第五話 王宮のお風呂 ★
「いやー、戦いの後の風呂は気持ちがいいなァ! シェイド!」
王宮の石造りの大浴場に、シェイドとリーンは肩まで浸かっていた。
天井は高い。白い壁に空けられたくぼみにはランプが立てられていて、広い大浴場の中をを明るく照らしていた。
約束通り、シェイドとリーンはあの後すぐ入浴の手配をしてもらい、今に至っている。
彼らが一緒に入浴しているのは、お互いに一番風呂を譲らなかったからだ。
「そうだな」
シェイドは立ち込める湯気ではっきりと見えない天井を見上げて言った。
「私が見込んだ通りの男だよお前は! 期待を裏切らない! さすが私の魔法陣から一時間も逃げただけあるな! あっはっは!」
そう言ってリーンはシェイドの頭を小さな手でバシバシと叩いた。シェイドの濡れた髪先から飛沫が散る。
リーンはすこぶる上機嫌だった。もちろん、それは風呂にありつけたからである。
「でも私にも感謝しろよ? こうして風呂に浸かれているのは、私の話の動かし方がうまかったおかげだかんな」
「ああ、そうだな」
シェイドは先程のことを思い出す。
消沈するブロードウェイと、目の前で起きた現実を飲み込めないリアム筆頭の騎士達をよそに、アレックス二世はシェイドに拍手を送っていた。
彼にはブロードウェイが負けた悔しさも一応あったが、それ以上にシェイドの見事な戦いに感動したらしい。
「まあ風呂に入れたのはお前の成果がでかいよな。
だけどそのおかげで私と風呂に入れるんだからシェイドも悪くないだろ?」
「……ああ」
「んだよこっち向けよ。照れてんのか?
本当は見たいんだろ私の体」
いい加減うるさいリーンに、シェイドはもたれかかっていた石から背中を離して風呂の湯を波立てた。
「……静かに風呂に入れないのか?
貧相なガキの体ではしゃぐな」
その言葉で、上機嫌だったリーンの顔は歪む。
「あ? なんつったテメェ」
言いながら、リーンは自分が今子どもの姿であることに気付いた。
「貧相なガキの体ではしゃぐな」
二度言われてリーンは憤怒する。子どもの姿とは言え、ナメられるのは癪だ。
「テメェ上等すぎんぜコラ」
リーンはばしゃりと飛沫を立たせ、立ち上がる。
「さすがの私も実力行使を禁じ得ない」
彼女がそう言ったのと同時に、その体からボフンと湯気とは別の煙が上がった。
煙は天井に登っていき、やがてリーンの姿が顕になる。
するとそこには、子どもではない、天界で見せていた彼女の姿がポーズを決めていた。
こぶりな顔立ちに、透き通るような肌。宝石のような緑の瞳が、シェイドを睨むのではなく蠱惑するように見つめている。滴る水滴が、桜色の唇を艶やかに染めていた。
湯船にまで浸かる長い灰色の髪が、その完璧なプロポーションの体にぴたりと張り付いて、彼女の色気はさらに増す。
視線を逸らしたシェイドを見て、リーンは勝ち誇った笑みを浮かべた。
「ふふん。どうだ」
「……その姿は燃費が悪いんじゃないのか」
「ちょっとくらいいいんだよ。
それより貧相な体ってのを訂正してもらおうじゃねぇーか」
「……分かったから子どもの姿に戻れ」
「ちゃんと訂正すると言え」
シェイドはハァと溜息を吐いてから口を開く。
元々この完璧と言ってもいい体を持つ彼女に、貧相な体という憎まれ口は失敗だった。
「……訂正する」
「ふん、それでいい」
シェイドに訂正させて満足すると、リーンはシュルシュルと小さくなって、子どもの姿に戻った。
「ふう、無駄な愛を使ってしまったぜ」
「……今のでどれくらい減った?」
「んー、50lgくらい?」
「あんまり減ってないな」
「いや、ちょっとあの姿になるだけでこれだぜ? 維持したら大変だ」
「なるほど。
そういえばお前の持っている愛が全てなくなったらどうなるんだ」
「あー、消滅する」
リーンがあまりにも軽く言ったので、シェイドは思わず彼女の方を見た。
「……本当か?」
「なくなってすぐ消滅するってことはないけどさ。愛がない状態がしばらく続けば私の存在は維持できなくなる」
「悠長に風呂に入ってる場合なのか」
「そうだよ。だからお前には頑張ってもらわねーと。
私が消滅すればお前の償いの意味もなくなるからな。マジ頼むぜ?
まあ愛に関して言えば、使わなけりゃいい話だから当分は安心だな」
地上に降りた時に比べてリーンは冷静だった。あの時の彼女には絶望と怒りの感情しかなかったが、今はこの先どうするかを考えている。
1日眠って落ち着いたのも大きいが、シェイドが案外頼りになりそうだと思ったのもあった。彼女には心情的に余裕ができたのだ。
「当分とはどれくらいだ」
「子どもの姿だし、一月くらいじゃね」
「意外と短いな」
「ほんとに頼むからな? お前が愛を集めないと私は消滅してしまう」
「お前自身は愛を集めることができないのか?」
「できるぜ」
「なら俺が集めるよりお前が集めた方が良さそうに思うが」
「お前には例のクロスボウがあるじゃねーか。アレの弦はお前にしか引けないから、私には効率よく愛を集める方法がないわけだ」
「なるほどな」
シェイドは湯の中で足を立てて、肘を背の石に掛けた。
リーンは一度湯船の中に顔を突っ込んで、しばらく潜ってから「ぷはっ」と声を上げて顔を出した。
「それで、これからどうするんだ」
シェイドはリーンに尋ねる。
漠然とした質問に何故か苛立ったリーンは、一度シェイドに意見を聞いてみることにした。
「どうするべきだと思う? 具体的に」
「そうだな……、クロスボウを使って片っ端から誰かに恋をさせればいいんじゃないか。そうすれば」
「待て」
リーンは具体的に話し出したシェイドを、そう言って遮った。
シェイドは眉を寄せる。
「なんだ」
「そう無差別に恋をさせたらいいってわけじゃないんだよ。然るべき相手同士をくっつけるのがキューピッドの仕事だ」
「そうなのか」
「確かにそれでも愛は手に入るかも知れないが、どうせなら本当の意味で幸せにしてやりたいだろ?
そっちの方がより大きな愛が手に入るしな」
「まともなことも言うんだな。多くの愛を手に入れるためなら手段は選ばなくていいと思っていた」
「うるせーよ」
ならどうしたことかとシェイドは見えない天井を再度見上げる。
リーンの言っていることはわかった。無差別に恋をさせるんではなく、本当に結ばれるべき相手同士で恋をさせるということだ。
しかしそれを見極めるのが、彼自身できそうにないことを理解している。
キューピットの黄金の矢の能力は、いわゆる恋の過程の省略だ。
「誰と誰が結ばれるべきか、愛に精通しているお前ならすぐに見極めることができるんじゃないか。
……いや、愛に精通しているのか?」
自分で言っておきながら疑問に思ったシェイドはリーンに確認する。
「してるに決まってんだろ。愛と美の女神リーンさまだぞ」
言葉遣い、口の悪さにおいて到底愛と美の女神とは思えないリーンだ。シェイドが確認してしまうのも仕方なかった。
「それならお前が誰を射抜くか見極めて、俺が射てばいい」
「うーん、まあそれが一番手っ取り早い方法だなー」
「それ以外に何かやり方があるのか?」
シェイドが聞くと、リーンは腕を組んで唸った。
「あるっちゃある。
でもこれは後々でいいかもな。賭けみたいなもんだし」
「そうなのか」
「よし、当分はお前の言った方法で愛を集めるぞ」
「わかった」
結論が出ると、シェイドはざばりと湯船から立ち上がった。
上がった水飛沫がリーンの顔に掛かって、彼女は思わず目を瞑る。
「もう出んのか?」
「ああ」
「んじゃ私ももう少しで出るわ」
顎まで沈んでリーンは言う。湯の中で灰色の髪がひらひらしている。
「分かった。先に出ておく」
シェイドは返事をすると、ひたひたと風呂の入り口へと向かった。