2 目的地
「で、次の目的地は決まってるのか?」
夜。マリーカが狩ってきたまるまると太った森ネズミを食べ終えたギュアースが、ごろりと横になりながらテネースを見た。
「お兄ちゃん、行儀悪い」
「目的地。ええと、目的地は……」
悪魔を倒すための旅、ということは理解しているテネースだったが、この旅がいつまで続くのか、何を根拠に目的地を定めているのか、最終的な目的はなんなのか、まったく理解していなかった。だから、ギュアースの問いかけに答えられるはずもない。
『そうねえ……』
テネースの右肩に座っているアリスは、頬に右手の人差し指を添えて、小首をかしげた。
「アリス、いじわるしないで教えてよ」
すがるようなテネースの声に、マリーカが不満そうに口を尖らせる。
妹の態度にニヤニヤと口元を歪ませたギュアースは、無言でテネースの返事を待っている。
『別にいじわるしてるわけじゃないんだけど……そうね。もういい頃合いよね。目的地は聖峰アビュドスよ』
「アビュドス? どこ、そこ?」
もったいぶったようにアリスが口にした地名に、テネースが首をかしげる。
「アビュドスって正気かよ!?」
「アリスがそう言ったの?」
だが、クヴェルタ兄妹の反応は劇的だった。ギュアースは勢いよく起き上がると思い切り顔をしかめているし、マリーカも真剣な表情でテネースを見つめている。
「そうだけど、なんで二人ともそんなに驚いてるの?」
真剣に問うテネースに返ってきたのは、三つのため息だった。
「あのさ、テネースは教会から異端者として追われてるよね?」
「うん」
「聖峰アビュドスってね、神様の住まう地って言われてて、聖地として崇拝の対象にすらなってるくらいなの。一般人は立ち入ってはならないって言われてるし、教会の人間だってよっぽどのことがない限り近づかない。そんな場所なの」
マリーカの説明が進むにつれ、テネースの顔が引きつっていく。ひどくぎこちない動きで自分の右肩に顔を向けた。
「ぼ、僕の旅って悪魔を倒すためなんでしょ? なんで神様の家に行く必要があるのさ」
『今まで頑張ってきたから、そろそろ神様からご褒美がもらえると思うのよ。欲しいでしょ、ご褒美?』
「い、いらないよ。だいたい、僕異端者なんだよ? それなのに神様の住んでる所に行くなんて――」
『テネース! 異端者なんてあなたのご両親と教会が勝手に言ってるだけでしょう。教会でもどうしようもない悪魔を倒して人々を救ってるんだから、異端者どころか聖者って言われたっておかしくないのよ』
卑下するテネースを、アリスは強い口調で遮った。テネースの肩から顔のすぐ前に移動すると、柔らかく微笑みそっとテネースの頬に触れる。
「もう何度も言ったけどな、異端云々なんて気にするな。ちょっとばかり普通の生活が難しくなるだけで、おまえが人間じゃなくなるわけじゃねえんだから」
たき火越しに腕を伸ばしたギュアースは、豪快に笑いながらテネースの身体がぐらぐら揺れるほどの力で頭を撫で回した。
ギュアース自身は故郷を出てからずっと旅に暮らしていて、教会に正体を知られていないために異端者の指定を受けてはいないが、小さいながらも集団ができるほどの異端者を救ってきた。そんな男が口にした言葉は、素直にテネースの心に響く。
「は、はいいぃぃ」
されるがままのテネースが、嬉しそうに笑う。
「お兄ちゃん、テネースが迷惑がってるでしょ」
「いや、どう見ても嫌がってないだろ」
「嫌がってるでしょ!」
手を止めようとしないギュアースをマリーカが睨みつける。と、ギュアースが口角をつり上げた。
「ははあん。おまえ、替わって欲しいんだろ」
「ち、違うわよ!? テネースはお兄ちゃんと違って繊細なんだから、そんな風に乱暴しちゃ駄目だって言ってるだけよ!」
マリーカの声が思い切り跳ね上がる。
「可愛い妹のためだ譲ってやろう。さあ、好きなだけ撫でてやれ」
「撫でないってば!!」
『いつも通り騒がしいわね』
再びテネースの肩に腰を下ろしたアリスがため息をつく。だが、その顔には楽しそうな微笑が浮かんでいる。
「うん。でも、二人のおかげでとっても助かってる」
『そうね。いくらわたしがついてるって言っても、テネース一人じゃのたれ死んでるでしょうからね』
「そ、そんなことはないと思うんだけど……」
一応反論をしてみるものの、思い浮かんでくるのは飢え死にしかけていたり、異端審問官に捕まって聖都へと連行されたりしている自分の姿ばかりだった。
「さて、馬鹿話も楽しいが、明日からに備えて大ざっぱにでもアビュドスまでどうやっていくか確認しとくか」
まだ興奮しているマリーカを片手で制しながら、ギュアースは空いた右手で背負い袋から一枚の丸まった羊皮紙を取り出した。
器用に片手で広げると、羊皮紙を覗き込む。テネースとマリーカもギュアースに倣う。
羊皮紙に描かれているのは、大陸の地図だった。お世辞にも巧いとはいえない地図だが、これはギュアースが八年以上にわたる旅の間描き続けてきた地図だ。大陸――に見えなくもない図形――の中央には聖都カンタノスの名前がある。その上、アマストリス神聖王国と殴り書きされた文字のさらに上に、聖峰アビュドスと記されている。
「ギュアースさん、アビュドスに行ったことがあるんですね」
だからこそアビュドスの名前を聞いた時にあれほど驚いたのだろう。そう一人勝手に納得するテネース。
「いや、ないぞ。あくまでもこれは聞いた話を元にこの辺だろうと描いただけだ」
あっけらかんと、ギュアースは首を横に振る。
「え、だって前この地図は全部歩いて描いたって言ってませんでした?」
「ああ、おおむね」
「おおむね?」
「大陸は広い。そう簡単に全土を歩き尽くすことなんてできないんだぞ?」
『本当にこの地図に頼って大丈夫なの?』
アリスが眉をひそめたが、テネースは返事をしなかった。今まで大丈夫だったのだから、これからも大丈夫のはずだ。たぶん。
「ちなみに、今いるのはこの辺だな」
ギュアースが太い指でアマストリス神聖王国の一点を指した。白銀の森と書かれた場所と王国と同名の国都アマストリスのちょうど中間辺りだ。地図を信用するのならば、この森を抜けるのが聖峰へと至る一番の近道に見える。
「この白銀の森って言うのを通り抜けるのが一番近いですよね」
だから、テネースは素直にそう口にした。
「あー、まあ、そうだな」
だというのに、ギュアースの歯切れは悪い。
「何か危険でもあるんですか?」
「わからん」
「わからない?」
きっぱりと即答するギュアースに、テネースが首をかしげる。いいことだろうが悪いことだろうが明確にすることが多いギュアースだけに、非常に珍しい態度だ。
『白銀の森ってね、言葉通り生えてる木々や草花が銀でできてるの。しかも理由がまったくわかってなくて。ずっと昔に神の意志に反して堕落した都市があって、そこに下された罰が未だに残っている、なんていう伝説もあるわね。しかもその伝説には、森に足を踏み入れる者があれば、やがてその者も銀の塊になるだろう、なんていう警告までついてるのよ』
「……初めて聞いたよ」
アリスの説明を聞いたテネースが顔を青くする。
「ほんと便利だな、アリスは」
言葉は聞こえないし姿も見えないギュアースだが、テネースの反応でおおよそのことは察したらしい。呆れたように笑っている。
「さすがに、伝説が本当かどうか身をもって試したいとは思わないわよね」
地図から目をそらすことなくマリーカが言う。
「ちょっと興味はあるがまあ、おまえらがいる以上そうもいかないな。で、だ。白銀の森は迂回するにせよ、その手前までは行こうと思うんだ。このエウロポスっていう町で、休憩がてら先に進むための情報を集める。どうだ?」
白銀の森の手前に書かれたエウロポスという名前を指さしながら、ギュアースがテネースとマリーカを見る。
「問題ないと思います」
「近くに他の町もないみたいだし、いいんじゃない?」
「よし。じゃあ、方針も決まったことだし、寝るか。テネースには明日までに体調を万全にしておいてもらわないといけないからな」
言って、ギュアースは地図をしまってそのまま横になった。
「お兄ちゃん、毛布かけないと風邪ひくわよ」
もうすぐ夏とはいえ、夜は思いの外冷える。マリーカは呆れたようにため息をつき、兄に毛布を投げた。
「俺が風邪なんかひくわけないだろ」
そう言いながらも、ギュアースは投げ渡された毛布にくるまった。そして、あっという間に寝息を立て始める。
「もう。あたしたちも寝よっか」
そんな兄を睨んでいたマリーカが、テネースに向き直った。
「うん。おやすみ、マリーカ、アリス」
自分の毛布にすっぽりくるまって、テネースが言う。
「おやすみ」
残っていた薪を火にくべたマリーカも毛布に潜り込んだ。
ごくごく少数の例外を除き、大陸の住人はきわめて熱心に神を崇めている。そして、教会の教えにも従順に従っている。そのおかげで、よほど辺鄙な所に行かない限り野盗などに怯えることなく旅人が野宿をできる。大陸の中央に近い地域では、人を襲うような猛獣もほとんどいない。
『おやすみなさい。よい夢を』
一人横になっていないアリスが、テネースの髪を撫でながら囁いた。
テネースの髪は、そよとも動かなかった。
***
「本当にこれが連中の野営の跡なのか?」
夏を間近に控えかなり強烈な日差しが降り注ぐ中、燃えるような赤髪を短く刈り上げた男が、しゃがみこんでいる女を見下ろし訊ねた。
男女ともゆったりした黒のローブを身につけている。照りつける日差しはかなり強烈だ。だというのに、二人とも汗ひとつかいていない。
「さっき見た破壊跡だけで疑う余地はないでしょ」
たき火の跡をじっと見ていた女が立ち上がる。男と同じ真っ赤な髪は、しかし男よりは長く軽く肩にかかっている。からかうような微笑を浮かべた顔は、男によく似ていた。灰色の瞳を持つ目の鋭さは特によく似ている。
「だいたい、私がテネース君のことで間違えるはずがないでしょう」
やれやれとばかりに女が肩をすくめた途端、男の眉が跳ね上がった。
「では、姉さんは異端者どもがどこに行ったかもわかるわけだな」
「わかるわけないでしょう?」
女はできの悪い生徒を見つめる教師のような目つきで男を見た。ほとんど身長に差がない二人の視線がまっすぐぶつかる。
「あの異端者のことならなんでもわかるのだろう?」
男は頬をひくつかせながらも声を荒げることはなかった。
「あの子自身の事柄に関しては間違えないと言っただけで、あの子が今何をしてるだとか、どこにいるかなんてわかるわけないでしょ。私はただの人間よ?」
「姉さんがそんなだから、いつまでも子供一人捕まえられないのだと理解してるのか」
「あのねえ、私は真面目よ? いつまでもあんな男とテネース君を一緒にいさせたくないもの。早く保護して、しっかりと再教育して聖都だって大手を振って歩ける信徒にする。ちゃんとそう考えてるんだから」
女は、不満げに眉をひそめただけだった。口にする言葉もどこまで本気なのか判然としない。
「あの異端者本人を目の前にしても、そうやって冷静でいてくれるといいんだけどな」
小さく咳払いをした男は、女に背を向けた。
「私は自分が異端審問官だという事実を忘れたことなんてないわよ」
「どの口がそんなことを……姉さん、最初にテネースを逃がしてから、私たちが何回彼を捕らえたか覚えているか」
再び女に向き直った男が、額を押さえながら震えた声を出す。
「三回……いや、四回だったっけ」
「六回だ。それも、全部同じ理由だ。姉さんが必要以上にテネースにくっついて、弓使いの少女を本気で怒らせて山のような矢を射かけられ、ほうほうの体で逃げ出す。その繰り返しだ。大剣の男一人でも厄介なのに、余計な敵を増やしたせいで、今ではあの少女は私たちの顔を見ただけで弓を向けてくるようになってしまった」
男は、頭痛をこらえるように顔をしかめ、奥歯を噛み締めていた。
「テネース君があの子の毒牙にかかる前に保護しないといけないわね」
「そういう話をしてるんじゃない!」
「そんなに大きな声出さなくてもわかってるわよ。ただの冗談でしょ」
女はそう言って笑ったが、男はその言葉が冗談などではなく本気だったことを理解している。
「大剣使いは人相書きが出回ってから五年以上経つのにまだ捕まっていない手練れだ。あの少女だって年の割に弓の腕前は目を見張るものがある。しかも、いくら似てないとは言え人相書きかであるのに正体すらわかっていない。どう考えてもただ者じゃない。そんな相手を敵に回したのは姉さんのせいだ。姉さんがいるから、テネース捕獲の難易度が跳ね上がっているんだ」
「あの女の子がもっと年を取ってるか、さもなければ可愛くなければ何も問題はないのに」
本当に悔しそうに、女が呟く。
男は、そんな女の言葉に深々と息を吐いて、見る者が心配になるほど大きく肩を落とした。
「どうして、どうして上は姉さんを異端審問官にしたんだ」
小さな独り言は、過去数え切れないほど男が繰り返してきた問いかけだった。けれど、どれほど繰り返しても答えを得られたことはない。
「さあ、いつまでもここにいても仕方ないわ。一日も早くテネース君を保護するために、彼を追いかけるわよ」
そう言い放った女は、返事も待たずに歩き出す。
「行き先もわからないんだろう」
苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、男は女の後を追う。
「わからないから、とりあえずこの辺で一番近い町に向かって情報を集めましょう」
「一番近い町……エウロポスか」
飾り気のまるでない黒いローブを身に纏った二人組が野営地の跡を発ったのは、テネースたちが出発してから三日後のことだった。




