旅の始まり ★
ここはルルティール地上。
どこまでも続いていそうな大草原の向こうから、朝日がほんの少し顔を出している。
そこに女の甲高い怒号が響いていた
「お前っ! お前さぁ!」
怒号は彼女のものだった。
しかし身なりが先程とは全く違う。端的に言うと、幼くなっていた。
彼女の怒号に先ほどの剣幕はない。
リーンは地面に膝と手をついて、怒号を発していたのだ。
彼女には怒りもあったが、それよりも絶望という感情が心を支配していた。
故に大地と向かい合う姿勢で怒号を発しているのだ。
「ああ、すまなかった」
「すまなかったじゃねーよ! 取り返しの付かないことをしたんだよテメェは!!」
「天界に帰れないんだろう? それは聞いた」
「あああああああ!! なんで私まで! なんで!? マジでなんで!?」
「それはあの高さから落ちれば死ぬと思ったから……」
「もう死んじまえよお前!!」
先刻の出来事だ。
シェイドは、穴を通過してしばらくしたところで地上に転送されることを知らずに、リーンを掴んで死を回避しようとした。
そしてシェイド共々リーンは地上へと降り立ったのだ。
リーンの悲痛な叫び声が草原に響く。
「それよりなぜそんなに小さくなっているんだ」
シェイドはなぜか小さくなっているリーンを見て聞いた。
先程のリーンとは違い、今のリーンは可愛らしい10歳くらいの女の子になっているのだ。
背は縮み、ある程度豊かだった双丘もそこにはない。
「それはあれだ。地上じゃあほとんどの力が使えなくなるからだ……」
変貌の所以を問われ、リーンは元気なく答えた。
「じゃあその姿がお前の真の姿か」
的外れなシェイドの見解を、リーンはすかさず訂正する。
「ちげぇよ。力の節約のために燃費のいいガキに姿を変えてんだよ」
「なるほどな」
しかしそういう対応ができているところを見ると、彼女はすでに切り替えたのかもしれない。この地上で生きていくことに。
そう思ったシェイドはリーンをその場に放って草原を歩きだした。
「オイオイオイ! オイ! お前どこ行くつもりだよコラ」
すぐさま後ろから駆け寄ってシェイドの前へと回り込んだのはもちろんリーンだ。
彼女は下からシェイドの胸ぐらをつかもうとしたが、小さくなったその姿では胸ぐらに手が届かず、背伸びしてやっとシェイドの胸元に手が届いた。
しかし胸ぐらを掴み上げるとまではいかず、リーンがしがみついているような光景になっている。
だが、その眼力だけは小さくなっても変わらなかった。
「お前身長高いな。何センチだよ」
「180cmだ」
「そうか。で、どこ行こうとしてるんだ?」
「言われたとおり、キューピッドとしての仕事をしに行くつもりだ。
愛を集めに行く」
「ああ゛? お前私を外界に叩き落としておきながらなんだよそれは。
こんなナリの私を放っていくつもりなのか?」
「……」
「なんなんだよその真顔は!」
「いや、どうして欲しいんだ」
「私を天界に帰せよ! お前が堕としたんだから責任持って私を天界に帰せよ! なに私を放ってどっか行こうとしてんだよ! 責任とるのが普通だろが!」
「ああ、一人で帰れないのか?」
「なんだよその言い方! 私は迷子の子どもじゃねぇよ!
力がないから帰れないんだよ! お前のせいで!」
リーンはシェイドを天界に喚び出した際に、元々なくなる一方だった力をほとんど使い果たしてしまっていたのだ。
その状態で地上に落とされたので、彼女には成す術がなかった。力を取り戻すのにも、ある程度の余力が必要なのだ。
今のほとんど人間と変わらない状態のリーンは、シェイドに頼るしかなかった。
対してシェイドは、そんな状況にリーンを陥れた訳だが、少しの責任も感じていなかった。
罪を償わせるという実質パシリの大義名分があるとは言え、リーンはシェイドを自分の意志で勝手に喚び寄せたわけだ。
つまりそれに起因して起きたこの事故は、全てリーンの自己責任だとシェイドは考えている。
そんなシェイドの考えを表情から読み取ったのか、リーンは口を開いた。
「お前もしかして私を助けないつもりなの? 実力行使するぜ? お前の脳天かち割る程度の力ならまだギリ残ってるんだからな」
「その力を使えば天界には帰れなくなるな」
「その通りだよハゲ! だから責任持って私を天界に帰せって言ってんだよ!」
「思ったんだが、どちらにせよ俺のやることは変わらないんじゃないか?
愛を集めればいいんだろう?」
「ああそうだ。だがな。
これまで全世界の愛は全て天界にいた私の元に集まって、それが私の力になっていたわけだ。
けど地上に降りてしまった今、その供給源は断たれた。
この意味が分かるな?」
「ああ」
「つまり、愛は全て自分で直接集めないと力が戻らない。でもほぼ人間の私。
どういうことかわかるな?」
「ああ」
「そう、お前がこれから集めるであろう愛も私の元に来なくなるから、常に近くにいてお前が発生させた愛を私が直接回収しなきゃなんねーんだよ」
「なるほど。つまり一人で行かずに自分も連れて行けということか」
「……そうだよ」
一言で済むことをわざわざ遠回りしてシェイドに理解させたのは、リーンのプライド上、連れて行けと頼めなかったからだ。
「分かった」
シェイドはあっさりとリーンを受け入れた。
そこでリーンはシェイドの胸ぐらから手を離す。
「それでいい。
まあ私がいるとお前も楽だろ?
愛の集め方とか教えてやれるし」
「それは自分で考える。お前も自分で考えろと言っただろう」
「お前のせいで緊急事態なんだよ! 時空感も天界とは違うし、私は焦ってんだ! お前にゆっくり愛の集め方を考える時間はねぇ!」
「そうか」
「これを見ろ」
リーンがどこからか取り出したのは、赤い色をしたハート型の何かだった。サイズは今のリーンの手のひらくらい。
ハート型のそれは、上部に数字が表示されており、下部にはメーターが描かれている。メーターの針は0に限りなく近いところを指していた。
「なんだそれは」
「LOVEメーターだ」
「……なんだそれは」
「その名の通り、今私が所有している愛を表すメーターだ。
この針を見てみろ。ほぼ0だろ? これはvg単位。これをlg単位に切り替えると……」
そう言ってリーンがLOVEメーターをさっと一撫ですると、メーターの針と数字の表記が変わった。
針の指す場所は2500lg辺り。
「な?」
「なるほど。それが今お前が持っている愛を数値化したもので、力か」
「そういうこと」
「ちなみに天界に帰るにはどれくらいの愛がいるんだ?」
「……大体20vgくらいかな。空間とか歪ませなきゃだし」
「20vgってのはどれくらいの数字なんだ」
「1000lgで1og、1000ogで1vg。1000vgで1egだ」
「気の遠くなる話だな」
「いやいや、絶対集めてもらうからな? ……って、どこ見てんだお前」
そう言ってリーンがシェイドの視線の方……つまり後ろの空を振り返った時、その視線の先から滑空してきた大きな鳥が、リーンの持っていたLOVEメーターを奪い去っていった。
鳥はLOVEメーターをくわえて羽ばたき、今度は空へと上昇していく。
「ああっ!?」
「あんなデカイ鳥は初めて見る」
「んなこと言ってる場合かよ!
ふざけんな万物に劣る畜生めが!
シェイド! アレを殺せ! 撃ち落とせ!」
「それが女神のセリフだと考えると凄いな」
「いいから早く!」
「分かった」
シェイドは片手に持っていたキューピッドのクロスボウを地面に置くと、その近くにあった石ころを手に取る。
そして一歩前へ踏み込んだかと思えば、手にとったその石ころを鳥目掛けてビュンと投擲した。
石ころは目にも止まらぬ速さで飛んでいき、見事上空へ逃げた鳥に直撃した。
鳥は小さく悲鳴をあげ、地上へと落下していく。
「おお! でかした!」
小さなリーンはその鳥の落下地点へと急ぐ。
その綺麗な姿勢のダッシュ姿に驚きながら、シェイドもその後を追った。
「ふう。ビビらせやがって……」
リーンの手にはLOVEメーター。大事そうに両手で持っている。
そしてその足元にはシェイドが撃ち落とした大きな鳥の亡骸が転がっていた。
「あー……」
リーンのやるせない声に、シェイドは「どうした」と尋ねた。
「ほら見てみろよ」
そう言ってリーンはシェイドにLOVEメーターを見せる。
先程2500lgあたりを指していた針は、現在2000lg辺りを指していた。
「減ってるな」
「はぁ……。こういう無意味な殺生はマイナスになっていくからマジ気をつけろよ」
「いや、殺せといったのはお前だろ」
「んなこと女神の私が言うわけねーだろ。耳壊死してんのか?」
「あ?」
「お?」
こうして女神リーンと、キューピッドになった殺し屋の男シェイドの、途方もない愛集めの旅が始まったのだった。