キューピッドのクロスボウ ★
キューピッドとは、恋の神クピドの英語名。愛と美の女神ヴィーナスの子である。
純白の翼を持つ天使の子どものような容姿であるのは有名だが、その姿については諸説あって、少年の姿でもしばしば描かれる。
そんな愛の意を持つキューピッド。
彼の持つ矢には大きく分けて2つの種類ある。
一つは、恋の矢。
この黄金の矢に射られた者は、恋に囚われるという。
もう一つは、憎悪の矢。
この鉛の矢に射られた者は、憎悪に囚われるという。
そこまで自分の持つ知識を整理すると、シェイドは目を閉じて溜息を吐いた。
キューピッドになって仕事を手伝えと、目の前の女神は言った。
キューピッドというくらいだから、自分は恋のお仕事とやらでもさせられるのだろうか。
と想像して彼は開口する。
「キューピッドになって何を手伝えばいい」
「簡単さ。ルルティールっていうお前がいた地球とはまた別の世界があるんだけど、お前にはその世界行って愛を集めてもらう」
「何を集めるって?」
「愛だよ。アモール」
「……愛を集めてどうするんだ」
そもそも愛は物理的に集められるものなのか、という疑問は自身の中に閉じ込めてシェイドは聞いた。
「いや、やっぱ集めるだけじゃ駄目だわ。愛を溢れさせてこい。もうこれでもかってくらい愛であふれる世界にしてこい」
「……」
「なんだよそのやるせないダッセェ顔は」
「そりゃそうだろう。愛を集めろ溢れさせろだなんて言われたらこんな顔にもなる。
そんなことをしてなんの意味があるんだ」
シェイドがそう聞くと、唐突にリーンは立ち上がって叫んだ。
「愛が足りてねぇぇぇぇぇ!!
なんだよどの世界もテロ戦争テロ戦争で根暗なことばっかやりやがって! そのせいで私の力がどんどん弱くなってきてるんだよ!
ついでに言うとホントはもっと人を喚ぶつもりだったのにお前が逃げ回ったせいでもう他に人を召喚する力が残ってねぇんだよ!! クソかよ害かよテメェは!!
力を回復させようにも……愛が足りてねぇぇぇぇえぇぇ!!!」
「なるほど。でもお前が俺をムキになって追いかけなければ他の奴を召喚でき……」
「それはお前が逃げたのが悪いんだろ!!! 黙って捕まっとけよ!!」
「……あ?」
「んん゛?」
シェイドは一度空気を吸い、小さくため息をついた。
それをみてリーンもソファに再び腰を下ろす。
お互い冷静になることを選んだのだ。
「……愛か。そういう力の根源みたいなのは一応女神っぽいんだな」
「っぽいんじゃねぇよ女神だよ。
私は一応愛と美の女神ヴィーナスの系譜だからな」
「愛と美の女神?」
「そうだ」
「……愛と美の女神?」
「殺すぞテメェ」
殺すぞなんて言葉が簡単に出てくる愛と美の女神がいていいのだろうか。
しかし容姿だけは一応女神の風格がある。
シェイドはそう思いながらリーンの顔をまじまじと見た。
「キューピッドになって、具体的に俺は何をすればいいんだ」
「だから、愛を集めろ」
「具体的に」
「愛を集めろってんだよ!」
「あ?」
「お?」
「…………どうやって愛を集めればいい?」
「そこはオメェ自分で考えろよ。それも含めて償いなんだよ」
償いというより、シェイドには女神が自分をパシりに使おうとしてるようにしか感じられなかった。
そして実際リーンの方もパシリ目的でシェイドを喚び出していた。
愛というものをそもそも本質的に理解していないシェイドにとって、「愛を集めろ」というのはかなりの難題に思えていた。
無理もない。愛というものをその身に与えられたこともなく、もちろん与えたこともないシェイドだ。言葉の意味は理解できていても、ただ殺しの日々を送っていたシェイドが本質を理解できていないのは当然だった。
そしてそれは同時に、女神であるリーンが人間を天界に喚び寄せていい条件でもあった。
「分かった。自分で考えることにする」
「当然だろ」
「……」
「じゃあ、晴れてキューピッドになったお前に」
「待て。俺はもうキューピッドになったのか?」
「ああ、そうだけど?
まあキューピッドといっても何にも変わらないけどな。私の使者ってだけで。
ようするに名前だけってこと」
「そういうことか」
「ああ。で、キューピッドになったお前にプレゼントがある。
キューピッドと言えばこれだろう?」
そう言ってリーンがソファの後ろから取り出したのは、弓矢……ではなく木製の小さなクロスボウだった。
「想像してたのとは違うな」
「ほれ、やるよ」
リーンがクロスボウを放り、シェイドがそれをキャッチする。
シェイドは受け取ると同時にクロスボウの状態を確認した。
「アラクネ剛糸の弦に、オリーブの神木で作った。天界の大神木の樹液で塗装してある。耐久性は折り紙つきだ。
試しに引いてみろよ」
「わかった」
そう言ってシェイドは弦を引く。弦は意外と重く、その重さに彼は少し驚いた。
シェイドが弦受けまで弦を引くと、そこになかったはずの黄金の矢がいきなり現れて装填された。
いや、”矢”なのだろうかこれは。
このハート型の矢尻に殺傷能力があるとは思えない。
「……おもちゃかこれは?」
「キューピッドのクロスボウだ」
「……そうか」
「そのクロスボウには能力がある。
黄金の矢を念じて弦を引けば黄金の矢が現れ、鉛の矢を念じて弦を引けば鉛の矢が現れる。
それぞれの矢の特性は知っているか?」
「ああ。たしか黄金の矢は人を恋に囚われさせ、鉛の矢は人を憎しみに囚われさせるんだろう?」
「ああそうだ。
お前はそのクロスボウを使って、愛の救済が必要な猿には黄金の矢を。
世界の愛を減らす糞クズ味噌っカスには鉛の矢で制裁を与えよ」
「今更だがお前はすごく口が悪いな」
「あ?」
「いやなんでもない」
「まあ、だいたい分かったか?」
シェイドは頷き、リーンはそれを見て立ち上がった。
「お前と話して久々に疲れたぜ。
分かったなら出発してもらう」
「ああ」
シェイドも立ち上がると、二人のソファは消え代わりに二人の間に大きな穴が開いた。
雲の絨毯に空いた穴から見えるのは、草原。鳥達が飛んでいるのが見える。
どうやらあそこがルルティールという世界らしい。
「じゃあ行ってこい。
言い忘れてたけど、殺しは控えろよ? あれは逆に負のパワーが溜まって愛が減るから」
「分かった」
シェイドは穴に身を投げるべく一歩進む。
しかしリーンの声で足を止めた。
「聞き忘れてたんだけどさ、お前元の世界のこととかどうでもいいの?
神隠しにあったわけだけど」
「人を殺して生きていたから、別の道で生きられるならそうしたいと思ってた」
「ふーん。そんなことも考えてたのか。ただの殺戮マシーンだとばっかり。
てかお前向こう着いたらちゃんと仕事しろよ? サボんなよ? 償えよ?」
「分かった」
「ほんとに分かってんのか?
まあいい。行ってこいよ」
「ああ」
「んじゃな」
そうしてシェイドは穴に身を投げ……るのと同時にリーンの白装束を掴んだ。
リーンはもちろん体勢を崩し、穴の中へと道連れになる。
「あああああああああ!?!?」
シェイドは穴に落ち、リーンは穴に落ちかけたギリギリところで雲の絨毯に両手で掴まった。
しかしシェイドはリーンの白装束を掴んだままだ。
「おおおおおおおちおち落ち着け!
シェイド!! その手はなんだ! 離せ!!」
両手でがっしりと雲の絨毯を掴んだまま、リーンはシェイドを見下ろす。
「……」
「なんだよその真顔は!! おまっ! 殺すッ!! マジなにしてんの!?」
「いや、落ちる」
「落ちろや!!」
ガシガシとシェイドを蹴り落とそうとするが、シェイドは離れなかった。
「あああああああああ!!
誰か助けて助けてくださだいお願いしますぅぅぅぅ!!」
もちろん誰も助けに来るはずがなかった。
ここはリーンの家と同義なのだ。
かくなる上は、白装束を脱いでシェイドを落とすしかない。
そう思ったリーンだが、白装束を脱ごうとした際に手を滑らせ、シェイドもろとも地上へ落ちていった。
リーン