2 白銀の森の悪魔
「感じた?」
漆黒のローブに身を包んだ女が、傍らの男に問いかけた。
女と同じ作りの黒いローブを着ている男は、無言で頷くと白銀の森がある方へ顔を向けた。
二人とも燃えるような赤い髪をしており、きつい印象を与える切れ長の目をはじめ、顔立ちもよく似ている。
その格好も、整った外見も十分以上に人目を引く。エウロポスに入る際、二人もそれは覚悟していた。だが、人通りは極端に少なく、その少ない通行人にしたところで二人をちらりとも見ないで歩き去っていく。
この町が普通ではない状況にあるのは明らかであり、二人もさすがにこれを放置してテネースたちを追うべきか迷っていた。
そんな折、白銀の森の方からとてつもない力の波が押し寄せ、引いていったのだ。
「なんだったのかしら」
身体に影響は出ていない。だが、どうにも心の奥深い所に穴が空いたような、小さな不快感を感じて、女が鼻にしわを寄せる。
元々表情に乏しかった町の住人の顔から、一段と感情が抜け落ちたように見えるのも気になった。
「気は進まないけど、森に行って調べるしかないかしらね」
言葉通り、女は心底嫌そうに男が見ている方角に顔を向ける。
「僕たちの役目は異端者の確保であって、町の異常を解決することじゃない」
入れ替わるように町の彼方の森から視線を転じた男が、女をまっすぐに見つめる。
「そうだけどね、だからってこのまま放っておけないでしょうが。私もあなたも異端審問官だけど、その前に信徒の手本となるべき聖職者なのよ? その聖職者が信徒を襲っている異常事態を放置していいわけないでしょう」
女の正論に、男は不愉快そうに顔を歪めたが、そのまま沈黙した。
「それに、今までも何か奇妙な現象が起きてる場所にテネース君はいたでしょう。今回もそうかもしれないわよ?」
「……わかった。森に向かおう」
長いため息をついた後、男は渋々といった様子で頷いた。
***
白銀の森の悪魔は、今までテネースが見てきたものとまるで違っていた。
これまでにテネースが吸収してきた悪魔は、身体のどこかに人間らしさを残してはいたが、それはごく一部だけで、大部分は獣の手足や、それをひどく戯画化した醜悪な身体器官だった。まさに、悪魔という名前にふさわしい外見をしていたのだ。
しかし、今テネースと対峙している悪魔は、そのような醜悪な外見とは無縁だった。身長こそギュアースよりもさらに高いが、その手足はすらりと長く、白い肌にはシミ一つ見あたらない。形のいい胸やくびれた腰といった女らしい魅力に溢れた裸身を彩る青色の長い髪が、まるで意志を持っているかのようにうねうねと蠢いていることを除けば、人間ではないと断定できる要素は外見にはなかった。
ただし、醸し出している雰囲気はとうてい人間のものではない。
まず存在感が違う。不吉な、しかし目をそらすことを許さない目に見えない力が放たれているかのようにテネースの視線を捕らえて放さない。
その圧倒的な存在感にひるんだテネースだったが、意を決して一歩近づいて悪魔の顔を見上げ――絶句した。
陰った日は今も顔を出していないらしく、目を焼く眩しさは今もない。だが、日の光を存分に浴びた葉が自ら輝いてでもいるのか、ぼんやりと辺りを照らしている。
だから、涙を流している悪魔の顔がはっきり見えた。
テネースは、息をするのも忘れて悪魔の顔を見つめた。
何かを悔いるように歪んだ顔を、テネースは確かに知っていた。筋が通り高い鼻。小さく薄い唇。豊かな髪に包まれた卵形の顔。
毎日テネースが――テネースだけが見てきた顔。
アリスの泣き顔も、何かを後悔するような顔も見たことのないテネースだったが、毎日付き合わせてきた顔を見間違えるはずがない。
瓜二つというほどではないが、姉妹と言われても信じられる程度には似ている。
「どういう……こと?」
ようやく絞り出された声は、憐れなほどに弱々しく震えていた。
今すぐアリスに説明をして欲しい。確かにそう思っているのだが、テネースはアリスを見ることができなかった。
アリスにそっくりな悪魔の顔から目を離せないのも事実だったが、アリスを見ることに説明のしようのない恐怖を感じていた。
ずっと見てきた、優しくほっとさせてくれる笑顔でなく、悪魔と同じように泣いていたら? あるいは、今までの悪魔と同じように狂ったような顔をしていたら?
そんなことはあり得ないと、そうアリスのことを信じているはずなのに、テネースは動けなかった。
アリスの方から話しかけてきてくれないことも、テネースには辛かった。
いつもならテネースがためらい、もじもじしていれば先に声をかけてきてくれるアリスなのに、今は沈黙を守っている。それどころか、テネースの視界に入ってこようともしない。
信じているのに、信じたいのに、アリスに対する不信がじわじわと育っていくのを、テネースは止められなかった。
いつまでもこうして悪魔を見ていても仕方がない。
頭では理解しているのだが、テネースは動き出すことも、明確な質問をアリスにぶつけることもできず、ただただ立ち尽くしていた。
と、テネースが見守る悪魔が、小さな口を限界まで開いた。
オオオオオオォォォ……
悪魔の口から零れ出たのは意味のある言葉ではなく、今までの悪魔と同じようなうなり声だった。ただ、身体が人のものと同じ形状をしているからか、その声は決して大きくはなかった。
なかったが、起こった変化は劇的だった。
悪魔の身体から、目に見えない力の波が放射状に放たれた。
力の波動の通り道にある木は幹を大きく抉られ、まだそれほど育っていないものなどは高い音を立てて折れる。金属がぶつかり、折れ、砕ける甲高い音が次々に連鎖していく。
変化はそれで終わらず、悪魔の足下の地面にひびが入り、ゆっくりと砕けていく。
頭上からは、銀色の木の葉が降ってくる。
テネースは、力の波動が引き起こした突風に髪を乱しながら、悪魔の力がもたらした破壊を呆然と見つめていた。
今まで見てきた悪魔の中には、今目の前で起こった破壊とは比較にならない力を発揮したものもいた。この間吸収した悪魔にしても、単純な破壊力ならこの悪魔よりも上だろう。
だが、この悪魔の本質は物の破壊になどないと、テネースは本能で理解していた。
『テネース!』
この場にたどり着いて初めてのアリスの声が、テネースの凍てついた時を溶かしていく。
『あなたが訊きたいことは後で必ず話すから、今はあの悪魔を止めて。お願い!』
振り返ったテネースの視線の先、アリスは珍しいことに焦りを隠そうともしていなかった。
テネースは頷き、アリスから悪魔へと視線を戻した。
アリスとそっくりな悪魔。今までの悪魔と違って大きさと雰囲気を別にすれば人と大差ない悪魔。疑問を忘れることなどとてもできはしないが、アリスが焦燥も露わに悪魔を倒せと言っているのだ。やるべきことは決まっている。
(マリーカとギュアースさんのためにも、この悪魔をなんとかしないと)
二年前に助けてもらって以来、クヴェルタ兄妹には助けてもらってばかりいる。二人ともそんなことを気にするそぶりも見せないが、テネースとしては多少どころではない心苦しさがある。
(恩返しをする機会……って、僕たちの都合に巻き込んじゃった結果なんだから、助けるっていうのも変かな)
外見がアリスによく似ているからか、今まで悪魔の前に立った時に感じた強烈な恐怖はない。ただ、アリスと敵対しているような罪悪感と居心地の悪さは、テネースの表情を曇らせる。
『大丈夫。テネース。あれはわたしじゃないから。わたしは、あなたとずっと一緒にいたわたししかいないから』
最後の最後にテネースの心に残った迷いを取り除く、アリスの呟きが耳から心の奥深くへと染み込んでいく。
テネースの顔に、穏やかな表情が浮かんだ。
(そうだ。僕にとってのアリスは一人だけ。アリスとよく似てるけど、あれは悪魔なんだ)
マリーカたちを、そしてエウロポスの人々を救うためにも、悪魔を倒す。決意を込めて、テネースはアリスに似た悪魔を睨みつける。
その決意を感じ取ったか、悪魔が涙を流し続けている顔をテネースに向けた。
テネースの決意に満ちた眼差しと、悪魔の涙に濡れた瞳が絡み合う。
先ほど悪魔から放たれた力の波動が、勢いを減じることなく戻ってきた。
枝が、木の葉が金属特有の高い音を奏でる。
テネースが大地を蹴った。
悪魔が、ゆっくりと両手を広げた。まるで、テネースを歓迎するかのように。
目を見張ったテネースの足が瞬間止まりかけるが、すぐに次の一歩を踏み出す。
悪魔からの妨害は何もない。
テネースが伸ばした右手が、悪魔の腹に触れる。
人と同じように柔らかく、温かかった。
「あ……」
その感触に驚き、テネースは思わず手を引こうとした。
だが、悪魔の方が先に動いた。歓迎するように広げていた手で、自分から離れようとしたテネースの右手を包み込んだのだ。
「な、何?」
突然の悪魔の行動にテネースは目を丸くし、さらに強く手を引こうとする。
しかし、しっかりと押さえられた手はまったく動かない。
「何をする気なの?」
怯え、腰の引けたテネースが、悪魔を見上げる。
悪魔は、テネースを無言で見下ろした。今まで深い嘆きで涙に濡れていた顔には、迷い子が親を見つけた時のような、安堵の笑みが浮かんでいた。笑うと、本当にアリスにそっくりだった。
「え……がお? アリス?」
言葉を発するのとほぼ同時、悪魔に触れているテネースの右手が、銀色の光を放ち始めた。
まばゆい光を周囲の銀が増幅し、あっという間に辺り一面を光に染め上げる。
テネースの視界が塗りつぶされる直前まで、悪魔は微笑んでいた。
「がっ!?」
駆け抜けた衝撃に、テネースの身体が跳ねた。
自分のものではないたくさんの記憶と後悔が、テネースの身体の中で暴れ回っている。
その多くは、日常の中の些細な失敗と、それに伴う後悔だった。だが、その数が尋常ではない。喧嘩に負けた、売り上げの計算が合わない、夫婦喧嘩をした。そんな、日常の一場面一場面が、テネースの中で荒れ狂っていた。
それはあまりにも辛く、物理的な痛みすら感じさせる。
これ以上の記憶の流入と悪魔の吸収を拒むテネースの意思に反して、右手は着実に悪魔を吸い、おそらくは悪魔がため込んでいたのだろう記憶と後悔をも取り込んでいく。
ひとつひとつの記憶やそこに込められた感情などとても識別していられない。圧倒的な奔流が、テネースの記憶を吹き飛ばそうとでもいうかのように暴れ回る。
『テネース、お願い。耐えて。あなたなら、きっと大丈夫だから』
身体を内側から引き裂かれるような痛みに、意識を保つのを放棄しようとしていたテネースだったが、微かに聞こえたアリスの声で幾分自分を取り戻した。
(耐えないと。僕が耐えきらないとマリーカたちを助けられない。それに、まだアビュドスに行ってない)
記憶と感情の流入は、いつ果てるともなく続いている。テネースは歯を噛み締め、苦痛に耐える。
「マリーカ?」
たくさんの記憶の中に、テネースは見知った少女のものを見つけそれに注意を向けた。記憶の主の姿は見えない。だが、聞こえてくる声は間違いなくマリーカのものだ。
「ギュアースも少しおかしなところがあるが、マリーカは少しどころじゃないぞ」
机の上のランプだけが光源の薄暗い部屋の中、どこか疲れた表情の男が呟いた。
「今まであんなことを訊いたことはなかったのに、急にどうしたのかしら」
男の向かい側に座っていた女が、机の上で組んだ手を見つめる。
(違う、違うの。お父さん、お母さん、あたしはあの質問がおかしいものだなんて思ってなかったら、つい訊いちゃっただけなの!)
少しだけ開いた扉の隙間から両親のやりとりを覗きながら、マリーカが心の中で絶叫する。
「本当はおまえが疑問に思ってて、それを聞かされたあいつが質問したんじゃないのか」
「違うわよ! 生まれてからずっと信じてきた神様のことをどうして今さら疑問に思う必要があるの!? 感謝の祈りを捧げることに疑問を感じたことはないし、教会に通うことを不思議だと思ったこともないわよ!!」
机を力いっぱい叩いた女が、正面の男を睨みつける。気が昂ぶっているのか、肩が大きく上下している。
(やだ、やだ。喧嘩しないで。あたしが悪かったの。だから喧嘩しないで)
ぽろぽろと涙を流しながら、しかしマリーカは声に出すことができずただ震えて見ていた。あんな剣幕の母親など見たこともなかった。
「じゃあ、なんでマリーカはあんな質問をしたんだ。もう七歳だぞ」
女の剣幕に押されたように男の声が小さくなる。それでも、話を終えるつもりはないらしい。
「そんなの、私の方が知りたいわよ……まさか、異端者なんてことはないわよね」
まるで聞き耳を立てている誰かがいるように声を潜める母親を見て、マリーカは肩をすくませた。異端者が具体的にどういうものを指すのかはわからなかったが、母親の言葉に込められた嫌悪感はしっかりと感じ取っていた。
「まさか、そんな。ない、だろう」
「そう思いたいけど、でも、それならどうして神様を疑うような質問をしたのよ」
男と女が、暗い視線を交わし合う。
あまりにも普段と違う両親の顔に、マリーカが息をのんだ。その拍子に肩が扉にぶつかり、軋みながら開いた。
「ま、マリーカ!?」
「ち、違うのよ、別にあなたのことを話してたわけじゃなくて」
ひどく慌てる両親の顔が悲しく、そして両親にそんな顔をさせてしまった自分のことが許せなくて、マリーカは声を上げて泣き出した。
「はっ、はっ、はっ……」
マリーカの記憶はもう流れ去ってしまった。それなのに、テネースの胸はまだ激しい痛みを訴えている。
たった一人の記憶なのに、大量の記憶が流入する痛みよりも遥かに鋭く、強い痛みだ。
マリーカから聞かされたことがあるわけではない、正真正銘初めて知った彼女の過去のひと欠片。けれど、それはテネースの記憶によく似ていた。
異端者。
両親からその言葉を向けられた時の心の痛みは、他人事ではなかった。
元々疎まれていたテネースは、両親から異端者と罵られた時には肉親に対する親愛の情をほとんど抱いていなかった。それでも、大きな傷となったし、今でも完治しているかどうか自信がない。
短い記憶から察せられた限りでは、両親のやりとりを見てしまった時のマリーカは父親も母親も信頼していた。幼いマリーカが負った心の傷はどれほどのものか。
「絶対に、助ける」
うめくように呟いたテネースは、悪魔に触れている右手に力を込めた。まぶた越しに感じる光の強さが増し、流れ込んでくる記憶の川は、ますます急流となった。
(マリーカの、マリーカに負けないくらいの強さが欲しい)
テネースの右手から放たれる光がますます強くなる。
『頑張って。あと、少しだから』
アリスのどこか悲しみを感じさせる励ましの声に、新たな活力が湧いてくる。
輝きを増した光が、爆発した。
今まですさまじい勢いで流れ込んできていた後悔を伴う記憶が、一瞬でテネースの中から飛び出していく。
光の爆発はごく短時間で終わった。再び薄暗くなった森の中には、テネースとアリスの姿しかなかった。
「終わった……の?」
がくりと膝をついたテネースが、ぼんやりと呟く。
心の痛みから解放されてよかったはずなのに、なぜかぽっかりと穴が空いたような喪失感がすさまじい。
『お疲れ様、テネース』
慈しみに満ちたアリスの声が、テネースの心に空いた穴を埋めていく。
「ごめん、ちょっと起きてられないかも」
疲れ切った、しかし満足感に満ちた笑みをアリスに向け、テネースはひっくり返った。
『本当にお疲れ様』
一瞬目を丸くしたアリスだったが、すぐに優しげに微笑んだ。




