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4 創造神を狩る獣

 壁際まで退避した後、テネースたちはすぐにマリーカたち三人を横にした。


 幸いなことに神とマリーカに外傷はなかった。意識こそ失っているが、呼吸も安定している。


 問題なのは、ギュアースだった。一番出血がひどいのは頭だったが、それ以外にも腕や背中からかなりの血が流れ出している。呼吸も浅く速い。


 服を裂いて包帯代わりに傷に巻いたが、教皇の白い法衣などは即座に真っ赤に染まった。


「それで、あの獣は何なんだ」


 ギュアースから獣に視線を向けたネイオスが、創造神の欠片の触腕を三本まとめて噛みちぎり咀嚼しているのを睨みつけながら訊ねる。


 だが、その問いに答えられる者はいなかった。創造神の欠片だと認識している存在でさえ、絶対にそうだとは言い切れない。となれば、突然空間を裂いて現れたあの獣の正体など、ますますわからない。


「創造神の欠片――というよりも創造神と仲が悪かったんじゃないか、くらいなら想像もできるけど」

「イアイラさん、今、なんて?」


 獣から感じる底知れない恐怖から逃れるようにギュアースの看病に集中していたので、イアイラの言葉の大部分を聞き流してしまった。だが、とても重要なことを言っていたように思う。


「え? ええと、あの狼みたいな化け物は、創造神のことが嫌いなんじゃないかなあ、って」

「それです!」

「わかるように言え」


 一人興奮するテネースに、ネイオスが冷ややかな視線を向ける。


「イアイラさん、アビュドスで見つけた石板を覚えてますか?」

「覚えてるけど……」


 イアイラの言葉に被さるように、獣の苦痛に満ちた吠え声が響き渡った。


 意識のある全員が、腰を浮かせ咆吼の源を見る。


 創造神の欠片から伸びた触腕が、獣の背に生えた腕のうち一本をねじ切っていた。


 よだれをまき散らした獣が、今まで以上のどう猛さで創造神の欠片に躍りかかる。


 だが、獣の腕を投げ捨てた創造神の欠片は、正面から受けて立ち、善戦を繰り広げた。獣の牙を、爪を、背中の腕を、無数の触腕で――時に触腕を犠牲にしながら――いなしている。


「それで、石板がなんなんだ」


 一同の中で真っ先に我に返ったのはネイオスだった。怪物たちから視線を外してテネースを見る。


「え? あ、はい。その石板に、創造神が世界を創り終えて安心しているところを、敵が不意打ちしたと、そう書かれていたんです。あの獣も突然現れたし、たぶん創造神の敵だと思うんです」

「なるほど。確かにあの獣は出現してからずっと創造神の欠片を攻撃し続けていますな」


 教皇がテネースの言葉に同意すると、イアイラも頷いて賛意を示した。しかし、ネイオスはまだ信じ切れていないのか眉根を寄せている。


「あと、僕が感じているあの獣に対するどうしようもない恐怖も、そう思う根拠です」

「恐怖?」


 怪訝そうなネイオスの問いに、テネースは頷いてから続けた。


「初めはあんな大きな獣の姿が怖いんだと思ったんです。でも、いつまでもまったく慣れないし、普段僕が感じる怖さとはどこか違うような気がします」

「それは、あんな異質な化け物を見たからではないのか」

「あの獣が現れてからしばらく、創造神の欠片が動きを止めていたのを覚えていますか?」


 テネースの問いにイアイラとネイオスは首を横に振り、教皇は縦に振った。


「あの時は気にもとめなかったんですけど、たぶん創造神の欠片も恐怖を感じていたんだと思います。僕と創造神の欠片だけが、あの獣にひどい恐怖を感じた。僕と創造神の欠片に共通しているものは、神の力――創造神の力だけです。だから、きっとあの獣は創造神の敵だと思うんです」

「なるほど。確かに私はおまえが感じたと言うほどにはあの獣に恐怖は抱かなかったな」

「私も。うん、あの獣が創造神の敵だという可能性は高いわね」

「しかし、神は二千年以上にわたってこの世界を祝福してくださっていた。それは創造神の力を用いてなされていたはずだが、なぜ今まであの獣は姿を現さなかったのだ?」


 教皇の疑問に、一同の視線は再び怪物どもの戦いに向いた。


 まさに、一進一退の攻防を繰り広げていた。獣が触腕を食いちぎり嚥下すれば、創造神の欠片は触腕で獣の身体に切り傷、ひっかき傷を無数に作っている。一見創造神の欠片の方が被害が大きいようにも見えるが、今のところ千切れた触腕の代わりがすぐに生えてきているので、どの程度獣の攻撃が効果的なのか、人間の目には判然としない。


「創造神の力ではなく、創造神の身体に執着しているのかもしれないですね」

「その割りには、躊躇のない攻撃を繰り返しているな」

「なら、ネイオスはどう思うのよ」

「わからない。ただ、今はそんなことを気にするよりも、この状況をどうするかを考えるべきだろう」


 まったくの正論にイアイラが黙りこくる。


「確かに、ネイオスの言う通りだ。私が余計なことを言ったせいだな。だが、あの戦いを見ていると、我々にできることがあるのか不安になる」


 創造神の欠片も、赤い獣も、どちらも人間とは比較にならない巨体をしている。そんな生き物どもの争いにどのような介入ができるのか。確かに、大きな問題だった。


「あ……」


 獣を見ていたくなくて、テネースが視線を逸らした先には、土煙のせいで霞んではいたが、漆黒の空間への入口があった。獣と創造神の欠片との戦いに気を取られるあまりいつの間にか意識から消えていたが、ずっとああして口を開いていたのだろう。


「あれは……あの獣が出てきた穴、よね?」


 テネースの視線を追ったイアイラが呟くと、ネイオスと教皇も黒い穴を見た。


「あの穴に両方たたき込んだ上で穴を閉じることができれば、すべて解決しそうだな」


 そう口にするネイオスは、真剣な表情で穴を見ている。


「そうだけど、あの大きさを二体、こっちの思い通りに動かすのも、あの何もない所に開いた穴を閉じるのも、どっちも無理だと思うわよ」


 イアイラも、思案顔で穴と怪物たちとを見比べている。


 テネースは無意識に自分の両手を見つめていた。神ほどではないが、今まで集めてきた創造神の力が身体の中に眠っている。


 実感はまるでないし、その力を自由に使うこともできない。だが、使いこなすことができれば、あの化け物どもを穴に向けて動かすことくらいはできるのではないだろうか。


 そこまで考えて、テネースは頭を振った。もしそうして二体の怪物をこの場から追放することができたとして、テネースに残った神の力をどうするかという問題が残る。それに、あの穴を閉じる方法もわからない。


(ネイオスさんの言う通り、あの穴をうまく使えればいいんだけど……無理、だよね)


 頭の中でいろいろ考えていたテネースは、視線を感じて顔を上げた。


 怪物どもを見ていた三人が、テネースのことを見ていた。その表情を見て、テネースは彼らが何を考えているのか悟る。


「無理ですよ。僕は神の力を持ってはいますけど、ただ持ってるだけで使い方なんて知らないんですから」


 力なく首を振るテネース。


 イアイラたちは何も言わず視線を見交わし、顔を怪物と漆黒の穴に向けた。


(僕がなんとかできるならしたいけど、僕なんかに何ができるんだ)


 テネースが唇を噛み顔をうつむける間も、創造神の欠片と獣との争いは続いている。地響きは止むことなく、獣の咆吼も大気を震わせている。


「ん……」


 そんな、非現実的な騒音に混じって、小さな吐息が聞こえた。


「アリス!」


 息を詰まらせながら、テネースが神の横に膝をつく。神のまぶたが断続的にけいれんしていた。

「もうすぐ起きそうね」


 イアイラの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ゆっくりとまぶたが開いていく。


 テネースは、声をかけるどころか指一本動かすことも、呼吸をすることもできずにじっと神の顔を見つめている。


 イアイラとネイオス、そして教皇も固唾をのんで神の覚醒を見守っている。この瞬間だけは、四人の頭の中から怪物どもの戦いのことはきれいさっぱり消え去っていた。


 神のまぶたが完全に開き、青く大きな瞳が姿を現す。焦点の合っていない瞳が小刻みに動き、テネースを捉えて止まった。


「……テネース?」


 小さな声はひどくかすれていたけれど、テネースの聞き慣れたアリスの声に違いなかった。そのことに、テネースは言葉では言い表せないほど大きな安堵を覚えた。全身から力が抜け、止めていた息を大きく吐き出す。


「……うん。そうだよ」

「どうして泣きそうな顔をしているの?」


 横になったまま、不思議そうに神が訊ねる。


「どうしてって、そんな――」


 創造神の欠片に神の力を返してすぐに、神は意識を失った。目が覚めた後、果たしてそれはテネースの知る存在なのか、そもそも目を覚ますのかという不安がテネースを襲った。


 だから、目を覚ましたことに安堵したし、その第一声が自分の名前だったことが、テネースは本当に嬉しかった。


「大丈夫。わたしはここにいるから」


 そう言って、神は右手を持ち上げテネースの頬を撫でた。アリスがよくそうしていたように。


「うん……うん」


 こらえていた涙が、堰を切ってこぼれ落ちる。

 一瞬驚いた顔をした神が、優しく微笑んで尽きない涙をぬぐう。


「感動の再会を邪魔して申し訳ないのですが」まったく申し訳なさそうではない声でネイオスが声をかける「もうあなたは神の力を有していない。そのことに間違いはありませんね」


 視線をネイオスに向けた神は、右手をテネースに添えたまま頷いた。


「では、神として得た知識はどうです? それも忘れてしまいましたか?」

「……いいえ。覚えているわ。あの三百年も、確かにわたしが経験したことだから」


 記憶を探るように目を閉じた神が、ゆっくりと答える。


「では、その知恵を貸していただきたい。我々だけでどうにかできる事態では、もうありませんので」

「この騒音が原因?」


 横になったままの神には、テネースたちが壁になって怪物たちの姿は見えない。しかし、音は人の壁では防げない。


「そうです」

「ネイオスさん、アリスは目が覚めたばっかりなんですよ」

「肉体労働をしてもらおうというわけではない。問題はないだろう」


 確かにその通りで、反論の言葉も思いつかない。だが、なんとなく釈然とせず不満顔をしていると、頬に添えられていた手に軽く叩かれた。


「役に立つようなことを思いつくかはわからないけれど、起こっていることとわかっていることを話して」


 本人がいいと言う以上、テネースが反対する理由はもうなかった。



     ***



 ネイオスが中心になっての説明を聞いている最中、神は身体を起こして獣と、ぽっかりと口を開けた黒い穴を見た。一瞬顔を引きつらせたが何も言わず、説明が終わるまで口を開かなかった。


「……状況はだいたいわかったわ。たぶん、あなたたちの想像通りあれは石板に書かれていた創造神の敵でしょうね。敵そのものなのか、それとも創造神の欠片と同じようにその一部なのかはわからないけど」

「予想を裏付けてもらっておいてあれだけど、そう思う根拠はあるのかしら。創造神とそれにまつわる知識は、アリス――神様と私やテネース君の間にそれほど差はないわよね」

「あの獣を見た途端、テネースが言うほどではなかったけど、尋常じゃない恐怖を感じたわ。もう、神としての力はすべて返したというのに。創造神の力を預かっていた身体と心が反応してるんでしょうね。石板に書かれていた敵とはまったく関係のない、別の敵という可能性もあるけど、確認のしようもないし考えても仕方がないでしょう」

「確かに、その通りです。それで、二体の怪物をあの穴に放り込んでしまうという案をどう思いますか」


 黙っていろと言わんばかりの表情で姉を睨めつけたネイオスが、神を見る。


 ネイオスは口を挟むこともできず黙って見ていた――添えられていた神の手は、今はもうテネースの頬に触れていない。


「たとえギュアースが無傷だったとしても、他に手はないと思うわ。とても人間が敵うような相手ではないでしょうし」

「……でも、僕たちにはあいつらを穴に放り込む方法なんてないよ」


 ようやく言うことが見つかったとばかりに、テネースが身を乗り出す。


 神はそんなテネースを微笑をもって見返した。


「ぼ、僕を見たって答えなんて見つからないよ」

「いいえ。どうやってあの怪物たちを追い払うかの答えは、あなた自身よ、テネース」

「無理だよ! 僕はただ神の力の一部を持ってるだけで、使えないんだ。ギュアースさんみたいに強いわけでもない」

「使えないなんて、誰が決めたの?」


 微笑を苦笑に変え訊ねる神。その表情はアリスそのものだった。


「べ、別に誰かに言われたわけじゃないけど、でも僕はただの人間なんだよ」


 アリスに言われ堕ちたる神――少し前まで悪魔だと信じていた――の力を吸収するようになってからも、それ以前の自分との違いなど感じたことはない。力がついたわけでも、体力が増したわけでもなければ、人にできないことをできるようになったわけでもない。


 だから、ただ力の入れ物に過ぎないと、そう思ってきた。


「神が三百年を生きられるのは、別に神になった瞬間に力にふさわしい身体に作り替えられるからじゃないわ。創造神の欠片から受け継いだ力のおかげ。成長があるいは老化が止まるのよ。身体そのものは人間と何一つ変わらないのよ。だからこそ、神の力を失ったわたしがこうして生きていられる」

「でも、僕はこの二年間で背が伸びたよ。顔だって、二年前よりは大人びたはずだ」

「そうね。だって、あなたはまだ神ではないもの。でもね、わたしを含めた神と人間との違いは、神の力の有無と、それを使いこなせるかどうかということだけなの。神を継ぐまでの神殺しは、神と人間の中間みたいなものね。神の力を持っているし、その力を使う能力も、ある」


 神の言葉にテネースは自らの両手を見つめ、イアイラたちはそんなテネースに視線を向けた。


「とはいえ、神の力を使うことも可能、というだけで本当に使うことはまず無理だと思うけど」

「なんのために長々と話してきたのよ」


 イアイラに睨まれても神の微笑みは揺らがなかった。


「神殺しが神になった瞬間から神の力を使えるのは、吸収した神から力の使い方を教えられるから――ほとんど無意識の伝達だから教えられるっていうのは、ちょっと違うのかしら。ええと、つまりね、力の使い方さえ教えられれば、テネースはすぐにでも神の力を使えるのよ」


 呆気にとられ目を丸くした一同をおもしろそうに眺め回し、神は続きを口にした。


「とはいえ本来の知識の伝達とは違う形になるからそう複雑なことはできないでしょうけど、まあ複雑なことをしてもらう必要もないから、問題はないわ」

「テネースがその力を使って何をすればいいか、もうわかっているんですか?」


 そもそも知恵を貸して欲しいと言い出したネイオスが信じ切れずにいる顔で訊ねると、神はあっさりと頷いた。


「神の力を直接創造神の欠片に返すんじゃなく、あの穴に投げ込んでもらうわ」

「どうやればそんなことができるのか、わからないよ」


 できることならなんとかしたい。けれど、その方法がわからない。もどかしくて仕方がなかった。


「大丈夫よ。元々やろうとしていたことと大した違いはないわ。創造神の欠片に触れて力を返す代わりに、離れた所に打ち出すように念じればいいのよ」


「簡単に言うけど――」

「テネース。心配いらないわ。あなたならできる。ううん。あなただけが、みんなを救うことができるの。それに、もし難しかったとしても、あなたにはこの状況を終わらせる義務がある。でしょう?」


 神が、テネースの顔を両手で挟み、目と目をまっすぐ合わせた。


 優しい眼差しは、しかしはっきり告げていた。


 あなたがやるのよ、と。


 期待が、痛いほど伝わってくる。それは、神からの期待であり、アリスの期待でもあった。


 自信はない。けれど、アリスの期待には応えたい。


 始めた自分が終わらせなければいけないことも理解している。


 カラカラに乾いた喉が痛んだ。


 テネースの頭が、ゆっくりと下を向いていく。だが、その動きは一度も止まらなかった。


「やってみるよ、アリス」


 声に出すことで、完全に肝が据わった。テネースは迷いのない瞳で神――アリスを見た。


「ええ」


 にっこりと心からの笑みが神の顔に浮かぶ。それは、アリスのそれとまったく同じものだった。


「大丈夫。ずっと側にいるから」


 それだけで、テネースの心に自信が湧いてくる。深い安堵が、広がっていく。


「うん、やるよ」


 言って、テネースは立ち上がり、アリスに手を差し伸べた。

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