1 白亜の塔
テネースが連れてこられたのは、封印区画からそれほど離れていない、大聖堂に隣接して建てられている塔の一基だった。
その最上階にある部屋はほとんど使われた形跡はなかったが、毛足が長くふかふかの赤い絨毯、藁の代わりに鳥の羽が敷き詰められた寝台、木目も美しい机に椅子、そして今は使う必要のない暖炉と、調度類はテネースが今まで見てきた中で一番豪華だった。
さらに驚いたことに、窓を塞いでいるのは木の板ではなく、透明なガラスだ。
「ごゆっくりお休みください」
テネースが呆気にとられて部屋の中を見回していると、ここまで案内してきた教会騎士が素っ気なく告げて出て行った。引き留める暇もなかった。
教会騎士を追いかけるように扉に近づいたテネースは、きっと開かないのだろうと思いながら取っ手を握り、押した。
「え?」
日々を精一杯生きる人々を見守る神が表面に彫られた焦げ茶色の扉は、あっさりと開いた。だが、とても通れないわずかな隙間が空いたところで何かにぶつかり、それ以上動かなかった。
「何かご用ですか」
先ほどの教会騎士の声が聞こえたと思った次の瞬間、扉が開くのを妨げていた力が消滅した。
突然動き出した扉に引きずられるように部屋の外に出たテネースの正面に、教会騎士が立っていた。三十代半ばの男の顔には、これといった感情は浮かんでおらず、静かにテネースを見つめている。
「い、いえ、なんでもありません」
反射的に答えたテネースは、勢いよく扉を閉めていた。
扉が開くとも思っていなかったし、扉の真ん前に見張りが立っているとも思っていなかった。
(もう少し外の様子を見とけばよかったかな)
そんなことを思いながら、テネースは部屋の中央に歩いて行く。
とはいえ、封印区画からここまでの道はしっかりと覚えているし、部屋に入る前に見られる限りは見ていたので、建物の構造的な部分に関しては最低限のことは把握している。
(部屋の外にいたのは、あの人一人だけだったよね)
慌てていたのでいまいち自信はなかったが、階段からこの部屋までの狭い空間に人が隠れられる場所がなかったのは確かだ。階段の途中に身を潜めている可能性もないではないが、常識的に考えればあり得ないだろう。それなら素直に扉の前に二人で立てばいいだけの話だ。
どうにかすればいいのはあの一人――だが、相手が堕ちたる神ならともかく生身の人間、それも身長こそテネースより多少高いだけだが身体の厚みは倍以上違う教会騎士を相手にすることなど、とてもできるとは思えなかった。
(ううん、今考えないといけないのはそんなことじゃない)
何よりも考えなければいけないのは、どうやって神を説得するかだと、テネースは思っている。この部屋から出て自由を得る方法でも、神がどこにいるかを捜す方法でもなく、神を説得する言葉。それを見つける必要がある。
諦めるつもりは、ない。
結果がどうなったとしても、最後の最後まであがき続ける。その覚悟は、すでにできている。
自分自身の思いに嘘はつけないし、力を貸してくれたマリーカたちに応えるためにも、諦めることなどできない。
神の心に届くものを見つけておかなければ、神の許にたどり着けたとしても意味がない。
(ただ僕の思いを伝えるだけじゃ駄目だ。でも、他に何か伝えられるようなものが僕にあるかな)
アビュドスでは、テネースの真情が神を動かした。しかし、その神はネイオスの説得によって今まで通り、寿命を迎えた神を神殺しが吸収し、新しい神となる世界を再度受け入れた――そもそも、テネースたちに同行はするが、積極的に協力すると約束したわけでもない。
ネイオスが具体的にどのように説得をしたのかはわからないが、おそらく封印区画で教皇が話したこととそう大きな違いはないだろう。
人間をはじめ、この世界に生きるあらゆる生き物を危険に晒してまで試すようなことなのか。たとえ自分勝手な思いであろうが、テネースはそれだけの価値があると思っている。だが、神はその価値を信じられなくなった――あるいは、認められなくなった。
だから、今までの神と同じように神殺しに殺されればいいと、そう思ったのだろう。
そして、そう思ってしまった神に、アビュドスでのようにアリスを、神を吸収するのは嫌だ、アリスと離ればなれになりたくないと訴えたところで、その心を動かすことはもうできない。
もっと違う何かが必要なのだ。
それは、テネースにもわかる。けれど、その何かがなんなのか。それがわからない。
(何か、絶対に何かあるはずだ)
封印区画で神は、テネースとまともに話をしようとしなかった。しかし、ほんのわずかとはいえ申し訳なさそうな顔をしたではないか。ネイオスの説得に応じる時に、テネースを気遣うような条件を付けてくれたではないか。
それは、説得に応じはしたがまだ神も迷っているということではないのか。まだ、テネースの言葉が届く可能性が残っているということではないのか。
(神様の心の奥底に届くようなものを見つけられれば、きっと聞いてくれる)
「でも、それがなんなのか、わからないんだよね」
ただ思いを伝えるだけでなく、背を向けている相手を振り向かせるくらい説得力のある何かを見つけなければならない。
わかってはいるのだが、簡単に思いつくのならこんな所に連れてこられる前に説得している。
部屋の中央で腕を組んでいたテネースが、円を描くように歩き始めた。せかせかと歩きながら、必死に考える。
眉間にしわが寄り、うめき声が漏れる頻度が上がる。
しかし、いい案など思いつかない。それどころか、アリスやマリーカたちが今どうしているのか、ひどい目に遭っていないだろうかと気になって、思考がまとまらない。
引き寄せられるように窓に近づいたテネースは、ため息をついて外を見た。
ガラスはまだまだ貴重品で、テネースもこんなに近くで見たのは初めてだった。窓越しに見る風景はぐにゃりと歪み、気晴らしにはならなかった。
テネースは、もう一度大きなため息をついた。
頭がよくないと自己評価するテネースだが、それでも今までの短い人生、いろいろと考え悩みながら生きてきた。だから真剣に考えることが初めてというわけではない。
ただ、いつもは思いついたことをそのままアリスに話して、反応をもらって考えをまとめているので、それができないだけで調子が狂ってしまう。
(黙って考える癖をつけなさいって何回もアリスに言われたけど、素直に言うこと聞いておけばよかった)
もっとも、今この場にアリスがいたとしても、良案がすぐに浮かぶはずがないということは、テネースも理解している。
「僕が神様に言えるようなこと……僕だからこそ伝えられること。伝えたいこと。ん? 僕だから?」
微かな光明が見えたような気がした。テネースの眉間のしわが深くなる。
「神殺しなこと? いや、駄目だ。そもそも神様だって神殺しだったんだし、神殺しなんてしたくないくらいしか言うことがないや」
首を振り、壁に背を預け頭をかくテネース。
「僕だから言えること……僕が人と違う所? 気が弱いとか体力がないとか……って、それは今関係ないし」
とりとめもなくさ迷う思考に勢いよく頭を振る。考える方向性は間違っていないと思うのだが、本当に大切なものには手が届かない。その事実に、テネースが渋面になる。
「何かないかなあ。マリーカともギュアースさんともイアイラさんとも違う僕だけの何か……あ、異端者」
両親に捨てられ、イアイラたちに追われる原因である異端者。確かにそれは、今この場ではテネースにしか当てはまらないものだった。
テネースは異端者に特に悪感情を抱いてはいない。異端者とされたせいで辛い思いもしたが、むしろその前、村人に迫害されていた時の方が辛かった。
「アリスがいてくれたけど、やっぱり両親や友達だと思ってた子たち、それに近所の人たちに拒絶されたのは辛かったし、異端者として教会に引き渡された時は目の前が真っ暗になった」
思い出すと痛み出すのがわかりきっているので普段はできるだけ目を背けているが、あの時の記憶は傷跡として確かに残っている。
もしアリスがいなければ耐えられたかどうか。
「普通はアリスみたいな存在はいない」
どれくらいの人間が異端者として異端審問官の管理下に置かれているのか、テネースは知らない。だが、一人二人という数ではないだろうことは想像に難くない。
異端者として教会に引き渡されるまでに味わう苦痛。それは実際に経験した人間でなければ決して理解できないものだ。
「そんなに多くはないんだろうけど、でも苦しんでる人がいるのは事実だ。神様は異端者のことを知らないか、知っていても実態は知らないんだ、きっと」
そして、どうして異端者とされるような人々が生み出されるのかも神は知らないのだろう。イアイラが言っていた、生まれた時に何らかの理由で神の祝福を受けられなかった人間が異端者になるという話が本当かどうかは、テネースには判断がつかない。
しかし、教会の関係者でもない人間が他人を異端者だと断じる理由は、知っている。
神の機嫌を損ね、そのせいで神の祝福を失ったらどうしてくれる。
簡単に言ってしまえば、彼らはそういう考えで迫害をする。実際に、テネースはこれに近いことを言われたことがある。
一番最初に創造神の欠片から力を受け継いだ神が、なぜ世界に祝福を与えたのか。おそらく歴代の神も知らないことだろう。もちろん、テネースには想像することも難しい。
ただ、ありがたいはずの神の祝福も、決していいことばかりをもたらしていないことだけは、断言できる。
「確かに神様がいなくなったら世界がどうなるかは、わからない。でも、異端者として蔑まれ疎外される人間はいなくなる。神の祝福が不平等に注がれることがなくなることは、絶対に意味があることだ」
絶対数が少ないとしても、今後も今まで通りの世界が続くのなら異端者は必ず生まれる。必ず悲惨な人生を歩むことになる。
イアイラの弁を信じるなら、異端者として素直に教会に従えば、いずれ一般的な人々と同じ生活を送れるようになる。だが、教会が異端者と認定するまでは迫害を受けなければならない。異端者となる前に、苦しみの末に死んでしまう人だっているかもしれない。
「そんな世界を変えられるなら、可能性があるなら試したい」
はっきりと言葉にして自覚したのは今が初めてだったが、その思いは予想以上にしっくりきた。アリスが消えてしまうのが嫌だという思いと同じくらい強く、テネースを突き動かす力を秘めている。
「よし!」
改めて神に向けるべき言葉は決まった。
もしそれでも駄目だったら――きっとその時は諦められるだろう。きっと、それ以上の説得の言葉は見つからない。
「次の問題は、扉の前の人、だよね」
もしもテネースがギュアース並みに強ければ、素手で教会騎士を圧倒することもできるかもしれない。
だが、籠の中の鳥よろしく軟禁されているテネースは、自身が認めるほど力が弱い。武器を持っていたとしてもあっという間に取り押さえられる自信があるほどだ。
「どうしよう……」
とはいえ、弱いからここでじっとしています、など選べるはずもない。一刻も早く神と対面し、もう一度言葉を交わしたかった。
(仮病を使って中に入ってきてもらって、椅子か何かで思いっきり殴りかかるとか……?)
ちらりと椅子を見たテネースは、力なく首を振った。
椅子は、持ち上げただけでふらつきそうな重厚な造りだった。
「のんびり悩んでる暇はないのに」
せっかく見えた光明が小さくなった気がして、テネースは眉尻を下げた。
「ん?」
テネースは、窓の外からの叫び声が聞いた気がして、歪みのひどい窓越しに外を眺めた。
あまり長い時間悩んでいたつもりはないのだが、いつの間にか世界は落日の赤に染められていた。
歪むガラス越しにもはっきりわかる真っ赤な世界の中、駆け回っている人々の姿が見える。
(人、だよね? 動物には見えないし)
言葉として認識できるほどではないが、叫び声も断続的に聞こえてくる。
窓に顔をぴったりとくっつけて外を見ていたテネースの耳が、階段を駆け上がってくる足音を捉えた。
慌てて扉に向き直り、身構える。
だが、扉は開かなかった。その代わり、怒鳴り声が聞こえてきた。
「この中の子供と一緒に来た男が暴れてる。おまえも手伝え!」
(ギュアースさん!?)
思わず叫びそうになったテネースは、両手で口を塞ぎ息を潜めた。
「だが、ここを離れるわけには――」
「ただの子供だろう!」
「……わかった」
同意の声が聞こえた直後、二つの足音が勢いよく階段を下りていくのが聞こえた。
念のため、テネースは足音を忍ばせ扉へと近づいていく。取っ手に手を置き、大きく深呼吸。
こっそり三人目がやって来ていない限り誰もいないはずだが、それでも緊張する。
そっと、音を立てないよう気をつけながら扉を開いていく。
重厚だが、ほとんど重さを感じさせない扉は、今度は障害物にぶつかることなく完全に開ききった。
扉の前の狭い空間、そこから降っている螺旋階段。どちらにも、人影はない。
安堵のため息をついたテネースは、表情を引き締め階段を下り始めた。




