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わたしと幼馴染と彼女(1)




中学二年の夏。

本当に暑い日だった。


空気まで熱せられた、茹だる様な日差しの中。

昼休みの校舎裏で、校内一可愛いと評判の少女から告白されたのはサッカー部のエース。

つまるところは我が幼馴染殿である。


呼び出しに応じて、彼女を前にした律にはもちろん、イエス以外の言葉はない。

そのニュースは瞬く間に校内を駆け巡って、放課後には知らない者はいないほどだった。


来たるべき時が来たのだな、とわたしはお祭り騒ぎになっている教室で窓から夏の青空を見上げた。


家に帰れば、呼吸を置く暇もなく報告に駆けてきた律の興奮具合はクラスメイト達に劣らない。


「ちぃ、ちぃ! 千紘! 聞いてくれ! あの入江さんに告白された! 付き合うことになったんだ! 俺がだぞ!? 夢じゃないよな? なあ千紘、ちょっと抓ってみてくれないか!?」


話ならいくらでも聞いてあげるから。


「ちょっと落ち着こうか、リツ」


その慌てぶりに笑いを含んでしまったわたしにも気づかず、律は捲し立てるようにその日の出来事を事細かに教えてくれた。


本人曰く、一瞬で舞い上がったらしい。

返事を噛んで少し凹んでた、なんて情報は、だからわたししか知らない事だけども。


それから、興奮冷めやらぬ律が人の部屋でそわそわと彼女とのメールのやり取りに夢中になっている間に、わたしは上機嫌で大きなケーキを作り、出来上がったそれを大島家に無理矢理押し付けに行った。


突然ケーキを贈られた理由を聞かされた律のお母さんは呆然と「え? え? 彼女? 律に? ちぃちゃんじゃなくて?」と最後まで大量の疑問符で問い掛けられ続けたけど、残念ながらこれが現実だ。

わたしはただの幼馴染なのだと、これを機に認識を修正して欲しい。


「…ちぃちゃん、もうウチに遊びに来ない、なんて言わないわよね?」


律のお母さんが少し不安そうに尋ねた。


「うちのバカ息子の幼馴染である前に、ちぃちゃんはわたしの娘みたいなお友達よ?」


思わず笑ってしまった。

お母さんとの二人のなんてことはない小さなお茶会はわたしが差し入れを持ってくるたびに催されていた。


「ふふ、ありがとうございます」


そんな時間が好きだと言ってくれたことが本当に嬉しかったから、わたしは屈託なく笑う。

律のお母さんが安堵したようにほっと息を吐いたのに気付いたけど、わたしは否定も肯定もしなかった。


とてもありがたいことだけど、きっと、わたしの訪問は減っていくのだろう。

それがわたしなりのケジメで、律へのエールの送り方だった。


さて、わたしや家の方はともかく、学校の方ではそうすんなりと二人の仲は認められなかった。


高嶺の花と名高い美少女の心を射止めたのが、生徒会長でもなく、学年一の秀才でもなく、女子人気一番の先輩でもなく、泥だらけのスポーツ少年だというニュースに学校中が湧いたのは確かなことだ。


彼女、入江陽菜乃(ひなの)は同性から見ても断トツに可愛らしい女の子だった。

顔立ち自体はきつめの美人なのだけど、女の子らしい小柄な体格と、いつでも絶やさない笑顔のおかげか柔らかな雰囲気を纏った、美人というよりはかわいいと表現される人。


入江さんが告白したにも関わらず、彼女が律を射止めたのではなく律が入江さんを落としたのだと話題になったのはその容姿の格差のせいに他ならない。


律だってサッカー部を代表する花形選手なのだから、フツメンとはいえそれなりの人気は持っているはずだけど、マドンナの入江さんに比してしまえばその名声もちっぽけなものだったのだろう。


「すっげー、マジかよ大島! うまくやったな!」

「さすがサッカー部のエースは速い! なにが早いって手が早い!」


みんなは可愛い彼女に対して、律が分不相応だと揶揄しながら笑う。

男子たちはサッカーだけが取り柄の平凡な男のどこがいいのかと入江さんを諭したし、女子は先に青田買いをされた悔しさを隠して「もっと他にもいい男がいるのに、変な趣味だね」と入江さんを貶めるついでに律を嘲笑した。


だけど、魔法にかかっていないわたしの目には、ただお似合いの男女が見える。

美男美女の、釣り合いのとれた、違和感のない見目麗しいカップルだ。


幸いなことに、未練と嫉妬でうるさいばかりの世間の声は二人の仲を裂くものにはならなかった。

周りの期待に反して入江さんはみんなの話を穏やかに聞き流し、何一つ律に対する態度を変えなかったのだ。

彼女は何と言われようと律が好きなのだと言葉ではなく態度で周りに示し続けた。


柔らかな外見だけではない、彼女の心の強さを垣間見た気がする。


彼女は律とわたしが待ち望んだ人、そのもの。

外見ではなく、彼自身を見てくれる人。

優れた容姿ではなく、律の中身を愛してくれる人。


律にとっては魔法を使わなければ、得ることが難しかったもの。

わたしは人々の小さな悪意を笑顔で躱す入江さんを見るたびに心の中で感謝の言葉を呟く。

幼馴染といえども律はわたしのものではないのだから、それを口にするには傲慢に聞こえるだろうと、声にしたことはないけれど。

律の幸せそうな顔を見るたびに、本当に感謝していたのだ。


そのうちに初々しい恋人たちの雰囲気に中てられた周りの人々は馬鹿らしくなったのか、諦めたのか、呆れたのか、騒ぐ者も減って二人の仲は公認となっていった。


入江さんの粘り勝ちだ。

おめでとう、律。


律と入江さんは微笑ましい速度でゆっくりと距離を詰め、本当の恋人になっていく。

初めての恋人に少しだけ浮かれていた律も、やがて彼女の静かな愛情に負けない熱量を灯した視線を返すようになった。


少しだけ、痛みを覚える。

わたしには出来なかった一つ前の人生を悔やむから。


律はやっぱり賢明だった。

わたしと違って、律は愛に対する応え方を間違えなかった。

素直にそれを凄いと思う。


照れたり、隠したり、言葉が足りなかったり。

それですれ違う幼い恋は多い。

わたしが知らない時間の中で、二人にもきっとそんな障害はあったのだろうと思う。


けれど二人で乗り越えて、その度に理解を深めて。

育んだしっかりとした絆と、互いを思いやる気持ち。

見ていてわかるほどに、相思相愛の二人だった。


律と入江さんはわたしにとって理想の恋人像でもあった。

わたしも、ああなりたかった。

そうありたかった。


過去の話だ。

以前の、人生の話。

今のことじゃない。


わたしは、後悔が強すぎて、恋どころではない。

下手すれば一生、恋なんてしないかもしれない。


例え恋をしたとして、また愚かに盲目的な愛に溺れない自信がわたしにはないから。

恋は、したくない。


だからこそ余計に、律には幸せになってもらいたい。

ならばやっぱりわたしが言うべきなのだろう。


律に、一つだけ、選択を間違えていると。

それは大好きな人との関係の破綻にも繋がると、伝えるべきだ。


わたしの大島家への訪問はめっきり減った。

そのことに不満を漏らす律のお母さんは、もう!と怒りながら、代わりに我が家へお茶を持参して遊びに来るようになった。


「ちぃちゃんが来てくれないならこっちから行くから!」


わたしとわたしの母を混ぜて、わたしお手製のお茶請けと共に催されるお茶会の頻度は結局変わっていない気がする。


そして今、わたしは心の中で呟いていた。

さすが親子、行動が同じ。


でも、律のお母さんならば許されるけど、あなたはダメよ。


「リツ、もう気軽にウチに来ない方がいいと思うよ?」


わたしは少しだけ苦い笑いを浮かべて、我が家のリビングで寛いでいる律に忠告した。


隣家は時々家を空けるのだけど、そんな時律は何の躊躇いもなくこの家の玄関を開ける。

律がいれば我が家では当たり前に彼に夕飯が出るし、何ならお風呂まで入っていく。

それでなくとも、宿題や課題を片づけるとき、律はわたしの部屋でやるものと互いの両親も律も思っている。


昔のように一緒に遊ぶ、なんてことはなくなった。

部活があるから訪問は遅くなった。

魔法を毎日かけなくてよくなったから頻度も減った。

それでも、なくなってはいない。


昔からの習慣の怖い所は、これが『当たり前』だと思い込む点にあると思う。


「え? なんで?」


台所で洗い物をする母と、風呂を用意し終わったわたしと、一番風呂に入っている父と、リビングの絨毯に寝転がって漫画を読んでいる律。


きょとんとした律が寝ころんだまま顔だけをソファに座った私に向ける。


律は本気だ。

まったくもってわかっていない。

きっとわたしがあまり大島家を訪れなくなったことすら気付いていない。

もちろんその理由にも。


他人の家でここまで自由に振舞える律は、多分区別がついていないのだろう。

律にとってこの家はきっと家族というカテゴリーに入っている。


それは嬉しいことだけど。


「誰だって嫌でしょう? 恋人が異性の家に入り浸ってるなんて」

「異性って…、何言ってんだ、千紘は幼馴染だろ」


笑い半分で返された。

阿呆なことを言うなとばかりの声色。


馬鹿はあなたよ、律。


「リツ。幼馴染は、他人よ?」


他人なのよ。


虚を突かれたような顔をした律に困ったように笑いかける。


「他人? ちぃが?」


唖然と呟く声と、長い睫毛が動揺に瞬く。

強い困惑が律の思い込みを如実に示していた。


律もわたしも、互いが幼馴染だと言って回る様な趣味はないから、入江さんが知っている可能性は低い。

けど、絶対の秘密でもない。

どこからかそれを知った時、彼女はどう思うだろう。


律が思うほど、幼馴染というラベルは効果を発揮しない。

幼馴染は全てに勝る免罪符ではない。

恋人から見たら、周りをウロチョロする異性でしかない。


「わたしが男だったらよかったね?」


昔、そんな話をした気がする。

こんなことが起こるだろうと、きっとわたしは気付いていたのだろう。


わたしと律がいかにただの幼馴染と主張しようと、わたしが『女』である限り疑念は生まれる。


残念なことに、わたしは周りから見れば幼馴染の前に女なのだ。


「異性が恋人の傍に居たらいやでしょう? 不安になるでしょう?」


ぐっと律が唇を引き結んで、眉を寄せた。

強張った顔すら、わたしの視界の中では絵になる人だ。


柔らかな黒髪は日に焼けて少し茶色くなった。

色が変わっても、手触りは変わらないのだろうか。


その髪に触れられなくなってからどれくらい経つだろう。

時々手を伸ばしたくなるのを自戒するようになってから、どれくらい。


瞳の中の夜空は、相変わらず天の川のような密度で煌めく。

覗き込むことはめっきりなくなった。


もしかしたら、今こそが最後かもしれないと、じっとその目を見つめる。


本当はわたしも律と変わらない。

律に伝える言葉は自分に言い聞かせているようなもの。

この関係を変えたいなんて、思ったことはない。


でもいい加減、幼馴染という肩書に甘えるのはやめなければ。


わたしが女であるように、世間一般では、律は、幼馴染である前に、男なのだ。

わたしたちの距離は幼馴染から異性へと適切に切り替えなければならない。


「…彼女は、そんな心の狭い人じゃない」


負け惜しみのように律が零す。

声の小ささは、それが正論には成り得ないことを知っているからだろう。


でも、そうか、と心の中で少し笑う。


律の言葉を借りると、わたしは心が狭かったらしい。

そう、なのかもしれない。


思い出す記憶の中で、わたしはいつもどうにもならない想いに身を焦がしてばかりいた。


あの人もとてもモテる人だった。

私は彼に近づく女が不快で仕方がなかった。


その原因が、わたしの心の狭さだと知れたことは大きな収穫。

自覚することは大事なことだ。


律に心の醜さを知られるのは嫌だけど、律の幸せを阻む者をわたしは排除したい。

それが例え自分であろうとも。


「入江さんのことはわからない。でもね、リツ、わたしはいや。好きな人の傍にいる女は嫌い」


大嫌い。

不快で、目障りで、なんなら害したいと、排除したいと本気で思っていた。


そう感じていた彼女はわたしで、わたしは彼女で、持った(さが)(ごう)に変わりはない。

同じ立場に置かれれば、わたしはやっぱり心の狭さを発揮して葛藤に懊悩するのだろう。


「千紘…?」


晒した醜悪な心に、律はわたしの名前を戸惑ったように口にした。


そうよね、驚くわよね。

心が狭くてごめんね。


でも、仕方ない。

それが真実だ。

それがわたしだ。


「わたしは、自分の嫌なことを、あなたの大切な人にしたくはない」


どうか理解して欲しい、そう心から願った。


律は、ぎくしゃくと頷いた。


律の目は見れなかった。

律は女の強い感情が昔から苦手だったから。


わたしは自分で言葉にしておきながら、彼に怯えられることが怖かったのだろう。







学校で一番有名なカップルの、壊れることはないと思われていた同じだけの双方への熱量に変化が起きたのは、わたしたちが中学の最高学年に進級した年のことだ。


事の発端は律の相談からだった。


律は律儀にわたしとの約束を守ってくれている。

魔法をかける以外に律が訪ねてくることはこの半年の間なかった。


おすそ分けや差し入れに大島家の扉を叩くとき、時折顔を合わせることはあったけど、余計な話をすることなく、正しい隣人としての姿を保てていたと思う。


これならば隣の家に幼馴染が住んでいると知れても、入江さんが不安に思うこともないのではないだろうか。


だからそれは久しぶりの訪問だった。

三か月ぶりくらいだろうか。

魔法をかける時期だった。


顔を合わせることが減り、言葉を交わすことも減って、互いの存在が日常の中で当たり前ではなくなったから、二人の空間は少し居心地が悪い。


無言の時間を気まずいだなんて思ったことはなかったのに。

寂しいと、思ってはいけないと自分を諫める。


「はい、終わり。これで次はもう夏終わりまで持つと思うよ」

「ありがとう、千紘」


わたしの部屋で、いつも通り無事に魔法をかけ終わった後、律がそわそわと落ち着かない仕草をみせた。

わたしと同じで、何を話せばいいのか、話題でも探しているのかもしれない。


「どうしたの?」

「あ、のさ! 相談があるんだけど。あ、ダメならダメでそう言ってくれていいんだ」

「うん?」


意を決したように口を開いた律の話し方は昔と変わらない。

頼み事は、断ることが選択肢にあるのだと先に前置きする癖。


促すように首を傾げると、律が正座をしたまま床を見つめて言った。


「陽菜乃に、隠し事をしたくない」


その一言で言いたいことは察せられた。

そうか、そこまで信頼を築き上げられたのか。

喜ばしいことだ。


「いいよ、出来るよ」


わたしは嘘を吐かなかった。

恋人に誠実であろうとする律のように、律に正直でいたい。


律のいう、隠し事。

わたしの存在ではない。

魔法のことでもない。

自分の、律のことだ。


律は今の自分が仮初の姿だと、ちゃんと覚えていてくれていたらしい。


「わたしを、彼女に会わせてくれる?」


顔を上げた律に、問いかける。


会って。

彼女の魔法を解くのだ。


例えるなら、律に掛かった魔法は周りの人間の目を閉じさせる魔法だ。

それなら、彼女の目を開ければいいだけ。


「もちろんだ! ありがとう千紘」


礼を言われるようなことではない。

これは律を幸せにするための魔法なのだから。


「陽菜乃に、俺の幼馴染なんだって紹介するよ!」


今まで入江さんと関わりのなかった自分が、律を介して彼女に会う口実はそれしかないだろう。


「それは構わないけど。でも、ちゃんと誤解されないようにね?」

「大丈夫!」


胸を張って自信満々の律の、恋人に対する信頼がわたしの頬を緩ませる。


「そっちに準備は必要? いつ頃がいい? 場所はどうしようか」

「すぐにでも大丈夫。場所も別にどこでもいいよ。ただ人払いが出来て、彼女に触れられる状況さえ作ってくれれば」


これで、本当にわたしだけの律はいなくなるのかと思うと何だかんだ感慨深い。


わたしは、もう律の特別ではなくなる。

これからその場所に座るのは、彼女だ。


縒って紡いで、頑丈だった縄は一つ途切れ、二つ削れ、やがて細い一本の糸になった。

最後に残ったこの糸は、わたしが自分の手で、彼女に手渡す最後のバトンとなりそうだ。


「そうすると家がいいかな? 俺の部屋とか」

「う~ん、恋人がいる人の部屋に入るのは遠慮したいから学校にしよっか」

「まあ、千紘がそういうならそうするけど…」


了承しながらも律は不思議な表情を浮かべた。

負の感情ではなく、ほんの少しのやるせなさを混ぜたような苦笑。

どうしたのかと視線を向けると、律は肩を竦めた。


「なあ、千紘のその陽菜乃に対する遠慮はなに? 千紘は必要以上に俺と距離を置こうとしてるように見える。俺は千紘も陽菜乃も同じように大切だと思ってるのに」

「わ、…わたしは、…これが、適切な距離だと、思ってるから」


小さな動揺が声になった。

遠慮?

しているだろうか。


している、かもしれない。

だって、負担にはなりたくない。


律、わたしは重い女には、もう、なりたくない。

あなたにそう思われるのだけは、いやなんだ。


「…そっか、千紘がそう思うなら仕方ない」


わたしの内心を知らずに、律はあっさりと納得した。


よほど表情に出ていたのだろう。

律は愉快そうに笑った。


「なに肩透かし食らったみたいな顔してんの」


久しぶりに見た気がする笑顔が眩しくて、思わず目を細める。


「正直さ、俺、全然納得してないからな? …それでも、優先するのは千紘の意見だ。それくらいには、俺の中の千紘の存在は大きいんだよ」


知ってた?

そう告げられた声に目眩がした。







律が用意した、入江さんとわたしが会う舞台は、なんてことはない教室の、いつもの放課後。


用意した、といっても、別段難しい事ではない。

ただ、自分の恋人に幼馴染を紹介するだけだ。


律と話し合って決めたことは少ない。


出来るなら魔法のことは内密に。

わからないように解くのがベスト。

彼女が疑問に思うようなら、話すのは吝かではないが。


多分大丈夫だろうと思っている。

今回の場合、魔法を解く、というよりは掛からないようにすると言った方が正しい。


律に魔法を重ね掛けしていることからもわかるように、放っておけば、魔法の効力は薄れていく。

新たな魔法にかからなくなった彼女の目には、数か月後にはわたしが見ている律と同じ姿の律が映っているはず。


急激な変化ではない。

元より、顔立ちが著しく変化するような魔法ではなく、あくまで顔立ちや造りは律本人のものだ。

数か月かけて霧のようにゆっくりと晴れていく自分の認識を、おかしいとはあまり思わないだろう。


特に二人は恋人同士。

相手がカッコよく見えたって、恋人の欲目と思ってくれるかもしれない。


もう一つだけ、律には忠告をした。

別に必要はなかった気もするが、取扱説明書よろしく、言っておくべきことだからだ。


「一度認識を改めてしまったら、もう二度と魔法にはかからないと思って」


正しいと認識した物事を、誤認させるような力はこの魔法にはない。

律のように、自ら魔法にかかろうと意志のある者でもなければ、これは二度目はない魔法なのだ。


それでもいいかと問うわたしに、律はためらいもなく頷いた。






数日後に用意された舞台は放課後の人気のなくなった特別教室。

待ち人はすぐに現れた。


「お、お邪魔します」

「あ、もういたのか。待たせて悪い」


回想に耽っていたわたしの耳に扉を開く音と、遠慮がちな声と聴きなれた声が同時に聞こえてきた。


入江さんとは同じクラスになったことがない。

委員会も部活も接点がなかったから、本当に顔を知っている程度の仲だ。


わたしもいささか緊張しながら振り返る。


「大丈夫。楽しみで、つい早く来ちゃっただけだから」

「おう、さっそくだけど、紹介するな。彼女が入江陽菜乃さん、俺の彼女。こっちが相澤千紘、幼馴染なんだ。仲良くしてくれると嬉しい」

「よろしく」

「こちらこそ、相澤さん」


手をのばせば、嫌味のない笑顔で受け入れられた。


これ幸いと手を接点にさっと魔法を走らせて親和率を測る。

まあ、これなら大丈夫だろう。


「でも、律、なんで今まで言ってくれなかったの? こんな素敵な幼馴染がいるなんて初耳よ」


わざと拗ねたように問う入江さんは可愛らしい。

実のところ怒っていない事が大げさな仕草でわかるから。


「仲が良い異性がいたら陽菜乃が不安になるだろうって、千紘に説得された」

「あ、こら!」


思わず制止の意図を込めた声を出す。

真実だけど、全部わたしのせいにするのは頂けない。


「で、今ならもう大丈夫だろうってことで、今日に至る」

「ってことは、私、やっと相澤さんの信頼を勝ち取れたってことかな?」


きょとんとしてしまった。

そうか、傍からみるとそう見えてしまうのか。


「実際に会ってみてどう? 私、合格印(ごうかくいん)もらえたかしら」


ふふと笑う入江さんに、昔母に言ったことを思い出した。

律の好きな人と、友達になりたいと言ったこと。


わたしは入江さんに悪戯な笑顔を向けて頷いた。


「もちろん! 入江さんこそ受け取ってくれる? 相澤印(あいざわじるし)の合格印」

「わあ、やった!」


テンションの高い女二人に、律が置いてきぼりを食らって苦笑しているけど、それはイヤな顔じゃなかった。

わたしはうまくやれているのだろう。


話しながら、隙を見て入江さんに纏わりついている魔法と同期する。

少し苦労した。

呼吸をするように出来ていた事が出来なくなっていて、わたしは『職業:魔法使い』ではなくなったのだな、とこんなことで実感する。


わざとらしくならないように、髪にゴミが付いているのを見つけたふりをして入江さんに手を伸ばす。

反射的に目を瞑った彼女の両目の上に手をかざして、留まっていた魔法を払った。


「どう?」


こっそりと聞いてくる律に深く頷くことで成功を知らせる。


「入江さん、とれたよ」

「ありがとう」


律をよろしく、と心を込めた。






放課後の顔合わせはつつがなく終わった。

会話は途切れず弾んだし、予想通り入江さんはとても良い人で、とても律のことが好きで、二人はとても幸せそうで、わたしはバトンを無事渡し終えたことに安堵した。


顔見知りになった入江さんとは学校ですれ違う際に挨拶するようになった。

時たま、短く言葉を交わすこともある。


注意深く魔法の影響を探ってみても、わたしに認識できない魔法は、どれくらい払拭されているのかすらわからなかった。

やはり不便だ。


わたしがふと気になったのは、入江さんを紹介されてから二か月ほど経った頃の事。


廊下で会った入江さんと挨拶を交わし、すれ違った後。

視線を感じた。

強い視線だ。


なんだろうと振り返っても、入江さんとその友達の背が遠ざかっていくのが見えるだけ。


そんなことが幾度か続いた。


なんとなく、胸騒ぎがする。

違和感が募って、わたしは律に聞いた。


「最近、なにか、変わったことはない?」

「なにかって、一体なに?」

「わからないけど、とにかく『何か』よ! 心当たりない?」

「そんな曖昧な…無茶を言うなよ」


困ったように頭を掻く律に、これは頼りにならなさそうだとさっさと見切りをつける。

よく律の顔を見ていればもっと早く気付いたのかもしれない。

だけどわたしは自分の焦燥にばかり目を向けていて、律の様子なんて気にしてはいなかった。


それでも淡々と過ぎていく日々の中。

わたしは時々抱く焦燥に気を取られることが多くなった。


自分の魔法がなにか悪さでもしているのかと走査してみても、その働きも分布もなんら問題はない。

魔法の問題ではない。

では何か。


その答えは思わぬところから差し出された。

もう夏も間近になった日の事。


クラスメイトの雑談を聞くともなしに聞いていたわたしの耳に聞きなれた名が話題に上る。


「最近、陽菜乃の付き合いが悪い!」

「ああ、彼氏を優先してんでしょ。前にも増して、大島と一緒にいるの見るし」

「いつまで新婚気分やってんだろ。友達だって大事でしょう? あんたたちも、彼氏ができたからって友達を蔑ろにしたら許さないんだから!」

「そんなことするわけないじゃーん」

「てかさ、そんな話題する前に彼氏作ろうよ」

「言えてる」

「あー、彼氏欲し~い!」


そういえば、その中の一人は入江さんと仲がよかったと思い出す。


それから注意深く噂に耳をそばだてるようになった。

おかしなことはあっという間に明らかになる。


「入江さん、大島の部活終わるの毎日待ってるらしいよ」

「よくやるね~」


かつては自分の用事や、友達との約束、勉強や部活、そんな優先することがない日だけ、律と入江さんは時間を合わせて一緒に下校していた。

無理のないペースで、負担にならない頻度で。


「聞いてよ、この前偶然大島くんの話題になって。あ、別になんてことない話だったんだけど。そこに入江さんが突然入ってきてさ。びっくりするじゃん? 話止まるじゃん? そしたら彼女、なんて言ったと思う? 『続きをどうぞ? 律の話なら、聞く権利があるわ。だって私が彼女なんだから。それとも彼女(わたし)の前ではできない話でもしてたの?』って。こわ! マジでこわ!」

「あ、それ、似たような事あった。委員会繋がりで大島に話しかけたら、笑顔の入江さんがそっこー近付いてきて『律に何の用?』って。用があるから話しかけてんじゃん、何言ってんだ、コイツって思ったけど。完全に目が笑ってなかったよ、あれ」


ここら辺までは女子も不満程度で済んでいた。


「あの子、ヤバくない? あたし、体育で大島とペアになっただけなんだけど、自分の彼氏なんだから近付かないでって怒られたんだけど」

「同じクラスの子大変みたいだよ。人の彼氏に色目使うなとか、勝手にしゃべるなとか。小学校から持ち上がりの子たちなんて大島の事名前で呼んでんじゃん? それが気に食わないみたいで無理矢理変えさせたとか聞いたもん」

「一応注意した友達もいたみたいだけど、大島との仲を引き裂こうとしてんのかって激昂されて終わりだって。今じゃ、触らぬ神に祟りなしで、二人に話しかける人いないみたいよ。おかげで二人の世界が作れて入江さんはご機嫌みたいだけど」

「言いがかりもいいとこだね。呆れるわ。ってかさ、そんな威嚇してまわるほど大島っていい男か~?」

「恋は盲目っていうじゃん、それだよきっと」

「本人たちはいいかもしれないけど、周りが迷惑だからやめて欲しいわ」

「ありもしない被害妄想に浸って、大島に近づく女全部排除してんの? 誰か言ってやったら? あんたの彼氏には横取りするほどの魅力も価値もないって」

「うっわ、辛辣~」


少し遠くで聞こえる笑い声。

手足がひどく冷えた。

ともすると震えそうになる体を必死に抑える。


わたしは久しぶりに走って帰った。

走って、そのまま律の家の玄関を叩く。


今日は大島家の両親はいないはずだ。

でも室外機が動いていた。

なら、いるのは一人。


「リツ、開けて! いるんでしょう!?」


玄関を開けてくれた律はわたしの剣幕に事情を察したのか深くため息を吐いた。


「入って。見られるとまずいから」


律は誰に、とは言わなかったけど、わたしは背筋を震わせた。

久しぶりに入った律の部屋は、家具の配置が変わっていたけど、変わることのない雰囲気がわたしを少し落ち着かせる。


絨毯の上に座ることを促してから、律は今日は部活を休んだんだと教えてくれた。

あんなに好きだった部活を、休んだ意味は。


「どうして」


こんなことになっているのか。

口にしようとして明確な原因があることに気付き、わたしは呆然と言葉を零す。


「わたしの、せい…」


魔法を、解いたせい。


「違うよ、千紘のせいじゃない」


否定の言葉は、弱く、小さく、疲れていた。


「俺のせいだ」


魔法が晴れた彼女の目には、一体何が映ったのだろう。

律の、なにが。


わたしは首だけを振って、自分を責める律にそうじゃないと示した。


心臓が暴れるように痛む。


真実を見せようとした律と、真実を知ってしまった入江さんと。

二人の間にあった信頼という名の絆。

狂ってしまった幸せは、二人のせいではない気がした。


「リツは、悪くない」


その言葉に促されるように、律はぽつりぽつりと話し出した。

日が経つにつれて、変わっていく入江さんの様子。

無邪気な笑顔が、不安に揺れるようになって。

強い執着と深い嫉妬が取って代わり、やがて表面化したこと。


「陽菜乃は、もう俺の言葉を聞いてない」


誰かを庇えば、騙されているのだと優しく諭され。

彼女の態度を注意すれば、心変わりしたのかと責められ。

そんなことはないと、否定する声は届かない。


宥めても、言葉を尽くしても、聞き入れてはくれない現状。


「千紘には気付かれたくなかった。俺のわがままを聞いてくれただけなのに、こんなことになって。きっと自分を責めるだろうから」


こんな時にも、律は人のことを考える。

変わってない。

律は何一つ、変わってない。


変えたのは、わたしだ。

大丈夫だと、安易に請け負った。

魔法の影響力を甘く見て、平気だと、想像力も働かせずに、明るい未来しか見なかった。


魔法の影響を考えるのは、影響を考慮に入れて魔法を使うのは、魔法使いの仕事で、義務だ。

魔法使いだなんて、とんだお笑い草。

これは容姿という外見のファクターを甘く見た、わたしのせい以外のなにものでもない。


引き結んだ唇の奥で、噛みしめた歯がぎしりと音を立てた。


こんなはずではなかった、こんなことになるなんて思ってもいなかった、なんて口が裂けても言えない。


どうして、と。

わたしよりずっと強く、律は思っただろう。


「俺は、陽菜乃を信じた。でも、陽菜乃は俺を信じない」


築いてきた絆は解けはじめ、二人で架けた橋は崩れかけて、齟齬は取り返しのつかない所まで広がってしまった。


「重い、辛い、苦しい。彼女の傍は息が詰まる。俺のせいだ、俺が何とかしないといけない。でも、もうどうしていいのかわからない」


自分の膝に顔を埋めて、律は葛藤を言葉にした。

そこにあったのは、愛ではなく、深い義務感。


律、わたしも苦しい。


あんなに一緒だった二人が、共に居ることは苦痛でしかなくなり。

律は笑わなくなった。


どうすればいい?

幸せにするための魔法が律を傷つけた。


わたしの、魔法が。


どうすれば。

なにをすれば。

どうにかしないと。

わたしが。


「千紘、そんな顔をするな。…大丈夫だ、もう少し、頑張ってみるから。心配しないで」


律の手がわたしの頬を撫でた。

離れていく手に、自分が泣いていたことを知る。


「泣くな、千紘、きっと大丈夫だよ」


頼れるのは、弱音を吐けるのは、わたしの前だけなはずなのに。

律はもう、大丈夫だと繰り返すばかり。


「きっと何とかなる。過ぎてみれば、なんてことない出来事だってって、すぐに笑えるようになるよ」


慰めの言葉はわたしの涙を勢いを強くすることはあっても、止めることはない。

律が、困った顔で笑った。


泣いてどうなるって言うの、千紘。

自責の念を見せつけて、律を追い詰めてるだけじゃないか。


わたしは、昔と何一つ変わってない。







翌日のことだ。


泣いたせいで腫れぼったくなった瞼を冷やして、重い足取りで何とか学校に向かった。

そんなわたしを、玄関で待っていた人がいた。


かわいい人。

かわいくて、優しくて、強かった人。


頭が働かなくて、ぼんやりと彼女を見上げる。


頬が、熱で痛みを訴えた。


昔々、本当に幼い頃、こんなことがあったなと場違いと知りながら記憶を掘り返す。

泣いて喚いて噛り付いて、それでも離さない手に焦れた誰かに、同じように叩かれた思い出。


「ねえ、人の恋人を取るのは楽しい? 私、知ってるのよ。あなたが律の家に行ったこと」


裂けるように唇が三日月を描く。


歪んだ顔。

濁った目。

毒を吐く口。


誰のせい?

わたしの、せい。


わたしの、魔法の。


昨日からすでに壊れかけていた涙腺が決壊した。


「なにを泣いてるの? 泣くくらいないならしなければいいのに。それとも、泣けば許されるとでも?」


朝の登校時刻。

周りに集まったギャラリーがさすがに入江さんを諫めるけど、彼女はよけいに激昂した。


「悪いのは私じゃない、彼女よ!」


指を突きつけられて、その通りだと目を伏せる。


「なにを、…なにをしてるんだ、陽菜乃!?」


先に登校していたはずの律まで騒ぎを聞きつけてやってきた。

誰かが呼んだのかもしれない。


余計なことを、と思った。

もう律に女の醜さは見せたくない。


わたしを視界に入れて、律は元々悪かった顔色を一層変えた。

律は、昔からわたしの外傷を殊更嫌がる。

多分、誘拐騒ぎでわたしが目の前で怪我をしてしまったトラウマのせい。


「律! もう来てたの? そんなに急いでどうしたの? あ、もしかして私を探してた?」


彼女は、鬼のような形相を一変させて、華の様に微笑んだ。

こんな時でさえ、見惚れるほどにきれいだと思う。


けれどその笑顔もあっという間に崩れるように歪む。


「教室で待ってなくてごめんなさい。でも、どうしても、…どうしても、一言云わなきゃならない人がいたの」


暗い目がわたしを見る。


「気を付けなければ駄目よ、律。女はとても怖くて、油断ならない生き物だわ。あまり隙を見せてはダメ。優しい律なら尚更、すぐに付け込まれてしまう。…そこにいる、誰かさんみたいにね!」


律は苦しそうな顔をした。

重い頭を手で支えるようにゆらりと横に振る。


「…陽菜乃、もうやめよう。もう、無理だ。元の君に戻ってくれないなら、限界だよ」

「律? 一体何の話? 私は変わったりしてない。変わったのはあなたよ。ねえ、限界ってなに? どうしてそんなことを言うの? どうしてそんな目で私を見るの? ああ、いいの、あなたは悪くない。私はちゃんとわかってる、大丈夫、すぐに元に戻してあげるから」


息継ぎもなく、紡がれた言葉の最後に、入江さんはわたしに向き直る。


「さあ、誓って。もう二度と律に近づかないって」


それで終わりだと。

すべて解決するのだと入江さんが微笑む。


涙はいつの間にかとまって、わたしは悟る。


たぶん、律の言葉が正しい。

もう、無理だ。

もう、ダメなのだろう。


わたしのせいだ。

自責がわたしを苛むけれど、それをねじ伏せて入江さんの目を見据えた。


口にするのに、ひどく苦労する一言。


「…いやよ」

「こっの、!」


言葉にならなかった罵倒は彼女の手を振り上げさせた。


「やめろ、陽菜乃!!」

「律! なぜその女を庇うの!? 私よりその女の方が大切だとでも言うの!? どうしてわからないの、騙されてるのよあなた!」

「陽菜乃、いい加減にしてくれ!!」


縋りつくように律の腕を掴んだ彼女を、律が振り払う。

入江さんの言う通り、律は優しい。

彼が誰かを拒否するのを見たことはない。


だからこその衝撃。

入江さんは振り払われた自分の手を呆然と眺めて、そしてわたしに憎しみの目を向けた。


普通に生活していては、得ることのない強い、強い、感情。

そんな時にすら、わたしは律のことを考えた。


「あんたのせいね? 全部、あんたが仕組んだことでしょう」


幼い頃から、律が向けられていたのはこんな怖いものだったのだな、と。

普通に過ごせる日々を、彼がどれだけ大切に思っていたのかをやっと理解する。


「そこ! なにをしてるんだ!」


やっと駆けつけてきた教師たちが人垣をかき分けて割り込んでくる。


事態を理解していないながらも、入江さんの攻撃的な様子を一瞬で見て取った教師が彼女手を掴み、行動を阻む。


触らないでと、振りほどいた入江さんは周りなど一瞥もせずにわたしを見ていた。

教師は女子の力で自分の拘束がとけたことに驚いて、それから顔を引き締める。


今度は本気で、数人で、入江さんをわたしから引き剥がしにかかった。

落ち着きなさいと叫ぶ教師の声。

さすがの彼女もその力に逆らうことはできない。


「あの女が全て悪いのよ! どうして邪魔するの!?」


教師たちの体の間から入江さんが、暴れているのが見えた。

燃えるような目をしている。


「もう二度と律に近づかないで! 私の律に! 誰も、誰も、誰も! 近付かないで!」


彼女の目が人垣を射抜く。

わたしだけに言っているのではない、その叫びは、全ての人に向けられていた。

強い感情に触れることに慣れていない観衆の輪は、圧倒的な敵意に気圧されてじりっと広がる。


悲鳴みたいだな。


わたしは針を逆立てたハリネズミのような彼女の様子を人ごとのように見ていた。


助けてって、叫んでるみたい。


そう、思った。


そのまま早退させられたわたしには、そのあとのことはわからない。


だけど律は翌日、学校に行かなかった。

次の日も。

その次の日も。




律の部屋の扉を叩く。

わたしを快く家に上げてくれた大島の両親は、そわそわと一階のリビングで落ち着かなげに待っている事だろう。


「リツ? 起きてる? 入るからね」


返事は待っても返ってこないだろうから、最初から聞かない。


足を踏み入れた部屋の中は薄暗かった。


律は起きていた。

起きて、ぼんやりと携帯を見ていた。


間を置かず、着信を知らせる携帯を。


着信のたびに吐き出す相手の名がひたすらに積み重なっていくのが見えた。


「リツ、自分を追い詰めるのはやめて」


律の目の届かない場所に携帯を移動させる。

途中まで追ってきていた視線は、今は床を眺めていた。


その視線の先に無理矢理割り込んで、だらんと投げ出されていた手を取る。

リツ、わたしを見て。


「もう一度、魔法をかけてみようと思うの」


誰に、なんて言わなくても分かってる。

律の目がゆっくりとわたしを見た。


一度解けたら元には戻らないだろう魔法。

数か月前のわたしたちは、二度目なんて必要はないのだからと笑ったけど。


それでも、やらないわけにはいかなくなった。


「…ま~た俺は、千紘を頼るのか」


乾いた笑いと共に、無感情に呟かれた言葉は少し予想と違っていた。

快活な声は鳴りを潜め、律は低い声で独り言のように呟く。


「千紘に魔法をかけてもらって、それを自分の我儘で解いて、それで、また、俺は…」


握った律の手に力を入れた。

そんな台詞は聞きたくない。


「正直、成功する確率は低いと思う」


だけど、もうそれしかない。


「陽菜乃はもう正気じゃないよ。近付くのは危険だ」


ちらりと遠くに置いた携帯を律がみる。


「なら尚更、やらなくちゃ」


一歩も引かない姿勢を見せたわたしに律は自嘲を顔に刻む。


「わかってる、もう俺じゃどうにもできないことくらい」


合わせた目をゆっくりと逸らして、律は観念したように零した。


「…千紘。助けて」


わたしは答えるように律を抱きしめた。






へへ、一話じゃ入りきらなかった。

安定の伸び。

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