召喚された殺し屋 ★
殺し屋の男は夜の街を逃げ回っていた。闇夜に漆黒のコートが揺れ、はためく。
視界で霞む街灯、チカチカと点滅する信号、LED照明で彩られた看板の数々。
男の目には光が映っている。そして彼を追う「何か」もまた光だった。
男は決して追手や刺客から逃げているのではないのだ。
彼は、光の塊のようなものから逃げている。よく見れば、その光は円状に型を作って淡い碧の波紋を散らし、無数の文字が回転していた。
男はビルからビルへと飛び移り、壁を駆け下り、路地裏を走り抜ける。
だが、それでも光は追ってきた。
その光は彼にしか見えていなかった。
彼はかれこれ少一時間はそこかしこから現れるその光から逃げている。
光は男の行く先行く先に現れ、迫りくる。
(振り切れない。一体なんだアレは。新手の兵器か?)
殺し屋の男はすでに万策尽きていた。
あの光には彼のどんな術も通用しなかったのだ。彼にはもう体力の残る限り逃げ回ることしかできない。
逃げ切れないこともすでに悟っていた。
行く先は袋小路だ。
彼はあの光に捕まってはいけないということを本能的に理解している。アレはあまりよろしいものには見えない。
少一時間全力で逃げ回ったが、光は無感情に彼を追い詰める。
男にはまだ余力があった。
しかし、同時に彼は諦めることを決意する。
思えば生を授かり22年、男はまともな人生を歩んできていない。
殺し屋の両親に育てられ、殺し屋として育ち、数々の人を殺してきた。
彼は殺ししか知らなかったのだ。生きる術を。
彼は理解していた。
自分の生きる道は人道外れた反倫理の世界。
どんな理由があれど、多くの人を殺してきたその報いを受ける時が来たのかもしれない。
どうせアレからも逃げられそうにない。
生きがいというものもなかったし、もういいだろう。
男は立ち止まり、そして光を受け入れた。
ーーー
男の視界一面に広がったのは雲の絨毯だった。
そして、男の足には青い雲を装飾したような白装束を纏う女が、膝をついて咳き込んでいた。
「ハァ、ハァ……ゲホッ、ゲホッ!」
彼女の灰色の髪は、その身を立たせれば足元に届きそうな程長い。
男はこの状況について考えていた。
あの光に捕まったかと思えば、次はこんな訳の分からない空間にいたのだ。
何が起きた。
それを知っていそうなのは、足元で咳き込むこの謎の女だけだ。
「ゲホッ、ゴホンゴホン!」
「……大丈夫か?」
あまりに咳き込んでいたのを少しばかり心配して、男は女の近くに片膝をついた。
しかし咳き込む女はそれどころじゃないらしく、胸を押さえて息を整えるべく肺と格闘している。
しばらしくして女の息が整うと、彼女は勢い良く男の胸ぐらを両手で掴んで立ち上がった。
女の容姿は絶世の美女と言えるくらい整っていた。いや、美女というには少しだけ幼さの残る顔立ちである。
透き通るような白い肌。ぷっくらと膨らんだ唇。綺麗に整った長いまつげに大きな瞳。身長は男より頭一つ分程小さい。
その容姿でチンピラのような睨み顔を作り彼女は彼を睨みつけた。そしてその口から出た言葉はとてもまともな教育を受けた女のものとは思えない下劣さだった。
「テメェどんだけ逃げたら気が済むんだよカスが!」
条件反射で男は口を開いた。
「……あ?」
「お?」
女の、下から抉り取るような目つきに男も応戦する。
応戦したと言っても、ただその瞳から逃げなかっただけだ。
「テメェが逃げ回ったせいでこっちがどんだけ疲れたか分かってんのか!? あァ!?
私の召喚魔法陣からあれだけ逃げ続けたのはテメェが初めてだよ! 一時間も逃げやがってふざけんな!」
召喚魔法陣。
それがあの光を指すことはすぐに理解できた。先刻男が逃げ回ったというのもあれくらいだ。
女の言葉からしてとどのつまり、あの光は目の前の女が操っていたもので、自分はこの女によってここに連れてこられたのだと、男はすぐに悟った。
魔法陣という単語に対して男は驚きを見せない。すでにこの超常的空間が魔法陣という存在の非現実性に勝っていたからだ。
男はあの光に飲み込まれたら死ぬものだとばかり勝手に思っていたが、この間のぬけた光景を目の当たりにして内心嘆息していた。
「……それは悪かった。
で、これはいったいどういう状況なんだ。どうして俺はここへ連れてこられた」
とりあえず謝った男の切り出しに、女は掴んでいた胸ぐらを解放し、いつの間にか女の後ろに現れたソファに腰掛けた。
偉く上品に腰掛けたかと思えば彼女はすぐに足を組み、その膝の上に肘をのせた。
一見すると妖艶な女のポーズであるが、そのチンピラのように歪ませた目つきと相手を威嚇するように半開きにした口がすべてを台無しにしている。
「……ああそうだ。その話だ。
お前なんか落ち着きすぎててキモいな」
「……あ?」
「お?」
視線がぶつかり合い、一定間の沈黙が流れる。
チッと舌打ちを鳴らして女は口を開いた。
「まあ座れよ」
男の背後にもソファが現れ、礼もなしに男は腰掛ける。
女はそれに少しムッとしたような表情を見せたが本題を切り出した。
「お前をここに呼んだ理由、それはだな」
「ああ」
「人を殺しすぎなんだわ」
「そうか」
「そうか、じゃねぇよ! 何人殺しといてその真顔だよ! 二、三十人ならまだ分かる。まだ……、まだ見て見ぬふりをする……。でもお前は5000人近く殺してんだよ! 殺しすぎだろハゲ!! 頭に糞でも詰まってんのか!?」
五千人。
兵器でも使えば一発でそれを超える死者数を出すことができる。
しかし男の場合は、任務における目標のみを殺しておよそ五千人の命を奪う殺しを行ったのだ。
ボタンを一度押して数千人を殺すのと、誠心誠意一人ずつ命を奪っていくのとでは違いがありすぎる。
もちろん男は尋常ではなかった。
「ああ、確かにそうだな。自覚はある」
男の感情の篭っていない声に苛立ち、女はまた怒声を上げそうになったがぐっとこらえる。少し熱くなってしまったことを反省し、冷静になろうと言い聞かせる。
「自覚無かったらお手上げだよ。
まあいい。でさ、お前ちょっと人殺しすぎだからさ。更生してもらうわ。いや、更生は別にしなくてもいい。償ってもらう」
「償い? してもいいが、そんなことを俺にさせる権利がお前のどこにあるんだ。
そもそも、お前は一体なんなんだ」
男はとうとう当然の疑問を口に出した。
この女が一体何者なのか、というこの空間に来た瞬間から浮上していた疑問だ。
「私? 私は女神だぜ? 見たらわかるだろ。
てかお前って呼ぶな。女神さまかリーンさまって呼べ」
男がこの空間に来てから最初の驚愕が、”その事実”だった。
目の前の口の悪い女が女神という事実。
しかし、疑う要素はその口の悪さだけだった。
他に女神と言われれば納得できる要素も多く、信じるには値する。
というより、男はその事実と向き合うのを避けていただけで、目の前の女がそうであるのは悔しいが薄々気づいていた。
「……女神は人手不足らしいな。悪霊に取り憑かれたような女でもなれるのか」
「上等だ。挽肉にしてやるから表でろや」
「……あ?」
「お?」
口の悪い女神に男は少しの苛立ちを覚えていた。
男は決して短気ではなかったが、目の前で身を乗り出して視線の電撃を飛ばしてくるこの女の言動には、一々何かクるものがあるのだ。普段は言わない憎まれ口も男の口からポンポンと出た。
対して女神、リーンの方も見た通り苛立っていた。
その苛立ちは、男との一時間に渡る追いかけっこによって生まれた疲労から、さらに大量生産されたものだ。
こうしていても話が進まない。
今度はそう思った男が視線を逸らして口を開いた。
「……で、お前は俺にどう罪を償ってほしいんだ。
死ねって言うのなら死ぬが」
「死ぬことは罪の償いにならねーんだよ。
てかお前名前なんだっけ?」
「ノワルリーベ=シェイド」
「ああそいやそうだったな」
「死ぬことで罪を償えないのなら、俺はどう罪を償えばいいんだ」
シェイドがそう聞いた時点で、リーンは黙り込んだ。いや、シェイドの黒い瞳の奥を捉えたと言うべきか。
「……ちゃんと罪を償いたいという気持ちがお前にはあんのか?
お前が殺した奴らに対して、ちゃんと罪を感じているのか?」
リーンは問うた。
シェイドがどう答えようと、リーンはシェイドに罪を償わせるつもりだが、それでも一応問う必要があったのだ。
シェイドは即答する。
「悪いが全く感じていない。俺が殺した奴は総じて生きる価値のないゴミばかりだったからな。
だが、それでも罪を償わなければならないのなら俺は償うつもりだ」
リーンにとって、イエスノーどちらが答えだということはなかったが、シェイドの答えは及第点だった。
リーンは足を組み替えて口を開く。
「じゃあシェイド、お前はキューピッドになれ」
「聞き取れなかった。もう一回言ってくれ」
唐突に現れた謎の単語をシェイドは聞き逃した。いや、実際は聞こえていたが、それは聞き間違いだと認識したのだ。
つまり、耳を疑った。
シェイドは再び答えたリーンの言葉で聞き間違いではなかったことを知る。
「お前、キューピッドになって私の仕事の手伝いをしろ」