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3 交易の町

「なんか、不気味な町」


 エウロポスの中央を貫く大通りを歩きながら、マリーカがぽつりと漏らした。周囲を見回しては肩をすくめている。


「うん、人が少ないしちょっと怖いね」


 目の動きだけでちらちらと様子を窺いながら、テネースが頷く。


 悪魔との戦いで意識を失ったテネースが目を覚ました翌日から四日ほど旅をして、一行はエウロポスと呼ばれている町にたどり着いた。

 決して大きな町ではないが、白銀の森を迂回する交易路の途中に位置しており、本来なら活気に満ちているはずだった。

 けれど、昼を過ぎたばかりだというのに威勢のいい商人の声はどこからも聞こえてこない。それどころか、大通りを歩いてもほとんど住人見かけないし、道の両脇の家々は木窓をしっかりと閉じている。


「住人の雰囲気も変だな」


 すれ違った若い女を目で追いながら、ギュアースが顎を撫でる。

 女は、かなり露骨なギュアースの視線を気にすることなく、ゆっくりと歩き去っていった。


「……今まで旅をしてきて、こんな状態の町は見たことねえぞ」


 なぜか自信を失ったような顔つきのギュアース。


「お兄ちゃんが女の人に相手にされないのはいつものことでしょ」


 兄に辛辣な言葉をぶつけるマリーカだったが、その声にいつもの覇気はない。


「ねえ、アリス。ひょっとして悪魔の仕業なの? ……アリス?」


 テネースに悪魔の存在を知らせるのは、いつもアリスだった。もちろん、悪魔を見ればテネースもその存在に気付く。だが、それは直接目にした場合の話で、アリスのようにある程度離れた場所からでも悪魔に気付くことはできない。

 もしエウロポスの状況が悪魔のせいだとすれば、アリスはその存在を感じ取っているのではないか。そう思ってテネースはアリスに声をかけたのだが、返事はなかった。それどころか、ついさっきまで右肩に座っていたはずの姿が見えない。


「アリス?」


 立ち止まったテネースが、焦燥を浮かべた顔を右に左にとせわしなく動かす。


「アリス!」


 常からは信じられない大きな声。


「アリスがいないの?」


 目を丸くしてテネースを見ていたマリーカも、アリスの姿を求めて視線を巡らせる。


 往来の真ん中で立ち止まり、誰かを捜して叫んでいる二人の子供を見ても、町の人間は足を止めるどころかテネースたちを見ようともしない。数少ない通行人はただ前だけを見ている。


「ちょっと、お兄ちゃんも捜してよ!」


 町の様子を観察していたギュアースは妹を振り返った。


「捜そうにも、俺にはアリスの姿が見えねえんだよ」

「名前を呼ぶのに姿が見えるかどうかは関係ないでしょ」


 気の抜けたギュアースの言葉に、マリーカが眉をつり上げる。


「おまえら二人が呼んでも出てこないし、捜しても見つからねえんだろ。だったら――上は見たか?」

「上?」

「前にアリスは空を飛べるとか言ってなかったか?」


 兄の言葉に、妹は大慌てで空を見上げた。


「あ……」


 ばつが悪そうにギュアースを一瞥したマリーカは、そそくさと兄から離れて、なおもアリスの名前を叫んでいるテネースの隣りに歩いていった。



「アリス! アリス!!」


 声の限りに叫ぶテネースの声は、泣くのをこらえているかのように震えていた。


(なんで!? どこに行っちゃったんだよ!)


 こんなに必死に捜しているのに、名前を呼んでいるのに、アリスは姿を現す気配もない。

 物心がついた時から――否、きっと生まれた時から――一緒だったアリスが、一言もなしに姿を消してしまった。その事実が、テネースには信じられなかった。


 テネースは、異端者として教会に引き渡されるまで、成長するにつれて疎まれていった。はじめは友人の親たちから。次に友人たちから。最後には両親からまでも。

 しかし、アリスはずっとテネースの側にいてくれた。テネースの話を聞き、時に励まし、時に慰め、時に叱ってくれた。


 アリスがいたから、テネースは今まで生きてこれたし、ひどく歪むことなく成長することもできた。

 もちろん、アリスがいたからこそテネースが周囲の人間から怪しまれ、疎まれたという側面はある。それはテネースも理解している。


 けれど、そんな事実よりも何よりも、ずっと一緒にいてくれたという真実の方が、テネースには遥かに大切だった。


 だからこそ、アリスが突然消えてしまったことが、ひどい喪失感と恐怖を呼び起こす。今までこんなことは一度もなかった。


 憤りを塗りつぶす大きな恐怖に膝が砕けそうになりながらも、テネースはアリスの名前を叫び、姿を求めて顔を動かす。


「テネース、上、上を見て」


 大通りを戻るために駆け出そうとしたテネースの腕を、マリーカが掴んだ。


「上?」


 反射的に振り払いそうになったテネースだったが、マリーカの嬉しそうな声に導かれるままに顔を上に向けた。


「あ……アリス!」


 今までの、迷子が母親を求めるかのような心細げな叫びではなかった。テネースの声には、誰の耳にも明らかなほどの喜びがこもっていた。


 ほんの一瞬マリーカが寂しそうな顔をしたが、まっすぐアリスを見上げていたテネースは気付かない。


「アリス!!」


 今までで一番大きなテネースの声に、ようやくアリスが反応する。驚いたような顔で地上のテネースを見た。

 涙を流さんばかりに喜んでいるテネースの姿に、アリスの形のいい唇が弧を描く。


『なんて顔をしてるの。まさかわたしがテネースのことを見捨ててどこかに行っちゃったとか考えてたんじゃないでしょうね』


 呆れたように言いながらも、アリスはとても嬉しそうだった。


「お願いだから何も言わないでいなくならないでよ」


 こぼれ落ちそうなほどの涙を青い瞳にたたえ、テネースが震え声を絞り出す。

 心底安心して、嬉しくて、でもちょっと腹立たしくて、テネースはどんな顔をすればいいのかわからなかった。だから、泣くのを必死にこらえながらただまっすぐアリスを見た。


『うん。ごめんね』


 テネースの顔の高さまで降りてきたアリスは、優しく微笑んでテネースの頬に触れた。


 アリスの手の感触も、体温も感じられなかったが、テネースは心が落ち着いていくのを実感した。すぐ目の前にアリスの顔があるということも心安まる。


「それでアリス、あんな高い所で何やってたの?」


 テネースの質問に、アリスが顔を曇らせる。


『町の中に入ってすぐ、悪魔の力を感じたの。それも今まで感じた中で一番大きな。どの方向から気配がするのか調べようと思って』

「悪魔……やっぱりこの町がおかしいのって……」

『ええ。悪魔の仕業』

「やっぱり悪魔が絡んでるのか」


 いつの間にか隣りにやってきていたギュアースを見上げながら、テネースは口を開いた。


「はい。アリスはそう言ってます」

「で、今までと同じように悪魔を倒すのか?」

『……できれば、このまま町を素通りしてしまった方がいいと思うわ』


 自信がなさそうに迷いを露わにしたアリスの言葉に、テネースが目を丸くする。今まで、悪魔を無視しようとアリスが言ったことは、ただの一度もなかった。


「おい、アリスはなんて言ってるんだ」


 ギュアースに肩を掴まれたテネースは、驚きを顔に張り付けたまま呟いた。


「無視して先に行こう、って」


 テネースの言葉に、ギュアースはまず眉をひそめ、ついで妹と顔を見合わせた。二人とも、テネースに劣らない驚きの表情をしている。


 アリスは無謀でもなければ無茶なことを言う性格でもないが、悪魔に対しては強い執着を示す。それがいつもと正反対のことを言うのだから戸惑うのも当然だった。


「そんなにやばいのか?」

「わかりません」


 答えながら、テネースは顔をギュアースからアリスに向け直す。アリスはまだ眉根を寄せたままだった。


『今まで感じた中で一番大きな気配よ。それに、一番気がかりなのは白銀の森の方から気配を感じたこと』


 そう言って、アリスは町の北、白銀の森が広がっている方角に向き直った。


 テネースはギュアースとマリーカに今聞いた言葉を伝えていくが、ちらちらとアリスの方を心配そうに見つめていた。


「なるほどな。で、テネース、おまえはどうしたいんだ?」


 話を聞き終えたギュアースは、顎をひと撫でしてテネースと視線を合わせた。常になく真剣な色が浮かんでいる。


「え、僕? アリスが先に進もうって言ってるんだから、そのまま――」

「アリスがどう言ってるかは関係ない。おまえがどうしたいかを訊いてるんだ」


 突然の質問にうろたえるテネースに、ギュアースはさらに言葉を重ねる。テネースがたじろぐほど真剣な表情で。


「僕、僕は、その……ええと……」


 ギュアースは怒っているわけではないし、声を荒げてもいない。しかし、テネースは満足に言葉を紡ぐこともできなかった。ギュアースの醸し出す雰囲気にのまれているというよりは、返すべきものが見つからないせいだった。


「俺はアリスがどういう奴なのか、そもそも何を考えておまえに悪魔退治なんてさせてるのかわからねえし、おまえが言われるままに悪魔に立ち向かってる理由も知らない。命がけで悪魔と対峙し続けてるのは、アリスに言われたからだけなのか? おまえ自身の中に、悪魔を倒そうと思う理由みたいのはないのか?」

「僕が悪魔と戦う理由……」


 ギュアースの視線から逃れるようにうつむき、テネースが呟く。

 アリスに悪魔のことを聞かされ、倒す必要があると言われたのは、ギュアースたちに助けられてからだ。


 どうして僕が、という疑問は確かにあった。けれど、アリスのことを疑うつもりなどなかったし、何よりもアリスに失望されたくなくて、言われるがままに悪魔と戦ってきた。

 怖かったし、痛い思いもたくさんした。しかし、悪魔を倒し吸収した後にアリスが誉めてくれるのが嬉しくて、逃げ出したくなる気持ちをねじ伏せられた。


(僕が悪魔と戦う理由。今思ったことを言えばいいのかな? それ以外のことなんて考えたことない……もんね)


 戦う理由はそれでいいとして、ギュアースの最初の質問である、本当にこのまま町を素通りしていいのか、という問いにどう答えていいのかがわからない。


 町の住人の様子がおかしいのは悪魔の仕業らしい。ということは、悪魔を倒さない限りこのままだということだ。そして、アリスは悪魔を倒せるのは世界でただ一人テネースだけだと言ったことがある。

 悪魔に苦しめられていることに気付いていない人々を見捨てることに抵抗がないと言えば嘘になる。けれど、その抵抗はアリスの言葉に逆らおうと思えるほどには強くない。


 しかし、そう口にするのをためらってしまう。

 自分がどうしたいのか。どんなに考えてもわからない。ギュアースになんと答えればいいのか、それもわからない。


『……いいわ。テネース。ちょっと危険かもしれないけど、今までと同じように悪魔を倒しましょう』


 うつむくテネースにわざわざ回り込んでまで正対したアリスが、優しく声をかける。


「で、でも、アリスは今すぐこの町を出た方がいいと思ってるんでしょ?」

『そうね。たぶん今までで一番厄介な悪魔だし、白銀の森に行かないといけないしね。でも、テネースに辛い思いをさせてまで避けなければいけない相手でもないから、大丈夫よ。もっとも、その分テネースには頑張ってもらわないといけないんだけどね』

「アリス……うん、僕、精一杯頑張るよ」


 苦笑と微笑の中間の笑みを浮かべるアリス。テネースはようやく顔を上げた。


「ギュアースさん、僕が悪魔と戦えるのは、アリスがいてくれるからです。アリスが誉めてくれるから、逃げないでいられる。情けないかもしれないけど、それが僕の答えです。今僕がどうしたいのか、それは正直言ってよくわからないんですけど……でも、アリスが悪魔と戦おうって言ってくれました」

「女のために命を賭ける。悪いことじゃねえさ」ギュアースが笑いながらテネースの頭をひと撫でする。「たとえ白銀の森だろうと、おまえが悪魔の所まで行けるように守ってやるから安心しろ」

「ギュアースさん。ありがとうございます」

「テネースは」


 今まで黙っていたマリーカがぽつりと呟いた。


「え?」

「テネースは本当に――ううん、なんでもない。あたしもちゃんと守ってあげるから。だから大丈夫」

「うん。ありがとう。ごめんね。僕のせいでマリーカまで危険な目に遭わせて」

「な、何よ、いきなり。あたしがやりたくてやってるんだから、テネースが気にする必要なんてないのよ」


 頬を赤くしたマリーカはテネースから視線を外して早口に答える。


「そこは照れるところじゃなくて押すところだろ」

「お兄ちゃんは黙ってて!」


 茶化すギュアースにマリーカは剣呑な視線を向ける。


 テネースはどう口を挟んだらいいのかわからなかったので、アリスに話しかけた。


「これからすぐに行くの?」

『一晩寝て旅の疲れを取った方がいいだろうし、その間に白銀の森について少しでも調べましょう』

「アリス、なんだって?」


 まだ怒っている妹を無視して、ギュアースがテネースに訊く。


「あ、はい。一晩休もうって」

「そりゃありがたい。今までで一番危険だってんなら、万全の体調で臨みたいからな」

「お兄ちゃんの年じゃ、一晩寝ても疲れは取れないんじゃないの」

「そうかもしれないな。マリーカが添い寝してくれたら疲れも吹き飛ぶんだけどな」

「なんであたしがそんなことしないといけないのよ!」

「昔はお兄ちゃんお兄ちゃんって俺にべったりだったのに、悲しいなあ」


 盛大なため息をついたギュアースは、悲しそうに首を振って歩き出した。


「いつの話よ! って、どこに行くの?」


 マリーカがギュアースの後を追い、テネースはマリーカの背中を追いかけた。


「宿屋を決めないと町の中で野宿だぞ?」

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