白帝
たまに、俺が妹をこれほどまでに大切にしてしまうのは、彼女に同情しているせいなのかもしれないと思うことがある。
同情でないなら、同じ傷を持つ仲間。
同じ痛みを知っている。
だから、こうやって蝶に優しく接すれば接するほど、それがお互いの深く抉れた傷を舐め合っているだけな気がして、俺は胸が痛くなる。
悲しいわけじゃなく、寂しいでもなく、ただ、切ないに似た、どうしようもない胸の痛みだ。
俺たち家族が一瞬にして闇の中に消えたあの夜。
あの地獄の夜を乗り越えるために、俺は彼女にすべてを求めた。
そして、彼女も俺に―――すべてを、彼女の知りうる限りの幸せという形あるものすべてを求めた。
月の無い夜だった。
少し肌寒くなってきた秋の夜風を、高校生の俺はブレザーの制服で歩いていた。
学校の帰りだった。ただ、すでに時刻は午後十時を過ぎていた。
大して強くもないサッカー部の部員だった俺は、部活帰りに友人たちとカラオケで盛り上がり、いつの間にかそんな時間になってしまっていた。
帰ったらまた親父とおふくろに説教されるだろうな、と俺は思いながらも、足早だった。早く帰って風呂に入って、疲れた身体を休めたかった。
あの扉を開けるまで、俺は本当に何の異変も感じなかった。
親父が苦労して建てた小さな戸建ての家の玄関を、鍵をカバンから出して開けると、鍵を開ける音が静かな夜にやけに響いた。
扉を開けて感じたのは、やけに暗いし静かだな、ということだけで、まだ十時を過ぎたばかりだというのに、玄関から奥の部屋まで、まったく明かりが付いていなかった。
俺は真っ暗な玄関で靴を脱ぎ、家に上がった。
みんなもう寝ているのかと思った。
足音がトットッと軽い音を立てる。
廊下を通り、台所の先の居間へ向かっていた。
親父までもがもう寝ていることが不思議だった。
しかし、足は台所の手前で止まった。
妙な臭いが鼻についたからだ。
鍋でも焦がしたのかと思ったが、それにしてはキツイ錆びたような臭いがした。
俺は台所に入り、壁にある照明のスイッチを手で探った。
パッパッと二、三度点滅し、明かりが点く。
静かな台所。
見ると流しの横にまな板と包丁が置かれたままになっていた。
その上に、細くスライスし始めたばかりの玉葱が載っている。
「おふくろ?」
おかしいと思い始めた俺が声を出すと、いきなり流しの下の収納が開いた。
俺は目を剥いた。
誰も引いていないのに、いきなり足元で戸が開いたのだ。驚くなという方が無理だ。
しかも、その中にあったのは、鍋とか調味料ではなく、見たことのないような凄まじい表情をした小さな俺の妹だった。
「蝶?」
小学二年生の妹が、流しの下で、口を半開きにしたまま、まるで化け物でも見たかのように瞬き一つせずにそこに座っていた。
最初俺は、それがよくできた妹のマネキンか何かかと思ったほどだ。
「な、何・・・おまえ、そんなとこに・・・・・・」
俺が訊ねるのとほぼ同時に、蝶は流しの下からすごい速さで飛んできた。
本当に飛んできたかと思うほどの速さだった。
俺の腹に思い切り頭突きをくれる。
「がはっ!」
思わず俺は持っていたカバンを落とした。
「ちょ・・・・・・蝶?」
蝶は何も言わず、ただ信じられないほどの力で俺の腰にしがみついている。
小さな子供のどこにこんな力があったのだろう。
俺は痛いぐらいに掴まれて、なんとか彼女を引き剥がそうとした。
「蝶、とにかくちょっと離して、痛い」
しかし蝶は力を緩めるどころかさらに強くしがみつく。
また、あの錆びた臭いがした。
「・・・・・・親父とおふくろは?」
蝶を放ってすでに寝ているとは考えられない。いまさらにその事に気づき、俺は顔をしかめた。
しがみついていた蝶が、ゆっくりと顔を上げる。
見下ろした俺は背筋から寒気が這い上がった気がした。
虚ろな瞳で、蝶は青白い顔をしていた。
身体が武者震いのように震えた。
「蝶・・・・・・?」
黙っていた妹は、半開きの口からほとんど口を動かさずにくぐもった声を出した。
「おかあさん、ここにいなさいって言ったの」
俺はわけがわからなくて、その顔を見下ろしている。
「・・・・・・」
すると妹は、今度はもっとはっきりした声で言った。
「誰か、来たの」
「誰か? って誰?」
腰にしがみついた蝶の指がひんやりと冷たく感じる。
「わかんない。誰か来て、おかあさん、キャーッて言ったから、蝶はここに隠れたの」
錆びた臭いが、充満していた。その臭いに、思い当たった瞬間、俺は蝶を引き剥がした。
着ていたブレザーが破れたかと思った。それほど蝶はすごい力でしがみついていたのだ。
臭いの強い方に顔を向ける。
先は真っ暗だった。
「蝶・・・・・・ここにいて」
蝶は返事をしなかった。代わりに俺のブレザーの裾をまた掴んだ。
俺はそれをまた引き剥がした。
「大丈夫だから、ちょっとここにいて」
蝶は首を振った。何度も横に振った。蝶の長いくせのある髪が左右に揺れて、パサパサと乾いた音を立てた。
「・・・・・・」
彼女がひどく何か、多分、その誰かに怯えているのがわかって、俺は蝶の前にしゃがんで彼女の目を覗き込んだ。
「すぐ戻ってくるから、ちょっとだけ。な?」
蝶は泣きそうな顔になったが、涙は出なかった。
無言の彼女を置いて、俺は台所の先にある、まだ暗い室内へと歩いて行った。
臭いはさらにきつくなり、耐え難いほどの気持ち悪さに俺は胸元を掴んだ。
居間の明かりを点ける。
明かりは点滅し、そして晧々と居間の惨状を俺の目に映しだした。
多分、俺はさっきの蝶と同じような顔をしていたのだろうと思う。
虚ろな目、半開きの口、俺は一歩後ずさって、振り返って、台所の真ん中でじっと俺を見つめて立っている妹を見た。
彼女はその時、目を伏せた。首を下に向けた。もう、何も見たくないと言っているように俺には思えた。
警察が来たのは、それからずっと経ってからだった気がする。
だいたい、自分が電話した記憶さえ曖昧だ。
俺の両親は、居間で血塗れになって転がっていた。
俺の目にも、すでに二人が死んでいることは明白だった。
しばらくは見た光景を記憶から抹消しようと、俺は色々他のことを考えようとした。
必死に起こった出来事を咀嚼しようとしていた。
蝶のことは、よく覚えていない。なんて兄貴だろう。でも、自分のことで精一杯で、妹の心配までしていられなかった。
自分さえ崩壊しかねない状況で、忘れたくても一瞬目を閉じただけでも浮かぶあの光景に畏怖し、俺は自分が呼吸していることが不思議なくらいだったのだ。
それから、警察署へ連れて行かれ、蝶と離されたことは覚えている。
色々訊かれたけど、訊かれた内容をほとんど思い出せない。
蝶に会えたのは、夜が明けてからだった。
婦警に手を繋がれてやって来た蝶は、まるで俺を他人のような目をして見た。
眼というより、顔についた深い昏い穴といった感じの目をしていた。
何かを映す道具ではなく、そこには認識する意思のない眼がついていた。
そして、婦警が手を離すと、俺の方へトコトコと人形のようにまっすぐ歩いてきて、黙って俺のだらりとぶら下がっていただけの手を掴んだ。
子供の蝶の手は温かいというより熱かった。
「蝶・・・・・・」
俺が呼ぶと、ゆっくりと顔を上げ、じっと俺を見つめている。
その目がどんどん開いていき、俺は目が落ちるんじゃないかと案じたが、その目から落ちたのは、大きな水の塊だった。
ぼろっと眼球から離れた水が、蝶の丸い頬を転がって、重力に引かれて床にぼとっと落ちた。
そうすると、次々に同じような水の塊が現れて、大きな粒上の涙が幾つも幾つも、彼女の丸い頬を転がって、床に落ちていく。
「・・・・・・蝶」
俺は驚くというより、唖然としてそれを見ていた。
蝶はずっと俺を見ていた。
俺の目を見ていた。
瞬きもせず、大きな涙をぼろぼろと溢れさせながら、悲しいとか苦しいとか、そういう意味合いを感じさせないまま俺を見ていた。
俺の方がつらくなって、俺は蝶の両脇を抱き上げると、彼女をぐっと抱きしめた。
温かい身体だった。
胸が荒い呼吸に上下して、服越しでも彼女の小さな心臓の鼓動が聴こえ、夏草のような汗の臭いがした。
耳元近くにあった唇から、ヒューヒューという息が漏れる音がして、続いてそれが大きくなり、蝶はフッと大きな息を吐き出した。
「うあっ・・・ああああっ・・・っく、ふえぇぇぇっ・・・み、みちゅ・・・うっ・・・っく」
耳元で大声で泣かれて、俺は耳の奥が痛くなったが、それでもさらにきつく彼女の小さな背中を抱きしめた。
「ふっ・・・うああっ、おかっ・・・さ・・・、おとう・・・さんっ」
蝶の爪が俺の肩に食い込んで、俺は顔を歪ませる。
目の前で小さな肩が不自然なリズムで上下していた。
気づくと、その小さな肩が濡れていた。
俺はそのことに気づいてから、ようやく自分も泣いていることを知り、思い切り目を瞑った。
俺の涙と鼻水で、蝶の小さな肩はびしょ濡れになった。
同じように、俺の肩と背中も、蝶の涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
俺たちはあの家へ、もう帰れなかった。
俺と蝶の長い日々の始まり、そして絶望の一日の終わりだった。