上げる。
耐えられるはずの痛みに喉が呻き声を我慢できないことで、わたしは、『私』ではないのだと、なおさら思い知らされる。
どう考えても、わたしの失敗だった。
彼女の魔法を払った時と、同じ間違い。
「いい加減、学ぶべき」
壁に頭を打ち付けたくなるような後悔と羞恥を覚えた。
何度間違えれば済むのだと。
そしてわたしの間違いは全部、たった一人が背負っている。
臍を噛む思いでちらりと倒れてなお青い入江さんの顔を見た。
これでは入江さんに全てが圧し掛かってしまう。
そうなることを提案した律を止めたかったのに、これでは本末転倒もいい所。
痴情の縺れの末の殺傷事件なんて、笑えない。
まして彼女をその加害者にする気なんてこれっぽっちもない。
自分の失敗を人に押し付けるなんて、一番やってはいけない事だ。
じりじりと焦げ付くような思いが汗になって額を伝った。
痛みが思考を邪魔する。
耐性のなさが恨めしかった。
「治す、のは無理」
呟くように出した声は情けないことに随分と掠れていた。
本来、人間の治癒力は時間経過に比例する。
この怪我なら傷が閉じるまで一月を要するかもしれない。
だが今、そんな時間は許されていない。
入江さんを巻き込まないためには、この傷はあってはならないのだ。
時間という絶対的要素を覆そうとするならば、魔法でもなければ無理。
だが、わたしは認識阻害魔法に使える容量のほとんどを割いてしまった。
残滓程度の容量で登録できる魔法なんて、一つも知らない。
そしてその容量を増やすような道具はこの世界にはないから、わたしの魔法はそれで打ち止めなのだ。
―いや、と頭を振る。
「…使う場面だ」
ここが。
使いどころってヤツだ。
律を自由にするために作った。
でも、入江さんを助けるために使う事を間違いだとは思わない。
教室に入る前にポケットの中で転がしていた小さな白い球を、血に塗れた手で苦労して取り出す。
虹に似た独特の光沢をもったそれは宝石の一種。
母のネックレスの糸が切れて散らばった時に一つ拝借させてもらったものだ。
一粒足りないと困っていた母には悪いことをしたけれど、わたしの小遣いで手に入れられる代替品はなかった。
それを目の前にかざして、きちんと高濃度の魔力が循環しているのを確認する。
いつかこれを身に着けているだけで認識阻害魔法が発動する魔道具を作るつもりだった。
「本来の使い方とは違うけど…」
理論上は容量増幅にも、使えるはずだ。
「頼むよ」
祈るように口の中に放り込んで、思い切りそれを噛み砕く。
魔力で溢れたそれは、起動を促されてガラスの様に簡単に砕け散った。
途端あふれ出した圧縮された魔力。
口の中で解放したのは取りこぼしを少しでも減らしたかったからだ。
激流の水を飲み込むような苦痛を堪えて必死に変換式に乗せる。
やっぱり効率がすこぶる悪い。
これだけの魔力が呆れるほどにロスしていく。
10を失い、1を作る。
繰り返して100を失う。
わたしの10年もあっという間に消費された。
治癒魔法にはそれでも呆れるほどに手が届かない。
当たり前だ、わたしの容量がどれだけ低いと思ってる。
ならばと回復魔法の取得に切り替える。
この二つの違いはきっとこの世界にはあまりないだろう。
わたしがなんとなくニュアンスで日本語を当てているだけで、呼び方を反対にしたって別に困らない。
とにかく、わたしは回復魔法の上位版を治癒魔法と定義している。
内容としては、ゲームで言うHPやMPにまで影響を及ぼすのが治癒魔法で、肉体の修復に終始するのが回復魔法とでも思っておけばいい。
もちろん回復魔法と類される魔法にも種類がある、が。
―この世界の人間は、本当に魔法に向いてない。
この魔道具を作った膨大な時間と魔力を消費して一つの魔法をつかみ取りながら、そんな文句が頭の隅に浮かんだ。
ため息を吐きたくなるような脆弱な魔法を手にして、わたしは少しだけ愛する世界の仕組みを呪う。
変換に乗せられなかった魔力を流用してそのまま取得したばかりの魔法を発動させた。
それすら普段の魔力量では発動もできなかったはずだ。
世界を罵るよりは、不幸中の幸いに感謝すべきなのだろう。
目に力を入れて、傷を凝視しながら走査する。
切れた血管を手早く繋ぎ、露わになっていた肉を閉じ、皮膚を再生して傷跡を覆った。
薄くはなっても消えない痛みが半端な回復を思い知らせる。
血管の繋ぎ目は恐ろしいほど脆くて、不用意に腕が動かせない。
だけど全てを蓋できれいに隠せたはずだ。
一番大切なミッションはギリギリ及第といったところか。
血が止まったことを確認して、わたしは力を抜いた。
破片となり口の中を傷つけた真珠は、吐き出してみれば役目を終えたことを示すように白色を失っていた。
無理矢理に増幅した容量で得た回復魔法(と呼ぶにもおこがましい脆弱回復)だけど、これを使えるだけの魔力を得ることは二度とないだろう。
「まだやることが残ってる」
最後に魔力をかき集めて、もう一度魔法を行使する。
だから、それはいつもの魔法。
認識阻害の魔法でスプラッタな赤を覆い隠した。
人の目にはきっとなんら変化のない教室とわたしが映るはずだ。
明日にでも掃除に来るからと心の中で謝罪して、入江さんを保健室に運ぶ。
自力で出来ればよかったのだが、筋力を上げる魔法も使えない今では無理な話だった。
人様の手を借りたが、そのごたごたのおかげで二人だけで放課後の特別教室に居たことを怪しまれずに済んだ。
保健医には貧血で倒れたと説明して、頭を打ったかもしれない旨を伝えたが、外傷等を確認してから大丈夫そうだと結論を得た。
心からほっとした。
「目が覚めるのを待ってていいですか? 友達なので」
そう言って、ベッドに寝かされた入江さんの横に置かれた椅子に陣取る。
快適な室温に保たれた保健室。
空調の音と先生がカーテンで仕切られたベッドの向こうで書き物をする音だけが耳に入る。
入江さんの寝顔は意識がなくても苦悶に歪んでいた。
夢の中でも自分が仕出かしてしまった事の大きさに慄いているのかもしれない。
最後に見た表情は害意や嫉妬ではなく、人を傷つけた恐怖だったから。
「…大丈夫、なにもなかったから」
囁いてみるけど、当然答えはない。
しばらくして、一言言い置いて保健医が席を外してしまった。
きれいに洗った手に血は残っていないが、制服を汚している赤は自分の目には鮮やかで、今のうちに体操着に着替えておくべきかと悩んでいたら、やっと入江さんの瞼が覚醒の予感を見せた。
ふるふると震える睫毛はわたしよりずっと長い。
現実から逃避するかのように、少しためらった後にゆっくりと開かれた目が現状を把握しようと辺りを見回した。
じっと見下ろしていたわたしと目が合ったとたんに、元々大きい目を見開いてがばりと身を起こした入江さんは、急激な動作で眩暈を起こしたのかふらりと視線を揺らした。
体が傾ぐ前にその肩を掴む。
左腕が不用意に動かせないせいでぎこちない動作になったけれど、目覚めたばかりの入江さんに気付かれる程ではないだろう。
動作だけで大人しくベッドに横になるように促したが、入江さんは自分の眩暈すら無視して、肩を支えたわたしの片腕に縋るように両手を伸ばす。
それは掴むというよりは抱き着く程に強く。
左腕じゃなくてよかった。
「あな、た」
入江さんの声も手も、隠せないくらい大きく震えていた。
倒れる前の光景がきっと目に焼き付いているのだろう。
わたしは、何でもないふりをして笑う。
「どうしたの? こわい夢でも見た? 突然貧血で倒れたから驚いたわ」
「……ゆ、め?」
戸惑ったように懇願の色を宿していた瞳が困惑に変わる。
「違うわ。だって、あんなに…。だって、どこまでが?」
「一体どんな夢を見たの?」
「どんな…」
記憶を辿られると認識阻害魔法が解かれる可能性があるから、目に見える現実に注意を向ける。
「あなたに、嫌われる夢。それで、わたしが…」
入江さんは誘導に引っかかってくれたようで、夢の内容を思い浮かべるようにわたしを見た。
わたしの左腕を。
そこに何かを探すように。
あるいは何もない事を祈るように。
不思議そうにわたしは問う。
「なあに? わたしの手に何かついてる?」
「なにも。…なにも、ないわ」
言葉が終わる前に、入江さんの目からは涙が零れ出した。
ぼたぼたと、大粒の雫が頬を滑り落ちていく。
「よ、よかった。夢ね? 全部。本当に、なにもなかった。私、取り返しのつかない事、してないのね?」
しゃくり上げながら、確認するような言葉に胸が痛んだ。
わたしが引いた引金でも、自分で起こした行動に自責の念を失うような人ではないのだと。
苦しそうな嗚咽が少しでも楽になればと、その背を右手でさする。
けれどその行為は慰めるどころか入江さんの感情の箍を外してしまったらしい。
「私、あなたを傷つけたかと! 自分がこわかった! 誰かをあんなに簡単に傷つけられるなんて。全部、人のせいにして、私は被害者で、悪者がいて、そんな馬鹿なことを簡単に思い込んで、私は悪くないって、恨んで、何も考えられなくて、感情だけで! 憎んで、憎くて、苦しくて、あなたさえいなければって、私、本当に、そうしたのよ!」
わっと顔を覆って泣き崩れた入江さんは要領を得ない言葉を並べ立てた。
感情に飲み込まれて制御を失った行動が彼女に与えたショックは計り知れない。
「大丈夫、全部夢だから」
掛ける言葉が見つからなくて、それを繰り返す。
どれくらいそうしていただろうか。
ゆっくりと、入江さんの懺悔のような声は小さくなり、嘆きに揺れていた肩も落ち着いてきた。
あとには、激情が去った後の虚脱感が入江さんを包んでいるようだった。
頬に涙の跡を残したまま、しばらく無言だった入江さんがぽつりと呟く。
「きっと、あれは私の願望だったんだわ…」
瞬きの後に、はたりと最後の涙が落ちた。
「ごめんなさい」
大量の水に押し流されたように、わたしを見た入江さんの目にはもう暗い濁りは見えない。
謝らなければならないのはわたしの方だと言うには状況が許さなかった。
わたしに出来るのは全てをなかったことにすることだけ。
「謝られるようなことは、なにもなかったわ」
緩く振った頭に、入江さんは困ったような笑みを浮かべて、ごめんなさいと重ねた。
腫れた目蓋が重そうだと、なんとなく場違いなことを思い描く。
そうして、静かな空気がわたしたちの間に流れた。
沈黙は特に苦痛ではなかった。
互いに見えない疲労が重なっていたせいもあるだろう。
改めて入江さんの顔を見れば、目の下には一日二日ではできない濃い隈があった。
彼女なりの苦悩が、睡眠を奪っていたのかもしれない。
―今ならば聞けるだろうか。
さっきまでよほど慎重に扱っていた話題だけど、この時のわたしの口からはさらりとそれが出た。
避けてばかり、失敗ばかり。
わたしは正面から、一度も向き合ってない。
ねえと呼び掛けて、その目を見ながら名前を音にする。
「リツが、好き?」
今も、本当に好き?
入江さんが律の名を認識するまでに少しの間があった。
ぱちりと一瞬閉ざしたまぶたが開いた時には、やっぱり激情が宿っている。
覗き込まなくとも名前をきっかけに、澄んでいたはずの目に深く、重く、暗く、どろどろとした想いが渦を巻き出したのがわかった。
「律…」
火傷しそうな程の熱が籠った入江さんの声に、ああ、と漏れそうになる嘆息が、失望なのか諦めなのか落胆なのかは自分でもわからない。
彼女の答えなんてそれ以上聞かなくても明らかだ。
でも、入江さんは律の名前を呟いたきり、口を閉ざした。
固く引き結ばれた唇は何かを言いたがっているのに、それを留めようとするかのように彼女は口を開かない。
掛け布団を強く握りしめた手が白くなっていた。
わたしを見ない目は、なにかと戦っているかのように険しい。
わたしは目を伏せる。
また間違えた。
これは違う。
正解じゃない。
彼女を傷つけただけだ。
ねえともう一度、呼び掛ける。
「自分の事は、好き?」
思わぬ質問だったのか、はっと顔を上げた入江さんはわたしとやっと目を合わせてくれた。
バランスよく配置されていた目鼻立ちがくしゃりと歪む。
「…とても、きらい。今の自分は、大きらい」
とつとつとした言葉は年よりもずっと幼く聞こえて、それだけに隠しようもない本音だとわたしに伝える。
「昔の自分に、戻りたいと思う?」
「……むかし、の?」
「そう、自分が嫌いじゃなかった頃のあなた」
「…友だちがいて、家族と仲が良くて、みんなが優しくて、私が、醜くなかった頃。…律が、いなかった頃の、私」
その答えは、とても悲しかった。
律が居ない過去を幸せだったと回想する入江さんが、もう無理だと嘆いた律に重なる。
入江さんは捨てられない感情を抱いたまま答えた。
「戻れるなら、戻りたい」
そこに込められたのは、無理だという反語だ。
囚われ、抜け出せないことを入江さんは理解している。
名前一つで取り戻してしまう執着心がまさしくそれを示していた。
でも、入江さんが戻りたいと言ってくれたから。
わたしは無言で右手を入江さんに差し出す。
唐突なわたしの行動に疑問符を浮かべる入江さんを無視して。
「わたし、魔法使いなの」
悪戯めいた笑顔を乗せ、今こそ馬鹿な告白を。
「あなたが望めば、魔法をかけてあげる」
さあ、信じるならこの手を取ってと笑いかけた。
呆気に取られていた入江さんは、やがて毒気を抜かれたような顔をして、最後にふふと笑った。
あの瞳の中の熱はいつの間にか去っていた。
「魔法使いさん、それが本当なら魔法をかけて」
入江さんが穏やかな顔でわたしに頼む。
「なら、今からわたしの言うとおりにして?」
まずは布団を被って大人しく横になること。
魔法をかけるときは、目を瞑って開けない事。
「それから、彼の事を考えないで」
「…随分と注文の多い魔法使いね」
大人しくベッドに収まった入江さんが笑いながら文句を言った。
「魔法を使うには色々と制限があるのよ、仕方がないじゃない」
「それにしたって、最後の注文はとても難しいわ。…私にとっては、とても、難しいのよ?」
声は笑っていたけど、顔を見せたくないのか入江さんは顔を両手で覆っていた。
「なら、彼の事を考えないんじゃなくて、他の事を考えてみるってのはどう?」
「他って、どんなこと?」
「そう、ね。例えば、何かしたいことはない?」
「…謝りたいわ。わたしに誠実に向き合ってくれていた人たちに」
「それも悪くはないけど、もっとポジティブなことはないの? 考えて楽しくなるような未来の事よ? 新しく挑戦したい事とか」
「したいこと。…う~ん」
指の間から目を出して、何かないかとキョロキョロと動かしていた入江さんは何かを思いついたのか、決めたと声に出した。
「したいこと、一つあった」
「いいね。教えて」
「内緒!」
くすくすと笑うその声が楽しそうだったから、きっと本当にいいことを思いついたのだろう。
落ち着いた美少女だと思っていたけど、素の入江さんはもっと天真爛漫な人らしい。
律は、知っていただろうか。
「もとに戻ったら、絶対にやるわ」
「なら、そのことだけを考えて。今は、それだけを」
「それだけ…」
「できそう? 魔法が掛かるか掛からないかはもうあなた次第よ」
成功率の話なんてしない。
魔法なんてものは、この世界では曖昧なものなのだから。
わたしを見ながら、入江さんはやってみると神妙に頷いた。
信じているわけがないわたしの茶番に、存外真剣に取り組んでくれる入江さんは今どんな気持ちなのだろう。
笑いながら、藁にも縋る思いなのだろうか。
それとも、少しでも信じていたりするのだろうか。
「目を閉じて」
わたしは手の平で彼女の目を覆う。
入江さんは素直に目を閉じた。
魔法の準備に少し静かな時間が流れる。
「ねえ、どうしてわたしにこんなことをしてくれるの?」
退屈だったのか焦れたのか、あるいは戯れに、入江さんがふとわたしに問い掛ける。
失敗するわけにはいかない魔法をゆっくりと構築しながらわたしは答えた。
「こんなことって、魔法をかけること?」
魔法使いだから魔法をかけるのは当たり前だと、笑いながら返すつもりだった。
「いいえ、私を助けようとしてくれること」
でも入江さんの質問はそんな意図ではなく、知らず核心をついてわたしの息を一瞬止めさせた。
思わず身を投げ出して、謝罪しながらただの自責の念と保身だと告白してしまいたくなる。
「夢の話じゃないけど、それでも、私、あなたに嫌われて当然のことをしてきたわ」
入江さんはもう一度そんな私にどうして?とわたしの手の下で少し首を傾げてみせた。
多分、この良心の呵責は責められたいと思う自己満足でしかない。
わたしは口にできる真実と、伝えたいことだけを言葉にした。
「あのね、わたし、あなたを嫌いだと思ったことは、一度もないの」
わたしの手の平で隠された入江さんの目は見えなかったけど、唇は穏やかな弧を描いた。
「さあ、おしゃべりは終わり。ちゃんと目を閉じて、集中して」
準備ができたと告げると、彼女が少し緊張を見せたから、大丈夫だと言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「次に目覚めた時には、きっともう元通り。あなたの目はちゃんと閉じてるわ」
「…優しい魔法使いさん、それは違うわ」
目の上に翳したわたしの手を、入江さんはそっと握った。
「きっと私は目を閉じるんじゃなくて、目を開けるのよ」
彼女に見えていなくてよかったと思った。
わたしの顔はきっとくしゃくしゃだっただろうから。
しばらくして戻ってきた保健医に彼女が一度目覚めたことを伝える。
「ならもう心配はいらないから、あなたは先に帰りなさい」
先生は眠った入江さんも、わたしの目もひどく腫れている事には触れないでいてくれた。
彼女は起きるか時間になるまで寝かせておこうと優しく笑う先生の言葉に従って学校を後にする。
強い西日が肌を刺した。
「千紘」
俯いたまま校門を潜ったわたしを聞きなれた声が呼ぶ。
「リツ」
「…お疲れ」
「どうして、ここに」
家にいるはずではなかったのか。
「ここなら待ってたって千紘の魔法の邪魔にはならないだろ?」
ほれと手を出した律を見上げる。
いつの間にか、背が高くなった。
「かえろう」
動かないわたしに焦れたのか、律は勝手にわたしの鞄を奪って隣に立った。
わたしは何も言わず促されるままとぼとぼと歩き出す。
律はわたしの隣を無言で歩くだけで、事の成否を問わない。
わたしも、言える言葉はなかった。
毎日行き来を繰り返しているはずの通学路は今日に限ってひどく長いものに思える。
重い足取りを引き摺って、やっと家が近付いてきた頃。
律が口を開いた。
「きっとこうなると思ってた」
「『こう』?」
「千紘が、泣くことになるんだろうって」
辛うじて、わたしは声を喉の奥に閉じ込めた。
律がわたしに助けを求めたくなかった本当の理由は、あまりにくだらなくて、小さすぎて、馬鹿馬鹿しくて、優しすぎた。
「ありがとな」
「ごめん」を飲み込んで、律が言った。
「うん」
「ごめん」を飲み込んで、わたしは答えた。
律が鞄を持ってくれた手とは反対の手で、夏の日差しの中でも冷たいわたしの手を取る。
「昔を思い出すな」
「…うん」
幼稚園の頃、誰の目も気にせずにこうして近所を歩き回った。
律の手を握り返して、わたしは心の中で律に語り掛ける。
律、律、あなたは言ったわ。
自分は彼女を信じて、彼女は自分を信じなかったと。
でも、本当に彼女が悪かったのだろうか。
律の信頼は、わたしと同じように独り善がりな押し付けとなにが違うのかと、今は思う。
最初からフェアじゃなかった。
彼女が好きになったのは、本当の姿の律じゃない。
わたしと律は、内面を愛してくれたと舞い上がったけど、入江さんはそのままの律に何ら不満なんて抱いてなかった。
入江さんはきっと本当に律が好きだった。
だからこそ焦ったのだろう。
誰をも惹きつけてしまう彼の外見に。
そうしてバランスを保っていた愛は、突如重さを増したせいで天秤から転げ落ちてしまった。
覚悟もなく、突然変化を突き付けられた彼女が心を保てなかったのは罪か。
勝手に仮面を剥がした律は本当に彼女の事を考えていただろうか。
そもそもアンフェアな状況を作ったのは誰か。
幸せな結末があり得た故に、彼女になにも非がなかったとは言わないけど。
律、わたしは入江さんを責める気にはなれないんだよ。
だって、彼女の叫びが耳の奥で木霊する。
助けてと、心が壊れそうだと、嘆く声。
律を救うつもりだった、でも同じように、入江さんを助けたかった。
全ての根底には、わたしと律の傲慢さがあるのだと思ったから。
隠しているくせに、真実を知って欲しいと望む心。
隠しているくせに、それごと愛して欲しいと願う心。
隠したくせに、本当の彼を見て欲しいと願う思い。
それを悪い事とは言わない。
でも、わたしたちは受け入れられない覚悟をしておくべきだった。
隠している後ろめたさを持つべきだった。
そうしたら、正面で笑ってくれていた彼女の心をもっと大事にできたはずなのだから。
強く握り返す律の手が、「わかってる」と答えたから、もうわたしには泣く以外の事が出来なくなった。
入江さんと律は、他人になった。
彼女は元の爛漫さと明るさを取り戻し、日常を回復しつつある。
離れていった友人たちの中には疎遠になった者もいたが、謝罪を受け入れてくれた者も少なくないらしい。
失ったものは多くとも、今の入江さんならばこれから得られるものはもっと多いはずだ。
律も、あれからしばらくして学校にしれっと復活している。
彼はわりと図太い。
律なりのけじめなのか、彼は入江さんに話しかけることはおろか、視界に入れることすらなかった。
その徹底した態度をどう見るかは人によるだろう。
口さがない噂はやっぱり駆け巡ったけど、両者がそのことに関して口を開くことはなかった。
実のところ、入江さんに本当に認識阻害の魔法がかかったのかは定かではない。
律との決別を受け入れたからには成功したのだろうと思うのだが、入江さんの目には時折強い感情が走る。
あの衝動の強さを知っている。
泣いて、縋って、罵って、その心に少しでも残りたいと足掻く恋心。
遠くに律の背を見詰める入江さんの足は、けれど彼に向ってはいかない。
宿るのは暗い淀みではなく、戦いに挑むような光。
その瞬きがわたしは好きだった。
苦悶や苦悩、執着や恋情、全部を一緒くたにかき混ぜて、それでも今は失われない真っすぐな、私にはなかった強さ。
わたしは小さな背で懸命に足掻く彼女の後姿に声をかける。
「陽菜乃」
はっと彼女は視線を緩めてわたしを振り返る。
「行きましょう? 陽菜乃」
「…ええ、そうね」
一瞬だけ、未練がましく律の背を視界に捉えようと無意識に動いた彼女は意志の力でそれを押しとどめたように見えた。
「ありがとう、千紘」
わたしは何も知らないふりで「なにが?」と首を傾げる。
入江さんはそれには答えず、放課後の話に話題を変えた。
今日は、駅前のファミレスで一緒に勉強予定らしい。
もちろんわたしとだ。
最近はこうしていつの間にか勝手に予定が埋められていることが多い。
入江さんとわたしが名前で呼び合うようになった経緯は、彼女が律と別れた後にわざわざわたしを訪ねてきて質問を投げかけたことから始まる。
「したいことがあるって言ったのを覚えてる?」
もちろんだと答えたかったけど、わたしはあんな魔法を行使しようとしている時の、強い魔力が漂う空間での会話を彼女が覚えていることの方が驚きだった。
そんなわたしの反応を答えと捉えたのか、入江さんが意気込んで話しかけてくる。
「覚えてないならそれでもいいの、別に結果に関係があるわけじゃないもの」
そうして入江さんは「したかったこと」を教えてくれた。
「友達になって欲しいの」
わたしにとってそれは、ここ最近で一番虚を突かれた行動だった。
「やっぱり、ダメかしら」
わたしが戸惑っている間に小さくなる声は表情より雄弁だ。
「あ、いえ、ぜんぜん! ダメじゃないです、ぜひ、よろしく」
あんなに焦った千紘を見たのは後にも先にもこれだけだと、それから長い付き合いになる陽菜乃はよく笑った。
その度に、わたしは飽きもせずに華のような笑顔に見惚れている。
律の好きな人と友達になりたいというわたしの希望は、こんな形で叶えられることになった。
今となっては好きだった人だけど、まあ些細な問題だ。
そんな風に、わたしたちの中学三年目の事件は終わりを迎え、本格的に学生の本分へと集中する時期になった。
高校は、初めて律とは進路を違えた。
律は一番近くの高校を選び、わたしは少し背伸びをした。
「なんでわざわざ離れたところを選ぶわけ?」
離れると言っても、律の交通手段が自転車になるのに比べて、わたしは数十分電車に揺られる程度のことだ。
「あ、千紘、それ間違ってる」
わたしより偏差値の低い学校を受けるはずの律に勉強を教えてもらうという珍妙な図も今更。
「え、うそ」
「ホント。まずは文章を良く読めっていつも言ってるだろ。で? あの学校のなにが良いって?」
律に特定の人がいなくなったことで、わたしはまた遠慮なく大島家へお邪魔することが出来るようなっている。
律のお母さんは大変ご機嫌だ。
ちなみに今日もテーブルに用意されている、賄賂代わりのお茶請けはわたしの手土産と相場が決まっている。
律のお母さんは欠点らしい欠点は見つからないが、いや、これも欠点とは言えないけれど、なぜか料理の腕だけがごく普通なのだ。
マズくはない、でもおいしいとも言えない、ひたすら普通の料理を作るという、ある意味特技ともいえる欠点。
律が度々我が家の食卓に紛れ込んだり、わたしの手土産を殊更喜んだりするのには実はそんな理由があった。
「カリキュラム的に、かな」
「…え、今からそんなこと考えてるの? まさかもう将来の夢があるとか」
「別にないけど」
「あーびっくりした! そうだよな、俺たちまだ若いし? 夢なんて持ってる奴の方が珍しいし? な?」
置いていかれたかと焦っている律が面白くて少し笑う。
少しむっとしたあとに、律は意外なことを言い出した。
「でも千紘がそっちいくなら俺も希望変えようかな」
特にこだわりがない上に、隠しているだけで実のところ頭がいい律はわたしと違って進路が選び放題だ。
成績は如何ともしがたいが、実力頼りの試験ならば律に死角はない。
「リツがいいなら別にわたしはいいと思うけど。ただ、陽菜乃も進路希望わたしと一緒だよ?」
「…あ~、うん、俺はこのままでいいかな」
わたしは簡単に手の平を返した律にまた小さく笑った。
二枚目な見た目と三枚目の性格を持ってしまった幼馴染のアンバランスさがわたしは嫌いではない。
律は元恋人である陽菜乃を心底苦手としている。
かつてのごたごたのわだかまり、というほど重いものではない。
単純に気まずさがそうさせるのだろう。
いつか、律が言っていた言葉が思い出された。
『過ぎてみれば、なんてことない出来事だってって、すぐに笑えるようになるよ』
なんてことない出来事だとは思わないけど、少なくとも笑えるはずがないと思っていたことを、今はこうして冗談に乗せられる。
奇跡のようだと思った。
穏やかで忙しい日々は過ぎ、わたしも律も、ついでに陽菜乃も希望した進路の道を無事に選び取れた。
学校は別れても律とわたしの関係は相変わらずだ。
隣人で、幼馴染なんて強力なカードはなかなか手からは離れない。
それを手放したいなんて思ってないなら尚更。
入学式の日も、結局玄関の前で顔を合わせることになった。
「なんか新鮮だな」
「見慣れるまではね」
互いの制服姿に違和感を抱くのは仕方がない。
無事に律の晴れ姿を見られて満足したわたしは律とは別方向へと歩き出す。
「痴漢には気を付けろよ!」
「声が大きい! 近所迷惑!」
後ろで叫ぶ律に注意をしながら、手を挙げて答えた。
体育館で行われた入学式は、とても華やかに思えた。
人数の多さと、それから中学の時にはあまり見なかった学生たちの役割の多さに。
入学式の進行や補助に携わっている先輩たちが目に留まる。
年齢が上がればその分自治範囲が広がるのだなとおのぼりさん気分で、次々に壇上に上がっては挨拶をして交代していく大人たちを眺める。
その内、学生代表の挨拶もあるのだろうと思っていると、タイミングよく姿勢のいい男子生徒が舞台袖から出てきた。
見目のいい外見に、周りの級友たちが色めき立っている。
律とどっちが、なんて比べていた余裕は波が引くように消えていく。
中央でマイクを握った彼が声を出す頃には、わたしはもう何一つ音なんて聞いていなかった。
運命なんて言葉、大嫌いなのに。
心が咽び泣く。
それが驚きなのか、喜びなのか、悲しみなのか、はたまた狂乱なのかすらわからない。
ただ心臓が暴れまわる。
かつては身近にあった目が眩むような激情が体を駆け巡り、今では受け止めきれない感情に翻弄された。
目が、馬鹿みたいに離せない。
まだ、馬鹿みたいに引き付けられる。
姿も形も、声も、色も、同じところなど何一つないのに。
それでも確信するくらいに。
わたしは、まだ―。
目が、合った気がした。
目を伏せる。
全身全霊で、心を閉ざす。
奪われたくはない。
わたしの心は、わたしのものなのだから。
律の、顔が見たいと思った。
中学編終わり。
長い。読みにくい。すまぬ。
とりあえず一段落。