第八話 コイントス
翌朝、リーンとシェイドは少し遅い朝食をとっていた。宿の一階にある酒場は空いている。リーンの目覚めた時間に合わせたためだ。
昨夜はシェイドもしっかりと睡眠をとることができた。
彼らの朝食は表面の固いパンとスープである。スープは鍋でカウンターに置かれ、リーンとシェイドは取皿にそれを何度もおかわりしている。
「物騒な町?」
「ああ、とにかく荒れまくってる町がいい」
会話しているのはリーンと宿の店主だ。
彼女は机に肘をついてスープの皿を傾けている。今日のリーンは少し行儀が悪いなとシェイドは思ったが、そもそも女神に人間の行儀という概念は通用しないのかもしれない。
「そうだな……、治安の悪い街って言ったら隣国シルングーテのセーヌ=アティリアが真っ先に思いつく。
あそこは酷いもんだ。なんせ街の中に魔物が出るレベルだからな。
掃き溜めみたいな場所だよ」
酒場の店主はリーンの質問に対してそう答えた。
彼女は「いいね」と店主を指さす。
「そのセーヌ=アティリアって街はここからどんくらいの距離があるんだよ」
スープにつけたパンを口に詰めながらリーンは言った。彼女の隣に座るシェイドも同じような食事を始めている。
「待ってな。地図を出す」
カウンターの向う側で食器を洗いながら話していた店主は、手を拭いて後ろの棚から地図を取り出した。
地図を広げるスペースを作るため、リーンとシェイドはパンとスープの皿をそれぞれ隣に避ける。
丸められた紙の地図は、店主の手によってカウンターの上をコロコロと広がった。
「古そうな地図だな」
「地図なんてめったに使わないからな」
広がった地図は古ぼけた紙に無数の線と文字が描かれたものだ。
見方がわからず、リーンは少し眉を寄せる。
「ここがグリムスワールだ」
店主が指差したのは地図の真ん中。そこにはグリムスワールの文字が刻まれており、おそらく城を表すであろうマークが描かれていた。
「で、ここがセーヌ=アティリアだ」
次に店主が指差したのは、地図の端の方だ。
「これって、結構遠いのか?」
リーンは食事を進める手を止めて言った。
「なかなか遠いな。一番速い馬でも10日はかかる距離だ」
「そんなにかよ。はぁ、面倒だなぁもう」
「……行くつもりなら途中の街を経由しないと辿り着けないだろう。
この時期だとこのルートが一番いいな」
店主は地図の街道をなぞってグリムスワールからセーヌ=アティリアを指す。リーンはそれを視線で追った。
「へぇ」
「でもそういうルートほど賊に狙われやすいもんだ。ちゃんと武装していかないと身ぐるみ剥がれて奴隷市行きだぞ。
安全に行きたいならキャラバンにでもくっついて行くといい」
キャラバン。隊を組んで行く商人の一団のことだ。
リーンはそれについていくのも良いかもしれないと考えながら、シェイドの方をちらと見る。
シェイドはすでに食事を終えて、横から地図を眺めていた。
「とりあえず目的地はこのセーヌ=アティリアってところでいいよな、シェイド」
「ああ」
「よし、じゃあ今日出発するぞ。まあ荷物なんかも元々ないし、文句はないよな」
「ない」
シェイドはそれだけ言って立ち上がり、リーンを置いて宿の一室へと戻っていった。
リーンもそれを見て席を立つ。
「助かったわおっさん。
それと、この地図売ってくれねーか?」
リーンは地図の端をつまんで聞いた。
「いや、その地図はもう古いしもっていくといい」
「太っ腹だな。貰ってく。
そういやこの街で馬とか売ってる場所ってある?」
「馬か。馬なら東広場の方だな。あっちだ」
店主は指を指して方角を示してみせた。
リーンは頷くと、シェイドの後を追って宿の二階に上がっていった。
ーーー
東広場へと繋がる大通り。そこは家畜の糞尿の悪臭が漂い、牧場から連れて来られた家畜の鳴き声で賑わっていた。
現在、そんな家畜売り場に、さらなる罵声が加わっている。
「馬を扱えなきゃ買っても意味ないだろハゲ!」
「……」
シェイドはこれに言い返す気が起きなかった。
リーンも理不尽だと分かっていながら、苛立ちをシェイドにぶつけていた。
彼女は、勝手にシェイドが馬の扱いに長けていると思い込んでいたのだ。
しかしシェイドにそんな経験はなく、いざ馬を買おうという時にそれが発覚して、リーンは頭を抱えているのである。
「馬の扱いに長けた従者を雇えばいいんじゃないか」
「じゃあ探してこいよ。セーヌ=アティリアまでついて来てくれる奴がいるかどうかはさておきな」
そもそもなぜ馬を扱えると思っていたのか。
シェイドはそんなことを考えながらリーンの言葉に返事する。
「徒歩でいくのも手だろう。地図にあるとおり、町を渡っていけば時間はかかるが徒歩でも行ける。愛集めもセーヌ=アティリアまでの道中でできないわけじゃない」
「私は歩くのが嫌なんだよ! いいから探してこい!」
「ならお前が探して来たらどうだ。なぜ俺がわざわざそんなことを」
セーヌ=アティリアまでついて来てくれる従者を探すのは、確かに骨が折れそうだ。
途中の街までの従者を雇うという手もあるのだが、どちらにしろシェイドにとってその手間は非常に面倒に感じられた。
彼は心底面倒くさそうな顔をして、東広場に背を向ける。
しかし、リーンはそんなシェイドの前に回り込んだ。
「OKOK。もう一度話し合おうか。なぜ私が下界なんかに来てしまっているのか、そこからな」
「それはお前がドジを踏んだだけだろう」
「お前が私を突き落としたんだよカス」
「あ?」
「お?」
シェイドは周囲の視線に気づいて目を瞑った。
この女神は口が悪すぎる。リーンの子どもの容姿でこんな振る舞いをされては、無駄な注目を集めてしまうのだ。
シェイドは吐きかけた溜息を飲み込み、目の前のリーンを避けて再び歩き出した。
「おい、無視すんな」
リーンはシェイドの後を追って、その裾を掴んだ。
「少し……、提案があるんだが」
「提案?」
「ああ」
「まあ……、聞くだけ聞いてやるよ」
リーンがそう言うと、シェイドは足を止めて彼女の方に振り返った。
ずんと目の前に立ったシェイドを、リーンは好戦的な目で見上げる。
「どうやら俺達はあまり相性が良くないらしい」
「今更かよ」
「だが、不本意とはいえお互いそんな相手としばらく旅を共にすることになった」
「お前のせいだけどな」
シェイドはリーンの相槌に一瞬口をつぐんだが、すぐに口を開いた。
「これから先、言い争いもそうだが、意見が割れることも多いだろう」
「まあ……、現にそうだな」
「……そこで、
俺は争いを公平にジャッジする手段を持つべきだと考えた」
「ほう」
「こうも毎回無駄な争いをしてるのでは俺も持たないからな」
「お前が私の言うこと聞けばいいんだけどな」
「あ?」
「ん゛ん?」
沈黙。
「で、どう公平にジャッジするつもりだ? 女神の私と公平なんて笑わせる話だけど」
「……これだ」
おもむろにシェイドがポケットから取り出したのは一枚の銅貨だった。
「コイントスか」
「ああ。常に表はお前で裏は俺だ」
シェイドは銅貨の表裏をリーンに指し示す。
リーンはそれを見てにやりと口角を吊り上げた。
「なるほど。悪くない。
じゃあさっそく決めようじゃねーか。
負けたら大人しく歩いてやるよ。
だけど、私が勝ったら大人しく従者を探すんだぞ」
「ああ」
歩いて次の町を目指すか、従者を雇って馬で行くか。
この二択、実のところはシェイドも後者の方が良いことは分かっていた。というより、当初はそのつもりだったのだ。
しかしシェイドにとって移動手段など何でも良かった。
ただそこに従者を探す手間があったため、彼は歩くのを選んだのだ。
先ほどの地図を見ても、次の町までの距離はそう遠くない。
それなら徒歩で進み、道中の馬車でも引っ掛けるのがいいだろうと彼は考えたのだ。
だが、コイントスに負けたら彼は大人しく従者を探そう。
そう考えて、シェイドは銅貨を親指で弾いた。
回転しながら空高く舞った銅貨を見ながら、リーンは言う。
「この手のギャンブルで神に勝てると思ったか馬鹿め!」
「……」
嬉々とした表情のリーンと、無表情のシェイド。
やがて地面に落ちた銅貨は、石造りの地面で一度跳ねて、クルクルと踊った後に倒れ込んだ。
リーンはコインの元に駆け寄って、裏表どちらか出たかを確かめる。
そして裏の面を天に向けた銅貨を見てそのままへたり込んだ。
「嘘だろ……なんで……。加護が私を見捨てた……?」
「裏か。行くぞ」
シェイドは銅貨を拾うと、リーンの手首を掴んで立たせた。
「……歩きたくない。歩きたくない歩きたくない歩きたくない歩きたくない歩きたくない歩きたくない」
「ガキか」
「見ろよこの姿! 見たまんまガキだろが!
お前は知らないんだよこの姿の無力さを! そう何日も歩いたら死んでしまう!」
「そんなに嫌ならおぶってやる。お前は勝負に負けたんだ。
黙ってついてこい」
「……チッ、クソ……。こっの、クソがぁぁ! お前いつか絶対泣かしてやる!」