1 森へと続く道
実際に足を運べば、白銀の森とエウロポスがいかに近いかよくわかる。
伝説の森にまつわる言い伝えは大なり小なり森の危険を訴えている。だというのに、エウロポスはその森から一刻程度の距離にあった。
そして、「白銀の」などと形容される森は、太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。日差しが強いせいもあり、反射光はひどく目に刺さる。
「うー、目が痛い。中に入ればこんなに眩しくはないのかな」
恨めしげに銀製の木々を見つめながら、テネースが呟く。
アリスは心ここにあらずといった調子で『たぶんね』と答えたが、後の二人は口を閉ざしたままだ。
振り返ったテネースは、不安そうに眉根を寄せながらクヴェルタ兄妹の様子を窺った。
砂色の髪の兄妹は、兄も妹も若干焦点の合っていない眼差しを森の方に向けている。が、何かを見ているという様子はない。たまたま森の方を向いているように見える。
「マリーカ? ギュアースさん?」
アリスを別にすれば、クヴェルタ兄妹はテネースにとって唯一の味方であり、拠り所だった。その二人の様子が朝からおかしいという事実は、テネースを恐慌寸前まで追い込んでいた。起きた時はまだましだったマリーカも、白銀の森に近づくにつれどんどん兄と同じようになっていった。なんとか踏みとどまっていられるのは、アリスがいつもと変わらず側にいてくれるし、
「ん? ああ、そうだな。中がもっと眩しかったら目が焼かれちまうな」
「木が密生してるし、たぶん大丈夫でしょ」
ギュアースもマリーカも一度では反応を示してくれなくても、何度か話しかければ常と変わらぬ態度を見せてくれるからだった。
だが、その事実は安心させてくれるとともに、一つの疑問をテネースに抱かせる。
「ねえ、アリス。マリーカたち、話しに聞いてたエウロポスの人たちと同じような状態になってる気がするんだけど」
『そうね。まず間違いなくこれから倒そうとしてる悪魔の仕業でしょうね』
「それじゃあ、僕が悪魔を倒せば二人も元に戻るんだよね」
真剣な表情のテネースに、アリスは黙って頷く。
テネースは胸に手を当て、安堵の息を吐き出した。
「よかった。ねえ、アリス。二人にはここで待っててもらった方がいいかな?」
根気よく話しかけなければ会話が成立しないギュアースとマリーカだが、テネースが何も言わなくても後をついてきた。だから、先に進んでもはぐれることはないだろう。問題は、こんな状態の二人を、悪魔が待ち受けている上に様々な伝説を持つ森に踏み入れさせていいものか、判断がつかないことだった。
『難しいところね。二人の状態を考えれば待っててもらった方がいいと思うけど、後になってテネースのことを追ってくるかもしれないし、ふらりとどこかに行ってしまうかもしれないし。とりあえず、どうしたいのか当人たちに訊いてみたら?』
期待したような明確な答えはもらえなかったが、テネースはアリスの提案に従ってクヴェルタ兄妹と改めて向き合った。
ついさっきテネースの言葉に答えた二人だったが、今は再びぼうっとした眼差しで森を見ている。
「ギュアースさん、マリーカ。僕はこれから悪魔を倒しに白銀の森に入っていくけど、二人はどうします?」
いつもなら、ギュアースは答える前に森に入っていこうとしただろうし、マリーカも笑顔で「一緒に行くに決まってるじゃない」と答えたことだろう。
けれど、今は二人ともテネースを見ようともしない。
もっとも、それくらいはテネースも予想していたし覚悟していた。そのはずなのに、胸の奥が痛んだ。悪魔のせいで仕方がないと頭で理解していようとも、この二人に無視をされるのは辛い。朝起きてから今までに積み重なってきたものもある。
「ギュアースさん、マリーカ――」
テネースは心の奥底から浮かんでくる辛さや絶望を振り払うように、無理矢理笑みを作って二人にもう一度訊ねた。
それでも、結果は変わらない。ギュアースもマリーカも反応を示さない。
だが、テネースは笑顔を崩さず、根気よく話しかけ続ける。諦めずに話しかけていればいずれ反応してくれる。今までそうだったのだから、今回も大丈夫だ。そう信じて。
「――二人はどうする?」
十度目の問いかけを終え、テネースは口を閉じて反応を待つ。待つ。待つ。
「やっぱり、駄目か」
もう、テネースの顔に笑みは浮かんでいなかった。その顔にさらに影が差す。
アリスの意見をもう一度訊こうか。そう思って視線を動かしたテネースは、視界の隅でマリーカが顔を動かしたのを確かに見た。
大慌てで、マリーカに顔を向け直す。
マリーカは、ちょっと呆れたような、傷ついたような表情でテネースを見返した。
「今さら確認しないでも、ついてくのなんてわかってるでしょ。あたしも、お兄ちゃんも一緒に行くわよ。なんにもできないけど、ね」
「うん、うん。ありがとう、マリーカ」
鼻の奥につんと痛みを感じたテネースは、泣くな、泣くな、と強く念じながら、マリーカに笑いかけた。
テネースの笑みに花のような笑顔で答えたマリーカの顔から、表情が抜け落ちる。虚ろになった視線が、テネースから離れていく。
一瞬悲しそうに顔を歪めたテネースだったが、ひとつの決意がすぐに表情を引き締めた。
「行こう、アリス。早く悪魔を倒すんだ」
マリーカからアリスへ。アリスから白銀の森へと視線を転じるテネース。
『……ええ、そうね。行きましょう』
アリスは誇らしげでありながら悩むような顔でテネースをしばらく見つめた後、ゆっくりと呟いた。
***
白銀の森は、人の手が入っていないが故に木々が密生していた。空などまったく見えない。もし普通の森で同じだけの木々が生えていたら、たとえ昼間でも真っ暗で、明かりなしでは何も見えなかっただろう。
けれど、白銀の森に生えている木は、木の葉一枚に至るまですべて銀でできている。風雨に晒され、くすみ輝きを失っている部分も少なくないが、空に輝く陽の光を、反射させ地面へと送り届けていた。そのせいか著しく繁茂している下生え――もちろん銀製だ――に陽光が反射し、テネースの目を射貫く。
ぎりぎり見えるかどうかというところまでまぶたを閉じているのだが、それでもテネースの目には涙が浮かび、眩しさと目の奥が痛む感覚には辟易とさせられる。
白銀の森に入ってからかなりの時間が経っている。頭上を振り仰いでもきらきらと輝く銀色の枝と葉に邪魔をされて太陽を見ることはできない。だから、太陽が今どの辺りにあるかもわからない。
「ねえ、二人ともついてきてるよね?」
テネースは、前に進むので手一杯でとても後ろを振り返る余裕はない。だから、時々アリスに確認をしている。自分のものではない足音がしているのだからついてきているのは間違いないが、それでも確認をしたくなる。
『ええ、大丈夫。テネースと同じようにまぶたをぷるぷる震わせながらついてきてるわよ』
アリスはテネースに訊かれる度に、嫌な顔ひとつせずに答えている。
テネースたちの目を焼いている陽光だが、アリスには特に苦痛ではないらしく、テネースの目の代わりになっていた。悪魔の気配をたどりテネースをそちらへと誘導しつつ、踏み越えられないような障害物があれば迂回するよう指示を出す。そしてテネースが望んだ時にはギュアースたちの様子を伝えている。
「よかった」ほっとしたように息を吐いたテネースが、きょろきょろと辺りを見回す「本当にこの森、銀でできてるんだよね」
『そうよ。だからって、ちょっと持って帰ろうとか思っちゃ駄目よ』
確認するテネースに、アリスはたしなめるというよりもからかうような口調で答えた。
「大丈夫だよ。マリーカがしてくれた話は覚えてるから。ただ、草とかを踏んでると思うんだけど折っちゃった感触はないし、それに辺り一面金属に囲まれてるのに全然臭くないから、実感なくて」
大きな障害物はアリスの指示で迂回しているとはいえ、背の低い下生えなどはそのまま踏んで歩いている。だというのに、細い草を踏んで折った感触はまったくなかった。それに、テネースはあまり好きになれない金属特有の苦みを帯びた臭気を一度も嗅いでいない。テネースが疑問に思うのも無理はなかった。
『うーん、においは確かに不思議だけど、今まで何事もなく歩いて来れたのはテネースが軽いからじゃないかしら』
「ギュアースさんもいるのに?」
テネースのまったく悪気のないつっこみに、アリスが言葉に詰まる。
ギュアースはテネースよりも頭三個分くらい背が高く、胸板の厚さは倍以上ある。当然それに伴って体重は重い。しかもその背にはテネースは満足に持ち上げることもできない大剣がある。とても軽いとは言い難い。それでも、ギュアースも森をまったく傷つけていないのだ。
『森が、わたしたちを歓迎してくれてるのかもしれないわね』
「森が歓迎?」
予想外の言葉にテネースが首をかしげる。確かに尋常ではない森だが、まさか意志を持っているはずもないだろう。それなのに歓迎とはどういうことか。
『マリーカが言っていたでしょ。この森の成り立ちは神様の天罰だ、って。森に神様の意思が残っていて、これから悪魔を退治しようとしているわたしたちを祝福してくれてるんじゃないかしら』
神様の祝福などと言われても、テネースにはピンと来ない。元々神の加護を感じたことなどないし、何よりもその神を信奉する集団から異端者として追われているのだ。これで素直に神に感謝をできるとしたら、それは心が広いのではなく馬鹿なだけだろう。
しかし、テネースはアリスに向かって微笑んだ。
「だとしたら、心強いね」
テネース自身は神の祝福など感じてはいない。けれど、アリスがそう言うからにはきっとそうなのだろう、とは思える。テネースをからかうためにアリスが小さな嘘をつくことはごくまれにあるが、こういうことで嘘をついたことは今まで一度もない。そして何より、テネースにアリスを疑うという思考回路が存在しない。
信じるにせよ、もう少し自分を持ちなさいよ、とマリーカには何度となく言われている。そう言われる理由も理解できるのだが、母として、姉として、友としてずっと側にいてくれたアリスを、今さらわずかなりとも疑うなど、無理な話だった。
『あのね、テネース……』
「どうしたの?」
呼びかけておきながら口を閉ざしたアリスは、いつになく深刻な声音をしていた。
テネースは眩しいのをこらえ目を開けた。捜すまでもなく、アリスは目の前に浮かんでいる。
じわじわと滲み出る涙のせいでぼやけていて、表情の細かいところまでは見えない。それでも、アリスが真面目な顔で悩んでいるのはわかった。
「何か重要な話? 実は悪魔は森にいなかったとか」
沈黙に耐えられず、さらに言葉をかけるテネース。しかしアリスはなかなか口を開こうとしない。
さすがにアリスの導きなしにこの森を進む気にはなれず、テネースは足を止めた。後ろを歩いていたギュアースたちも立ち止まる。
『本当は、本当はもっと前に言うべきだったと思うんだけど、その――』
なおしばらく黙って懊悩していたアリスが口を開いたのは、沈黙に耐えきれず足踏みをしたり手を振ったり、辺りを見回したりしていたテネースがうつむき身動きをしなくなるくらいの時間が経過してからだった。
しかも、ようやく話し始めたかと思えばまた言いよどむ。
だが、今度の沈黙はそう長くなかった。決意を込めて一度頷くと、アリスは三度口を開いた。
『! テネース、ギュアースたちにここから動かないように言って』
だが、口をついて出てきた言葉は、明らかに言おうとしていた言葉とは異なっていた。
これから進もうとしていた先から、目には見えない力の波動が襲ってきた。それは、並みの風ではぴくりとも動かない木々の枝を揺らし、銀の葉がぶつかり合うシャラシャラという音を立てて通り過ぎていった。
「ギュアースさん、マリーカ、僕が戻ってくるまでここから動かない――で?」
アリスに言われた通り後ろの二人に声をかけたテネースの目が、驚きにまん丸になる。雲が太陽を隠したのか、目を焼くような強烈な輝きはもうなかった。
マリーカが、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。それは、テネースが初めて見るマリーカの涙だった。
「いや、いや、盗らないで。楽しい記憶じゃないけど、それはあたしのなの!」
絶叫するマリーカの傍らでは、ギュアースも顔を歪めていた。泣いてこそいないが、必死に何かに抵抗している。
「ま、マリーカ、どうしたの!? ギュアースさんも。アリス、二人の様子がおかしいよ!」
アリスがテネースに答えるより早く、通り過ぎたはずの力が戻ってきた。そして、あっという間に森の奥へと消えていく。
葉の鳴る澄んだ音が止むと、森から音が消えた。元々生物の気配はなく、音を立てていたのはテネースたちだけだった。だから、突発的な木々のざわめきが静まれば、音は消える。
(マリーカ、マリーカは!?)
さっきまで泣き叫んでいたマリーカの声はもう聞こえない。
テネースは、焦りも露わにマリーカを見て、絶句した。
マリーカは涙を流していなかった。何かに抵抗するような声も出していなかった。表情が完全に抜け落ちていた。
その横のギュアースの顔からも、表情が消えている。普段はそれほど似ているようには見えない二人だが、不気味なくらいよく似ていた。
「な……に? どう、なってるの? ねえ、マリーカ、ギュアースさん!」
ぐらりとよろめいたテネースだったが、かろうじて踏みとどまった。そして、マリーカとギュアースの腕を掴み、激しく揺さぶる。
名前を呼び続けるが、二人はちらともテネースのことを見ない。ここまで歩いてくる時のマリーカたちが感情豊かだったと錯覚してしまいそうなほど、完璧な無表情で虚空を見つめている。
「マリーカ、ギュアースさん! お願いだから返事をしてよ!!」
テネースの絶叫が、静かな銀の森に響き渡る。
だが、誰からも、どこからも反応はない。
こぼれ落ちそうな涙を、テネースは上を向き、唇を噛み締めて耐えた。
激情が引いていくのを待って、アリスを見る。
「アリス!」
『テネース』
名を呼んだのはほぼ同時。
決意に満ちた顔で視線を交わし、テネースは森の奥へと駆け出した。
アリスもその背を追って空を駆けた。




