4 神殺しの目指すもの
『テネース!!』
神に続いて部屋に入ったテネースに、今まで見せたことのない勢いでアリスが飛んできた。
「アリス! よかった、無事で」
『それはわたしの台詞よ。怪我とかしてない? ひどいことされたり言われたりは?』
安堵の笑みを浮かべるテネースの顔のすぐ側に止まり、アリスは心配そうに眉根を寄せテネースの無事を確かめるように頬を撫でる。
「大丈夫だよ」
答えるテネースが笑み崩れる。取り乱しているアリスがおかしかったし、なによりこんなに心配してもらえることが嬉しかった。
「それで、わたしに聞かせたいのはどんなこと」
扉の正面にある窓まで歩いた神が、振り返って訊ねる。
西へと沈んでいく太陽の残照は、まだ窓の向こうの世界を赤く染めている。だが、この部屋を照らす役にはほとんど立っていない。
家具の種類や配置までテネースがいた部屋とそっくりなこの部屋を照らしているのは、神が作り出したと思しき白銀の光球だった。握り拳大の光の球は、しかし部屋全体を照らすのに足るだけの光量を放っている。テネースは神の無表情な顔をはっきり見ることができた。
アリスとの再会にほころんでいたテネースの顔が引き締まる。
『諦めてないのね』
神の言葉とテネースの反応に、アリスも真剣な表情を浮かべた。青く澄んだ瞳がテネースの目を見つめる。
「うん。自分勝手なのはわかってるけど、やっぱり僕は神になんてなりたくないし、アリスたちを吸収するのもやだ。それに、諦めちゃったらマリーカたちに会わせる顔もないしね」
『そっか……そういえば、マリーカたちは無事なの?』
「うん、大丈夫。僕がここまで来るための道を作ってくれたよ」
『あとでわたしからもお礼を言わないとね』
そう言って、アリスはテネースの背中を押すかのような優しい笑顔を浮かべた。
アリスに笑顔で頷き返し、テネースは一歩神に近寄った。
「神様は異端者についてどの程度知っていますか?」
「アビュドスであなたたちから聞いた程度のことしか」
テネースの問いに、神はゆっくりと頭を振った。
「じゃあ、異端者に対する教会の説明は?」
もう一度、神が首を横に振る。
「異端者は、生まれてくる時に何らかの理由で神の祝福と愛を与えられなかった存在だ。だから教会がそれらについて教える。教会はそう言っています」
いったんテネースが言葉を切るが、神は反応らしい反応を示さない。ただ、その青い瞳をまっすぐテネースに向けている。
「教会の説明が正しいのかはわかりません。ただ、普通の人たちはその説明を信じています。そして、異端者がいると自分たちも神の祝福を失ってしまうのではないかと、そう考える人たちもいます。そういう人たちは、異端者ではないかという疑いのある人間のことを、自分たちで排除しようとします」
暖かみの欠片もない眼差し、言葉を紡げば蔑み、罵るだけの唇。時にテネースを打ち据えた腕や足。普段は意識的に思い出さないようにしている記憶が鮮明に甦ってきてしまい、テネースは小刻みに震えながら口を閉じた。
『テネース……』
唇を噛み締めるテネースを心配そうに見つめるアリス。
テネースは、アリスの声を聞くと両手を握りしめ、歯を食いしばって身体の震えを押さえ込んだ。神を見る目に力を込める。
神は無言で続きの言葉を待っていた。
「失敗をすれば何を言われているのかすぐには理解できないほど口汚く罵られ、うまくできても誉められるどころかその程度かと馬鹿にされる。昨日まで普通に話していた友達に突然汚いものを見るような目を向けられる。何もしていなくても、相手の機嫌が悪いと殴られることすらある。それが、異端者なんです――ううん、違うかな。教会が正式に異端者と認定する前、普通の人たちが神の祝福を失いたくない一心でする私刑、ですね」
テネースはそこで言葉を切り、大きな深呼吸をした。それほど長々としゃべったわけではないのだが、妙に疲れた。喉も渇いてひりひりと痛む。
「僕にはアリスがいてくれたけど、普通は一人でそんな境遇に耐えてるんです。もちろん、そういう目に遭う人はこの世界で生きる人の数からしたらとっても少ないと思います。でも、決して零じゃないんです。耐えられずに自ら命を絶つ人がいないとも限りません」
なおも無言を貫く神を、テネースは睨みつけるように見た。
ここからだ。テネースが言いたいこと、神に理解して欲しいことを、これから口にする。
今までのは、そのための前提であり、決して泣き言を聞いて欲しかったわけではない。
「迫害される人間も、異端者もいなくなることはないでしょう。神の祝福が根本にあるから。僕が神になったとしても、それは変わらないでしょう。僕は、自分のせいで異端者や迫害される人を生み出したくないし、そういった人たちを迫害することを黙認している世界に祝福なんて授けたいと思いません」
しゃべりながら自分の考えを追認していくかのように、一言一言はっきりと口にするテネース。アリスはそんなテネースを驚いたように見つめているが、神は相変わらずの無表情を保っている。
「創造神の欠片に神の力を戻せば、今世界が享受している神の祝福はなくなります。そうすれば、異端者や普通とは違うと見なされた人たちたちを迫害する根拠がなくなるはずです。全部うまくいって、この世界から神様がいなくなったとしても、すぐに何もかもよくなるとは思いません。けど、いい加減人間は自分の足で立つべきだと思います。神様の――親の愛情を失うのが怖いからって、親から嫌われそうな兄弟を自分たちで排除しようとするなんて、歪んでると思うんです」
『テネース……』
嬉しそうにも、寂しそうにも見える表情で、アリスがテネースの名を呟く。
「不確定要素が多すぎることには目をつぶるとして、あなたが望む世界を作り上げるまで、悲惨なことになる。今苦しんでいる人たちとは比較にならないほど大勢の人々が悲しむことになる。それでも、あなたは自分が正しいと思うの?」
テネースが話し終えてからもずっと黙っていた神が、長い沈黙の果てに一つの問いを発した。その顔には相変わらず表情らしいものは浮かんでいないが、テネースは今までの無表情とは違い、今の問いに対する神の真剣さのようなものを感じ取っていた。
「僕は、自分が正しいとは思っていません。たぶん、これからもそんなことは思えないです」
気持ちを伝えたい相手が、真剣に向き合ってくれた。その事実が――たとえ思い込みだったとしても――、テネースを高揚させる。
慎重にならなければと理性が告げるが、早く気持ちを伝え切れとばかりに口は勝手に言葉を紡いでいく。
「僕が異端者がいない世界を望むのは、僕と同じような悲しみ、苦しみを他の人に味わって欲しくないからです。僕が神になって、僕のせいで悲しむ人が生まれるのが嫌だからです。アリスを、そしてあなたを吸収したくないという思いと同じように、個人的な感情なんです」
「個人的な感情で、なんの罪もない人々に苦難を与える、と?」
怪訝そうに、神がほんのわずかに眉をひそめた。
それはそうだろう、とテネースは思う。
アビュドスで、テネースは自分の感情を吐露して神殺しとして役目を果たすことを拒否した。マリーカやイアイラの協力のおかげで創造神の存在を知り、神の力を創造神の欠片に返すという方法を試すことを神に認めてもらった。
だが、神は教会の説得によってテネースの個人的感情から出た案に協力することをやめた。
それなのに、再度の説得に当たってまたもや個人的感情を持ち出す。
感情の乏しくなった神であっても疑問に思うだろう。
「神様の祝福のおかげで、人は生きていくことに不安を抱かない。でも、その祝福を失うかもしれないという恐怖を抱いてます。そして、その恐怖をぶつけられる人が少数であっても存在する。その人たちは、神様が世界を祝福する限り、絶対にいなくなりません。でも、神様の祝福がなくなって、今までのようには生きられなくなったとしても、世界さえ存在すれば人は自分たちの居場所を作れます。ずっと昔に、一人の人間が創造神の欠片から力を受け継いでこの世界のために生きることを選んだように、今度は世界中の人が、少しずつでも世界のために生きると、そう決意してくれると、僕は信じてます」
いったん言葉を切ったテネースは、後ろを振り返りたいという衝動に襲われた。アリスに、大丈夫と頷いて欲しいと、強く思った。
けれど、テネースはその衝動に必死に抗った。自分一人で、自分の言葉で神と対峙しなければ意味がない。
「僕は普通の親子の関係は知りませんけど、きっと子供が親の保護下から出る時は、どんな形にせよ軋轢が発生するんじゃないでしょうか。だから、人間が神様という親の保護から独立しようとする時には大変だと思います。家族なんていう規模じゃないですから。でも人間は、生まれた家族から独立して、新しい家族を作って、子供が巣立っていくのを見守ることをずっと繰り返してきたんです。ちょっと規模が大きくなっても、乗り越えられます。絶対に」
「自分勝手」
「僕も自分に驚いてます」
「もしもあなたの望む通りになったとして、それでも神の祝福を失った原因として糾弾されたら、あなたはどうするの?」
「何を思ってその選択をしたのか、それを説明して、その後どうするかは糾弾する人たちに任せます。それだけ大変なことだってことは理解してるつもりですから」
『テネース、何てこと言うの!?』
背後でアリスが悲鳴じみた声を上げるが、テネースは振り返らなかった。今振り返ったら、張り詰めている物が切れてしまうのがわかっていた。
「……そんなことにはならない」
ゆっくりと、神が頭を振る。
その瞬間、テネースは砕けそうになる膝に手をつき、かろうじて倒れるのを免れた。
(届かなかった!)
必死に考え、伝えた思いは、しかし神に届かなかった。
単純な事実が、重く重くのしかかる。
(僕の力が足りなかったせいで……ごめん、みんな。みんなの協力、無駄にしちゃった)
鼻の奥がつんと痛くなり、テネースは慌ててまぶたをきつく閉じた。
泣き顔など、見せられるはずがない。
まぶたに力を込めたまま、涙が引いていくのを待つ。
と、すぐ前の空気が動いたのが感じられた。
不思議に思ったテネースが、まぶたの力をゆっくりと抜いていく。あまりにもきつく閉じていたせいで視界はぼやけていたが、目の前に神が立っていることは理解できた。
距離を置いていた神がなぜ近づいてきたのか。テネースには理解できなかった。それも、テネースの言葉を拒絶した後で。
「あなたは勘違いをしている。わたしは、あなたの考えを否定したわけじゃない。すべてがうまくいった後、あなたが糾弾されるようなことにはならないと、そう言っただけ」
神が何を言っているのか理解できなくて、膝に手をついた状態のテネースは口を大きく開けた間抜け顔で、見上げた。
『テネース!!』
喜びの叫びを上げたアリスが、テネースの前に回り込んできた。
『あなたの言葉が、頑固な神を動かしたのよ!』
ぽかんとしているテネースとは対照的に、アリスは喜色満面どころか全身で喜びを露わにしている。
本当に嬉しそうなアリスを見て、ようやくテネースの頭が働き出した。神に何を言われたのか、じわじわと理解が進む。
「え、と、協力、してもらえるってことですか?」
先ほどまでとは別の意味で膝が震えるせいで、テネースは膝から手を離せないまま訊ねた。
「また、途中で考えを変えるかもしれないけど」
言い終えた神の唇の端が、ほんのわずか、おそらくテネースとアリスでなければ気付かない程度に、笑みの形を作った。
「あ、ありがとうござい――」
その顔を見た途端、テネースは全身から力が抜けるのを感じた。
思いが届いた。
大きな安堵を抱きながら、テネースの意識は闇に飲まれていった。




