3 武装解除
遠くから見た時の印象通り、市内を歩いていてもカンタノスはその他の都市よりもずっと整然とした街並みをしている。
とはいえ、定住している人間だけでも五万人を数える大都市だけあって人通りは激しく、市内を東西南北に貫いている大通りはもちろん、そこから伸びる小道にも人がまったくいないということはない。それゆえ、整然としすぎてどこか箱庭めいた都市の外観と生活の場特有の生活臭が混じり合い、独特の雰囲気を作り出している。
そして、カンタノスの雰囲気をよりいっそう独特にしているのが、市内のほぼ全域から見ることのできる大聖堂と、聖職者たちの白い法衣姿だろう。
小さな山と同じくらいの高さがある大聖堂の偉容と、市内至る所で見かける聖職者たちの姿は、カンタノス市民にとっては見慣れた日常だが、この地を訪れ、去っていく旅人にしてみれば目を奪われるほど珍しい光景だ。
「テネース君、マリーカ、あんまりきょろきょろしていると迷子になるわよ」
振り返ったイアイラが、苦笑混じりに声をかける。
「あ、はい。すぐ行きます」
「まっすぐの道なんだから迷子になんてなるわけないじゃない」
右を見てはため息をつき、左を見ては目を見張る。そんなことを繰り返しているうちにテネースとマリーカの足は何度も止まり、その度にイアイラかギュアースが二人に声をかけるということが繰り返されていた。
『これだけ大きな都市を見たのは初めてだものね。仕方ないわよ』
テネースの右肩に座るアリスの声は穏やかだ。
「アリスは来たことあるの?」
『ここに来たのは初めてだけど、生まれた所がそこそこ大きな都市だったから、テネースよりは驚きが少ないわね』
「なんか意外だ」
『……どういう意味かしら?』
「いや、僕が小さかった頃、父さんたちが教えてくれなかったようなことも教えてくれたから、てっきり」
『あー、それは……』
「それは?」
なぜかアリスは視線を泳がせ言葉に詰まった。滅多に見られないアリスの反応に、テネースが首をかしげる。
『勉強したのよ』
早口に、恥ずかしそうに言うアリス。テネースはますます首をひねった。
「テネース、どんな話をしてるの?」
「うん、アリスが大きな都市出身だって言うから、信じられないって話をしてたんだ」
だが、黙ってテネースとアリスの会話――というよりはテネースの独り言――を聞くのに耐えられなくなったマリーカに話しかけられたので、テネースがアリスにさらに訊ねる機会は失われた。
「そんなに意外? アビュドスで話しただけだけど、あたしなんかよりよっぽど上品な印象だったわよ。ただの大都市出身者じゃなくて、貴族か何かだったんじゃない?」
「そう……なのかなあ」
テネースは貴族はおろか大商人とも会ったことはない。だから、アリスが上品だとか貴族だったんじゃないか、などと言われてもよくわからない。
「二人とも、珍しいのはわかるけど、観光は全部終わった後ゆっくりすればいいでしょう。今はとにかく目的を果たすことにだけ集中しなさい」
ようやく追いついてきたテネースとマリーカに、イアイラがしかつめらしく説教する。
そんな姉を、ネイオスが苦々しく見つめる。
「す、すいません」
僕の問題なのに、とテネースが小さくなる。
イアイラが言うには、教会は午後、夕食までの時間が一番忙しくなるらしい。だから、その間に大聖堂に戻り、封印区画に一気に入り込んで創造神の欠片を探す。聖都に着くまでにそう決めており、今も大聖堂を目指している途中だ。
時間を無駄にしない方がいいと判断したのか、それとも街並みに目を奪われるのも仕方がないと思っているのか、イアイラはそれ以上小言を口にせずに歩き出す。
テネースも慌ててその後をついていく。
聖職者が非常に多い都市とはいえ、異端審問官の黒衣は目立つ。クリダリア姉弟とすれ違う人々は例外なく頭を下げる。中には、わざわざ立ち止まってその場にひざまずく者すらいたほどだ。
そうした時の人々の表情は、自分の幸運を喜ぶかのような表情と、敬虔さの入り交じった複雑なものになっている。
挨拶を返すイアイラはそんな反応に慣れているのだろう。にこやかに応えている。
ネイオスも、テネースたちに向ける仏頂面とは比較にならないほど穏やかな表情を浮かべており、ギュアースにからかわれたほどだ。
「イアイラさんたちって人気あるんですね」
深々と頭を下げ通り過ぎていった老婆を見送りながら、テネースが呟く。
この旅の間、異端者として追われていた時とは比べものにならないくらい二人と触れ合ってきたが、こうして信者たちと接している姿は初めて見た。だから、ひどく新鮮だった。
「私たちの人気というよりは、異端審問官という立場が注目と尊敬を集めるのよ」
「立場の弱い異端者を追いかけ回してるだけじゃねえか」
ふん、と息を吐いたギュアースだが、周りを気にしてかほんの少しだけ声が小さくなっている。
「教会と一般信徒との間にある、異端者に対する認識の差が原因なのよ」
表情を険しくしたネイオスに口を挟ませる隙を与えず、イアイラが早口に言う。
「教会は異端者を神の祝福を得られなかった不幸な存在と位置づけていて、祝福の下に戻すべき憐れな存在だと考えている。でも、信徒たちの大部分は異端者を神に逆らう背教者であり、世界に対する神の祝福を危うくする危険な存在だと認識している。人を殺すことで神の祝福を失いかねないと考えているから異端者を手にかけるようなことはないけれど、きっかけがあったらどうなるかわからないわね。まあそんなわけで、異端者を聖堂に戻すことを任務としている異端審問官は、一般信徒の間で人気があるわけ。異端者がいなくなれば、神の祝福を失う可能性もなくなると、そう考えているのね」
「なんか、随分と自分勝手な話」
「教会はそんな一般信徒の考えを放置してるのか?」
イアイラの長広舌に、マリーカとギュアースが感想を述べる。その途端、ネイオスが今まで以上にまなじりをつり上げた。
「そんなはずがないだろう! 休息日の礼拝はもちろん、辻説法などでも正しい教えを伝えている」
「成果は何もないみたいだけどな」
いつも通り騒ぎ出したギュアースたちには加わらず、テネースは足を動かしながら後ろを歩く神をちらちらと振り返っていた。
この世界に生きる存在にとって、神の祝福はあって当然のものになっている。もちろん、人間は神に対して感謝の祈りを捧げることを忘れていない。
だが、今の話を聞いて、テネースはその祈りは本当に感謝の念から出ているのだろうかという疑問を抱いた。祝福を失わないため、神の機嫌を損なわないためという、ひどく打算的なものではないかとすら、疑ってしまう。
いったんそう思ってしまうと、神が独り孤独に世界に祝福を授けることに意味があるのかという疑問まで浮かんでくる。
『どうしたの? さっきから後ろばっかり気にして』
「うん……どうして神様は世界に祝福を与えているのかな、って思って」
うまくまとめられずテネースが思いつくままに口にすると、アリスが目を丸くして固まった。
「アリス?」
『そんなこと今まで考えたこともなかったから、びっくりしたわ。たぶん神も考えたことはないでしょうね』
「どうして考えたことがないの?」
『うーん、どうしてかしら。神になる前に考える暇はなかったし、神になってからは世界を祝福で満たすことは当たり前のことだったし。そういえば、どうして当たり前のことだと思ったのかしら』
テネースに向けられていたアリスの言葉が、アリス自身へと向けられていく。ついには完全に考え込んでしまい、視線もテネースから外れた。
アリスを、そして神を一瞥したテネースは、黙って足を動かすことにした。
***
「聞いてないぞ」
ここ最近なかったほど不機嫌な声で、ギュアースが言った。
「そうでしょうね。今初めて言ったんだから」
怒りを向けられたイアイラは涼しい顔で答える。
大聖堂に隣接する女性聖職者のための寄宿舎の前で、ギュアースとイアイラは睨み合っていた。日課に忙しいのか辺りに人の姿はないが、もしも誰かが通りかかったら一瞬で注目を浴びるのは間違いない。
「あ、あのギュアースさん、確かに剣があった方が安心だとは思いますけど、別に戦いに行くわけじゃないですし……」
「甘い。人がよすぎるぞ、テネース。こいつらが裏切らないなんて保証はどこにもないんだぞ。それに、教会の連中が邪魔をしなかったとして、封印区画に障害が何もないとは限らないだろう」
「それは……そうかもしれませんけど」
「テネース君、ここまで一緒に旅をしてきたのに、まだ信頼してもらえてないのね」
「ち、違います。同意したのは封印区画が危険かもしれないっていうところだけです!」
がっくりと肩を落とし顔をうつむけたイアイラに、テネースは大慌てで声をかける。
アリスにマリーカ、ギュアースの三人ほどではないが、今ではイアイラのことも信頼しているし信用してもいる。ネイオスは正直苦手だったが、だからといって必要以上に疑う必要もないし、避ける必要もないと思う。
もしこれから先警戒する必要があるとすれば、中のことは誰も知らない封印区画のことだけだろう。
「急いでいるんじゃなかったのか」
苛々とした口調でネイオスが言う。
「ネイオスが使ってる程度の剣だったら外套に隠すこともできるかもしれないけど、その無駄に大きな剣はどうやったって隠せないでしょ。そんなもの背負ってたら、どうしようもないほど目立つのよ」
顔を上げたイアイラは、びしりとギュアースの大剣を指さした。その直後、晴れやかな笑顔をギュアースに向けた。
「やっぱりあなたはその大剣を持ったまま大聖堂に入って。あなたが注意を引きつけている間に、私たちは封印区画に入り込むから」
「俺が囮をしてる間に誰がテネースとマリーカを護るんだよ」
「私。それとたぶんネイオス」
「論外だ」
「それなら、その大剣は私の部屋で保管するから貸しなさい」
イアイラが両手を突き出すと、ギュアースは小さくうめいて言葉に詰まった。
「お兄ちゃん、大丈夫だって。確かに二年間追いかけ回されたけど、テネースはもちろんあたしたちだって傷つけられたことはないでしょ。封印区画には危険があるかもしれないけど、そこは責任を持って護ってもらえばいいんだし。それにほら、弓を渡すようには言われてないから、いざとなったらあたしが頑張るし」
笑顔で言うマリーカに背中を押されるように、ギュアースが大剣を背中から外す。
やはり手放すことに抵抗があるのか、しばらく逡巡を見せた。しかし、迷いを振り切るように首を振ると無言でイアイラの腕に大剣を乗せた。
両手の上の大剣に引きずられるように、イアイラの上半身が前に大きく傾いた。
笑顔を引きつらせたイアイラが、力を込めて身体を起こす。
「こんなものを振り回せるなんて、本当に人間なの?」
自分の身長とそう変わらない大剣を抱え寄宿舎に向かう前に、イアイラは目を細めてギュアースを見た。
「ここで待っていろ」
ネイオスはテネースたちを一瞥すると、よたよたと寄宿舎へと歩いて行く姉の後を追い、その腕から大剣を奪い取った。
「あの寄宿舎、女性用だって言ってなかった?」
ぽつりとマリーカが呟く。
「異端審問官様は特別なんだろうよ」
ギュアースは不機嫌さを隠そうともしない。
「すいません、ギュアースさん」
「おまえが謝ることじゃないだろ。危なっかしくて心配になるが、人を素直に信じられるのはおまえの美点だしな。ただ、剣がなくなったことで万が一の時は護りきれないかもしれないが、その時はまあ諦めてくれ」
しかめっ面に微かな笑みを混ぜ、ギュアースがテネースを見る。
「お兄ちゃんが役立たずになる分あたしが頑張るから、テネースは心配しないでいいよ」
にこりと胸を張るマリーカを見て、テネースは本当にこの二人と出会えてよかったと思った。物理的な助けをたくさんもらっただけでなく、精神的に支えてくれたし、何よりも明るく生きていくことの大切さを教えてもらった。
クヴェルタ兄妹と出会えなかったら、仮に両親に捨てられなかったとしても、アリスがいてくれても、今のようには笑えなかっただろう。
「ありがとう、二人とも」
だから、マリーカがどう反応するか、どんな表情を浮かべるかわかっていても、感謝の言葉を口にせずにはいられなかった。
「な、何よ、突然。あたしは自分がしたいことをしてるだけよ。感謝してもらう必要はないわ」
予想通りの言葉と面はゆそうな顔。
テネースが笑いかけると、マリーカは顔を真っ赤にして後ろを向いてしまった。




