1 再会
「この光景は絶対に見慣れることはねえよなあ」
ギュアースは、遥か頭上の聖峰アビュドスを見上げ何度目かわからない言葉を口にした。
「それで、テネースたちはどこにいるんだ。ここに着いてもう二日になる」
「こんだけ広いのにたった二日で全部捜せるわけないだろうが。だいたい、山に登るのを邪魔してるのはおまえだろう」
「当たり前だ。ここまでやって来ることですら最大限の譲歩だというのに、アビュドスに登らせるなど言語道断だ!」
振り返り悪態をつくギュアースを、ネイオスが声の限りに怒鳴りつける。
「山に向かう理由なんて、その山に登るくらいしかないだろ。だから、麓をいくら捜したってテネースたちは見つからねえよ」
「姉さんが一緒にいるのにそんなことを許すはずがない。いくら姉さんでも、異端者を聖峰に登らせたりなどするものか」
「あいつはテネースに随分とご執心みたいだからな。頼まれて断れなかったんだろう」
ここまで来る道程で得た情報によれば、テネースたちは三人で旅をしていたらしい。どうしてそうなったかはわからないが、普通に考えれば三人目はネイオスの姉だろう。
「仮にも異端審問官だ。公私の別はしっかりしている」
言い切ったネイオスではあったが、語尾は先ほどまでより遥かに弱くなっていた。
「とにかく、俺は今夜登るからな」
「させないと言っている」
ギュアースを睨みつけるネイオスの右手が、腰の剣に伸びる。
にやりと口の端を歪めたギュアースも、背負った剣の柄を掴んだ。
「足に大きな怪我をすれば、登山など考えなくなるだろう?」
「はっ。おまえが俺に傷を負わせる? おもしろい冗談だな」
二人はまだ剣を抜いていない。
しかし、二人の間の空気が悲鳴を上げそうなほど、緊張が高まっている。何かきっかけがあれば、双方剣を抜くことをためらわないのは間違いない。
そのきっかけが、空から突然に、なんの前触れもなく振ってきた。
睨み合う二人の眼前、陽の光を凌駕するほど眩しい白銀の光が、滝のように降り注いでいる。
「貴様、何をした!」
「てめえこそ、神に祈って変なことしたんだろうが!」
ギュアースもネイオスもこの光を越えて相手が飛びかかってくるかもしれないと考え、最初は目を開けていた。しかし、いつまでも見ているには光は強すぎた。
ほぼ同時に限界に達した二人は、渋々目を閉じた。
「くそ、なんなんだ、いったい」
まぶた越しでも、光がなおも降り続けているのがわかる。
ギュアースの吐き捨てた言葉に答えたのは、ネイオスではなかった。
***
あてがわれた寝室でぐっすりと眠ったテネースたちは、最初に目を覚ました部屋に集められた。そして、神の口からこれから地上へと降りると告げられ、ろくに答える間も与えられず白銀の光に包まれた。
登ってきた時と同じようにまばゆい白銀の光に包まれ、ついさっきまでテネースの隣りに立っていたマリーカの姿すら、ぼんやりとしか見ることができなくなった。
「や、やだ、何この気持ち悪い感覚」
マリーカの小さな悲鳴に、テネースは心の底から同意したい気分だった。
うつ伏せの状態で空を落ちている。そう思うのだが、確信はなかった。はっきりしているのは、背後の空に内蔵が引っ張られているような感覚があるのに、身体は真下に落下しているということだけだった。
風切り音もないし、そよ風程度しか感じない。それでも、落ちている感覚ははっきりしている。
「マリーカ、大丈夫?」
「大丈夫だけど、ほとんど説明もないままこんな状況に放り込むなんて、ひどくない?」
「補助も何もないよりはましでしょう」
「それはただの殺人よ!」
『大丈夫。安全に地上まで降ろすから心配しないで』
どこか笑みを含んだ声でアリスが告げる。
「うん。それは心配してないよ」
「突然どうしたの、テネース?」
「どうしたって、あれ? アリスの声聞こえなかった?」
「聞こえなかったわ」
テネースの質問に答えたのはイアイラだった。そのすぐ後、マリーカが頷く気配が伝わってきた。
「ひょっとしてまたアリスの声が聞こえるのは僕だけになっちゃったの?」
『そうね。アビュドスは神の力が一番安定する場所だから、マリーカたちにもわたしの姿が見えたし、声も聞こえたの。今からは、またわたしと話ができるのはテネースだけね。ああ、それと神もね』
「せっかくみんながアリスと話せるようになったのに」
「ひょっとして、アリスと会話できなくなっちゃったの?」
テネースほどではないが、マリーカの声にも落胆の色がある。
「うん。アビュドスにいたからマリーカたちと話せたんだって」
「聖地と言われるにも理由があるということなのね」
「そろそろ地上」
突然の神の声に、テネースの身体がこわばる。
地面に対してうつ伏せになっていた身体が、足を下に頭を上にと勝手に動いていく。
自分の身体が自らの意思とは無関係に動くというのはひどく不快だった。突然の体勢の変化に頭がくらくらする。
身体が体勢の変化に馴染むよりも早く、足が堅い地面を踏みしめた。
その直後、白銀の光が一瞬で消えた。
間違いなく地面に立っているのだが、ずっと空を落ちてきたせいか妙な浮遊感が残っていて落ち着かない。
「マリーカ、テネース!?」
「お兄ちゃん?」
「ギュアースさんですか?」
白銀の光に包まれていたせいで視界はまだ回復していない。声だけが判断材料だったが、間違えるはずがない。
「無事で何よりだ」
「ちょ、ちょっとお兄ちゃん、苦しい」
照れてはいるが嫌そうではないマリーカの声に、テネースの顔に笑みが浮かぶ。
「テネース・エウテュキア、異端者として拘束させてもらう」
視界が回復するよりも先に、硬質な響きの声をかけられたテネースは、声の聞こえてきた方に身体を向けた。
「ちょっとネイオス、肉親の無事を確認するよりも先にそれはないでしょう」
「姉さんには、なぜ私と合流しようとしなかったのかや、聖都に向かわず何をしていたのかなど、いろいろと訊くことがある。けど、それは後だ」
「少しは会話をしようとする姿勢を見せなさいよ」
イアイラが不機嫌そうな声を出したところで、ようやくテネースの視覚が回復した。
テネースの前には、イアイラの双子の弟で異端審問官のネイオスが立っていた。
イアイラによく似た整った顔は、冷たくテネースを見据えている。
ネイオスの向こうには顎に手を当て考え込んでいるイアイラの姿が見えた。
「本当に頭の固い野郎だな」
テネースの左、マリーカを解放したギュアースが一歩前に踏み出す。
「貴様のような奴が聖峰に足を伸ばすのを見逃してまで得た機会だ。無駄にできるはずがないだろう」
吐き捨てるように、しかし律儀に言葉を返したネイオスは一歩テネースに近づいた。
ギュアースも一歩前に出た。
「大丈夫です、ギュアースさん」
「テネース?」
振り返ったギュアースが怪訝そうにテネースを見る。
テネースは、大きく頷いて答えた。
「あなたに連れて行かれなくても、僕は聖都に行きます」
「おい、いきなり何を言い出すんだよ」
「大丈夫だから、お兄ちゃん」
テネースに近づこうとしたギュアースをマリーカが押しとどめる。
ネイオスは声こそ出さなかったが、不審も露わにテネースを睨みつけた。
「ただ、異端者としてではありません。ある目的のために聖都に行きます。この目的に関しては、イアイラさんも同意してくれています」
ネイオスの視線は鋭く、正面から受け止めているだけで身体が震えてきそうなほどだ。
しかしテネースは、意思の力を総動員して視線をそらさず、言うべき言葉を口にした。今ここでネイオス一人に臆しているようでは、大聖堂の最奥にたどり着くことなどできるはずがない。
「姉さん、どういうことだ?」
ついにネイオスは、テネースから視線を外した。背後の姉を振り返り発した声は、テネースに向けていた時よりもなお刺々しい。
「テネース君の言った通りよ。私たちはこれからある目的のために聖都に向かう。ただそれだけ。ああ、その目的を果たした後はテネース君は異端者として教会の監視下に置かれることに同意してくれてるから」
「異端者と取引をしたのか? いや、それよりも聖都で何をしようとしてるんだ」
「正直、あなたに話していいものか判断がつかないのよね」
腕を組んだイアイラが困ったようにため息をつくと、ネイオスは音がするほど歯を噛み締めた。
「それは、聖職者として見過ごすわけにはいかないことをしようとしていると、そういう意味だと思っていいのか?」
「あのねえ、私だってあなたと同じ異端審問官なのよ? そんなわけがないでしょう。だいたい、その目的に関しては神様も同意してくださってるわ」
「教皇猊下すら望んだ時お声を聞くことができるわけでもない神から、許可をいただいた? 姉さんが? ちょっと見ないうちに、随分冗談がつまらなくなった」
実の姉に向けられたネイオスの声は、聞いているテネースが思わず首をすくめたほどの怒りに満ちていた。
「私のことを疑うだけならまだしも、神様のことまで疑うなんて、聖職者失格じゃないかしら」
「自分の言葉に少しでも箔を付けようと神の名を騙っている姉さんに言われる筋合いはない!」
「言い切ったわね。そこまで言うのなら、もし私の言ったことに嘘がなければ、テネース君がやろうとしていることを詮索せず、私たちについてくるか、あるいは一人で聖都に戻るかすると誓いなさい」
「どうやって事の真偽を明らかにしようとしているのかはわからないが、わかった。もしも神が本当にテネースの目的とやらをお認めになっていると納得できたなら、私はおとなしく聖都まで同道しよう」
そんなことには絶対にならないが、と続くのを誰も疑わないような口調ではあったが、それでもネイオスは姉の言葉に同意した。
その瞬間、イアイラはにやりと唇の端を歪めた。
「聞いての通りですので、愚弟にこれからの行動を神がお認めになっていると、伝えていただけますか?」
表情を改めたイアイラがテネースたちの背後に声をかける。
真っ先にネイオスが、ついでテネースたちが振り返った。
「テネース、おまえいつの間にあんな可愛い子を引っかけたんだ」
「い、いきなり何を言ってるんですか!?」
「まったくよ。今お兄ちゃんが可愛い子って言ったのは、神様よ」
「はっはっは。相変わらず冗談が下手だな」
豪快に笑うギュアースだったが、完全には冗談と笑い飛ばせないのか微妙に表情が引きつっている。
だが、それ以上に劇的な反応を見せたのは、ネイオスだった。
ギュアースすら反応できない速度でマリーカに近寄ると、無理矢理自分の方を向かせた。
「冗談であろうと言っていいことと悪いことがある。今の発言を取り消してもらおう」
「冗談でもなければ嘘でもないわよ。だから、取り消せって言われても無理」
一目で子供を泣かせられそうな剣幕のネイオスに、マリーカは一歩も引いていない。両肩を掴む腕を払うと、勇ましく睨み返す。
「だいたい、いきなり人の言葉を疑うより、当の本人に確認すればいいでしょう」
「……そうだな。涜神にもなりかねない発言に我を失った。申し訳ない」
マリーカの正論に軽く頭を下げたネイオスは、神へと向き直った。
不機嫌そうなギュアースが、マリーカを自らの背後に隠す。
「あなたが神だという今の言葉は、真実なのだろうか」
率直なネイオスの言葉に、今まで何も反応を見せなかった神がはっきりと頷いた。
「ならば、私が信じられるような証を見せて欲しい」
「ネイオス、これは姉というよりも同僚としての発言だけれど、今の願いは取り下げた方がいいわ」
「姉さんは黙っていてくれないか。もし神の名を騙っているとしたら、異端者などより遥かに問題だ」
神から視線をそらさぬまま、ネイオスはイアイラに答える。
イアイラは弟の反応を予想していたのか、諦めたように肩をすくめて口を閉ざした。
テネースは、異端者の自分が下手に口を挟むとネイオスを余計に意固地にさせてしまうと理解していたから、成り行きを見守っていた。いつの間にか右肩に座っていたアリスが、口元をほころばせて神とネイオスを見ていたことも、沈黙を選択させた理由だった。
(本当は僕が一人で説得できないといけないんだろうけど……ごめんなさい。お願いします、神様)
どのような方法でネイオスに自身が神だと信じさせるつもりなのか、テネースにはわからない。故に、不謹慎とは思いながら少し楽しみだった。
(あ、だからアリスは笑ってるんだ)
テネースが納得をするのとほぼ同時に、やや考え込んでいた神が顔を空に向けた。
つられて、ネイオスを除く全員も空を見た。
「空を眺めていても、私は納得しないぞ」
神を見るネイオスの視線がきつくなる。
「あ」
テネースは、空の一画に白銀色の光りが生じたのを目にして、声を漏らした。
ネイオスが怪訝そうにテネースを振り返ろうとしたが、その動きが完遂されたかどうか、誰にもわからなかった。
空から降り注いだ白銀の光が、ネイオスを覆い隠してしまったのだ。
その光は、テネースたちを二度包んだものとよく似ていた。
「何も見えないとはいえ、ただの光だろう……な、なんだ、地面はどこだ!?」
肩すかしを食らったかのようにつまらなそうだったネイオスの声が、強い焦りを帯びた。
ギュアースを除く全員の顔に、笑みが浮かぶ。
「いったい何が……う、うわぁぁぁぁ――」
疑問の声は途中で悲鳴に代わり、その悲鳴もすぐに空高くに消えていった。
悪いとは思いつつ、テネースはこらえきれずに吹き出してしまった。つられるように、マリーカが、アリスが、そしてイアイラまでもが笑い出した。
「どうなってるんだ? あの光、おまえたちが姿を現す前にも見たぞ」
なぜテネースたちが笑っているのか理解できないギュアースが、顔をしかめてマリーカとテネースを見た。
「ごめんごめん。あのね、あの光に包まれると空を飛べるようになるの」
「はあ? 何言ってるんだ?」
「マリーカの言ってることは本当なんですよ。仕組みはわからないし自由に飛べるわけじゃないですけど、確かに空を飛べるんです。僕たちがアビュドスの頂きに行く時はあの光によって空に吸い上げられたし、さっきは地上まで降りて――というより落ちてきたんです。神様の力ですよ」
補足を終えたテネースは、ギュアースから神へと視線を転じた。
神はネイオスの制御に意識を集中しているのか空を見上げていて、テネースの視線に気付いた様子はない。
「ようするに、その女の子は旅の途中でテネースが引っかけたわけじゃなく、本当に神だと、そういうことか?」
「そういうことよ。だから、神様を試すようなことはしない方がいいと警告したんだけれど、無駄だったわね」
「おまえみたいにそんなとんでもないことを受け入れられる聖職者の方が少ないだろうよ」
神の視線を追って空を見ているイアイラに向かって、ギュアースがため息をつく。
「お兄ちゃんは随分冷静よね」
「二年もテネースと一緒に旅をしてきたからな。姿こそ見てないが悪魔のやったことを見てきたし、テネースは姿の見えない誰かと会話をしてるし、妹はその誰かを見ることができるなんて言うんだからな、耐性ができてるんだよ」
『確かにいろいろ不思議な目にはあっただろうけど、それにしても順応性が高過ぎだと思わない?』
「でも、疑われたままずっと信じてもらえないよりはずっといいよ。それに、疑り深いギュアースさんはギュアースさんらしくないし」
「失礼な。俺だって必要とあれば疑うぞ」
「ごめんなさい」
口では謝りつつも、テネースの顔は笑みを崩さない。久しぶりのギュアースとの会話は楽しかった。これからに対する不安を一時とはいえ忘れられるほどに。
と、強い風が空から吹き付けてきた。
砂埃が盛大に舞い上がり、視界が極端に悪くなる。
「もー、何、突然」
不満の声を上げたマリーカは、その直後、激しくむせ始めた。
マリーカの失敗を教訓に、砂埃が収まるまで誰一人口を開こうとしなかった。
『もう大丈夫よ』
アリスの声に、テネースはきつく閉じていたまぶたをゆっくりと開いていく。
あまりにも力を入れていたために視界がぼやけていたが、風は止み砂埃の姿がどこにもないのは確認できた。
そして、ネイオスが元々立っていた場所に、黒衣の人物が四つん這いになっているのも見えた。
「ネイオスさん?」
特に理由はなかったが、問いかける声は小さかった。
だが、先ほどまでのテネースのようにまぶたを閉じていたマリーカたちの目を開かせ、ネイオスに反応を促すには十分だった。
「彼女が神であると、ネイオス・クリダリア個人としても、異端審問官としても認める」
四つん這いのまま、ネイオスは震える声で告げた。
テネースはまずアリスと、ついでマリーカと、最後にイアイラと視線を交わした。
「高い所苦手だったの?」
驚いたようなマリーカの声に、イアイラは無言で首を左右に振る。
テネースが神に顔を向けると、アリスと同じ顔をした神は、ほんのわずかに首をかしげた。




